序章 旅立ち
■ナウラ村
遙か昔からセクファン大陸の東には南北に山々が果てしなく連なっている。
多くの頂が九千メートルを越え、峠ですら七千メートルもの高さにあり、人は疎か獣すら立ち入る事のない白銀の世界。
この世の果て。神々の座。デッドエンドなどと様々な名を欲しいままにする山々がそこに悠然と横たわっている。
「今日も、私の御山様は機嫌が良いみたいだね」
その東にそびえる山の影になり、麓にあるナウラ村は西にある村より日が差すのが遅い。
ようやく山の頂を輝やかせて顔を出した太陽の光が降り注ぎだすと、この村に住むライラという娘が嬉しそうに山を見上げて跪き、地面に額を擦りつけてお祈りを始めていた。
この娘だけではない。光が当たった途端どの農夫も山に向かって祈りを捧げ始めている。
このナウラ村では、その中でも一際高くそびえるカラミス山の白き頂に御山様がいるから魔物が襲ってこないと信じられている。
事実、西からは魔物に襲われ国が滅んだという話が伝わってくるが、ナウラ村のあるイクシュルという小国は建国以前から東からは魔物が襲ってきた事はない。
その平和な村で貧しいながらもここで生まれ、山羊や羊を追い、畑を耕し、結婚し、子を産み、そして子供や孫に囲まれ天寿を全うする。
それが小国イクシュルの東の果てにあるナウラ村での生活だった。
「て、てぇーへんだーっ!!」
村の西に畑を持つバズルがイクシュル兵士に肩を貸し、血相を抱えて村長がいる畑へと走っていく。
西方の丘陵を見ると、隣村の者たちだろうか、財産である牛や羊を追いながら満載の荷馬車を押しながら続々とやって来るが見えた。
何事かと、皆ぞろぞろと村長のところへと集まっていくが、息も絶え絶えの兵士から話を聞き終えていた村長の顔は真っ青だった。
「何があったんだ?」
「王都が……イクシュルが……魔物の暴走に喰われた……」
そんな馬鹿な、と顔を見合わせる村人たち。
北で接する強国バリエスには及ばないものの、小国とはいえ王都イクシュルには隣国ドーランドにも引けをとらない騎士団がいる。他にもハンターだっているのだ。
「いや。すでにイクシュルだけでなく、途中にあるペスタもバリデウもだ。後二日もすればこの村にもやって来るらしい。この兵士様はそれを伝えるために来られたそうだ」
地べたに突っ伏して水を飲んでいる兵士は避難勧告をしに、王都イクシュルからペスタ、バリデウの町へと馬で走り続けたが、そこからはぶっ倒れた馬を捨て隣村のリリト、そしてナウラまで走って来たのだと言う。
「そんな事言ったってよ。じゃあ、どこに逃げれば良いんだ? 村長」
「暴走は赤目のゴブリンらしい」
ゴクリと誰かの唾を呑む音が聞こえるほど辺りは一瞬で静まりかえった。
何が原因なのかは分からないが、時折爆発的に魔物が発生し辺りに甚大な被害を及ぼす。しかも、不気味な赤い目で狂った様に襲いかかってくるので暴走と呼ばれていた。
十数頭の群れをなし、単体なら大人でも倒せるゴブリンだが、暴走となると途方もない数になる。
ところが問題はそれだけで収まらなかった。
他の魔物の暴走であれば生き残る確率があるのに対し、ゴブリンでは上手くやり過ごせたとしても、その可能性はゼロに等しい。
ゴブリンに雌はいない。その為、数を増やす為には他の魔物や動物の雌を使う。ところがそれほど強い魔物ではないから繁殖は命がけとなる。
しかし、暴走を始めたゴブリンはその数に物を言わせて躊躇いもなく人の住む町を襲うようになる。なにしろ繁殖にも食料にもなる人や家畜が一箇所に集まっているのだ。
繁殖行動に出るゴブリンは、特殊な物質を放出し繁殖適齢期の雌に対し排卵を促し受精し易くさせる。
そして赤目のゴブリンの通り過ぎた後はゴブリンの仔を宿した女で溢れかえり、数時間後には腹を食い破って出てきたゴブリン幼体の群れによって隠れていた者が根こそぎ喰らい尽くされていく。
ゴブリンがこの世界で忌み嫌われる存在なのはこの為だった。
元々魔物の被害など皆無といって良いナウラ村では、そういった話を本気にしていない。尾ひれがついているのだろうと考える者が多かった。なにしろ小国の外れにある小さな村だ。旅人が来る事など稀。外の話しは行商人ぐらいしか持ってこないのだ。
それでも暴走によって過去いつもの国が滅びたと聞いている。
「俺たち……どーすりゃいいんだ?」
「御山様を頼って山に逃げ込むか……」
「食い物はどーすんだよ? 今、畑を荒らされたら秋の収穫は見込めないぜ」
「逃げてきてる奴らの数を見たか? リリト村の数じゃない。バリデウの奴らもいるんだろうぜ。全部を受け入れたら、食料などあっという間になくなっちまうぞ!」
「村に入れさせなきゃ……」
「そんな事ができる訳ないだろっ! 隣村には嫁いだ娘や生まれたばかりの孫だっているんだ!!」
ナウラ村は東を中心に南北を崖のように迫り立った山々に囲まれ、唯一開けた西は坂を下るとそのまま王都まで丘陵が続いている。
三方を山で囲まれているとは言え、開けた西側はあまりにも広い。
六十数名ほどの村の男たちでは封鎖できるはずもなかった。
「まずは、女子供にあるだけの食料を持たせて山へ逃がすんだ。男たちは避難してきた男たちとともに赤目のゴブリンを迎え撃つ。少しでも減らして畑を守れっ! 山に入れるなっ!!」
いつまでも決断しない訳にはいかない。
村長は皆にそう伝えると、自ら先陣を切って武器になりそうな物を探しに行った。
残念ながら、魔物の暴走を話でしか聞いた事のない村長や村の男たちでは、王都の騎士団すら喰うほどの数を想像できないのだ。
■神々の座
「はあ……はあ……登るにつれ息が苦しくなってきやがる……」
大太刀を背負った着物姿の一人の鬼が氷壁を登っていた。
眼下には、青い海と今まで暮らしていた島が見える。
「にしても、今まであんなちっぽけなところで暮らしてたんだな」
広い広いと思っていた場所が、今では摘めそうなくらいに小さく見える。
地の果てまで行ってみようと西を目指したが、海の向こうにそびえる真っ白な山を見て、つい海を渡ってしまった。
渡ったら渡ったで、どうしてもその向こうが気になり山を登ってしまったのだ。
強靱な肉体を持つ鬼は、ちょっとやそっとのことでは死なない。
さらに無鉄砲で好奇心旺盛な性格が災いし、こんな場所まで来てしまっていた。
「ふう。あれを越えれば、向こうが見えんのかな?」
荒くなった息を整えると、おもむろに爪を突き立てまた氷壁を登っていく。
氷壁を登り始めてすでに三日。
氷を囓りながら飢えを凌いで登り続けていた。
「うおーっ! 山の向こうは見渡す限りの大地かよーっ! やっぱ世界ってのは広ぇなーっ!」
ふと横を見ると、一際高い山まで稜線が続いている。
どうせならと、そこを目指し氷原を歩き始めた。
「にしたって、風が強えぇな」
踏ん張らないと強風で吹き飛ばされそうだ。
ガツッ、ガツッと足の爪を氷に食い込ませ、叩きつけるような強風の中を歩き出していた。
そして数時間後、一番高い頂の上で満足そうに周囲を見渡していた。
「さてと、日暮れも近いし、さっさと山を下りて見知らぬ大地へと踏み込むとするか」
山の東側に比べ西側は雪だらけだった。
しばらくは強風に吹き着けられたような氷のような雪原だったが、少し下りてくるだけで腰まで埋まって身動きが取りづらくなっていた。
「五日も氷だけってのは、流石にまずいよな。もう少し下りゃあ食いモンも出てくるだろ」
と、ぼやきながら雪を掴んで口に放り込む。
切り立った崖から下を覗き込むと、いくら鬼族とは言え落ちれば死は免れない高さだ。
雪が張り付いた氷壁に爪を立て慎重に下りていく。
氷壁を下り、雪原を歩き、クレバスを跳び越え、すっかり日が落ちる頃には所々に緑が見え始めていた。
月明かりに照らされた岩肌を駆け下りながら、大角を持った鹿の群れを見つけた。
風が麓から吹いてくる上、眠っているのでまだ気づかれてはいない。
しかし、このまま近寄れば感づかれる。
人化して鬼気を抑えると手頃な石を掴んで物陰に隠れながらそろそろと近寄り、狙いをつけて思いっきり投げる。
いくつかは狙いが外れて向こうまで飛んでいったが、一つが当たった。
その音で他は目を覚まし逃げてしまったが、大角をへし折られ頭を陥没させた一頭がピクピクと体を痙攣させている。
その場で毛皮を剥いで内蔵を抜く。
この寒さでは、持って歩くだけでも冷凍肉になってしまうからだ。
「うおーっ寒みぃ、やっぱ、人化のままじゃ寒すぎるわ」
また鬼の姿に戻り、肝にかぶりついた。
「んんーっ、美味ぇ」
肉より内蔵の方が力が付く。
口から血を滴らせながら内蔵を食べ始めていた。
久しぶりの食事を堪能し終えると剥いだ毛皮に残った肉を包み、また山を駆け下りていった。
■ライラとレイラ
「もう少しだから、頑張るのよ」
そう言う姉のライラでさえ、どこまで登ればいいのか分かってないよねと妹のレイラは振り返って登ってきた坂を見下ろした。
赤目のゴブリンが襲ってくると言われてもピンと来ない。
腹を食い破って出てくるゴブリンなどお話の中の出来事なのだ。
そもそもナウラ村の近くでは鈍兎や青粘菌といった素人でも狩れるような魔物しかいないのだ。
山に避難しろと言われた誰もが男たちを心配して村を見下ろせる大岩から離れようとしなかった。
「お姉ちゃん、お父さんとお兄ちゃんは大丈夫よね」
「きっと御山様が守ってくれるって。今朝だって機嫌の良い顔してたじゃない。私たちは言われたとおり、山に隠れていればいいんだから。ほら、急ごう」
母は既に亡く、母親代わりの隣のおばさんたちと大岩まで逃げてきた。
この辺りは稀に熊や狼が出るが、これだけの人数がいれば近寄ってこない。
避難させた家畜は何が起きているかも知らずに呑気に草をはんでいる。
ライラとレイラもそこが安全な場所だと信じ大岩近くで村に残った父と兄を心配していた。
ところが、ふとカラミス山を見上げて、白い雪原にポツンと見えた黒い点が気になってしまった。
多分何かの影だろう。何だろうと見つめていると山を下りるように微かに動いていた。
あの点が何かは知らない。
少なくとも人ではないだろう。
夕日で紅く染まる頃にはかなり下まで動いてきたが、何かがこちらに向かって下りてきているは確かだった。
御山様を村の誰もが信じているのは山から魔物が襲ってこないからだ。
もしかしたら御山様に会えるかも知れないという淡い期待を胸に、翌朝、一言言い残して姉のライラと登り始めたのだ。
村の女なら、幼い時に誰もが一度は夢見る御山様のお嫁さん。
ところが姉は、十七歳を過ぎた今でも恋心を抱いている。
「もう暗くなっちゃうね」
寒さでブルッと体を震わせたレイラが紅く染まり始めたカラミス山を見上げていた。
ずいぶん登ってきたと思うが、まだ御山様には会えていなかった。
村の様子も気になるが、ここからでは木が邪魔して何も見えない。
「枯れ枝を集めて夕食の準備をしましょう」
生木や脂の強い木では煙が上がりすぎて気づかれる恐れがあった。
おばさんに上に行くのは反対されなかったが、下に気づかれるような真似だけはしないようにと釘を刺されていた。
二人とも背負ってきた大鍋を下ろすと、大岩の間に石を集め簡単な竈を作り、ライラは野菜を腰の小刀で刻み、途中で見つけたキノコと香草を毟り始めた。
レイラは自分の大鍋にわき水を汲んでくる。
後は乾燥させた芋と一緒に煮るだけだ。
調味料は塩だけ。肉はない。
それが二人の持ち物の全てだった。
「お姉ちゃん、これだと四、五日くらいでなくなっちゃうね」
レイラが足下に積んである野菜の残りを見て呟く。
「うん。それまでに御山様に会えると良いんだけど……」
「本当にいるのかな?」
「分からないけど……あんなところを動く物って御山様以外に考えられないし……」
「そりゃあそうだけど……あたし今でも信じられないよ。もし、会えたらどーするの?」
「御山様なら、きっと村を守ってくれると思うんだ」
「お姉ちゃんは、未だ御山様ラブだもんね」
二人は星が瞬く夜空の下、グツグツと煮え始めた大鍋の音を聞きながら竈の火を見つめていた。
■鬼斬り丸
「おっ、美味そうな匂いは、これだったのか!」
その声にライラとレイラが驚き、見上げると大岩の上から覗き込み鼻をヒクヒクとさせている男がいた。
「なっ、何ですか? あなたは?」
毛皮の包みを抱えた奇妙な服を着た黒目黒髪の男だった。
人懐っこそうな顔で二人の前に下りてきて勝手に大鍋の蓋を開けている。
「なんでぇー、肉が入ってねぇじゃねぇか……。ほら、これを入れろ」
そう言って男は大角の毛皮で包んだ肉を二人に差し出す。
ライラもレイラも、突然の出来事に男から手渡された肉を見て驚いたままだ。
「これ、何の肉なんですか?」
「ん、山を下る途中で仕留めた鹿肉。美味いぞ」
「「山を下る!? あなた、も、もも、もしかして御山様?」」
「御山様? 誰でぇそれは。俺の名は鬼斬り丸だ」
「変わった名前ですね」
「そうかい? で、あんた達の名前は?」
「私が姉のライラ。こっちは妹のレイラです」
「よろしくな。んじゃ、ライラよ。とにかく肉入れろや」
ライラは言われるままに肉を一口大に切って鍋に入れ始めた。
妙な男は危害を加える気はないらしい。
というより、男の目は大鍋に釘付けとなっている。
「ところで、おにぎりまるさん。さっき山を下るって言ってたけど……」
「おにぎり、じゃねぇ。おにきりだ。失礼な奴だな」
「ご、ごめんなさい。鬼斬り丸さんは、どうしてそんな所に?」
「腹減ってよー、途中で狩ったんだよ。見た事あっか? あの一番高い山のてっぺんからの眺めは凄ぇーぜ」
「「えっ!?」」
ひどく驚いた顔で鬼斬り丸を見つめる二人。
「「あのぉ……、やっぱり、御山様じゃ?」」
そう尋ねて、ライラは村で御山様と呼んでいるにすぎないと思い当たった。
「も、申し訳ありませんっ。鬼斬り丸様っ」
「そろそろ煮えたかぁ?」
ライラを無視して勝手に蓋を開ける鬼斬り丸。
「鬼斬り丸さん、まだダメですよ」
レイラは、何故姉が謝っているのか分からず、腹を空かした子供のような鬼斬り丸をたしなめる。
「何だ、二人とも謝ったり、怒ったり、忙しい奴らだな。……で、もう食べてもいーか?」
「ま、まだですぅ。鬼斬り丸さんって子供ですか?」
「いやー、腹減ってよ。で、なんで二人はこんなところで暮らしてんだ?」
「暮らしている訳じゃありません。あたし達、御山様を捜しに……」
ライラが真っ青な顔でレイラの袖を引っ張った。
口をパクパクと開け、レイラに何かを伝えようとしている。
「お、や、ま、さ、ま、の、お、に、き、り、ま、る、さ、ま」
レイラは姉の口を真似て何度か口を動かし、そして、顔が固まった。
「二人とも急に黙り込んじまって、どーした?」
「あ、あの……鬼斬り丸様は、お強いんですよね?」
「はあ!? まあ、そこそこだとは思うけどよ。……まだダメか?」
「「あの、不躾なお願いで申し訳ありませんっ。村を……村をお救いくださいっ」」
「まあ、頼むってなら、やってもいーけどよ。それより、まだ煮えねぇのか?」
鬼斬り丸が、村の事より食事に目が行っているのは明らかだった。
「鍋の物全部食べても構いません。お願いですっ、村を……」
「俺、持ってきたのは肉だけだぜ。全部ってのはありえねぇだろ。大体、村ってのはどこにあるんだ?」
「麓に……」
「あー、戦の気配がプンプンしてるとこか」
「「えっ!?」」
「数にして、百三十対二万ってとこか……、今夜にも一方的な戦が始まるな」
「「に、二万っ!?」」
百三十という数は、村の男たちと隣村から逃げてきた者たちの数だろう。
赤目のゴブリンがどれほどの強さなのか分からないが、二万では村の運命は決まったような物だった。
「お願いです。もし鬼斬り丸様が加勢して村を救えるなら、私を好きにしても構いませんから……」
「ご、ごめんなさいっ。あ、あたし……好きな男、い、いるから……」
一緒に登ってきたものの、レイラは姉と違い好きな男がいる。
自分まで同じにされては堪らないと、思わず声が出た。
しかし、御山様が気を悪くしたんじゃないかと、途中から声が震えている。
「まあ、好きな奴がいるなら仕方ねぇよ。気にすんな」
鬼斬り丸はレイラの顔を見ながら微笑むとライラの顔を覗き込んだ。
真剣な目でライラを見つめると鬼斬り丸は嬉しそうにライラをを引き寄せる。
そして、後ろから抱きかかえ首筋の匂いを嗅ぎ、両手で胸を揉み込んでいく。
「ふむ。匂いも柔らかさもいー感じだ。よしっ、その願い、この鬼斬り丸が聞き受けたっ!」
ライラは耳まで真っ赤してジッと身を強ばらせているだけだ。
「あれ? もしかして、まだ生娘か?」
ライラは恥ずかしそうにコクンと頷く。
「なら、俺が一から教えてやるから楽しみにしてろ。でもよ、俺の真の姿を見ても驚くなよ。奴等をぶっつぶしたらライラはもう俺の贄だからなっ」
「真の姿?」
「飯食ったら見せてやるよ。で、まだ煮えねぇのか? くうぅぅ、腹減ったぜっ」
まるで子供のように鍋を見つめる鬼斬り丸に、父や兄のような悲壮感はない。
赤目のゴブリンを知らないのか、それともよほど強いのか。
平気な顔で山を下りてくるくらいだ。多分後者だろう。なんたって御山様だ。
それにしても歳は自分達より少し上くらいないのに、この自信はどこから来るのだろう?
ライラは不思議そうに鬼斬り丸を見つめていた。
皿は二つしかないから、一つを鬼斬り丸に、もう一つを二人で使いスープを食べ始めた。
よほど美味しいらしい。
鬼斬り丸は、上機嫌で何度もお代わりをしてあっという間に大鍋を空にしていた。
「半分以上食っちまって悪ぃな。美味くってよ、いくらでも入っちまった」
「満足して頂けただけで、私達も嬉しいです」
「さてと。今から下りりゃあ丁度いー頃合いかな」
「「丁度良い?」」
「そろそろ戦が始まる」
「「えっ、ええーっ!? 間に合うんですか?」」
ここまで登ってくるだけでも一日近くかかっているのだ。
それを下りるとなると、半日はかからなくても四、五時間はかかる。
二人とも慌てて野菜を入れた大鍋を背負い、鬼斬り丸の持ってきた毛皮に包んだ肉を抱えた。
■贄
「んじゃ、いくぜっ!」
とたんに鬼斬り丸を包み込む空気が変わった。
まるで今まで味わった事のない威圧感が二人に襲いかかってきたようだった。
見るとさっきまでの男の姿はない。
瞳は金色に輝き、頭から短角を生やし、指の先には鋭い爪が生えた異形の姿がそこに立っていた。
「「これが、鬼斬り丸様の真の姿……」」
「驚いちまったか? だが、人化のままでは間に合わねぇからな」
二人を両脇にヒョイと抱えると、鬼斬り丸は一気に山を駆け下りていった。
ライラとレイラは、もの凄い勢いで駆け下りていくのに少しの風や寒さを感じていなかった。
まるで空を飛ぶように山の景色が変わっていく。
避難させた家畜が鬼斬り丸の気配に驚きパニックになり、岩山で寝ていたおばさんたちが村で何か起きたのかと心配そうに見つめている。
その横を一瞬で駆け抜け、あっという間に村の手前に着いていた。
「へっ!? も、もう村に着いたの?」
「ははっ、美味い飯を食ったからな。力も十分だぜ」
さっきまでの角の生えた鬼斬り丸ではなく、人の姿をした鬼斬り丸がいた。
ギョッとした顔で振り向いてガタガタと震える手でクワや弓を握る男たちの元へとライラは鬼斬り丸を連れて行く。
「お父さんっ」
「ライラ……レ、レイラも……、なんで戻ってきた? 隠れてろと言ったはずだ」
「お父さん、それから村の人たちも聞いてっ! 御山様の鬼斬り丸様をお連れしましたっ!!」
「御山様!?」
村長や村の男たちだけでなく、隣村の者まで御山様と聞いてざわついていた。
いきなり背後から恐ろしいほどの異様な威圧感に襲われたのだ。
誰もが一瞬、赤目のゴブリンに回り込まれたと思い、死を覚悟したのだ。
「そ、そんな若造に……」
「なにができる」と言いかけた男が、急に黙り込んだ。
「「「御山様、どうぞ我等をお助けください」」」
周りを見るとナウラ村の男全員が跪き、額を地面に擦りつけている。
鬼斬り丸は、基本それ程拘らない性格だ。
ライラやレイラに散々御山様と呼ばれて、もうどうでも良いやと思っていた。
それより、村の先に集まってきている奇妙な気配を絶てば、ライラは俺の物としか考えていない。
「お前が父親か? 贄は、このライラという娘だ。異論はないな」
父親が一瞬躊躇って娘の顔を窺う。
若い娘を生贄に出す事は珍しくない。
雨乞いだ、干ばつだ、魔物を恐れて、と何かと理由をつけて差し出すのだ。
それこそ大陸中で行われていると聞く。現に隣村のリリトでは何年かに一度、生贄を捧げる事態が起きている。
しかし、生贄にされた娘は惨たらしい姿で見つかるのがほとんどだ。
なかには骨すら残さず食い散らかされる事もある。
今まで御山様に生贄を捧げるようなことが起こらなかったナウラ村が幸運だったのだ。
それでもライラは年頃の娘だ。
小さい頃から御山様の嫁になるとは言っていたが、この歳になれば思いを寄せる男くらいいたのではないかと、それだけが心残りだ。
しかし、御山様の横で穏やかな顔をして立つ娘の顔を見て覚悟を決めた。
「む、娘が望むなら……しかし、せめて苦しまぬよう……」
「安心せい。贄の生き肝を喰らうような無粋さは持ち合わせておらぬ」
娘の様子を見る限り納得しているのだろう。
生きてくれるなら親としては少し安心できる。
「そろそろ俺は行くぜ。まあ、あんな奴ら相手に真の姿を見せるほどでもねぇ。お前たちは下がっていろ」
■無双
月に雲がかかり、辺りは闇に包まれ始めていた。
篝火の光を反射して闇の中に無数の赤い目が不気味に輝いている。
鬼斬り丸は背中の大太刀を抜くとその中へ悠然と歩いていく。
見ている誰もが、ゴクンと唾を飲み込んだ。
御山様の握る片刃の剣がボーっと青白い光を放ち、そして舞い始めたからだ。
それと同時に断末魔が聞こえ赤い光が消えていく。
いったい何が起きているのか?
御山様が赤目のゴブリンを退治している。
一言で言えば、ただそれだけの事。
しかし、何が起きているのかすら分からないほどの圧倒的な凄まじさなのだ。
「あ、あれが御山様の御力……」
一気に優勢になっていくにもかかわらず、村人たちからは歓声すら上がらない。
ただ、目の前で起こっている光景に、うわずった声を上げるだけだ。
雲が過ぎ闇に月の光が届き始めた。
さきほど御山様がいた所には数え切れない骸が転がっているだけだった。
村人が慌てて辺りを見渡すと、月の光に照らされた死体の先で奇妙な剣を振るう御山様の姿があった。
二万もの数を相手にするなら、生身の刃では血ですぐに斬れなくなる。
鬼斬り丸は鬼気を刃に纏わせ、手当たり次第に斬り伏せていく。
「悪鬼どもめ。弱っちいクセに恐怖ってモンがまるでねぇ。まるで、誰かに操られているようだぜ」
鬼斬り丸は、すぐに奇妙な気配を持つ赤目のゴブリンに疑問を持った。
さらに疑問なのは、村人に興味を示さずに自分に集まってきているのだ。
守ると言った手前、村に向かう奴らがいないのは手間がかからず楽なのだが、普通は必ず村人を襲う奴らがいるのだ。
「まさか、俺を試してるってか?」
そろそろ面倒になって、一気に大太刀の鬼気を開放して一掃しようと考えたが、思い止まってそのまま振り続けていた。
手応えがあまりにないのが辛い所ではあるが、これはこれで楽しいものだ。
それにしても何度も得体の知れぬ視線を感じる。
初めて見るゴブリンの親玉に心当たりなどないが、もし自分を試しているならわざわざ力を見せてやる必要はない。
月が大きく傾き、後二時間ほどで日が変わる。
ヌメッとした血の臭いが立ちこめる屍の中に鬼斬り丸が一人だけ立っていた。
返り血を浴びてはいるが、鬼斬り丸が握る太刀の刃には一滴の血も付いていない。それどころか、青白い光を纏ったままだ。
「腹減ったな……」
一応辺りの気を探ってみるが、もう奇妙な気は微塵も感じ取れなかった。
ブンッと血を切るように刀を一振りして鞘に収めると、鬼斬り丸はライラとレイラの待つ村へとニコニコとしながら戻っていく。
篝火が焚かれた村の外れには男たちが唖然とした顔で待っていた。
その中に鬼斬り丸が歩み寄ると、男達が後ろへと下がり自然と道が開かれる。
男達の目に怯えはない。
これが御山様の御力なのかと、恐怖よりもこんなにも力強い御山様がいつも自分達を守ってくださっていたと、ただただ感謝の念だけだった。
「あれ、俺の女はどこ行った?」
あまりにも呑気な声に、本当につい先ほどまで戦っていた者の声かと疑ってしまう。
しかし、この声で村人達の妙な緊張はすっかり解けてしまっていた。
「お、御山様。ライラとレイラなら、飯の用意だとか言って家に帰ってます」
「おー、気が利くねぇ。大変よろしいっ」
その頃、暗い闇の中で楽しそうに水晶を見つめる者がいた。
水晶に映るのは、ゴブリンに喰われる農民と泣き叫び種付けされる女たち。
場面が変わると、一糸乱れぬ動きでゴブリンと戦う兵士たちの姿が見える。
ゴブリンが後ろ姿ばかりなのは、ゴブリンの目から見えている物が映っているからだ。
「予想通りイクシュルは大したことなかったな。南と西は未だ暴れ放題。家畜まで襲って七万にも膨れあがり隣国のドーランドを呑み込むのは時間の問題。
それにしても北のバリエス兵士の練度が高いのには驚いた。保って後数時間と言う所か……。人間も侮れんという事だな。
ほおぅ、東はたった一人の男が僅か三時間で二万まで増えたゴブリンを全滅させてしまったか。イクシュルの者ではなさそうだが……」
「いかがなさいますか? 新手の魔物でも送ってみましょうか?」
「いや、流浪のハンターなら逃げられて終わりだ。それよりバリエスをもう少し突いてみよう。ただし殺さぬ程度にな。上手くすれば東の奴が釣れるかも知れない」
「御意っ」
■宴会
「おほーっ、美味そうな匂いがしてるぜ!」
村人に案内されてやって来た家から美味そうな香りが漂ってきていた。
鬼斬り丸は、上機嫌で扉を横にずらそうとするが、開かない。
これ以上力を入れたら扉が壊れそうだ。
と、首を傾げたとたん内側へと扉は開き、中からレイラが迎えに出てきた。
「きゃーっ!!」
鬼斬り丸が扉をしげしげと見ようとする前にレイラが悲鳴を上げていた。
「ん、どーした?」
ライラも姿を現し、驚いた顔で鬼斬り丸を見ている。
「お、お怪我……では?」
鬼斬り丸は返り血に染まった着物を見て合点がいった。
「心配すんな。ただの返り血だ。それより約束は守ったぜ」
「良かった……ありがとうございます。お父さん達も……」
鬼斬り丸は特に気にもしていなかったが、ライラ達はどうやら返り血が気に入らない様だ。
案内してきた父や兄と抱き合って喜んでいるライラとレイラの横で帯を解き、いきなり着物を脱ぎ始めた。
鬼斬り丸の逞しい裸体にライラとレイラ目は泳ぎ始めていた。
「鬼斬り丸様、いったい何を……」
「んあ? 洗濯すんだよ」
耳まで真っ赤にしたライラが鬼斬り丸から着物を奪い取る。
「こ、ここ、これは、私がお洗濯しますっ」
「そっか、悪ぃな」
二人だけでない。
父と兄、それに付いてきた男たちも、ふんどし姿の鬼斬り丸に度肝を抜かれている。
「ところで、そ、その赤い布の様なものは?」
「ふんどしを知らねぇのか!?」
「……やはり下着の様なものなのでしょうか?」
「当たり前ぇだ。んん、お前たちはふんどししねぇのか?」
いきなり振られた兄は、戸惑いながらも自分のズボンを太もも辺りを指で指し示していた。
「俺達は、ズボンの短いようなものを中に履いている」
「そんなんじゃ、収まりが悪ぃだろ?」
「収まり?」
「ああ、ち○ぽがしっかり収まってねぇと、力が入らねぇぜ」
そんなものかと、話を続けようとする兄を遮る様に赤面したライラが声をかける。
「鬼斬り丸様、ど、どっどうぞ、こちらへ……お風呂も用意してますから……」
「おー、気が利くねぇ。じゃあ、ひとっ風呂浴びてくるか」
レイラは食事の用意を続ける様だ。
ライラに案内された風呂場で躊躇いもなく紐をほどき丸裸となる鬼斬り丸。
「ふんどしも洗ってくれるんか? 悪ぃな」
「あ、あのぉ……やっぱり、私も一緒に入った方が……」
「背中を流してくれるんか? 俺は嬉しいが、外にはまだ村の男たちが集まったままだぞ」
当然背中を流すだけでは済まないという事だ。
「抱かれるのは構いません、でも……」
「上がったら美味い飯と酒を頼む。まあ、寝る時は楽しませてもらうから、恥ずかしいならレイラと親父たちには、気を使ってもらえ」
「お心遣いありがとうございます。お洗濯したら、すぐに用意しますね」
男女がどんな事をするかくらいは知っている。
ライラの年代だと、結婚している娘が出始めているのだ。
大人の男の性器を見たのは初めてだったが、小さな子のなら見る機会はあった。
小さな子供達の面倒を見るのは、娘たちの仕事の一つなのだ。
おしっこをさせるために触った事もあるくらいだ。
しかし、先ほど見た鬼斬り丸のは違った。
子供の物とは少し形が違うし、何より大きさが違った。
「あんなの本当に入るのかな?」
鬼斬り丸が入る風呂の横で、たらいに水を汲みしゃがみ込んで洗濯をするライラは無意識に呟いていた。
「でも、もっと大きくなるって言ってたし……」
「安心しろ。背丈だって大して変わんねぇだろ」
聞かれてしまったと真っ赤になって見上げると、鬼斬り丸が浅い湯に無理矢理肩まで入ろうと四苦八苦している。
確かに、鬼斬り丸は兄より少し背が低いくらいだ。
「しっかし、所変わりゃ、風呂も変わるモンだな。こんなに狭くて浅いとは……」
「鬼斬り丸様の所のお風呂は、もっと大きいんですか?」
「おうっ、肩まで浸かれるくらいだ。温泉だと何人もが入れるくらいでけぇぞ」
「温泉というと、地面から温い水が湧く? 村にもありますよ。チョロチョロとしか出ていませんけど」
「俺んとこは熱い湯が湧く所が多いな。ってことは弄りゃもっと出るかも知れねぇな。そこは近いのか?」
「村の山側に……。川は冷たいので、春はその水を混ぜて畑で使ってるんです」
「ほおぅ。んじゃ、もっと湧いても問題ねぇな」
「たぶん……。春先はいつも順番待ち……きゃあっ!」
「ほれ、何してる。さっさと案内せいっ」
真っ裸のまま出て行こうとする鬼斬り丸の腰にしがみつき必死に止めるライラ。
「待って、待ってください。そのお姿では……」
「あ、悪ぃ。が、口でしたいのか?」
「きゃあっ!!」
ライラの目の前には鬼斬り丸の男根があった。
鬼斬り丸はからかっただけなのだろう。
真っ赤になったライラをカラカラと笑い飛ばし、まずは食事となった。
テーブルにはライラとレイラが作った料理が並び、村長たちも集まってきていた。
服が乾くまで兄の服を借り、その着心地を確かめる鬼斬り丸。
「やっぱ、収まりが悪ぃな。どうも居心地が……」
何度も股間に手をやり収まりを直す鬼斬り丸を見て、兄のルイドは今度自分もふんどしという物を試してみようと考えていた。
「それにしても、お主の妹たちの作る飯は美味いな」
「村で作ったワインという酒です。これも口に合えば良いのですが」
ルイドが樽からワインを注いでいた。
「ほう、赤い酒とは珍しい」
ゴクゴクと一気に飲み干す鬼斬り丸。
「ふむ、味は良いがちっとも酔わぬな。もう少しカーッとくる酒はないのか?」
そこで村長がブランデーを一瓶差し出した。
「これは火酒という物ですが、そのワインを蒸留して作っており、税と献上品として……」
長くなりそうな空気を読んだ鬼斬り丸は村長の話を遮り、栓を抜くと直接グビグビと飲み始めた。
「ぷっはーっ。こいつは気に入った!」
それを見ていた村人たちは、呆気にとられていた。
度数が高くて誰も一気に飲めないのだ。
「光栄でございます。ですが税として納める貴重な酒故、ここにあるのは樽で寝ている若い酒が多く飲み頃の火酒はそれ程ありません」
「そ、そうなのか? もう半分も飲んじまったよ。悪かったな」
村にとって鬼斬り丸は御山様。つまり神そのものだ。
ところが、鬼斬り丸が素直に謝るので、村長も何と答えたらいいのか困っていた。
しかも人懐こい顔で残った半分を村の男たちと一口ずつ回し飲みし始めている。
楽しそうな鬼斬り丸を中心に自然と宴が始まっていた。
「なんでぇ。こんなんでもうグデグデになってんのかよ」
「ろーれす、御にゃにゃ様。俺んとこのがいっち番れすよね。これかりゃも美味いの作りましゅから」
自分の家からワイン樽を転がしてきて「うちのが村一番だ」と自慢大会になっている。
しばらくするとワインで酔っぱらって帰る人が続出している。
酔いつぶれた者を家の者が連れて帰ったり、そのまま寝込んでライラとレイラが毛布を掛けて回っているたりしている。
父と兄は早々に酔いつぶれ、壁により掛かって毛布にくるまっていびきをかいている。
「もうっ、みんな羽目を外しすぎです」
「そー言うな。こいつらだって死ぬ覚悟でいたんだ。立派な村の男たちだぜ」
そうなのだ。
鬼斬り丸が現れなければ、あれだけの数では今頃、村の男たちだけでなく岩山に隠れていた女子供たちまで皆殺しにあっていたかも知れない。
「それは分かっていますけど……。私だって、小さい頃から鬼斬り丸様をお慕いしていたんですよ」
■村の生活
酔いつぶれた者を居間に残し、ライラは自分たちの寝室に鬼斬り丸を連れて行った。
レイラのベッドもあるのだが、気を利かせて今日は兄の部屋で寝るらしい。
窓の外は幾分蒼味を増している。
夜明けが近いのだろう。
灯りを消したベッドの上に服を脱いだ鬼斬り丸が寝転がると、恥じらうライラが続く。
そんなライラを鬼斬り丸は抱き寄せた。
翌朝、かなり遅くなってライラは目を覚ました。
下腹部に残る違和感に頬を染め、鬼斬り丸の姿を捜す。
居間に出てみると、二日酔いとなった父や兄、そして、ここで寝てしまった男達がひどい顔で座り込んでいる。
隣の部屋ではレイラもようやく起き出した様だ。
鬼斬り丸はどこへ行ったのだろうと捜してみると、裏庭でふんどし姿のまま元気に鍛錬していた。
「お、おはようございますっ! すいません。こんな遅くまで寝てしまって」
「気にすんな。昨夜が遅かったんだ」
大した睡眠も取れていないはずなのに鬼斬り丸は元気そのものだ。
「すぐに朝食の用意をしますからっ」
と、兄のルイドが頭を押さえフラフラとしながら姿を現した。
「御山様は、あれだけ飲んでずいぶんと元気なのですな。なにか秘訣でもあるのでしょうか?」
「鬼の一族……俺の一族は酒豪で有名だからな。あれしきの酒では陽気になるだけだ」
「今朝ほど羨ましいと思った事はありません。ところで、ライラ。俺にもふんどしと言う物を作ってはくれないか?」
「お兄ちゃん、ふんどし履くの?」
「ああ、俺も御山様に習って履いてみようと思う」
「ふんどしは履くとは言わないんだぜ。締める。ふんどしを締めると言うんだ」
「だ、そうだ。俺もふんどしを締めてみたい」
「朝飯を食ったら、温い水の出る場所ってのを教えてくれや」
「はい。でも、服を着ないと……もう、村の女や子供達も出てきてますし」
「あー、それで村を歩いたら変な目で見られたんか」
「えーっ!? その格好で村の中を歩いちゃったんですか?」
「不味かった様だな。悪ぃ」
ライラが受け答えしている間にレイラが乾いた服を持ってきた。
「それにしても、ずいぶん変わった服ですよね。布をそのままって感じです」
「俺のとこでは、これが当たり前なんだがな。そんなに変か?」
「変じゃありませんよ。鬼様に似合ってますもの」
「粋だろ?」
「粋という言葉を知りませんが、とにかく格好良いです」
「レイラ。その服も作ってもらっても良いか?」
「お兄ちゃん、鬼様にでもなるつもり?」
「俺だって、御山様の様に強く格好良くなりたいんだ」
「はいはい。そんなに難しくないから、ふんどしと一緒にあたしが作ってあげるよ」
朝食を終えた鬼斬り丸はライラと二日酔いで頭を押さえながらも付いてくるルイドとともに村外れにやってきた。
ライラの言ったとおり、小さな泉となって温いお湯が湧き小さな小川ができていた。
「この辺にも雪は降るのか?」
「はい。冬は雪かきで大変ですよ。何しろ何メートルもの高さまで積もりますから」
「ここの雪解けは?」
「温い水が湧くのか、大雪でもこの辺りはすぐ溶けちゃって積もらないんです」
「んじゃ、地面の中にはかなりの熱があるって事だな」
「はあ……」
「ちょっと離れていろ」
何をするのか興味津々と言った様子で鬼斬り丸を見つめる二人。
村の子供たちも御山様を見ようと集まってきていた。
鬼斬り丸は大きく脚を開き、何度も拳を地面に振り下ろす仕草を繰り返していた。
そして、突然「はあっ!!」という気合いとともに、一気に拳を突き下ろした。
鬼斬り丸を見守っていた者たちは、地面がグラリと揺れた様な感じを受けた。
しばらく地面が細かく震え、怖くなってさらに離れると勢いよく熱湯が噴き出し、辺りが真っ白になって鬼斬り丸の姿が見えくなっていた。
吹き上がった熱湯が激しい雨の様に降り注ぐ。
見ていた子供たちが、突然のお湯の雨に大騒ぎとなって逃げていく。
しばらくすると吹き出していたお湯の勢いも収まり、今までの小さな小川がお湯の濁流となって流れていく。
「あちぃ、あちぃ。なかなか熱い湯が湧くな。うっし、ここに露天風呂を作るぜ」
突然村の外れで起こった珍事に、二日酔いでフラフラになった村長まで血相を変えてやってきた。
鬼斬り丸は大きな岩風呂を一つ作れば十分だと思っていた。
混浴が当たり前なのだ。
ところがルイドに聞いてみると、そんな事はできない。特に若い女が男に肌を見せるなど夫婦でもない限りあり得ないと言われ、しぶしぶ男女別の岩風呂を作る事になった。
御山様のする事に異論がない村長も、男女別なら村の者も楽しめると協力的だ。
ただ困った事がある。
小さなナウラ村では誰もが農家だ。
町にあるような商店などはない。欲しい物があれば行商人に頼むしかない。
だからこそ、何かあるとそれぞれ得意な事で協力し合う。
鍛冶が得意な者は仕事の合間を縫って農具や鍋釜を作っている。
石細工が得意なら石の切り出しから加工を、木工が得意なら山から木を切り出して柱や梁、板、さらに家具類や食器類、と言った具合だ。
当然繁忙期だと何もできない。
人によっては冬の仕事にしている者もいるくらいだ。
そのため家一軒建てるのでも一年がかりとなる事が多かった。
ところが今回は御山様の要望なのだ。
仕事の手を休めても、露天風呂という物を作らなければならなくなった。
これから収穫の繁忙期に入っていくのに困った事だと誰もが考えた。
さらに魔物の暴走で、隣村の数家族が村に残りたいと言っているのだ。
ナウラ村出身者が言い出しているので、無下にもできない。
税の納め先がなくなったので食料だけは何とかなりそうだが、新しい国ができればまた作物や火酒を納めなければならくなる。
新たな畑を開墾をしなければならないし、家も建てなければならなくなる。
問題が山積みなのだ。
そして、鬼斬り丸が何かをする度に家畜が怯える。
これには困り果て、ナウラ村の西に一時的に家畜を避難させたくらいだ。
鬼斬り丸は村の者が家畜を避難させた事など気にも留めず、目を輝かせて風呂の材料となりそうな石のある場所を探していた。
「ああん? こっちは俺が勝手にやってる事だぜ。お前らは自分の畑仕事をすればいいじゃねぇか。まあ、出来上がるのを楽しみにしていろ」
そう言い残し、大岩を相手に大太刀を振るう鬼斬り丸。
青白い光を放つ刀を一振りするだけで岩が手頃な大きさになっていく。
村長たちが相談している間に、すでに山から木が切り倒され、丸太が露天風呂予定地まで等間隔に並べ終わって石を運ぶ準備まで出来上がっていた。
鬼斬り丸に押されて切り出された人ほどの大きさの岩が、丸太の上を滑る様に運ばれていく。
一応何かの時のためにルイドを残して村の者は帰っていったが、二日酔いのルイドは鬼斬り丸の行動に振り回されて、半分死んだ様になっている。
夕方、露天風呂の進み具合を見に来た村人たちは目を丸くしていた。
不格好ながらたった一日で、お湯がなみなみと満ちている大きな露天風呂が出来上がっていたのだ。
「ちっとばかし湯が漏れてるが、これで露天風呂の完成だな」
満足そうに露天風呂を眺める鬼斬り丸の横には、運んできた石材や丸太がまだ山の様に積んである。
「ねぇ、御山様っ。僕たちもう入っても良いの?」
ずっと鬼斬り丸の露天風呂作りを見ていた子供たちが、目を輝かせていた。
「おうっ、入る時は、体を洗って綺麗にしてから入れよ」
歓声とともに服を脱いで、お湯をかけて体を洗うと、露店風呂に飛び込んでいく子供たち。
小さな男の子も女の子も入り混じってはしゃぎながら泳いでいる。
流石に異性を気にしだす年頃の娘は、羨ましそうに見つめるだけだ。
「やっぱ、ここじゃ混浴ってのは無理なんかなぁ」
その土地土地にそれぞれの風習がある。
鬼斬り丸はそれを変えようなどとは考えてもいない。それはそれぞれの土地の歴史でもあるのだ。
郷に入っては郷に従えという言葉に従い、鬼斬り丸はぼやきながら真ん中の仕切りに岩を積み上げていく。
それから片方の露店風呂の周りに背丈ほどまで積み上げた。
「とりあえず、これなら嬢ちゃん達も入れるか?」
やはり見られる事に抵抗があるのだろう。
数人の少女が鬼斬り丸に礼を言うと嬉しそうに服のまま入っていき、飛び上がったりして確認している。
時々出てきては手頃な小石を持っていくのは、覗ける様な隙間を塞いでいるのだろう。
やがて、囲いの中から水音と楽しそうな声が聞こえてきた。
こうなると集まってきた者全員が興味深そうに男女別になって風呂に入っていた。
鬼斬り丸とルイドも裸になって、ゆっくりと汗を流している。
「どうでぇ。温泉ってのはなかなかのモンだろ?」
「いやー、家の風呂より断然気持ちが良いですよ。体が蕩けるっていうか、疲れが抜けていくようで、何とも気持ちの良い物です」
「だろ。こっち(男湯)は、眺めが良いからな」
「それにしても、あちこちから湯がだだ漏れしてますね」
「あははっ、俺達(鬼族)ってのは、どうも大雑把だからな。細かい事はお前達(人間)の方が得意だろ?」
「追々、私達で手直ししていきますよ。脱衣所も作らないといけないでしょうし」
「その辺の細かいとこは任せるわ。材料なら十分あるはずだ」
「十分すぎますよ。こんな風呂があと五つくらい作れそうです」
「そーかぁ? なら、余ったのは勝手に使ってくれ」
「ああーっ!! 鬼様ひどいぃ。あたしたちが夕ご飯呼びに来たのに、もうみんなで入ってるーっ!」
鬼斬り丸を見つけたレイラが不満を漏らした。
「悪ぃな。お前たちもこっちに入るか?」
「鬼様のえっち!」
「仕方ねぇな。女たちは囲いの方だ」
「鬼様とお兄ちゃんの着替え、出来たからここに置いておきますからね」
丸見えの男風呂を見ない様にして話をするレイラが手近な岩の上に着物を置くと、頬を染めて背中を向けているライラと女風呂へ入っていった。
入れ替わり立ち替わり、村人だけでなく避難して村に残った者たちまで露天風呂を楽しんでいた。
ライラとレイラが作った着物とふんどしを締めた鬼斬り丸とルイド。
鬼斬り丸は満足そうにしていたが、ルイドはふんどしを締め、上手く収まるのに感心し、着物を羽織ると皆に見せびらかせ「どうだ? 粋だろ」と自慢気だ。
女たちは、疲れが取れるばかりでなく、肌がスベスベになったと嬉しそうにしている。
■贄との約束を果たす為に
毎晩の様にライラを抱く鬼斬り丸。
生理がしばらく来ていない。
もしかしたらと思うが、それでもライラは鬼斬り丸に子種を注がれる事を望んでいた。
鬼斬り丸との別れが迫っていると、その前に子を孕めと、女の感が告げているのだ。
鬼斬り丸は端からそのつもりだ。
そろそろ旅立ちを考えている。
ここへ来た目的は変わってしまったが、不満はない。
それより、考えている先にはライラと初めて会ったとき以上の邪悪な気が感じられる。
連れて行くにはあまりにも危険過ぎた。
「ライラっ!」
「鬼斬り丸様ぁぁぁ……」
たっぷりと子種を注がれ、ライラは幸せそうな顔で鬼斬り丸に抱きつき果てている。
村を守る岩壁を作った。
あの弱っちぃ赤目のゴブリンとかいう悪鬼程度なら、越える事も村に攻め入る事もできない。
何しろ鬼の力を開放して巨石を積み上げ、村の西側に岩壁を築き内側に土を盛っている。
村へ入るには、跳ね橋を渡り狭い入り口を通り坂を登らなければならない。
例えそこまで攻め込まれても、水門を開ければ濁流で押し戻せる。
上から油を落とし、火を放っても良い。
三方の山は、村の奥だけが山に行けるが、回り込もうにも南北は元から崖となっていて越えるにはかなりの大回りをしなければならない。
生まれてくる子のために自分の血で鍛えた大太刀も打ち終えた。
鬼の血が強ければ、そのうち覚醒が起こるだろう。
そうすれば鬼族以外には抜けぬ刀でも扱える様になる。
もし、人の血が濃ければ、家宝の守り刀としてそのまま暮らしてくれればいい。
少しでも鬼の血が残っていれば、いざという時はこの刀が力を貸してくれる。
ライラが突然、口を押さえて台所へと駆けていった。
どうやら吐いているようだ。
しばらくすると、嬉し恥ずかしといった顔でベッドに戻ってきた。
「やっぱり、赤ちゃん……できたみたい」
「よくやったっ! 男なら鬼丸。女なら雷花と名付けろ。雷の花という意味だ」
「鬼丸……鬼斬り丸様から取った名前。雷花は私に似た……嬉しい。考えていてくれたんですね」
「当たり前だ」
ライラが鬼斬り丸に抱きつき胸に顔を埋めていた。
「ここを出て行くんですか?」
「お前との約束を果たす為にな。個人的にもお前と子を危険にさらす訳にはいかぬ」
「やっぱり、西の方角ですか?」
「知っていたのか!?」
「鬼斬り丸様が西を見つめて、何度も鼻をしかめていらっしゃったから」
「寂しいか?」
「半分だけ」
「?」
「幸せの半分は鬼斬り丸様から一生分頂きました。後は母として、子を産み、育てていく幸せが残っています」
「短い間ではあったが、俺もお前から幸せを分けてもらった。ここは実に気持ちのいー村だ。生き残る事が出来たなら、必ず戻ってくる」
「それほどの……。分かりました、楽しみにしていて下さい。必ず元気な赤ちゃんを産んで育てあげますから」
翌日、鬼斬り丸はライラと村人たちの見送りを背に歩き出した。
その先には壮絶な戦いが待ち受けている。
贄の願いはまだ果されていないと鬼の血が騒いでいる。
■覚醒
鬼斬り丸が村を出てすでに数年経っていた。
ライラたちの父は天寿を全うし、兄のルイドは結婚し家を継ぎ、妹のレイラは結婚して家を出た。兄夫婦がそのままライラ親子の面倒を見ている。
魔物の暴走に悩まされていたバリエス国は辛うじて生き残り、今では平和を取り戻していた。
ナウラ村、というより魔物の暴走で滅んだイクシュル国とドーランド国は、未だ王も領主もいない。
大陸全土を襲った魔物の暴走で疲弊して、領地として管理しきれないのが実情だった。
そんな事を時々村を訪れる行商人から聞きながら、ライラは鬼斬り丸を待ち続けている。
鬼斬り丸が村を発って十月十日。ライラは無事に男の子を産み、鬼丸と名付けていた。
鬼斬り丸に似た黒髪だが、瞳の色はライラと同じ金色だった。
柔らかい顔つきのライラの子なので、いささか迫力に欠けるが、それでも鬼斬り丸に似て好奇心旺盛でやんちゃな子供だ。
村の誰もが御山様の子と知っているが、鬼丸は外見も人間ならば、力持ちという訳でもない。ライラとレイラが見た真の姿なども一度も現す事がなかった。
そんな大人たちの事など関係ないとばかりに、鬼丸はルイドの息子オニムとレイラの娘レイランを引き連れ、村の子供たちと元気に遊び回っていた。
そしてさらに五年ほど経ち、鬼丸は十三歳となった。
初夏の風が流れるナウラ村は今日も平和だ。
「お母さん……」
夜になって、寝ぼけ眼で鬼丸が居間で縫い物をしているライラの所へとやって来た。
「もうっ、そんな格好で……そんな所はお父様と一緒なんだから……」
まだあどけなさの残る顔だが鬼丸はふんどし姿だ。
寝間着にしていた薄手の着物はいつの間にか脱いでしまったらしい。
「それで、どうしたの?」
「う、うん……。最近、変な夢ばっか見るんだ。お父さんと関係あるのかと思って……」
「怖い夢でも見たの?」
「ちがうよーっ! ……何かを話しかけてくるみたいな? でも、目が覚めると肝心な事は忘れちゃってってさ……」
「お父様が言ってた、覚醒というのが起こってるのかしら?」
ライラは鬼斬り丸の残した刀を持ってくると、鬼丸に手渡した。
小さい頃に何度か試してみたが、一向に抜ける様子はなかった。
もちろんライラやルイドがやってもだ。
これが抜けると、鬼斬り丸の使っていたのと同じ片刃の剣が出てくると聞いている。
「ちっちゃい頃からやっても抜けないんだよ。もう錆び付いてるんじゃないの?」
「良いから、抜いてみなさい」
ところが今回は柄を握るとスーッと音もなく抜けていた。
そして、一つの曇りや錆びもない見事としか言いようのない刃が現れた。
「な、なんだ!?」
抜き終わると同時に何かが鬼丸に流れ込んでくる。
ライラもまた鬼丸を見て驚いていた。
みるみる眼光が鋭くなり、鬼斬り丸の様に短角と鋭い爪が生えてきたのだ。
「おいっ、ライラ。もしかして鬼斬り丸様が帰ってきたのか?」
初めて鬼斬り丸が村人たちの前に顔を出した時に感じた様な、異様な威圧感を感じた兄のルイドは慌てた様にライラたちのいる部屋の扉を叩いていた。
村中で何事かと外に飛び出して騒ぐ者も多い。
「お兄ちゃん、違うの。鬼丸なの」
鬼丸はと言えば鋭い爪を持った手を握ったり、頭に生えた角を触ったりしていたが、何が起きたのかは理解している様だ。
そして自分の体から吹き出す鬼気を何とか抑えようとする。
しかし、すぐにできるものではないらしい。
しばらくすると諦めた様に人の姿に戻り始めた。
とたんに鬼丸から出ていた凄まじい鬼気は消え、普段の夜が訪れた。
「なんか、力を開放すると周りに迷惑がかかっちゃうな」
村の者たちが騒いだだけではなかった。
人は説明すると分かってくれるが、家畜はそうはいかない。
どの家の家畜も怯えてしばらくの間、乳の出が悪くなったり、卵を産まなくなっていた。
それでも鬼斬り丸を知る大人たちは、御山様が戻ってきたようだと嬉しそうだった。
鬼化すれば、本来の力を発揮できる。
しかしこのままでは鬼化出来ない。
今でさえ、ほんの僅かしか力を解放していないのだ。
完全に解放したら、村が潰れてしまうんじゃないかと思うほどだ。
少なくとも、ある程度は自分で加減できるようになければならない。
そのため、鬼丸は鬼気を抑える方法を考えた。
それからというもの取り憑かれたかの様に鬼丸は鍛錬と鬼気を抑える訓練を始めていた。
■小さな異変
鬼斬り丸の残した大太刀が抜ける様になってからというもの、鬼丸は鬼気と剣の鍛錬を毎日欠かさずにいる。好奇心旺盛なのでブツブツと呟いて考え込み、いろいろな方法を試した。
ところが考える事が大雑把なので、やること成す事が極端。
その度に村は大騒ぎとなる。
それでも、御山様の息子がやる事と笑って許してくれた。
しばらく家畜の乳が出が悪くなるとか、鶏が卵を産まなくなるという実害はあったが、狼や熊が村に近寄らなくなったのだ。
そんな事を繰り返し少しずつ鬼気の扱いに慣れていった。
去年までは鬼気を上手く抑える事ができずに山をかなり登ったところで練習していたが、今ではよほどの事がない限り村の中で鬼気を纏っても問題は起きなくなってきた。
「まったく、鬼丸の奴はどこまで強くなるのやら……」
一つ下のオニムが溜め息をついていた。
鬼丸と違い体を動かすより考える事の方が好きなのだ。
初めのうちは面白がって同年代のオニムや村の子供たちだけでなく、暇を見て大人までも鍛錬に付き合っていたが、この辺りに出る魔物など、鈍兎や青粘菌といった素人にでも狩れる魔物しかいない。
もう十六歳になった鬼丸の相手にすらならない。
自分だって十数匹の群れを何とか退治できる。
確かに子供にはまだ危険があるが、九歳になったばかりの弟のオニガルですら一対一なら掠り傷を負う程度で仕留められるようになっていたのだ。
それでも鬼丸は鍛錬を止めようとしなかった。
もちろん群れている鈍兎を仕留めたいと思い始めたオニガルたち年少組もだが。
「みんなーっ! お弁当持ってきたよぅー!!」
いつもの鍛錬場としている石切場に幼い妹を背負った娘が弁当を抱えてやって来た。
レイラの長女のレイランだが、三人の中では一番年下で何かあるとすぐに二人を頼る。それでも二人の面倒は自分が見ているのだとお姉さんぶるのだ。
いつもは陽気なのだが、今日に限って不機嫌そうだった。
「ねえ、聞いてっ! 今、村に行商人が来たとこなのよ。でね、……」
「そんな事なら、朝からお袋たちが騒いでいたぜ」
「鬼兄ちゃんっ! 最後まで話を聞きいてよー。でね、一緒にハンターが来ているのよっ」
「はあ!? なんで?」
鬼丸だけではない。
小さな子供だって、どうしてハンターが来ているのだろうと頭をひねっている。
そもそもハンターが狩る様な魔物など、この近くにはいないのだ。
壊滅した旧イクシュル国と旧ドーランド国の領地は、この十数年でかなり地域が周囲の国に吸収され始めていた。
ナウラ村を含むこの一帯も、一番近いバリエス国の領地となる日も近いだろうと噂されているくらいだ。
鬼丸たちの生まれる前にセクファン東部から大陸全土へと広がった魔物の暴走は、生き残った国の力と人々を消耗させていた。
兵士だけでなく多くの民が魔物に襲われ亡くなったのだ。
どの国も兵士を雇おうにも、育てようにも人がいなかった。
しかし、その後はいつも以上に平和な時が流れた事もあって、ようやく自国領外に手を出す余裕が出てきたのだ。
「もしかして、村がバリエス領地になるとかいう話を持ってきたのか?」
オニムの問いにレイランは頭を振った。
「それが、違うんだってっ! なんでも元王都にできた開拓村に強い魔物が出てるんだって!」
「強い魔物!?」
オニムより早く鬼丸が食いついた。
「そーなのよ。何でも何とかウルフとかいうのが開拓村を通る人を襲っているらしくて、その護衛なんだって! おかげで馬鹿みたいな値段になってるのよー」
「その何とかウルフって強ぇのか?」
「そこじゃないでしょっ! いっつも買ってた香油が銀貨六枚だよっ! いきなり六倍なんて信じらんないよ!!」
という事は、頼んでいた農具や食料品も軒並み値上がりしているという事だろう。
香油とは女性が肌の手入れをするのに欠かせない物である。
村でも昔はブドウの種から搾った油を使っていたが、良い香りのする香料入りの油を行商人が持ってきた事から、今ではどの女も香油を使っている。
お年頃の娘らしい発言にオニールは呆れたが、あからさまに呆れた顔をするとレイランの怒りはさらに激しくなるのを知っている。
「そいつは問題だ。なあ、鬼丸」
「なんでだぁ? あ、そうか! 香辛料の効いた美味い肉が食えねぇよな」
多少顔を引きつらせるオニムを見て、鬼丸も困った顔をしていた。
「鬼兄ちゃん、何言ってんのよ。鬼兄ちゃんが魔物をやっつけて香油の値段下げてもらってよー」
「そんな無茶な……。大体、ハンターが護衛についているんだろ。何人いたんだ?」
「凄いんだよ。四人もいるんだから」
「ハンターといえば魔物退治の専門家だ。それが四人もいるって事は、それだけその何とかウルフってのが強いんじゃねぇのか?」
「でも、鬼兄ちゃんなら勝てるよぉ」
「だからぁ、俺は鈍兎や青粘菌しか相手にした事しかねぇってのっ!」
「でも、山の狼や熊だってやっつけてるじゃない?」
「ありゃあ、魔物じゃねぇぞ。それに追っ払ってるだけだし」
「何とかウルフだって、狼の仲間だよぉ。魔物だけど……」
「そこが問題なんじゃねぇか」
とは言うものの、鬼丸はレイランの言っていた何とかウルフと戦ってみたい様子だ。
ナウラ村では、いくら鍛錬しても自分の実力が分からないといつもぼやいている。
「鬼丸っ。とにかく、そのハンターに聞いてみようぜ!」
オニムの提案で、鬼丸たちはハンターに会いに行った。
■ハンター
ナウラ村にある温泉風呂は二ヶ所になっていた。
一つは鬼斬り丸が作った露天風呂。
作った当時はお湯がだだ漏れ状態だったが、その後ルイド達が脱衣所を作り手を入れて水漏れがしない立派な露天風呂となっていた。
もう一つは、露店風呂の少し村寄りにある建物。
冬でも寒くないようにと、翌年村人たちの手によって立派な内風呂が建てられた。
鬼斬り丸が露天風呂を作るのにふんだんに石材を運んでいたのだ。ありがたく使わせてもらった。それでも余り、水路や新築する家の土台に使わせてもらったが。
冷たい水とお湯がふんだんに使える様になったため、こちらは村の女たちが洗濯や調理の下ごしらえに利用する事も多く、子供たちがここで騒ぐとすぐに怒られる。
それもあって、開放感のある見晴らしの良さと騒ぎ放題の露店風呂は子供たちの遊び場となる事が多かった。
その露店風呂に見知らぬ四人の男が気持ちよさそうに入っていた。
三十歳を過ぎた男がリーダのカムラン。後の三人はアーベル、ズイフト、ローレンと二十代前後といった顔ぶれだ。
「ふーっ、こんなところで温泉に入れるとは思わなかった。それにしても、本当に生き残っていたとはな。しかも天然の要塞みたいな村には驚いたぜ」
この一帯を治めていたイクシュルという国が壊滅したため、この辺も全滅しただろうと考えられていたのだ。
男たちは行商人を護衛しながら、切り立った岩壁に守られた村を見て驚いた事を思い出していた。
あれなら魔物だけでなく、どこかの軍隊が攻めてきても村の攻略は難しい。
村一つ手に入れるのにそこまでする事はないが。
村に入るには、城壁の様な岩の間に一つだけ開いた狭い坂道を登るしかない。
そこに溜め池の水を流し込まれれば、村への侵攻はできなくなる。
十メートル近い岩壁を登ろうにも、手前には掘のような川。そしてまるでナイフで切り取られたような絶壁を前にしてどこを手がかりに登ろうかと悩むほどだ。
だからこそ、この村はあの魔物の暴走でも生き残れたのだと確信できた。
この村と逃げ込んだ村人は生き残っていた。
当時、運良くこの村に逃げのび、死なずに済んだというバリエス国の行商人。
その男曰く、御山様という神に守られた村。
真偽のほどは定かではない。
二年前に亡くなり、今では若い弟子が引き継いでいる。
こんな辺鄙な村まで来る行商人なのだ。
護衛依頼を受けた時は、商人としての腕は三流以下かと思ったが、この村に来て見方が変わった。
行商人は御山様も気に入っていたという火酒を求めてやって来ていたのだ。
何年も寝かす事で美味しさを増し、王族や貴族たちが嗜む酒として珍重される火酒。
魔物の暴走に踏み荒らされた所での入手は難しい。
「……で、カムランさん。御山様って本当にいたんですかね?」
ポケーッと蕩けた様な顔で肩まで湯に浸かり、白く輝くカミラス山を見上げていた若い男が鋭い目つきの三十過ぎの男に尋ねた。
「どうなんだろうな? しかし、大陸全土にまで広がった魔物の暴走を止めたと言われる謎の英雄がこの世の果てからやって来たってのは有名な噂だ。御山様と考えられない事もない」
「あんな雪ばっかりの所に人なんか住んでるわけねぇっ、つぅーの」
「人ではないのかも知れないぞ。何しろこの村では御山様は神と見なされているからな」
「そうとも、アーベル。なにしろあの天然の要塞を作ったのが御山様だって村人に聞いたけど、神ならあり得るぜ」
何万という人手があれば作れるかも知れないが、何十年もかかるだろう。
村を守る岩壁一つ取っても、とんでもない大きさなのだ。
アーベルだけではない。
リーダーのカムランですら、あの岩壁が人の手で作られたなどと考えてはいない。自然にできたとも考えられないが。
「神に守られた村ねぇ……羨ましいこって……」
しかし、どういう理由があれ、大陸全土を襲った魔物の暴走の中で、この村だけは魔物に怯える事も食べ物に困るような事もなく唯一天国とも言える様な所だったのだろう。
何しろこの村には自警団すらない。
魔物の暴走に運良く巻き込まれなかったバリエスの小さな村でさえ、魔物に怯え農民自らが畑仕事の合間に剣を振るっていたのに、である。
「ありゃあ、俺の親父が作ったんだぜ」
子供たちが近づいてくるのは気が付いていたが、その言葉に四人は驚いた。
「ほうっ、この村の子か」
カムランが見上げると、金色の瞳に黒髪をした人懐っこそうな顔をした十代半ばの若者がいた。
あれをこの若者の父親が作れるはずがない。
だからと言って、あからさまに否定はしない。
子供とは言え村人の不評を買って行商人の商売の邪魔になってはマズイ。
「……まあいいさ。生まれる前の話だし、作っているとこ見た訳でも会った事もねぇからな。俺は鬼丸。おっちゃん達がハンターの四人だろ?」
「そうだ。俺がリーダーのカムランだ」
表情を隠したつもりだったが、この黒髪の若者には見抜かれてしまった様だ。
あまり気にしている様子もないので、商売の邪魔にはならないだろう。
「でよ。ハンターのおっちゃん達に聞きたい事があるんだけどよ」
「聞きたい事とは?」
「おうっ。何とかウルフってのは強ぇのか?」
鬼丸は、聞きたい事をいきなり尋ねる。
しかし、尋ねられた方にしてみれば、幾分意味不明になっている。
ウルフと名の付く動物は数多い。さらに魔物まで広げると、この鬼丸という若者がどのウルフの事を聞いているのかさっぱり分からない。
横にいた若者が慌てて、カムランに話しかけてきた。
「いやー、すいません。こいつ、話をはしょっちまうから。俺はオニムっていいます。護衛の理由が何とかウルフを警戒してと聞いたものですから」
「あー、ガリアウルフの事だな。ランクはDマイナー。ただし通常は群れるから二十頭の群れまではDプラス。それ以上の群れは珍しいがCマイナー以上となる」
オニムも鬼丸もキョトンとして聞いていた。
「もしかして、ハンターランクを知らんのか?」
二人は顔を見合わせ頷いていた。
「お前達でも狩れる粘菌などは、ハンターランクが一番低いHマイナーだ。HからAに上がるほど強くなっていく。Aの上はSランク。ドラゴンなどはたいていこのランクだな」
「ハンターランクというのが、魔物の強さの基準になっているんですね。で、ガリアウルフというのがDの下位だと、俺たちだと何とか生き残れるくらい強いって感じですか?」
オニムという少年は、カムランの言った意味を理解した様だ。それに比べ鬼丸は頭を傾げて指を折りながらブツブツと呟いている。
「九割方死ぬな。だからガリアウルフからの護衛は最低でもCランクのパーティーに依頼が来る」
Dランクから中堅となる。
Cとなれば中堅でもかなりの実力を持つハンターだ。
「って事はよ、スライムの三倍強ぇだけじゃん。大した事ねえぇな」
鬼丸の発言に、プッと吹き出すアーベル達。
「おい小僧っ。もしかして、ランクが粘菌よりアルファベットが三つ上だから強さは三倍とか言うんじゃねぇだろうな?」
「違うんか?」
「相手してみりゃわかるが、五十倍くらいは強いぜ」
「五十倍……」
「よく分かったろ。素人が手を出すと死ぬだけの強さって事だ」
「楽勝だな!!」
どこの村にも、こういった無謀な小僧はいる。
カムランは若い頃に襲いくる赤目のゴブリンに恐怖した日を思い出していた。
■地獄のマーデイン
ノーマルのゴブリン単体のランクはFマイナーだが、赤目だとDとなる。
一対一であれば、それなりの武器があれば新人兵士でも倒せるランクとされている。
しかし、それが無数にいるのだ。町の外はランクはCでは留まらず、Bまで上がっていた。
ここまで上がれば、いくら訓練された兵士と言えども勝つのは難しい。
当時王都バリエスとまではいかなくとも、同じくらいの規模を誇った城塞都市マーデイン。
しかし、度重なる魔物の暴走によりマーデインの町と周囲は壊滅的被害を被っていた。
町に入るための四つある大門の木製の扉戸など、とうの昔に砕けていた。
マーデインが無事なのは、ゴブリンが石の城壁を壊せないのと四つの門を必死に守っていたからだ。
実際のところ生き残った兵士は少なく、町の大人達が皆、町の最終防御ラインとなる四つの大門を死守するために日夜戦っていた。
どこかの大門が破られればマーデインの住民は喰われてしまう、と誰もが必死だった。
赤目と言えども大門を潜ってきた少数のゴブリン相手であれば何とかなるのだ。
それ以外にも時々城壁を登って赤目のゴブリンが町中まで入ってきていた。
そのための城壁上部の見張りと、町の警戒に若者たちも男女を問わず動き回っていた。
しかし、ついに西の大門の均衡が破れ、町の中に赤目のゴブリンが雪崩れ込んできた。
カムランが四人で町の中を巡回していた時だった。
その中にはカムランが恋心を抱いていたムーシェという娘もいた。
一つ年上だが、丸く可愛らしい目が印象的な綺麗な娘だった。
多分ムーシェにもそう言う気持ちがあったのだろう。
巡回となると必ずカムランの班に潜り込んできていた。
一匹を大人数ではあったが何度も赤目を倒して自信を持っていたカムランですら、襲い来る赤目のゴブリンの群れは恐怖そのものでしかなかった。
為す術もなく、町の中が阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わっていくのだ。
近くにいた子供やムーシェを守るために必死に剣を振るうカムランら男三人。
しかし、あまりに多勢に無勢。
かすり傷を負いながらも何とか一匹を仕留め背後を確認すると、子供たちを守っていた二人の喉元にゴブリンの顎が食い込もうとしていた。子供など姿すら見えない。
そして、ムーシェは泣き喚きながら犯されていた。
俺は、好きな女一人を守る事も出来ないのか……
あまりの情けなさにムーシェに跨る赤目のゴブリンめがけ剣を振り上げ襲いかかろうとした時だった。
赤目のゴブリン達が一斉に東を向いたのだ。
そして、カムランたちには目もくれず町の東へと移動を始めていた。
後に残され呆然とその様を見つめるカムランと、虚ろな目で空を見上げるムーシェ。
「こ…ころ…して……」
最後の力を振り絞って出したムーシェの声でカムランは我に返った。
意識はあるが母体が自殺しない様に体が麻痺していく。
ゴブリンの幼生は、母体と恐怖を糧に急速に成長し始めていた。
「何言ってるっ! まだ助かるっ!!」
「ごめん……ね……も…もう……だめ……お腹…の……中…で……動い…て……る……」
涙をこぼすムーシェとカムランの前を赤目のゴブリンがただ東へと通り過ぎていく。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
カムランは両手で剣を握り、ムーシェに剣を振り下ろした。
せめて苦しまない様にと一息に、その後、膨らみ始めた腹に恨みを込めて何度も何度も剣を突き立てていた。
町の東で何が起きているのかは分からない。
しかし、カムランにはもうどうでも良い事だった。
カムランがムーシェの亡骸の前で泣いている間にマーデインは魔物の手から解放されていた。
その時現れたのが謎の英雄なのだ。
見た者の話だと神が舞い降りたと言っていた。
異国の服を着た男が青白い光を放つ剣を振り回し、あろう事か刃の届かぬ敵まで薙ぎはらうように倒していたと言う。
マーデインがようやく安堵と悲しみに耽る事が出来た。
しかしその犠牲はあまりに大きく、マーデインの人口は暴走前の1/200まで減り、城塞だけが立派な小さな町程度の人しか残っていなかった。
もっともここまで減ったからこそ、僅かな備蓄で翌年の収穫まで生きながらえたとも言える。
多分、謎の英雄は異国のハンターなのだろう。
たまたまか、それともマーデインが通り道だったのかは知らないが、とにかく彼が去った後は魔物の暴走に襲われる事もなくなっていた。
あの時守れなかったムーシェを助けられるくらい強くなろうと、カムランは兵士ではなく、自由に魔物を追えるハンターを目指したのだ。
■腕試し
「自信がある様だな。なら、小僧。お前の腕前を見せてくれるか?」
こういった増長した小僧は一度痛い目に遭わないと分からない。
大切な者が亡くなってから悔やんでも遅いのだ。
「カムランさんが出るまでもないですよ。ここは俺が一つ……」
メンバーの三人も同じような事を考えていたのだろう。
当時は、ただ怯え逃げまどう子供でしかなかったが、その時の恐怖とその後の飢えの苦しさは身をもって知っているのである。
半分、神に守られた村の者に対してのやっかみかも知れないが。
露店風呂から出てきたアーベルを不満そうに見つめる鬼丸。
「安心しろ。カムランさんほど強くないが、これでもDプラスの腕だ」
アーベルの実力はCマイナーと言っても良い。
ただ性格が災いして、昇進試験をパスできないでいるのだ。
何しろここ十数年、魔物が激減した事もあってハンターを目指す者は減っている。カムラン達が未だ中堅の位置にいるのは、倒すべき魔物が少なすぎる為だ。
ここにいる三人はそれでも魔物討伐をメインとするハンターを目指し、採取系の依頼が多い中毎日鍛錬を欠かさずに剣を振っている。
「って事は、あんたを負かせば、何とかウルフってのは楽勝って事だよな」
「そー言う事だ。も、し、俺から一本でも取れれば、十頭程度のガリアウルフの群れなら一人で相手に出来る。……とは言え、ガリアウルフも馬鹿じゃない。護衛するには依頼主と積み荷を守る役も必要になるけどな」
オニムが質問しようとしていたのに気づきアーベルが先に答える。
やっかみはあるが、彼らも大人だ。
服を着るとオニムは手にしていた木剣をアーベルに差し出した。
アーベルがいつも使う剣はまっすぐに伸びた両刃のロングソードだ。
だが、これは南方に多い曲刀と掛け合わせような形をしている。切っ先が僅かに反った片刃の剣を模した木剣なのだろう。
打ち切るといった使い方をするロングソードではなく、斬る事に重きを置いた剣。使った事はないが、これは真剣ではなく斬れない木剣。しかも相手は小僧なのだ、それほど問題にもならない。
その木剣をしげしげと見つめ、軽く素振りして感触を確かめる。
それを見た鬼丸が、ニヤリとして構え始めた。
「ほう、見慣れない構えだな」
鬼丸は、いわゆる正眼の構えだ。
それを見てアーベルは右手に握った木剣を突き出しゆっくりと実戦的な構えをする。
鬼丸が踏み込む前に、アーベルは初めから容赦なく木剣を繰り出していた。
まるで鬼丸の鼻っ柱を叩き潰すような勢いだ。
しかし、繰り出す剣の全てが鬼丸の木剣に逸らされていく。
「ちっ」
不敵な笑みを浮かべる鬼丸に舌打ちしたアーベルは、乱れ打ちスキルを放っていた。
「おらおらおらぁ、どうしたぁーっ? 守ってるだけじゃ勝てねぇぞ」
素人相手にスキルを放つなど大人げないとは思うが、余裕ありまくりの鬼丸の顔につい冷静さを欠いていた。
何しろ周りで見ている子供達が、「鬼丸兄ちゃん凄ぇ」とか「あのハンターって大したことねぇんじゃないの?」と騒ぎ始めたのだ。
小僧と侮って力任せに迫ったのが敗因だった。
乱れ打ちを放ち終えたアーベルの首筋に鬼丸の木剣が当てられていた。
「くっ、俺の負けだ。いい訳はしねぇ」
子供たちの歓声が上がる中、「勝った」とすら喜んでいないのが憎たらしい。
戦いの様子を面白そうに見つめていたカムラン。
「どんな猛者でも油断するとこうなるっていう見本だな」
「ああ。俺も勝ったとは思ってねぇよ」
やっぱり、一度小僧の鼻っ柱を叩き折った方が良い薬になる。
今度はカムランが木剣を握った。
二度三度と木剣を打ち合うと、突然鬼丸の木剣が大きく跳ね上がり、カムランの剣先が鬼丸の喉元に突きつけられていた。
「あそこで剣を放さなかったのは刮目に値するが、まだまだ経験不足だな」
「つい誘われちまったぜ。……やっぱ、もっと心眼を鍛えねぇとダメだな」
あまりにも経験がなさ過ぎた。
簡単な誘いにすら乗ってるほどの未熟さ。冷静になれば喉元に易々と剣先を突きつけられる位なのだ。これはランク以前の問題だった。
一つだけ気になるところといえば、アーベルの時もそうだが、こちらの剣が前もってどこに来るのか分かっているような感じを受けた事だ。
カムランは相手の剣先や筋肉の動きなどを見て相手の剣筋を読んでいるが、それとは違うような気がする。
ボソッと呟いた「シンガン」とは、もしかしたら先読み系のスキルか?
そう言ったスキル名は聞いた事もないが、しかし、基本スキルでないのなら聞く訳にもいかなかった。
他人にわざわざ自分の手の内を教える馬鹿はいないのだから。
それにしてもスキルは習得するもので、鍛えるものではない。
何か妙な小僧だ。
「大口叩くだけあって、最低限の実力はある様だ。兵士にでもなるつもりか?」
「強い奴と戦ってみたい気はあるが、一番は世界を見て歩きたい」
「なら、ハンターになるのが一番だな。他には……大きな町へ行けば道場もあるが、お前には合わなさそうだ」
「どうしてだ?」
「お前の構えは見た事がない。道場へ通うなら一からやり直しだ。そもそもその構えは誰の教わったのだ?」
「この構えは親父直伝と言えばいいのかな?」
「疑問形で返されてもな……。って、父親と会った事がないとか言ってなかったか?」
「まー、そうなんだけど、な」
つくづくよく分からない小僧だ。
親父に構えを教わったらしいが、会った事もないとはどういう事だ?
これが縁で鬼丸は行商人が帰る翌日の朝まで、ハンターに剣技を教わった。
■旅立ち
「決めたっ!」
いつものように伯父のルイド一家と一緒に朝食を食べていた鬼丸がいきなり大声を出した。
「行くの?」
その鬼丸に母親のライラが、驚きもせずに尋ねる。
それを聞いて、オニムもようやく決心が付いたかと一人頷いた。
「えっ!? 行くって……なんだよ、お袋にバレてたんかよ?」
行商人一行がナウラ村を発って数日間、鬼丸は今までにない難しい顔をしてずっと考え込んでいたのだ。
ばれていないと思っているのは鬼丸一人だけ。
「当たり前でしょう」
子供はいつかは親元から旅立つのだ。
小さい頃から作物の作り方を見て学び、家畜の世話をしながら扱いを学び、いつかは独り立ちして村の大人達の仲間入りを果たす為に。
だが、鬼丸は幼い頃から家の手伝いはするものの、その視線の先には常に遠い世界があった。
ライラだけでなくオニムも、そしてナウラ村の誰もが鬼丸はいつか村を出て行くと思っていたのだ。
ナウラ村を守ってくれた御山様のように、どこかで誰かを守る為に。
鬼丸が悩んでいたのは、村を出たいが出ればお袋の面倒を誰が見るのかという事だった。
確かにルイド叔父さんは、お袋の兄という事もあって今まで自分たちの面倒を見てくれている。それはこれからも変わらないだろう。
御山様の贄という事で、村の大人たちもお袋を大事にしてくれる。
けれどもお袋の子は自分だけだ。だから大人になったら面倒を見るのは自分の役目なのだと思っていた。
それでも……
万が一、また魔物の暴走が起きたとしても親父の作った岩壁が村を守ってくれる。
だが、自分はこの村に対して何をしたかと問われると、何もしていないのだ。この村で自分は親父を越える事はできないという焦燥感があったのは否めない。
それなら見知らぬ土地で一から親父を越えてみようと考え直したのだ。
村の出入り口には、鬼丸を見送ろうと村人全員が集まっていた。
「鬼丸、一つだけ約束しろ」
「何をだ、オニム」
「物事は見える面だけが全てじゃないんだ。常にいろいろな面から見る癖をつけろ」
鬼丸の性格では悪に立ち向かう事はあっても、自ら悪事を働く事はない。その事は村の誰もが知っている。
ただ、見方を変えればどちらが悪いと言えない事は多い。
本人が気づかないうちに悪事に手を貸す事は十分考えられる。なまじ平和な村だけに、鬼丸だけでなくオニムでさえそういった事に疎い。
鬼丸は無鉄砲で好奇心旺盛。そして大雑把で単純だ。だからこそ、少しでも視野を広く持って自分のやった事が正しいと言えるようにとオニムは考えたのだ。
「……あんま得意じゃねぇが、努力する」
今まではオニムに任せきっていた鬼丸だが、これからは一人で決めなければならない。苦手だからと言っていられないのだ。
「村の事は俺が守ってやる。安心して旅を楽しめ」
「おうっ、村を頼むぜ」
「鬼兄ちゃんは、絶対負けないんだから……。きっと、きっと……元気でね」
「おう、レイランも元気でな」
「当たり前じゃないっ! 変な娘連れてきたら、おしおきだからねっ!」
暖かく送り出してくれる母親のライラ。
厳しい事は言っても心の底から自分を心配してくれるオニム。
別れの寂しさを悟られまいと捲し立てながら、必死に強気に出るレイラン。
他にもたくさん村人からの言葉を貰い、鬼丸は元気よく一歩を踏み出した。