side.V
初めて彼を見たのは、もう七百年近くは前のことだ。
ヴィンセントはそれほど記憶力が良い訳ではないから、細かなことは靄が掛かったようにあやふやだが、ヴィンセントがまだ皇太子の時分で、軍の指揮に携わっていた頃のことだ。あれは、神界と冥界を繋ぐ虹ノ橋を落とした戦争の時ではなかっただろうか。神界と冥界との間の亀裂が深まり、決裂が確実となった時だった。
イザヴェルの平原を包む業火は、それこそ一目見ただけで目玉の裏側に焼き付いている――空に浮かぶ太陽よりも熱く明るく、強烈な輝き。彼の髪は炎の色そのものだ。それだけは記憶の中でも鮮明だった。
ヴィンセントは止めていた息を、一気に吐き出した。
主のいなくなった執務室は、壁掛けのランプの灯りだけが点いている。ヴィンセントはソファーから立ち上がり、身近にある植物の葉へ手を伸ばす。まるで温室のように部屋中に生い茂っていた草花は、先日ヴィンセントが発した冷気で全て凍りついている。薄い桃色に染まっていた小さな蕾は下を向き、指でつつけば萼の部分からぼろりと折れて床に落ちてしまうだろう。青々としていた葉は、茶色と白の斑模様となって萎れている。部屋の主であるガンナは、ヴィンセントの催促と変わり果てた部屋の様子に、ただ弱々しく笑むだけで何も言わなかった。
「わたしを待たせるからいけないんだ、君は…」
言い訳がましく、呟く。
ガンナがひとつのことに執着を見せるのは、これで二度目だ。
皇太子だったヴィンセントは自分が王位を継承した後も、彼が幼い時分から世話係であり友であったガンナが変わらず傍にいるものだと思っていた。しかしそれは、ヴィンセントの思った通りにはならなかった。魔王付きの護衛官には見知らぬ新しい悪魔が付き、ガンナは宮中から消えていた。ガンナは自ら辞退したのだった。
理由は、わかっている。
わかっているが、ヴィンセントは納得などしていない。何度もガンナを呼び戻そうとした。だがガンナもガンナで、首を横に振るばかりだった。引き止めるのは大変なことだった。それを何とか説得し、互いに譲歩して、現在のようにガンナは軍事局長官を務めている。
それもいつまで続くのか、ヴィンセントにはわからない。なぜだか漠然と、いつの間にかまたガンナは姿を消しているのではないかと時折思うのだ。
考えながら、ヴィンセントは氷に包まれた蕾の表面を指先で撫ぜるように手を動かす。すると、褪せていた花の色が蘇っていく。薄い氷が解けて、水滴を乗せた瑞々しい花弁が開いた。根元の方から幹を撫で上げれば、枯れ木がざわめき、何もない枝に芽がで、それが瞬く間に成長し、若葉でいっぱいになる。
暖炉もなく冷え切っていた部屋の中は、春の長閑な日和のように温かな空気で満たされた。艶やかな花々が咲き乱れ、噎せ返るような植物のにおいでいっぱいになる。ふいに、自身の胸中を吐露したガンナの緊張に強張った顔が思い浮かんだ。
「でも君は…エリアスには言わないんだろう。わたしに言っても、どうにもならないのに……」
部屋の中を一周し、花々を蘇らせたヴィンセントは悲しいような愛おしいような気持ちのまま、吐息をつく。そして手のひと振りでランプを消し、執務室から姿を消した。