side.G
王都軍事局には、部外者が容易く入り込めないように独自の結界が施してある。局員はみなセキュリティゲートを通って出勤し、どんな高級官僚であっても、入局するには細かな手続きが必要なのだ。それでもありとあらゆるセキュリティゲートを素通りし、軍事局長官執務室まで何食わぬ顔でやって来る悪魔がいる。
ガンナはデスクに頬杖をついたまま、静かな部屋の中を眺めていた。夜も更け、こんな時間まで局内に残っているものはいないだろう。
執務室に溢れる草花は未だに凍りついたまま、薄ら暗いランプに照らされている。唐突にその辺りの空間が奇妙に捩れ、歪みが走った。
ガンナはそっと溜息を溢した。
「こんな時間まで、残業かい? それとも、わたしを待っていた?」
柔らかく、愉快そうな声が響く。それは小鳥の囀りのように軽やかで、凪いだ海のように穏やかな声だ。
顔を向ければ、執務室中央にあるソファーに寛いだ姿がある。長い脚を組み、背凭れにゆったりと凭れ掛かり、肘掛けに腕をつき悠々と、そして尊大にガンナを見詰める赤い瞳。
「それとも、言い訳があるかい?」
日頃、黒曜石の仮面で隠されているはずの白い肌に、通った鼻筋、爽やかで冷涼な面差し――だが、ガンナにとってはこちらの方が見慣れた顔である。
「彼は軍事局の悪魔だから、わたしも長官たる君に話を持っていったんだ。だけどそれが通じてなかったとは、残念だよ。こちらは筋を通したのに…」
「エリナ」
緩慢な仕草で肩を竦めた彼の名を呼ぶ。
ヴィンセント・エリナ・ヤルヴェライネン――男性名、女性名ふたつの名を持つ彼は、むっと口を閉ざした。ガンナは丁寧に、言葉を探した。
「そんなつもりはなかった。業務が落ち着いたら、話をしようと思っていたよ」
彼の疑うような眼差しに、本当だよ、とガンナは慌てて付け足した。
ヴィンセントから、軍事局次官であるエリアスを魔王付きの護衛官へ迎え入れたいと要望があったのは、ふた月は前のことだ。新しく護衛官が必要なのだ。
何しろ四名いる護衛官の内、一名は女神ヘル暗殺の企て、手引きをし、ヴィンセント自ら処分した。そしてあと二名は、ひと月後に巨人の国ヨトゥンヘイムへ向かうことになっている。冥界の姫であり、ヴィンセントの妹でもあるリネア・ウルスラ・ヤルヴェライネンが、ヨトゥンヘイムの国賓として宮中主催の晩餐会に招かれているのだ。その護衛として、共に冥界を出発する予定になっている。ヴィンセントはその後も、二名の護衛官はリネアに付けようと考えている。今後、リネアは他国との外交に赴くことも増える。妹には信用できる部下を付けたいと思う、兄の勝手な親切心である。
「だけど…ちょっと色々あってね、久し振りに大きな演習やったり、さ。とにかく忙しかったんだ」
ガンナは頭に手をやり、癖毛をますますくしゃくしゃに掻きまわした。
あの時、ガンナは自らエリアスへ話をすると言い出したのだった。だがなぜだか未だに言えずじまいで、痺れを切らしたヴィンセントがこうしてやって来たという訳だ。先日も、曖昧に受け答えしていたガンナに対して、ヴィンセントが癇癪を起した。
「本当にそれだけか?」
「ん、まあ、軍事局もあいつにいなくなられたら困るっちゃあ、困るんだよな」
エリアスは次官であり、第一部隊長でもある。執務室から梃子でも動かないガンナに代わり、普段から軍事演習や部下の鍛練を仕切ることもある。おそらく彼がいなくなれば、軍事局にはなかなかの痛手だ。
ガンナは難しい顔を気取って、ふむ、と深く考え込むように腕を組んだ。だがそっと視線を落としても、ヴィンセントがゆっくりと首を振る様が見え、ガンナは心の底から嫌だなあ、と何だか情けない気持ちになった。
「……それだけじゃあ、ないだろう?」
赤い瞳が鋭くガンナを捕らえ、そして優しく囁く。
彼とは、長い付き合いだ。ガンナは、ヴィンセントの気持ちや考えることが手に取るように分かる。それと同じように、ヴィンセントはガンナを隅から隅まで理解している。
ガンナはふん、と吐息をついて、背凭れに体を押し付けた。床を蹴って、椅子ごとくるりと背を向ける。ちょうど大きな窓からは、夜空一面に鮮やかな光の帯が見えた。緑、蒼と色味も移ろっていく。
「それだけじゃ、ないさ。軍事局としてももちろんそうだが――俺は、あいつを傍においておきたい」
ガンナは口を閉ざすと、閊えていた何かを無理やり呑み込んだような気分がした。
「わたしに言っても、どうすることもできないよ」
「……分かってるよ。ただ、あいつが断ったらどうする?」
ガンナの問いに、ヴィンセントは答えなかった。
ガンナは立ち上がり、傍に脱いでおいた外套を羽織った。
「明日にでも、お前の件はエリアスに伝えておくさ」
安心しろ、今度は忘れない――ガンナは奥歯を噛み締め、執務室を出た。