side.E 後編
「君たちは、部下の労を、ねぎらってはいかないの?」
ガンナにもう一度手を引かれて闘技場を後にしようとした時に、どこからか声が掛かる。たおやかで水面を滑るような、心地良い声だ。それでいながら、心の奥底まで見透かされるような、畏怖を感じさせる音。それが発せられた赤い唇は、緩やかに笑んでいる。
「陛下」
エリアスは息を呑んだ。こうして間近で冥界の王を見るのは初めてだった。式典や儀式においても、遠目に眺めるくらいなのだ。急に喉がからからに乾いたような気がした。
白金の髪に白い肌、そこに印象的な漆黒の仮面。そこから覗くのは、紅玉よりも濃く、色鮮やかな赤い瞳だ。魔物でも珍しいアルビノ――奇形である。左か右か、どちらかは義眼であるはずだが、どちらも違いが分からないほど輝いていた。エリアスはその瞳から目が離せなかった。白い睫毛が、震えるように動く。その微かな仕草さえも計算されたように美しく、怖ろしい。
呼吸さえもままならない、指先ひとつも動かせないほど圧倒的な存在感だ。触れずとも、内に秘められた魔力の大きさは分かる。
「……調子が優れないものですから」
跪いたエリアスは頭上で、ぶっきら棒なガンナの声を聞いた。ガンナは仏頂面のまま一言告げて、エリアスを強引に立たせた。敬意の欠片もないガンナの態度に、魔王付きの悪魔が顔を顰めている。
「ですから、失礼致しますよ、ヴィンセント・ヤルヴェライネン陛下」
魔王の柳眉が持ち上がる。ガンナを一瞥した顔は、面白がっている風にも見える。
「それならば手短に済ませるとしよう。エリアス、大分前から君宛に封書を送っていたけれど、その答えを聞こうと思ってね。特別な色をした、このくらいの奴だよ、覚えているかい?」
長い指で長方形を作りながら、魔王は何てことなさそうに気軽に問い掛けた。優しく首を傾げて、子供を促すような仕草だ。だが、困惑したのはエリアスだ。覚えているか否か、という問題でなく、その封書の存在自体、全く身に覚えのないことだ。
王宮から送られる封書が特別な色――見る度に七色に姿を変えるものだというのは、エリアスも一度だけ見たことがある。だが、エリアス宛に届いたことはない。王宮主催のパーティーであれ、招待状はまとめて軍事局へ届くのだ。それ以外に何か大事な封書が、エリアスの執務室に届いていただろうか。
「そう、知らないのならいいんだ。きっと手違いがあって、届いていなかったんだね」
エリアスの表情を見て、魔王は何が楽しいのか、愉快そうに笑みを浮かべている。ガンナへ視線をやり、エリアスへと向き直る。
「すまないね、具合が悪いのに引き止めて。お詫びに――」
腕を掴まれて、強く、引き寄せられる――仮面に縁取られた赤い瞳が間近に迫ったかと思うと、唇が触れ合う寸前のところで、エリアスは肌が痺れるような吐息を感じた。まるで突風のように、全身に魔力が流れ込む。ぼやけるほどに目の前にある赤い瞳は、笑っている。腹の底から押し上げられるような感覚に、エリアスは眩暈がするようだった。気圧されて、腰が抜けそうになる。
咎めるような鋭い嫌悪の声が、エリアスの隣から上がる。ふわりと黒い羽根が揺れて、王の体が離れた。
「やあ、ちょっと多かったかな。なかなか加減が分からなくてね。でももうこれで、動けるだろう?」
ゆっくり休んで体力を回復させるつもりが、嵐が吹き抜け、矢鱈に時間を早送りにしてしまったように、エリアスの体はすっかり回復している。しかし、上手く動かない。
王が吐息を吹き掛ければ、どんなに瀕死の魔物であっても、息を吹き返すだろう。ただし下級のものならば、王の強大な魔力が納まり切らずに即死だ。エリアスでさえ、全身に痺れが回っている。立っているのがやっとな状態だ。視界が白けて、ぐるぐると回転しているように見えるのだ。これでは意味がない。
「陛下、そろそろ…」
「それじゃあ、ガンナ・フォシェーン長官。後はよろしく頼むよ」
促す使用魔に素直に頷き、踵を返した王の背は一瞬にして消えていた。それと同時に、エリアスは足元の感覚がなくなって、後ろへ倒れ込んだのだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
エリアスが目覚めたのは、その晩のことだった。
見慣れた天井、見慣れた照明、見慣れた家具、見慣れた部屋の中――自身の寝室だ。ちょうど主人の目覚めを察知したのか、使用魔がやって来る。
あの時、とうとう気を失ったエリアスを受け止めたのはもちろんガンナで、闘技場からエリアスの屋敷まで空間移動魔法で連れ帰ったのだという。エリアスの屋敷の一切を取り仕切る古い使用魔オールが、急にいらしたものですから吃驚致しました、とエリアスの着替えを手伝いながら言った。
ひと寝入りしたら気分の悪さも治まって、エリアスはほっとした。自分の体が自分のものでないような妙な感覚も、今はない。
オールが、熱い紅茶を用意している。仄かな香りに、エリアスはベッドから肘掛椅子へ移動した。
「お風邪を召されていたところ武闘会に出場させて、無理をさせてしまったと仰っていました。……ガンナ長官は、いつまでも変わりませんね。愉快で、心優しい」
エリアスは無言のまま、湯気を漂わせるカップを受け取る。オールは一度エリアスの顔を見て微笑み、暖炉の火を確認してから退室した。
そっと、エリアスはカップに口を付けた。喉を熱い液体が流れていく。体の芯から温まるような感覚に、エリアスは不思議とガンナに触れられた時のことを思い出した。執務室で気紛れにエリアスの髪を透いてみたりする、そんな時の心地良い感覚に似ている。カップをテーブルに戻し、エリアスは深く背凭れに身を沈めながら、濡れた唇を軽く舐めた。
エリアスも、たとえば部下や同僚へ魔力を分け与えたことがある。それは大昔、戦場で、傷の応急処置の為であった。ただ――手でも足でも胸でもどこでも体に触れて、意識を集中させて、力を注ぎこめば良いのだから、それはまさしく“手当て”だ。
逆にエリアスを手当てするものは、ガンナくらいだった。つい先日も、限界まで魔力を解放したエリアスがすっかりくたくたになったところへ、まだ片付けなきゃならない仕事があるんだと言わんばかりに、ガンナが魔力を分けてくれたのだ。
ガンナの魔力は、エリアスの体によく馴染む。他のものと比べたことがないから分からないが、さすがに王の力はエリアスには過激すぎた。
エリアスはふっと指先で唇を押さえた。唇が触れ合い、直接、彼の魔力に触れていたら、エリアスは一溜まりもなかったかもしれない。考えるだけでも怖ろしい。
薄ら寒さを感じて、エリアスは首を竦めた。
ベッドサイドの小さなランプを消して、エリアスはそっとベッドへ潜り込んだ。