side.E ~epilogue~
「エリアス、三日後には軍事局に戻れるよ」
灼熱の地ムスペルヘイムでの服役者の面接から戻り、執務室には向かわず自身の庭のテーブルセットに腰を下ろしたヴィンセントが、ふと思い出したように言う。オラヴィが二名分の紅茶を用意しているのを眺めて、エリアスは控室に戻らずヴィンセントの向かいに座った。差し出されたのは香り良く、柑橘類の風味が爽やかさを感じさせる紅茶である。ヴィンセントもカップに口を付け、満足そうに頷く。
「そういえば、昨日もリネアに付き合ってくれてありがとう。彼女も楽しめたようだ」
先週末の夜会を最後に、エリアスは護衛官として茶会や夜会には参加していない。ここ数日は休暇で屋敷に戻った他、リネアの外出に付き添うことが続いていた。王都にある彼女の行きつけの呉服店や雑貨店は、特定の客しか相手にしない店であり、警護しやすい環境であった。最近の公務やヴィンセントについての愚痴はもちろん、自身の庭に新たなバラの苗を植え付けたことなど、馬車内でもリネアは饒舌だった。それに、軍事局ではどんなことをしているのかなんて、根掘り葉掘り無邪気に質問できるのはリネアくらいだろう。話を逸らすのに苦労したものだ。
「楽しめたようなら何よりです」
「君は彼女と年頃もそう変わらないから、話しやすいのかもしれないね。たまにはリネアのお喋りに付き合ってくれたまえ」
エリアスがリネアに付き添う代わりに、彼女の護衛官であった悪魔が魔王に付いていた。もともとは魔王付きの護衛官であった老練者である。おそらく新たな護衛官であろう別の悪魔も一緒だ。何度かその姿を見掛けて、そろそろかとエリアスも思っていたのだ。
エリアスが王宮に異動になってから、すでに半年近く経っている。これ以上部下の負担にならないよう、休日にはまめに軍事局に出向いていたが、アルフォンスはここのところ顔を合わせる度にまだなのかと不満を漏らしていて、先日はついにヘルマンからいつ頃戻ってくるのかと聞かれた。アルフォンスにしろヘルマンにしろ、もとより不平不満の類いを口にしないタイプだ。だからこそ余計心配であった。もちろんそれぞれを補佐する隊員はいるが、現場の悪魔だけでは対応が難しいことも多い。彼らをフォローできる悪魔がいれば良いが、軍事局長官ガンナは相変わらず執務室から梃子でも動こうとしない。そのせいか、呪術局――特にジェラルディーナ長官からの風当たりが強いらしい。またガンナがジェラルディーナ長官を怒らせたのかと想像すれば、胃痛に襲われそうだと思う。ようやく軍事局に戻れることに安堵したが、機嫌を損ねたジェラルディーナ長官の相手をするのは気が重かった。
ジェラルディーナ長官の前任者はガンナよりもずっと年配の悪魔で、あまり細かいことを気にしない性質だったのか、ガンナの気紛れも笑って許すような甘さがあった。エリアスが次官になって二度ほど顔を合わせたことがあるが、とても気が楽だったのを覚えている。それに比べジェラルディーナ長官は几帳面で、決められた期日やルールを気にするタイプだ。怠惰なガンナとの相性は最悪である。
「君も忙しいだろうし、あまり呼び出すとガンナが怒るだろうから、ほどほどにするようリネアには言っておくよ」
エリアスの心中を知ってか知らずか、ヴィンセントは紅い瞳をうっすらと細め、面白そうに微笑む。
「ガンナは君のことが好きだからね」
「まあ、……信頼してもらっていると思います」
頼りにはしてもらっているはずだ。
次官としてガンナと過ごすのは、もう三百年か四百年近くなる。それだけの年月が経てば、相手がどのような悪魔なのかわかるものだ。ガンナはほとんど現場の部下任せのため、直接関わりのない者たちからは長官への不満を聞くことも多い。だがもちろん緊急時には他局や王宮との調整を行い、他者に責任を押し付けたりはしない。何だかんだ文句は言いながらも、部下からの要望があればある程度のことは許容し、好きにさせてくれることの方が多いから、まずまず良い上司ではないかと思う。それに長官が動かない分、各部隊の隊長や副長は優秀な悪魔が多いのだ。
エリアスの言葉に、ヴィンセントは少しだけ呆れたように口を閉ざして首を横に振った。柔らかな白金の髪が揺れる。
「そりゃあ信頼しているだろうさ。……前にも言っただろう、力を分け与えるにはいくつか意味があると」
ヴィンセントは椅子の背凭れに片腕を置き、自身の庭を振り返るようにして眺めた。エリアスも彼の視線の先を追うように、庭を眺める。草木が青々と茂り、花々は色鮮やかに咲いている。そのどれもこれもが、月明かりに照らされて輝いているように見えた。ヴィンセントはふ、と吐息をついた。
「君のことをどう思っているのか、今度直接聞いてごらん」
それは部下として、それともいち悪魔として――なぜだかふと湧いて出た疑問に、エリアスは曖昧に頷き、カップに残っていた紅茶を口に含んだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
軍事局長官の執務室には所狭しと植物が生い茂り、緑と土のにおいに、まるで温室のような空気に満ちている。長閑な春の日和のようで、ほっと気が抜けてしまうような空間だ。だが、執務室に入ってまず目に飛び込んでくるものが、美しい草花よりもデスクの上に連なる書類の山である。その山は部屋の中央にあるソファーセットにも浸食している。先日エリアスが整理した時よりも一層ひどい状態だった。それらを眺め、腰に手を当てたまま、どこから手を付けるべきかと思う。当のガンナは窓辺の寝椅子に転がったまま目を閉じ、もう一寝入りしそうな雰囲気だ。そこへ、換気口から現れた大柄の青蝙蝠が降り立つ。
ガンナの腹辺りにどすんと勢いよく着地した青蝙蝠は、小さな紙片を銜えたまま、シャツに爪を引っ掛けて肩までよじ登り、起きろと言いたげに耳元で鳴く。ガンナは寝椅子の上でもぞもぞと身体の向きを変えたが、目を閉じたまま溜息をついて起きようとしない。だが、青蝙蝠も諦めはしなかった。直接ガンナに手渡すよう命じられたのか、エリアスには見向きもしない。軍事局に所属する蝙蝠は特別な命令がない限り、ガンナが不在の場合や受け取りを拒否した場合には大抵、エリアスやヘルマンなど別の悪魔に行き先を切り替えるはずだ。その上この青蝙蝠は、大抵の使役生物との意思疎通で使用される共通言語も使っているが、時折エリアスにも分からない言葉も発していた――呪術局に所属する蝙蝠が似たような鳴き方をしていたのを思い出して、おそらく呪術局のジェラルディーナ長官の蝙蝠だろうと思う。
「起きてやらないと延々と鳴き続けるぞ」
エリアスはソファーに積み重ねられた書類を順に確認しながら、青蝙蝠のキーキーと甲高い声に掻き消されないよう声を張った。ああ、と呻くような声を出してガンナが起き上がる気配を感じる。
「……ここにあるものは全部処理が済んでいるのか」
ソファーにまとめられていた報告書類は、どうやらあとは保管庫に移せば良いものばかりのようだった。それに安堵して、エリアスはデスクにある書類を確認した。さすがにこちらはまだガンナの確認が済んでいないものである。ちょうどデスクの中央に置いてある書類は殴り書きのようなサインが途切れ、大きなインクの染みが残されたままだ。だがざっと見る限り、急ぎの提出物はなさそうだった。
ううん、と疲れたように唸りながら手元の紙片を見下ろし、ガンナは自身の肩に青蝙蝠を乗せたまま、デスクにやって来る。書き途中の書類を無造作に端に寄せ、引き出しから返信用の便箋を取り出すのを見て、エリアスは時間を改めるかと書類の束を元の場所に戻した。
「すぐに済む。それより――アルフォンスから次の演習で編成の組み替えをしたいって話、もう聞いているか?」
「いや、まだ何も。前から各班の能力差は調整したいと言っていたけれどな」
「うん、お前たちに任せるよ」
ガンナはどこに置いたかなと呟きながら引き出しを開けては閉め、あちこちの書類を捲り、どこからか引っ張り出した青みがかった羊皮紙を差し出した。そのリストには主に若年者の名が多く挙げられているが、中堅の悪魔の名もいくつか含まれている。アルフォンスの意図は、エリアスも理解できる。ほとんどは若年者の成長を促し、能力差を埋めるための前向きな調整だ。だがリストに名が挙がっている何名かは、これまでにも問題点を指摘され、個々に指導をしている者だ。もし編成を替え、環境を変えたとしても状態が改善されなければ、その先のことを考えなければならない。アルフォンスの悩みの種のひとつであろう。エリアスはそれを眺めながら、書類に占領されているソファーを避け、寝椅子の端に腰を下ろした。少しだけ憂鬱な気分になり、手元のリストから顔を上げる。
寝椅子付近にある植物はもう花も実もないが、残った葉は生命力に溢れ青々としていた。ここに横になれば、頭上を覆うように垂れ下がる枝葉が見えるだろう。ソファーセットの向こう側に見えるキャビネット横には淡い桃色の大振りな花が咲いていて目を引き、執務室入り口近くにある背丈の高い草木の先端にはぽつぽつと細かな青紫の花が密になっている。この寝椅子からはこのように見えるのか、と思いながら、エリアスは執務室の中を見渡した。執務室を訪れる度に何気なく見ていた草花だったが、ふとそれらが王の庭にあったものと同じだと気付く。
王の庭も、平穏で心地の良い庭であった。だがきっと、王の魔力に満ちたあの庭には何度訪れようと馴染むことができないだろうと、訳もなくエリアスは思った。強大な魔力の気配が、無意識のうちに身体を緊張させるのだ。それに比べ、この小さな庭はガンナの魔力に満ちている。パズルのピースを嵌めるように、在るべきものがそこに在るというような、エリアスにとって居心地の良い安心できる場だった。
エリアスはデスクに座るガンナへ視線を向けた。肩に乗った青蝙蝠の催促には応えないままペンを走らせる横顔は、静かで穏やかだ。以前はひどく疲れたような顔付きをしていたが、顔色も良く、機嫌も良さそうだった。
「この辺りにあった黄色い花が咲く木、陛下の庭にもあったよ」
一瞬ペンを止め、また何かを書き付けて、ガンナはペンを置いた。
「……あの庭から分けてもらったんだよ。その辺にあるものもそうだし。種をもらったり、挿し木して増やしてみたり」
それは知らなかった、とは言わず、ふうん、と頷く。エリアスは窓の桟に沿うように枝を伸ばしている蔓状の植物を見詰めた。あの庭にも、この手の平と同じくらい大きな葉を付ける植物があったはずだ。
「よくあの庭に行くのか?」
「……いや、あの庭は招かれなければ入れない。王宮で何か気になることでもあったか?」
便箋を丁寧に折り畳み、青蝙蝠にそれを持たせると、ガンナは椅子ごとエリアスの方へ体の向きを変えた。何か面倒事でもあったかと気遣うような顔だ。
そんなことはない、と言いかけて、エリアスはふっと視線を落とした。手元に広げたままの羊皮紙を内ポケットに入れる。
青銅のテーブルセットで面白そうに微笑んでいたヴィンセントは、ガンナのことをよく理解しているような口振りだった――ガンナが軍事局にやってくる前のことを知りたいと思うし、ガンナにとって自分が本当に必要な存在なのか聞いてみたいとも思う。
「陛下が――いや、……大したことじゃない」
「そう思っているようには見えないけれどな」
「……いいよ、もう王宮に飛ばされるようなことなんてないだろうし。俺の代わりはいくらでもいるだろうけど、あんな思いをするのは二度とごめんだと思っただけだよ」
「お前の代わりなんているものか。俺が悪かったよ、嫌な思いさせて」
エリアスの嫌味に、ガンナは苦笑した。だがすぐに苦笑していた口元を引き締めて、真摯な眼差しをする。素直に反省しているようで、どこか心配げにエリアスの様子を窺っている。それに少しだけ溜飲を下げ、まあいいかなんて気楽な気持ちにもなる。
「うん、俺は好きで軍事局にいるのだから、それは忘れないでくれよ」
ああ、わかった、とどこかほっとしたように表情を和らげて、ガンナは頷いた。
ソファーに置かれた書類の山を片付けるべく、伝達蝙蝠を数匹呼び出してエリアスは立ち上がった。換気口からやってきた黒蝙蝠三匹は、エリアスが選り分けた書類の束を見付け、命じられる仕事を理解したのかげっそりしたように舌を出した。