side.V
王宮の応接室には、来客者をもてなすための庭もある。天候の良い日はその庭で宮中茶会を開催することもあり、各諸侯との会談などでも使用される場所だ。手入れされた美しい芝の中央には池があり、また別の一角は草花が生い茂り、見た目も良く香りも楽しめる。
その庭先のテーブルセットで、ヴィンセントは昔馴染みのシュトルンツ公と対談していた。彼は王宮との付き合いが長く、常に友好的な立場を保っている。シュトルンツ公が統治する地域は果実農園を多く持っており、フヴェルゲルミルの泉にある王都医術局静養院を退院した人間たちの受け入れ先にもなっていた。
「前回受け入れた三十名は、なかなか良い仕事をしてくれていますよ。こちらでの生活にも慣れたようです」
シュトルンツ公は穏やかに微笑み、半年前に静養院から受け入れた者たちのリストをテーブルの上に広げた。名前や性別、享年、死因、静養院での経過を簡単にまとめたもので、受け入れ先への情報提供書である。
冥界にやってくる魂のうち、病死した人間は必ず静養院である一定期間療養する決まりになっている。あらゆる病も怪我も癒してしまうという伝説の泉の水と魔力を秘めた薬草とで、傷付いた心身を回復させるのだ。その間に大抵の人間が冥界での生活に順応していく。そうして体調が安定して退院の目処がつけば、次は退院後の生活をどのように送るか、が課題になる――静養院では患者の退院後の住処や仕事などの斡旋もしており、ほとんどの貴族がそれに協力をしていた。なにせ人材不足という点では、冥界も中津国も神界も同じようなものだった。地方により、中津国出身者を対象にした魔術の訓練校がある地域や、必ず一定の人数を屋敷の使用魔として迎え入れることを規定している地域など、その工夫は様々である。
特にシュトルンツ公はこれまで多くの人間を受け入れており、彼の治める地域は冥界においても中津国出身者が安心して暮らせる環境であるといわれている。静養院が定期的に行なっている追跡調査でも、シュトルンツ公の下に移り住んだ者たちの満足度は高い。ただしヴィンセントは、そのデータの信憑性は低いと思っている。なにせ、その調査では実際に面会して聞き取りができるのは毎回数名だけで、残りの人間たちは本当に今も無事に存在しているのかさえわからないのだ。書面上のやり取りだけならば、いくらでも捏造できる。
「それよりも陛下、王宮にも毛色の違うものが入ったようですね」
リストを丁寧にファイルに綴じながら、ふとシュトルンツ公は声を落として言った。そして、視線だけそっと動かして、応接室に通ずる扉の近くに控える悪魔を見遣る。
多くの来客者が集う夜会や茶会とは異なり、数名や一対一での対談の時には相手にもよるが、護衛官や補佐官などの使用魔は少し離れた位置に控えさせている。使用魔にも会話の内容を聞かれたくないと思う諸侯もいるからだ。だがシュトルンツ公との対談時にはそのような配慮はせずとも、ヴィンセントはなるべく自身の使用魔を離れた位置に置いていた。
「あのような凛々しくも嫋やかな雰囲気を持つ者は、ビアンキ家の者かと思いましたが、今まで見たことのない顔ですし……」
「ビアンキの者ではないし、他の家系の者でもない」
ヴィンセントは、代々王宮に仕える優秀な悪魔を輩出している家系の名を挙げたシュトルンツ公にそう答えた。彼は興味深げにヴィンセントを見詰め、ほう、と無意識に舌舐めずりをした。
「この前の夜会も彼を連れていましたね」
「確かに、あれはわたしの護衛官だが、本当は見せ物ではないのだよ」
彼は慈善家でもあるが、一部の界隈では蒐集家としても有名だった。ヴィンセントも美しいものを愛で、美しいものをより飾り付けたいという気持ちは持ち合わせているが、シュトルンツ公がその対象にするのは剥製標本だった。しかもそれは、生きながらに皮を剥ぎ、苦痛に歪む表情をそのまま残すよう特別な手法を用いて作り上げるものだ。昔から魔物魔獣の剥製標本を集めており、屋敷には専用の保管庫を持っていると聞いたことがある。悪魔や人間の剥製はひとつもないと当然のように言っていたが、以前からヴィンセントは、シュトルンツ公が時たま王宮勤めの優秀な悪魔たちを見る――値踏みするような、不躾で不快な目付きに嫌悪していた。争い事を好まない穏やかな慈善家の裏側に、美しいものを踏み躙る猟奇的な加害性を感じさせるのだ。もしもシュトルンツ公が少しでも王都にとって危険な存在になれば、即座に切り捨てるつもりである。ただ、それがまだ一部の人間に向けられているだけならば、ヴィンセントは目を瞑り口を噤み、彼の動向に注視するだけだ。
「失礼致します――陛下、そろそろ…」
不意に、エリアスがヴィンセントの肩口に顔を寄せ囁いた。音もなく後方にやって来ていた彼が差し出す銀色の懐中時計を見下ろす。針が六本あり、丸い文字盤に三十六までの数字が並んでいるものだ。初めて見る特殊な時計だが、時針分針であろう二本の針が示す時刻を確認して、ヴィンセントはふむ、と頷いた。
もともとイェルダが組んだスケジュールでは、対談のために確保された時間はまだ少し残っている。だが、シュトルンツ公に確認しておかなければならない話題はすべて済んでいた。エリアスの緑柱石のような瞳を見上げ、ヴィンセントは神妙な顔を作り、シュトルンツ公に急務のため退席することを告げた。もとより魔王が多忙な身であることを理解しているシュトルンツ公は、次の対談の約束を快諾して立ち上がった。
「オラヴィやイェルダが何か言っていた?」
自身の執務室に戻り、ソファーに腰を下ろしたヴィンセントはふとエリアスに問うた。いいえ、と答えて、エリアスは一瞬迷ったように口を閉じる。ヴィンセントは視線だけで先を促した。
「必要な話は済んでいるようでしたし、その……お疲れのように見えたので」
話を切り上げたさそうにしていたからだとは言わないが、エリアスはそのようなニュアンスで言った。そして、一応、対談を早めに終えて良いかイェルダに確認はしたらしいことを言う。もしヴィンセントが同じことを打診しても、イェルダはうんとは言わないだろうと思い付いて、ヴィンセントは密かに眉を寄せた。イェルダにしろオラヴィにしろ、もう少しヴィンセントを気遣ってくれても良いのではないかと思う。
「出過ぎたことを、申し訳ございません」
「いいや、気遣いありがとう。シュトルンツ公とは長い付き合いだが、どうにも彼の趣味の話は理解できなくてね。顔に出ていたかな?」
肌に馴染むような黒い仮面をそっと押さえながら、ヴィンセントは冗談めかして言った。これでも魔王として公務を何百年も勤めている――呼吸をするのと同じように、感情を抑え、取り繕うことなどは造作もない。だか、王宮という自身のテリトリー内で気が緩んでいただろうかと思う。いいえ、と同じように答えたエリアスは、少しだけ頬を緩ませて笑った。
「気が乗らない時ガンナ長官も似たような笑い方をするものですから、あの場に長居したくないのかと思いました」
エリアスの優しい顔付きに、ヴィンセントは口を開き掛けたまますぐに言葉が出なかった。
「ねえエリアス、君は――」
扉をノックする音に、エリアスが執務室の入り口を振り向く。静かに執務室に入ってきたイェルダは、一時間後には予定通り氷河の地ニブルヘイムに出発することを告げた。くわえて、それまでに書類に目を通しておくよう釘を刺すのも忘れない。
「それでは陛下、私もこれで。時間になりましたらお迎えにあがります」
そう告げて退室したエリアスを見送り、ヴィンセントはソファーに凭れたまま、執務室に残ったイェルダを見上げた。眼鏡の奥の、何か言いたげな眼差しと目が合う。普段何事にも動じず淡々とした表情をしているイェルダにしては珍しいと思いつつ、ヴィンセントは溜息をついて自身のデスクへ移動した。小言を言われる前に、今朝渡された面接予定の服役者リストを眺める。それでもまだイェルダは立ち去らない。ヴィンセントは首を傾げ、イェルダを見詰めた。
「エリアス護衛官のことは、本当に軍事局に戻してしまうのですか?」
「何だい藪から棒に」
イェルダはそっと眼鏡を押し上げた。そして少しだけ狼狽えたように唇を合わせ、考え込むように沈黙する。先日、次の護衛官に決まった二名の悪魔について、経歴などをまとめた情報をイェルダにも渡したばかりだった。その時イェルダは何も言わなかったが、何か思うところがあったらしい。
「あまり引き留めているとガンナが怒るでしょう。どうもジェラルディーナ長官からも苦言をいただいたようだし」
「……あなたを甘やかし過ぎるところは難ですが、彼は惜しい人材です。あなたの我儘なら、ガンナ長官も許してくださるのでは」
微かに和らいだ口調には、長年ガンナをよく知るが故の信頼と期待感が滲んでいた。
イェルダの言い分に、確かにその通りだと思う。ヴィンセントが欲しいと言えば、ガンナはおそらく拒みきれない。何だかんだ譲歩して、ガンナが王都に留まっていてくれているのは、ヴィンセントがそう求めたからに他ならない。きっと彼はそれがヴィンセントにとって必要であれば命さえも差し出すだろう。そのくせ、ガンナはヴィンセントの思い通りにはならないのだ。心底憎たらしく、愛おしいと思う。
「イェルダ、君にしては珍しい」
「……余計なことを申し上げました。年寄りの独り言として聞かなかったことにしてください」
ふっと表情を硬くしたイェルダは口を閉ざした。無駄口を叩いたと反省するような顔付きだ。
「いいよ、怒っていない。君が心配をしてくれたのは分かってる」
そう言って、ヴィンセントが手元のリストに視線を戻したのを見て、イェルダは執務室を後にしたようだった。
思わず漏れた溜息に苦笑して、ヴィンセントは目元を覆う黒曜石の仮面を外した。艶やかな手触りのそれをデスクに置き、椅子の背凭れにすっかり体を預けるように寄り掛かる。急激に全身が重怠くなったような疲労を感じて、ヴィンセントは目を閉じた。