side.E 後編
軍事局に足を踏み入れた際に感じたざわめきのような違和感は、やはり思い過ごしではなかったらしい。エリアスの姿に気付いた第一部隊員のヴィゴが、小走りにやって来る。先日も、第一部隊副長アルフォンスや第二部隊長ヘルマンから業務上トラブルなく経過している報告は受けていたが、どうも早朝に虹ノ橋に仕掛けられた魔法陣が発動したらしいというのだ。もともと虹ノ橋付近は神界に最も近い危険区域であり、外界からの侵入を防ぐための防御の結界や、あちこちに仕掛けられた空間移動の魔法陣により、外界からの侵入者があればすぐに軍事局の悪魔が召喚される手筈となっている。
「本日五時四十分頃、虹ノ橋北側にある魔法陣の一つが発動。待機していた第一班が現地を確認しています。神界側に張っている結界には綻びもなく、発動した魔法陣は一つのみのようです。付近で魔術師を一名発見しており、情報局と呪術局とともに現在事情聴取と現場検証を行っています」
虹ノ橋の状態は情報局が定期偵察を行っており、その際の護衛として軍事局第一部隊員も同行する決まりになっていた。同行者は基本的に各班長が持ち回りで対応しているが、前回は第一部隊第七班のカミロが同行していた。ちょうど十日前の偵察では虹ノ橋に不穏な動きはなく、結界や魔法陣の不具合もなかったようだ。
自身の執務室で報告を聞きながら、懐中時計を見る。十時を回ったところである。エリアスのデスクには数件の報告書がファイルにまとめられて置いてあるだけだ。今日エリアスが軍事局に顔を出すことはアルフォンスに伝えてあったため、おそらく急を要する状態ではないようだ。緊急であれば直接屋敷にでも通信用の蝙蝠がやって来るはずである。
「通常業務は」
「そちらは大丈夫です。副長と第一班、第三班以外は通常業務に戻っています。虹ノ橋近辺の安全が確認され次第、副長も一度局に戻ると言っていました。それまでは俺の班は待機するように言われています。あとは、中津国に出ている者の定時報告は第二部隊のヘルマン隊長にと指示を受けています」
ヴィゴ率いる三班は、第一部隊の中でも機動力に優れた好戦的な班だ。神界に近い虹ノ橋での案件のためか、万一に備えて待機させているようだ。
「わかった。アルフォンスの指示に従ってくれ」
アルフォンスが軍事局に戻ってきたのは、ヴィゴの報告を受けて少ししてからだ。いつものようにエリアスのデスクに寄り掛かるように腰を下ろしたアルフォンスの横顔を見上げる。早朝から呼び出されたせいかひどく疲れた顔をしていたが、エリアスはその顔付きから緊急性はなかっただろうことを思った。
「あとで正式に報告があがってくるが、外部からの侵入者はなし。虹ノ橋付近に群生している希少種を目的に立ち入り禁止区域に侵入した魔術師が、魔法陣の一つを踏み抜き誤って発動。魔術師の身元は確かで、証言や現場の状態からもおそらく間違いはない。俺たちは引き上げて、あとは呪術局が結界や魔法陣に問題がないか最終確認中」
アルフォンスは胸の前で腕を組み、むすっとしたまま言った。余計な仕事を増やしやがってと言いたげな目付きだが、疲れと安堵の方が勝るのか、口調に覇気はない。もし外部からの侵入者によるものであれば、今頃軍事局も情報局も大変なことになっている――冥界の安全を揺るがす案件だった。だからこそ慎重に、かつ迅速に調査が進められたのだ。
「何かできることは?」
「それなら――いや、……ないな。長官の部屋が相変わらずだから片付けをして欲しいだけ」
「それは後で行く。それとこのファイルは保管庫に。軍事局用の控えだから」
デスクに置いてあったファイルはすでに各部署への提出が済み、処理が済んだ報告書類だ。エリアスが確認した限り、不備はない。わかった、と頷き、アルフォンスが伝達蝙蝠を呼ぶ。換気用の小さな窓口から四匹の黄蝙蝠が姿を現した。飛行の速さは紅蝙蝠が一番だが、持久力や力強さは青蝙蝠や黄蝙蝠が優れている。四匹の黄蝙蝠たちは自分たちよりも大きなファイルを銜えて懸命に羽ばたきながら、エリアスが開けてやったドアから執務室を出ていった。
軍事局長官の執務室は、相変わらずの惨状だった。先日片付けに来た際よりも騒々しく散乱しているように見えるのは、開け放した窓から吹き込む強風がデスクやソファーセットにまとめられていた書類を吹き飛ばしたためらしい。エリアスは慌てて執務室のドアを閉め、床に散らばる書類を踏み付けないように注意しながら、全開になっていた窓を数センチ残して閉めた。そして騒々しさの原因の一つである、蝙蝠たちが飛び交い鳴き喚く様子を眺める。紅蝙蝠、青蝙蝠、黄蝙蝠など様々な蝙蝠が、ガンナの肩や背に張り付いて何かを訴えている。
ガンナは渋い顔をしながら、寝椅子付近に広がる植物の様子を見ている。色鮮やかで瑞々しく、美味しそうな実がたくさんなっていたはずのそこは、すっかり丸坊主だった。その指先を覗き込もうと、青蝙蝠と紅蝙蝠が手首の近くにしがみ付いている。
「そんなこと言ったって、お前たちが勝手に食べ尽くしてしまったんだろう。俺もまだ味見していなかったのに」
葉を裏返したり、幹や枝の状態を確認しながら、ガンナは耳元で抗議する蝙蝠たちに唇を尖らせた。
「こいつら、全部持っていきやがった」
エリアスを振り返り、ガンナは恨めしげに言う。寝椅子付近になる実は、甘みもあるがさっぱりとした酸味が特徴的な実だったはずだ。以前もらって食べた時のことを思い出して、蝙蝠たちはああいう味も好きなのかと思いつつ、エリアスはキャビネットの引き戸の中を確認した。伝達蝙蝠の報酬として支給されるクッキーの保管場所には、大きい長方形の缶がまだ二つほどあった。大抵は事務方が用意する決まったメーカーのものだが、たまに個別の貰い物や差し入れもある。手前にある小振りの水色の缶は、エリアスも初めて見るものだ。中身は縁にほんのりと焼き色がついた楕円形のクッキーの詰め合わせだった。一見飾り気のない素朴な色合いだが、蓋を開けただけでほのかに甘く香ばしいにおいが感じられる。
「新しいのを出してやらないから食われるんだろ。ほら、こっちにおいで――美味しそうなの出してやるから」
デスクにあるカゴに新しいクッキーを出せば、ガンナに張り付いていた蝙蝠たちは一斉にデスクの縁やエリアスの腕の上に並んだ。そうして律儀に一枚ずつクッキーを銜えて嬉しそうに鳴き、順番に換気口へ飛び去っていく。
「ビフロストは問題なかったそうだな」
蝙蝠たちのせいで皺くちゃになったシャツを伸ばしながら、ガンナは思い出したように言う。その後すぐ、あ、あいつ爪引っ掛けたな、と小さく呟く声が聞こえる。右肩付近の生地を引っ張り、指の腹で擦っている。どうも穴が開いていたらしい。
「ああ、詳細がわかったらまたアルフォンスから報告がくると思う」
「……情報局の話だと、立ち入り禁止区域に入り込む輩はたまにいるみたいだ。あの辺りは珍しい植物が多いから」
エリアスが持つ水色の缶からクッキーを摘み、デスクの椅子に座ったガンナの首筋や前腕には、赤いみみず腫れのような痕ができていた。蝙蝠の爪は丈夫で鋭利だ。たとえまだ力の弱い若い蝙蝠でも、思いきり爪を立てられれば肉に食い込み出血もする。ガンナが普段着用している光沢のある滑らかなシャツなら簡単に穴だって開くだろう。ガンナに張り付いていた蝙蝠たちはおそらく加減をしていたようだが、それでもいくつかは痛々しい引っ掻き傷になっており、シャツには爪の痕がくっきりと残り、目立たないものの確かにぽつぽつと小さな穴が開いている。
ガンナはすでにシャツには興味がないのか気にする素振りもなく、サクサクと軽快な音を立ててクッキーを齧り、まあまあだな、と呟いた。
「この前もらったやつ、家じゃ食べないから持って来たんだった」
へえ、と頷き、残りをデスクのカゴに入れて、缶の蓋を見る。記載されていた店名は、王都でも有数の菓子店のものだ。以前甘いもの好きの部下たちが、この店のショコラが美味しいのだと話していたのを思い出す。クッキーを銜えた蝙蝠たちの反応も格段に良いものだったから、焼菓子の味も間違いないだろう。そんなことを考えながら、空の缶をキャビネットに片付け、エリアスは床に散らばった書類を拾い集めた。
定期報告書の類は最終的に長官のサインがあれば片付くというのに、と思いつつ、日付順に重ねていく。報告書の作成者の他、アルフォンスやヘルマンのサインがある時点で、内容に不備はないのだ。目を通してサインさえすれば良いものと、情報局や呪術局など他局に提出しなくてはならないものとを分け、エリアスは急ぎの書類をガンナのデスクに並べた。ガンナは肘掛けに頬杖をついたまま、膝の上にクッキーのカゴを抱えてまた一枚齧り、のんびりとした表情で窓の外を眺めている。その横顔を見れば、長閑で眠たくなるような雰囲気だ。エリアスはその背凭れを掴み、デスクの方へ椅子ごと向きを変えた。
「これは今日中に、そうでないとまたジェラルディーナ長官に怒られる」
されるがままデスクに向かい合ったガンナは、諦めたように苦笑した。
「この前も一緒に連れてきた若い魔女のマリオネットの練習台にされたよ」
エリアスは思わず、どういうことだと声が漏れそうだった。ふと思い出したように言うガンナの顔をまじまじと見て、先を促す。
呪術局の魔術師や魔女がよく使用する傀儡は、扱う者の魔力を具現化した操り人形のことだ。日常生活上の雑用はもちろん、呪術局の事務作業から魔法陣や結界の補強、対象の拘束など専門的な魔術を扱い、術者の補助として幅広く動くことが多い。優秀な術者であれば同時に何体も操り、傀儡の行動もより緻密で高度な魔術を扱える。
「アンタ一体何をしたんだ」
「別に何も。のんびり寛いでいるところ、定例会に遅れるからって連れて行かれた」
どうもガンナの口振りでは、以前アルフォンスが言った、ジェラルディーナ長官がカンカンに怒っていた日のことだけではなさそうだった。それ以降も、アルフォンスや書記係の悪魔はこれ幸いと、定例会の日はジェラルディーナ長官に任せているらしい。
「次は転移の練習台にでもされるんじゃないのか」
「局内で空間移動魔法を正確に使えるようになれば、タロッツィも文句ないだろ。まあ、あの若い魔女はまだ無理そうだったけど」
ガンナはもう一枚クッキーを摘み、少しだけ皮肉っぽく言った。独自の結界が施してある軍事局内では、扱える魔法にもある程度制限が掛けられているのだ。それを解除した上で対象を別の場所に転送するには、術者の力量が問われる。未熟な魔法を掛けられても困ると思った。
「とにかく――定例会の日はちゃんと、決められた時間に決められた場所に行くようにしてくれよ」
エリアスはそう言いながら、ガンナの手元からクッキーのカゴを回収し定位置に戻した。
ガンナは生返事をして、ようやく引き出しからペンとインク瓶を取り出した。薄緑色のガラスは少し歪で、所々に気泡やヒビが入った古いものだが、ガンナが気に入って使っているインク瓶だ。ペン先を無造作にインクに浸し、点々と群青色の染みを作りながら、考えなしの落書きのように手を動かす。見慣れてしまえば読めなくはないが、やはり大抵の悪魔には誰のサインか判断がつかない字だった。
「あと、こっちは俺のサインで十分だから貰っていく。……こっちの書類はいつでも良いけど、少なくとも次に来る時までに処理しておいてもらえると助かる」
伏し目がちの目を、ガンナは視線だけ動かしてエリアスを見上げた。澄んだ琥珀色の目と目が合う。ガンナはエリアスをじっと見て、ペン先に視線を戻した。
「それで、次はいつ頃来れるんだ?」
エリアスは護衛官長のアンジェロから聞いていたスケジュールを思い浮かべた。週末はしばらく夜会が続く予定だ。その規模や時間帯、招待客との関係性により、警戒の程度や緊張感も変わる。何度経験しても、あの独特な空気には慣れないと思った。
「四日後に一度顔を出せると思う。その後はまたしばらくわからない」
ふうん、それは退屈だな、と落胆したような声でガンナが呟いた。