side.E 前編
護衛官用の控室を出た先が廊下でなく、高いレンガ塀に囲まれた小さな庭先であったことは、エリアスが初めて王の庭に招かれてからすでに何回も経験している。そこでは、ヴィンセントが淹れる紅茶を飲みながら、執務への愚痴を聞いて過ごすことが多い。だが、今この目の前に広がる風景に、いつも招かれている庭ではないとエリアスは思った。蔓性の植物が巻き付き、程よい木陰になっているガゼボが中央にあり、その周辺には大輪のバラが株ごとに等間隔に植えられている。見渡す限り、赤色、黄色、薄紅色、白色の大輪がそれぞれ満開になっている。真昼の青空に浮かぶ月明かりに、それらは誇らしげに輝いていた。
「エリアス、こちらへ来て」
白いローブを羽織ったリネア・ヤルヴェライネンは、ガゼボから一歩こちらへ踏み出した。品のある弦楽器のような、透き通る声が急かすようにエリアスを呼ぶ。ヴィンセント・ヤルヴェライネンの妹であるリネアは、常に黒曜石の仮面を身に付けているヴィンセントと異なり、その美貌を惜しげもなく晒していた。エリアスが対面するのはこれが初めてだが、リネアの顔は誰もが知っている。ヴィンセントとは異なるダークブロンドの髪を靡かせ、焦げ茶色の瞳を可愛らしく瞬かせる――王宮主催の宮中茶会や夜会には度々出席していたが、十日ほど前に本格的に外交デビューを果たした彼女は、貴族や高級官僚から注目の的であった。
リネアはガゼボ内のベンチに腰を下ろし、傍らのピクニックバスケットからティーセットを取り出している。エリアスは少しだけ溜息をつきたい気分のまま、革のボストンバッグを持ち直した。今日から三日間休暇の予定だが、自身の屋敷にはそう簡単には戻れないらしい。
「ヴィンセントから聞いてるわ。一度お屋敷に帰るんでしょう、その前にお茶しましょう」
リネアは自身の隣を指差して、座るよう促した。彼女が纏う白いローブは全体にレースの刺繍が施されていて、こまやかで上等なものだ。刺繍の美しい袖から伸びるその手さえも陶器のように滑らかで、爪先まで整えられている。エリアスは荷物を足元に置き、片膝をついて視線を合わせた。
「殿下、私に何かご用があるのではないですか」
「堅苦しいのはなし、ヴィンセントから聞いてるって言ったでしょ。私ともお茶会しましょう。無事に巨人国に行って帰れたお礼よ」
長い睫に縁取られた焦げ茶の瞳は、自信に満ちている。エリアスの了承が当然のように、リネアのスケジュールに組み込まれているのだ。思いのままに過ごしてきたのであろう傲慢さと無邪気さに、王族の血筋であることを感じさせる。
「それでは謹んで頂戴いたします」
エリアスは諦めてリネアの隣に腰を下ろした。この兄妹は、強引で有無を言わせぬところもそっくりだ。
「このジャムはね、私の庭のバラを使っているの。そういえば今年の分はまだヴィンセントたちにもあげてないわ」
ピクニックバスケットから取り出した小瓶には暗赤色のジャムが詰まっている。それをスプーンに一杯掬い、ティーカップのソーサーに添える。リネアは両手でソーサーを持ち、丁寧にエリアスへ差し出した。
「花は手入れすればしただけ応えてくれるから大好きなの――どう、美味しいでしょう?」
リネア特製のバラジャムを舐め、紅茶を口に含む。ほのかな甘みと酸味が、濃い紅茶に絶妙に合っていた。エリアスが頷けば、じっと窺うように上目に見ていたリネアは満足そうに白い歯を見せ、小さな笑窪を作った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
エリアスの屋敷の一切を取り仕切る使用魔オールは、聞いていた予定よりも大幅に遅れて帰宅した主人に労りの言葉を掛けた。感情を露わにしないオールには珍しく、権謀術数渦巻く王宮などにいては息が詰まるだろうとでも言いたげで、エリアスに深く同情するような雰囲気だった。
「それほど疲れて見えるか?」
「ええ、お痩せになりましたね。顔色も悪い」
荷物を預けて、エリアスは外套を脱いだ。代わりに渡されたガウンを羽織り、ここふた月の間に起きた出来事を差し障りのない範囲で話しながら自室に向かう。部屋は主人の不在に関わらず綺麗に整えられており、中央の暖炉には軽快な音を立てながら炎が揺れていた。
「後ほど、アクセルを呼びましょう。お休みの間にどこまで回復するかわかりませんが…」
「随分大袈裟だな」
アクセルは長年この屋敷に勤めていた薬術師だ。今では、貴重な薬用植物が群生する惑いの森の入口に小屋を建てて暮らしている変わり者だが、薬術師としての腕は間違いない。
荷物や外套を片付け、暖炉の火を確認しながら言うオールの背に、エリアスはそれよりも、と声を掛けた。アクセルを呼ぶのならば、エリアスのことよりも重要なことがある。
「そろそろ起きる頃じゃないか? まだ薬は足りるかな」
屋敷の二階、北側にある部屋に延々と眠り続ける悪魔は、数ヶ月おきに数日間だけ目覚める。その時魔力の補給のために口にするのが、アクセルが特別に調合した薬剤だ。もうかれこれ、千年近い――病弱な妻を亡くして絶望し、その生まれ変わりに出会えるまで引き籠もることを選んだ厭世的な男だ。我が親ながら、夢見がちで極端に繊細な悪魔だとエリアスは思った。
「それが……大旦那様は七日前に目覚めて、二日前にお眠りになりました。今回は予想より早くにお目覚めでしたが、調子はお変わりないようでしたよ」
薬は三日分しか残っていなかったため、呼び出されたアクセルも昨日まで屋敷に泊まっていたらしい。それならば尚更、アクセルを呼び出す必要などない。折角自身の家に戻れたのに再び呼び戻されては、アクセルは怒るだろう。臍を曲げられては後が面倒だと思う。
「それならアクセルに来てもらわなくて良いよ」
ソファーに腰を下ろしかけ、エリアスは考え直して立ち上がった。とりあえず先に顔を見てくる、とだけ告げて、部屋を出る。
エリアスの自室からは対角線上にあるところに、テイト・クラーテルの寝室がある。この部屋にも頑丈な暖炉があり、絶えることのない炎が部屋の空気を暖めている。エリアスや屋敷に勤める使用魔たちは、もとより炎を司る種族だ。どの部屋にも必ず暖炉があり、常に温かな炎が薪の爆ぜる音を響かせている。そのお陰で照明が落とされていても、部屋の中は十分明るかった。
エリアスの母ミレイアはもともと身体虚弱だったようだ。彼女が死んだのはエリアスが幼い頃だ。思い出せる限りの記憶では、エリアスは彼女がベッドから降りたところを見たことがない。あらゆる世界の歴史を管理する文化局に勤めていたテイト・クラーテルは、冥界だけでなく他国を飛び回ることも多かったが、仕事から帰る度に、臥せる妻に旅先で見聞きした事柄を面白おかしく話して聞かせたらしい。使用魔によれば、ベッドサイドでまるで愛を乞うように妻の手を握り締め、瞬きをする間すら惜しむように見詰めるテイトの横顔は、どれほど彼女を愛しているのか歴然としていたという。だがその一途で揺るぎのない情こそが、相手を焼き殺したようなものだ――だからこそ、この悪魔は絶望したのだろう。
ゆとりのある大きさのベッドに横たわる影に、エリアスはそっと近付いた。骨格標本に薄い浅黒い皮を引き伸ばして貼り付けたかのような姿は、記憶の中の姿からは想像できないくらい変わり果てている。頭髪は痩せて弱々しく、頭皮に産毛のように僅かばかり残っている程度だ。瞼の下にちゃんと目玉があるのか否か、落ち窪んだ目元にはくっきりと影ができている。乾燥した唇がぱかりと開いたまま動かず、すべてが枯れ木のように萎びている。中津国の人間たちが話していたミイラのようだった。だがこれは一種の仮死状態にあるだけで、最低限の力で姿形を保っているに過ぎない。長い眠りから目覚めれば、全身に魔力が満ちて拍動するのと同時に萎びきった姿も再生していく。
エリアスが最後に本来の姿を見たのは、半年は前だ。テイトが目覚めてやることといえば、各地を旅する使用魔たちから届く手紙を確認することだった。屋敷に勤めていた使用魔のほとんどが、今も冥界のあちこちに――冥界のみならず、中津国や巨人国などにも足を伸ばし、ミレイアの魂を持つ者を探し回っている。テイトは、定期的に届く使用魔たちからの報告を端から端まで読み、世界地図を広げ何かを書き込み、落胆しながら再び眠りにつくのだ。暖炉の近くにある大きな作業机には、いくつもの古い文献や羊皮紙が広げてある。その机上が半年前とさほど変わっていない様子に、今回も彼が求めるような新しい情報はなかったのだろうと思いながら、エリアスは自室に戻った。
「何だあ、ピンピンしてるじゃねえか」
部屋のソファーにぐったりと凭れたままエリアスを見上げるのは、薬術師のアクセルだ。色褪せた茶色の外套を着たままの姿は、疲れ切った様子だった。ごつごつと岩のように盛り上がった手で、地肌が見えるくらいの薄い頭髪を乱暴に掻き回し、アクセルは溜息をついた。オールに呼び出され、慌ててやって来たらしい。持ち運びができる小さな薬箪笥が傍に置かれている。
「……呼ばなくて良いと言ったんだけどな。悪かったな」
「そりゃあお前、アイツにとってはいつまでもあの頃のエリアス坊ちゃんなんだから仕方ねえよ」
アクセルは面倒臭そうに言うが、その眼差しは丁寧にエリアスの体調を把握しようとしている。テイトが自室に引き籠もった際、屋敷に勤めていた使用魔のうち、まだ幼いエリアスの面倒をみるために残ったのがオールやアクセルだった。オールは屋敷に残った数名の使用魔をまとめ、長い眠りについた主人を見守り、その子どもを育て、屋敷を守ってきた。エリアスの親代わりと言っても過言でない。その頃の名残か、オールは時折過保護になる。護衛官として王宮に滞在することになり、長期間屋敷を空けることになったことも、オールの心配性を助長させたようだった。
「テイトのやつも問題はなさそうだったし、お前も疲れはあるようだが大丈夫そうだな」
そう言いながら、アクセルは薬箪笥からいくつか包みを取り出した。アクセルが調合した散剤で、神経衰弱や滋養強壮に効くものだ。独特な苦みが強く、決して飲みやすいものではない。テーブルの上に出されたそれらを見下ろしたまま、エリアスは思わず唇を尖らせた。
「気休めに飲んでおけ、三日分渡しておく。夜は?」
「……眠れてる。あと一、二ヶ月経てば軍事局に戻れるだろうし」
「眠前に煎じたものを飲め、これも三回分…いや、今日明日は俺も泊まっていく」
また呼び出されちゃ堪ったもんじゃねえ、と文句を零しながらも次から次へと手際よく薬剤を取り出すアクセルに、オールの心配性が伝染したなとエリアスは思った。