side.E 前編
王都軍事局第一部隊に所属する悪魔たちが待機する部屋は、部屋自体に空間膨張術が掛けられている。隊員数によって空間を自由に広げたり、不要な部分は狭めたりできるのだ。間切りがなく、広々とした室内はデスクや収納棚でうまく仕切られ、吹き抜けになった二階部分は待機者の仮眠室となっていた。
エリアスの執務室は、待機者の部屋の隣にある。約ひと月半ぶりに、エリアスは自身が使用していた執務室に入った。
独自の結界を施してある王都軍事局を訪れる者は、それがどんな地位にある高級官僚であっても、細かな手続きが必要となっている。護衛官となり、軍事局から退いたはずのエリアスは、通常のように局内に入れるとは思ってもみなかった。多少手続きに時間が掛かっても仕方ないと思ってセキュリティゲートの受付へ向かったが、ゲートの局員たちはあっさりとエリアスを通してくれた。どうもここでも、エリアスの護衛官任命の話は新たな護衛官が決まるまでの臨時であると思われているらしかった。ゲートにいたぼうっとした顔付きの悪魔は、護衛官の選定ってかなり時間が掛かるんですねえ、と暢気に言っていた。
「気配がしたから来てみたら、……久しぶりだな」
そう言ってエリアスの執務室にやって来たのは、第一部隊副長を務める悪魔アルフォンスだ。エリアスとは訓練兵の頃からの同期である。
彼の、根元から毛先まで細かいパーマをかけたような、ふわりとボリュームのある髪型は、中津国第二十地区に住む人間の髪型を真似たものだ。無造作そうに見えて、どことなく女性らしさも感じさせる容姿によく似合っている。死者の中には自分が死んだことにも気付かず、その容姿に騙されて彼を口説こうとする人間もいるが、美しい容姿とは裏腹に、彼は生来気性の荒い悪魔だ。根っからの戦争好きで、今でこそ第一部隊の副長として大人しくなったが、それでも過去には連行途中の罪人を氷河の地ニヴルヘイムで氷漬けにして放置したり、灼熱の地ムスペルヘイムに流れるマグマの川に突き落としたりと、無慈悲で残酷な所業を繰り返していた。
「こっちはお前の心配するようなことはないぜ。強いて言うなら――まあ、お前が思ってる通り」
エリアスのデスクは、護衛官に任命されたその日のまま、埃も被らずに綺麗に保たれている。黒い外套を椅子の背に引っ掛け、久しぶりにデスクに着き、周囲を見渡す。誰かがこまめに掃除をしてくれているのだろう、すっきりとしている。現場の指揮で中津国に出ていることの多いアルフォンスではない。大方気の利くスティナ辺りだろうと思いながら、目の前のデスクに寄り掛かるように腰を下ろしたアルフォンスを見上げる。彼は肯定するように、形良い眉を持ち上げながら頷いた。
「この辺は、スティナだな。きりきり働いてるよ。まあ、昨日は調子が悪そうだったから強引に休ませたんだけど」
甘やかで優しげな表情で言いながら、だけど、とエリアスの頬へ手を伸ばす。アルフォンスの手は体温が低く、ひやりとしている。ざらりとした指先と、長く尖った爪が目尻を擦る。
「お前もあまり顔色が良くないな。どいつもこいつも、辛気臭い顔してやがる」
「辛気臭くて悪かったな」
苦笑しながら、アルフォンスの冷たい手を払う。アルフォンスは笑いながら素直に手を退いた。
だが、にや、と面白そうに笑う顔が急に静まり、声を低くして言う。
「オーランド卿の件はまだ調査中だが、昨日、マッドタウンの酒場で卿の姿を見掛けたという情報が入った。ならず者の溜まり場であるマッドタウンというのもそうだが、連れがどうも胡散臭い。それにそもそも卿は謎の流行病で未だ臥せておられることになっていたんだがな」
「マッドタウンで…?」
冥界の中心である王都にも、大きく派手な歓楽街がある。快楽と欲望を売る様々な酒場が立ち並ぶその一角に、冥界のスラム街とも言われるような場所があった。マッドタウンと呼ばれる一角は極貧層の住居もあり、特別荒廃した地域である。人食い族や魔獣が蔓延るそこは、オーランド卿のような貴族が訪れる場所ではない。
「ああ、フードを目深に被って顔を隠していたようだが、あれはディットリヒの町の魔女のようだな」
ディットリヒという悪魔は冥界随一のルーン魔術の使い手であり、邪悪な者ばかりが住まう常闇の町の主だ。冥界で起こるあらゆる悪事の大半に、ディットリヒの存在があった。
「三日後、馬車、結界、襲撃」
どんな会話があったかは不明だが、酒場の主が耳に挟んだ単語だという。アルフォンスが自身の指先を見下ろしながら、言った。オーランド卿の行方も共にいた魔女の行方も、店主やその場にいたであろう客に問い質してももはや分からない。おそらく既に店主は、アルフォンスに拷問まがいの尋問を受けたことだろう。
じっと考えをまとめるように口を噤んで、アルフォンスは尖った爪をかりかりと指の腹でなぞっている。
「……王宮での動きは? 二日後に何がある?」
「二日後――姫の出発の日だな」
魔王が、王宮の外へ出る用事はない。他に主要な王族の動きといえば、巨人国の宮中晩餐会に出席するため、王の妹であるリネア・ヤルヴェライネンが冥界を出立するくらいだ。エリアスの答えに、ああ、とアルフォンスが頷いた。
「三日後、馬車、結界、襲撃……」
エリアスとアルフォンスはじ、と静かに視線を交わした。
「予定の変更、延期は無理だな。巨人国との関係にも関わる。……もっと詳細は分からないか?」
「無理だ。オーランド卿の行方は知れない。屋敷の使用魔から聞き出すのは無理だろう。貴族の連中はやたらと理屈を捏ねるからな、だからといって正式な面会の手続きを踏んでいたら時間が掛かって仕方ない」
ふむ、とエリアスは唇を噛んだ。冥界から巨人国へ訪れる時も、巨人国の来賓を招待する時にも、互いに同意したルート以外は通れない決まりになっている。もしもリネア・ヤルヴェライネンの襲撃計画が実行されるならば、王都を離れ、巨人国へ到着するかしないかの国境が絶好のポイントだろう。
「内密に出立ルートの変更を掛け合う。それと念のため、ダミーを用意しよう」
同意するように、アルフォンスが自身の爪を弾いた。
「部隊から動ける者を回す。編成を組み直して、今晩までには連絡を入れる」
ああ、頼む、と頷けば、アルフォンスは懐中時計を取り出した。それを見て、そろそろ中津国に出ている隊員からの定時報告の時間になることを、エリアスは思い出した。
アルフォンスが仕事に戻る前に、エリアスは確認しておきたいことがあった。
「あー……ガンナ長官は? 執務室にいるのか?」
エリアスの問いに、アルフォンスはいや、と首を振る。その答えに、エリアスは不思議とホッとした思いだった。これを問い掛けるだけで無意識に何度も唾を飲み込み、口の中がカラカラに乾いたような、そんな気分だった。
「三局の定例会に行ってる」
三局の定例会は軍事局、情報局、呪術局の長官三名が集まる会議だ。月に一度、情報を共有するために開催される。
「定例会、今日に変わったのか?」
この定例会は毎月決まった日にちに行われるもので、エリアスの記憶が正しければ、それはもう二日前に終わっているはずだった。本当ならば、その日に軍事局に顔を出そうと思っていたのだ。そうすれば、ガンナと顔を合わせずに済む。彼の不在時に勝手に執務室に入るのは気が引けるが、どうも、エリアスは気が進まなかった。もしも長官執務室を訪ねて、そこで自分以外の者がガンナに付き添っているのを見たら、どうしても立ち直れないような気がしたのだ。まるで自身が不必要な存在であると突き付けられてしまうような、そんな恐怖がある。
「んーん、変わってない。この前のは、ウチの長官がばっくれて今日に延期になっただけ」
うっすら呆れるような笑みを浮かべたまま、アルフォンスは大袈裟に肩を竦めてみせた。そして、真面目な顔を装おうとして失敗したようだった。
「俺だって、ちゃんと各報告事項の資料も用意しておいたし、前以て言っておいたんだぜ? 前日にもそうだし、当日の朝にも、十三時から定例会でしたよねって。聞いてたかどうか、返事もしなかったけどさ」
アルフォンスは噛み締めるように、くくく、と体を震わせて笑っている。その振動が、彼が腰掛けるデスクから伝わる。
「ユーリ長官は何も言わないけれど、ジェラルディーナ長官がカンカンで。今日はジェラルディーナ長官に強引に引き摺られていったよ」
お前にも見せたかったなあ、と尖った八重歯を見せるように笑うアルフォンスに、エリアスは笑うべきか顔を顰めるべきか、何とも言えない気分だった。ガンナは大丈夫なのだろうか、と考え、今頃不貞腐れたようにムスッとした顔で会議の席に着いていることだろうとも思う。その不満で退屈そうな表情までもが容易く想像できてしまい、エリアスはほんの少し笑った。
「あーしかし魔女はおっかない。怒らせちゃいけないね」
しばらくクツクツと笑っていたが、ようやく落ち着いたのだろうアルフォンスが、はあと大きく息を吐いた。
「今日はお前が来たなら、長官の部屋の片付けに何名か向かわせなくても良いよな? 俺は中津国の見回りに行ってくる。定時の報告がもうちょっとで来るはずだからな」
そう言って、アルフォンスはひらりとデスクから腰を上げた。