side.E 前編
くしゅん、と大きなくしゃみに続いて、ずずず…と鼻水を啜るような音。耐え切れなかったのか、ふふ、とガンナが笑い声を上げた。
「もうちょっと可愛らしく鼻をかんだらどうだい」
くつくつと喉を鳴らすように笑うガンナに、エリアスは悪かったな、と低く唸るように返し、ティッシュを捨てた。デスクに頬杖をついてエリアスを眺めていたガンナは、立ち上がり、中央のソファーへやって来る。
「いいや、悪くない。俺の代わりに風邪を引いたようなものだ」
「長官思いの部下だろ」
隣に腰を下ろしたガンナへ、エリアスは投げ遣りに言った。ガンナは愉快そうににやにやしている。
エリアスが氷河の地から王都軍事局に戻ったのは、つい先程のことだ。
生前罪を犯した死者は冥界に着いてから、魔王の下で裁きを受ける。そして、冥界最果てにある氷河の地ニヴルヘイムや灼熱の地ムスペルヘイムで服役するのだ。罪人や悪人を、人間界から冥界、そして服役地まで案内するのが軍事局の仕事のひとつである。エリアスは軍事局次官として大抵は本部に詰めているが、氷河の地へ連行途中の罪人が逃げたと聞いて、慌てて吹雪と冷たい氷の地へ行ってきたのだ。部下の尻拭いは上司の勤めである。
温かいハーブティーを口にしてようやく一息ついたエリアスは、あーあぁ、と疲れた声を出した。
「冷たいのは苦手なんだ、俺は」
エリアスが纏う真紅の軍服も、氷が張り付いて冷え切っている。マグカップを両手で包みこめば、じわじわと指先が痺れるように温かくなっていく。自身の膝に腕を置いて、カップを持ったまま縮こまるようにじっとしているエリアスは、しっとりと霜で濡れた髪を梳くガンナの手をそのままにさせておきながら、植物で溢れる部屋を眺めていた。
草花が生い茂る軍事局長官の執務室は、いつもならば温室のように蒸し蒸しとした空気に満たされている。それがなぜか今日だけは様子が違った。美しく芳しい香りの花々は蕾のまま凍り、大きな緑の葉は茶色く萎れている。もとより暖炉などない部屋の中は底冷えしていた。
「それより、一体これはどうしたんだ…?」
不審げにガンナへ視線を向ければ、ガンナは何てこと無さそうに、ああ、と部屋を見回す。
「癇癪にやられたのさ。俺があまりにも――いや、…」
「はあ?」
ガンナは弱く笑って首を振ったきり、何も言わない。ソファーの背凭れに腕を乗せ、エリアスの長い髪を弄っている。伏し目がちの目は、どこを見ているのかわからない。普段の、仕事を怠けて能天気に笑っている姿からは想像できないほど物静かで、穏やかな表情をしている。
その手が気紛れにこめかみを、耳の後ろを擽る。不快さとは違ったぞっとした感覚に、エリアスは微かに身を捩ってガンナの手を払った。いつの間にか体は温まっていた。まだまだやることがある――こんなところでのんびりしている場合ではないのだ。
「エリアス、三日後に武闘会があるよ。軍事局からはお前と、スティナとヴィゴが出る。今回は、各局から必ず三名は出場しないと駄目らしいから」
マグカップを下げ、執務室の扉を開けたエリアスに、ソファーに寛いだままのガンナが呼び掛ける。エリアスは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「何って、武闘会。陛下のいつもの気紛れ。ここ何年か開催していなかったからじゃない?」
ガンナの素っ気無い返事に、エリアスは自分の頬が痙攣しているように思えた。
「だから、なぜ、俺が出場することになってるんだ」
「優勝者の所属部署に、褒美が出るんだよ」
「だったらアンタが出ればいいだろう」
「最初から結果が決まっていたら、つまらないだろう」
至極真面目な顔付きのガンナの言い草に、エリアスはそれはもっともだ、と思った。確かに、結果が分かっている勝負事ほど退屈なものはない。エリアスは妙に納得した気分になって、仕方ない、と肩を竦めた。たとえばガンナが応と言ったのなら、それは既に決定事項なのだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
数年に一度、数十年に一度、魔王の思い付きで開催される武闘会は、冥界一巨大な円形闘技場で行われる。観客席はとうに埋まり、アリーナにある審判席の後ろでは賭博屋が投票券を発売し、一際賑わっていた。この日ばかりは悪魔や魔女はもちろんのこと、鬼、エルフ、小人など様々な種族が入り混じり、王都に寄りつかない人間も恐いもの見たさでやって来る。まるでカーニヴァルだ。
垂れ幕で仕切られた観客席には、魔王の姿もある。女神に代わりあらゆる式典や儀式を執り行う魔王は、白金の美しい髪を靡かせ、黒い怪鳥の羽根をあしらった豪奢な羽織り物を纏っている。目元には黒曜石の仮面をつけている。そのため素顔を見た者はいないが、赤い唇は常に妖艶に微笑んでいた。その背後に影のように控えている護衛官や使用魔は、“魔王付き”の選りすぐりの悪魔たちだ。
「お前、あれはわざとだろう」
軍事局長官であるガンナに用意されたコンパートメントには、ガンナの他に控えている局員は誰もいない。純白の軍服はだらしなく肩から羽織るだけで、まるで自身の執務室で寛ぐように、前の座席へ足を乗せている。その足を軽く叩き落して、エリアスが傍の座席に腰を下ろせば、ガンナは溜息をついた。
「身内には甘いんだから、お前は」
少し不機嫌そうに言いながら、ガンナは掲げられているトーナメント表を見る。十数名の参加者はトーナメント式で対戦し、エリアスは準決勝で敗退している。相手は懇意にしている呪術局の魔術師だった。
「さっきの、アンタも見ていただろう? あれじゃあ、俺だって無理だよ」
武闘会において、特別なルールはない。アリーナに用意された武器ならば何を使っても、いくつ使っても良い。切れ味の良いサーベルから錆びた短剣、魔術用の杖など、それはもう武器とも言えないものまである。他に闘技場にあるものならば――それが観客席であっても審判席であっても、利用できるものは利用して良い。もちろん、魔法や魔術の類も可。つまり、“なんでもあり”である。
エリアスは参った参った、と手の平をひらひらさせて、大袈裟に吐息をついた。
「勝負事は、番狂わせがないと面白くないだろう。それに、このままいけばスティナの優勝だ」
エリアスは、賭博屋が付けているオッズの表を見た。軍事局の切り札とも謳われるエリアスは、もちろん剣の腕も立ち、魔力も強い。オッズも低い。逆に、軍事局の一局員であるスティナやヴィゴなどは知名度が低く、オッズは高い。だがスティナは猛者が集まる軍事局の中でも、特に一、二を争う実力の持ち主である。エリアスと比べれば力はないが、柔軟性と機敏さを併せ持ち、魔術にも秀でた女悪魔だ。
トーナメントに残っている対戦相手を思い浮かべ、エリアスは彼女の勝利を確信した。
「軍事局が勝てりゃ、文句はないだろ?」
むすっと子供のように不貞腐れたガンナに言い訳して、エリアスは背凭れに体を預けた。闘技場に溢れる熱気と喧騒にあてられて、どっと疲れが出た気がしたのだ。軍服の襟を少しだけ寛げながら、三日前のニヴルヘイム行きが堪えたぜ、と忌々しげに顔を顰める。すぐに鼻水は止まったものの、しっかり休息を取れなかった所為か、あれから体が熱っぽいのだ。うっかりしていれば、悪魔だって風邪をひく。
「まあ、本当はどっちでもいいんだけどな」
言葉通りさほども気にしていなさそうなガンナの呟きに、エリアスは何だよ、と笑った。背凭れに寄り掛かったまま、そっと目を閉じる。中央のアリーナでは、そろそろ決勝が始まるのだろう。観客席はざわめき、浮ついたまま落ち着かない。誰もが決勝戦のふたりの対戦を見守っていた。一瞬、闘技場は恐ろしいほどに静まり返り、風が一筋吹き抜ける。
ふいに隣から視線を感じて、エリアスは瞼を持ち上げる。ガンナの思慮深い眼差しが静かにエリアスを見ていた。
「疲れたか」
「ん…」
ガンナの手が額に掛かる髪を撫で付け、肌を滑る。様子を窺うような、そっと触れるか触れないかくらいの優しい手付きだ。心地良いそれに、エリアスは目を瞑った。眉をなぞり、目尻を押さえ、輪郭に沿って頬を包む――そのまま、その手が手首を掴み、エリアスを引いて立たせる。帰るぞ――そう一言だけ告げて闘技場の出入り口へと向かうガンナの後ろで、エリアスは驚きながらも、慌てて足を動かした。
「だけどまだスティナが、……」
エリアスが言い掛けたところで、ふたりの背後から空気が震えるような歓声が上がる。巨大な風船が破裂したような、そんな衝撃だ。闘技場の外の通路にまでも響くそれに、思わず立ち止まったエリアスとガンナは顔を見合わせた。
「スティナか…お前の言った通りだったな」
「そうだな…」
止まることのない歓声は、頭の中にまで反響してくる。
闘技場の中心にいる部下の気配に、エリアスは安心したように吐息をついた。