6.清原氏から平泉藤原氏へ
この度の北東北古代城柵の回遊では、意識的に平泉の柳之御所跡を外した。平泉は相当昔から何度も訪れて、中尊寺の周辺を始め毛越寺の浄土庭園の美しさも味わっていた事と近年の発掘報告から清衡時代の平泉のイメージが頭の中で出来上がりつつあって、それを壊したくなかったからである。
何処でもそうだが、百年にも渡る複合遺跡の場合、初代清衡の建設した遺跡と二代基衡、三代秀衡の遺構との分別と各代の時代の平泉の完全な想像復原には、まだかなりの時間を必要とするように感じたからである。
個人的な清衡の時代の平泉のイメージは、柳之御所を中心とした群郭分散型の要塞都市のイメージである。主郭は柳之御所で北上川と大きな沼や今後の詳細な検証が必要なようだが二重堀に囲まれた存在であり、清衡時代の各居住区や尊崇する寺院、神社も土塁や堀に囲まれていたようだ。今でも、その痕跡が平泉の大長寿院や白山神社等のそこここに残っている。そこで、今回は平泉を飛ばして、藤原氏終焉のプロローグとなった阿津賀志山防塁跡に向かう事にした。
大鳥井山柵を歩いた丁度一か月後の7月初旬の暑い日に阿津賀志山防塁跡を廻った。
初めに国道4号線によって切断されている場所を選んだ。近代の道路工事によって、期せずして防塁の二重堀構造の断面が良く解る為である。
外堀の方は埋まって位置関係しか良く解らないが、内堀は明瞭に掘削跡の形状が理解できた。南の低地から攻めてくる鎌倉軍を高所の平泉軍が矢の雨を降らせるには、理想的な地形である。国道を通す為の山の断面から見る傾斜も丘を登って、最高所の土塁上から見る傾斜も弓を引くに丁度良い感じがした。この頃でも両軍の下級武士の多くは丸木弓だったと考えられるが、大将級の馬上の上級武士の手には新式の伏竹弓を籐で何ヶ所も巻いた重籐弓が目立ったであろう。
次に、阿武隈川の方に少し下がって、比較的平地部に残存する防塁跡に行った。中間の昔は湿地帯だった低い水田を挟んで、対する低い丘の北側の丘に防塁跡は有った。低湿地帯と微高地の地形を十分に利用して、二重堀は続いていた。目の前に山に向かって続く二重堀の形状は当に清原氏の大鳥山柵の発掘現場写真と瓜二つであった。大鳥山柵との少しの違いは大鳥山が二重堀+二重土塁の防御構造なのに対し、この平泉藤原氏の阿津賀志山防塁は北東北型防御線の最終完成型ともいうべき二重堀+三重土塁の堅固な物であった。この地で泰衡の兄国衡を総大将とする平泉軍は二日間の激戦の後壊滅するのである。清原氏系の北東北城柵のDNAは大鳥井山から、ここ国見の阿津賀志山防塁まで連綿として続き、そして、南方の侵略者の武力によって終焉を迎えたのである。
阿津賀志山防塁を訪れたこの日、平泉側の内堀の上端の土塁跡から見える低湿地の水田に、金色堂の泰衡の首桶の中にあった百個ほどの蓮の実から八百年の時を超えて発芽した中尊寺蓮百数十株が満開だった。まだ、ピンクの清純な花を開花させている蓮田の面積はそう大きくは無いが、後数年も立つと埼玉県行田市の古代蓮公園の蓮田の様に広がって行きそうで、なぜかホットする光景であった。
福島県国見町の阿津賀志山防塁の中尊寺蓮の可憐な一群を見ながら、残雪の岩手山の麓の志波城の櫓から始まって、大鳥井山遺跡を中心に秋田県内の彼方此方を回った今回の『出羽清原氏を中心とした北東北古代城柵』歩きの旅を振り返ってみた。
気が付いてみると三つのファクターに執着した旅だったような気もする。
一つ目は前九年の役、後三年の役を含めた平安期の主要武器であった丸木弓の有効な交戦距離を実地で確認する流れ。
二つ目は大鳥井山遺跡を中継点、拡大強化のスタートとする『二重掘』の清原氏から藤原氏への流れである。
大鳥井山遺跡/陣館遺跡 ⇒ 柳之御所跡 ⇒ 阿津賀志山防塁
この点に関しては、将来的に金沢柵関連遺跡が加わる事を期待したい。
もう一つは、安倍氏、清原氏、平泉藤原氏の居館、城柵機能の変化の流れである。多くの研究者の方々の成果を勝手に解釈して、一旅行者の安易な感想を述べさせて頂くと次のようになる。
安倍氏 = 居館・政庁としての柵跡及び交通路遮断機能としての柵跡
清原氏 = 機能一体化城柵(居館+重防御機能+交通路遮断機能)
清衡の平泉= 主郭柳之御所跡を中心とした群郭複合構造の軍事都市
そして、今残る基衡、秀衡によるユネスコ世界文化遺産としての日本浄土文化の一つの到達点としての平泉は同族の多くの流血を見た清衡が最終的に求めた姿を子や孫が完成させた地上楽園の風景だったのかもしれないと中尊寺蓮の淡い紅の花の波を見ながらそう想った。
了
(謝 辞)
今回の北東北古代城柵の回遊に当たっては、次の参考資料を初め、歴代の秋田県横手市教育委員会諸兄の調査報告並びに関連資料を参考にさせて頂いたことに厚く感謝申し上げたい。
(主な参考資料)
1.前九年・後三年合戦 入間田、坂井編、横手市監修 高志書院 2011年
2.前九年・後三年合戦と奥州藤原氏 樋口知志 高志書院 2012年
3.大鳥井山遺跡調査報告書 横手市教育委員会