5.安倍氏、清原氏城柵の遺構と機能を考える
安倍氏関係の城柵、鳥海柵や藤原経清の豊田館と清原氏関連の大鳥井山遺跡、金沢の柵跡と比較して見ると鳥海柵も豊田館も長い年月のせいか土塁らしきものは探したが見られなかった。その為、安倍氏の場合、居館、あるいは政庁的な建築物に防御施設が追加されたような印象が強い。鳥海柵の場合、堀は存在するが部分的に過ぎて、大鳥井山遺跡のように柵全体の防御機能の効果が徹底して追及された物であったのか疑問が残った。
一方、大鳥井山遺跡の場合、立地条件や遺構も含めて、中世の平山城的印象の方が強い。完全に城塞である。二重堀の後に立ってみても、柵内外の距離に広狭はある物の25~30mで、中世で言う矢頃の距離を保っている。室町中期の関東の山内上杉氏系の城の堀内外の距離感と比較しても違和感がない。
端的に表現すれば、鳥海柵の場合居館機能が主で、清原氏系の柵跡ほどの強固な防御機能があったとは考え難い。何故かというと前九年後の役で安倍の貞任が鳥海柵に籠城して徹底抗戦をせずに厨川柵まで後退した理由が解らない感じがする。安倍氏の12の柵全体についても機能
的には居館機能の柵と交通路遮断機能の柵に分類できるような気がする。
清原氏の大鳥井山遺跡の二重掘のような重厚な防御ラインを構成する柵は、安倍氏の場合、存在しなかったのではないだろうか? 12の柵の半数以上は交通路の遮断閉鎖目的の柵だったのではないだろうか? 鳥海柵と河崎柵を除くと想定地はある物の発掘成果が十分には伴っていないように感じる。激戦のあった衣川柵、厨川柵の双方ともに納得のいく発掘成果は少ないと聞く。
史書の記述と想定地がほぼ一致するこの両柵の機能を考えると差異がある。鳥海柵は安倍氏の居館機能に防御機能を付加した複数の郭から成る群郭式の城柵の印象が濃厚である。一方、河崎柵は大鳥井山遺跡と同様の二重堀を有するが交通遮断機能が優先する柵跡のように感じられる。どうも、安倍氏の12の城柵を機能別に分類すると少数の居館的な柵と多数の交通路遮断機能を主とする柵によって構成されているように感じる。居館的な柵がどの程度城塞的な要素を兼ね備えていたかは、今後の発掘の成果次第だが、意外と安倍氏の本性は平和的な一族だったのではないだろうか!
その点、清原氏の城柵の機能を、今、種々の発掘データが判明している大鳥山柵で考えてみると
居館機能+城塞機能+交通路遮断機能=複合機能の城柵
の印象が強い。それは特に大鳥山柵跡と台処館跡の間の旧羽州街道を南の明永川から北の吉沢川まで木漏れ日の中を歩いてみると特に強烈に感じられた。往古、もしかしたら大鳥井山遺跡と街道の間の低湿地には沼も混在していたかもしれず、沼の対岸の強固な要塞と街道に近接する館の圧迫感は清原氏の威権を街道往来の人々に広く知らしめる力を持っていただろう。
逆に、後三年の役関連の清原の籠った金沢柵跡伝承地には個人的に昔から違和感があった。かなり昔に六郷の湧水群の清涼な水と雰囲気を味わって廻った後に、金沢の柵跡等の後三年の役の史跡想定地を探訪したが、感動が薄かった記憶がある。中世、戦国期の激戦地の城郭跡を相当数歩いた経験から来る素人の直感で、何か、違和感があって納得できなかった。古代の要害の地は中世や戦国期の争乱の時期には再度利用されて複合遺跡になっている場合も多く、シュリーマンのトロイの遺跡ではないが、なかなか一発で目的の遺跡層に到達できないのは、解っていても何か釈然としなかった。
その印象は、近年、大鳥井山遺跡の発掘諸データを読むことによって、更に間違っていなかったと勝手に思うようになっている。上に述べた複合機能を持った城柵が清原系城柵の特徴だと空想すれば、きっと金沢柵も旧羽州街道を挟む二つの城柵によって構成されていると考えられる。主郭には政庁機能を持った大型の建物が存在し、街道の反対側にあるもう一つの柵には交通路遮断機能を補強する機能がきっとあったと想像する。
実際の金沢柵もそのような機能を有する事実を今後の発掘成果が証明してくれる事を一歴史ファンとして希望してやまない。