4.秋田城東門外の風景
払田柵跡でも大鳥井山遺跡でも清原氏の建設した城柵の起源が未解明のまま、何か解決のヒントが得られないかと晴天の午後、秋田市高清水の丘にある秋田城跡に入った。
出土品収蔵庫では3人の方々の温かいご案内を受けて感激した。それ以上に発掘品の数の多さと品種の多様性に驚いた。当時既に矢竹を真っ直ぐに矯正する現代と同じ矯木が展示されているのは一驚だった。日本の矢は当時、もう完成の域に達していた有力な証拠である。弓が完成に近付くのは室町期の応仁頃の四方竹弓の登場によってであるので、秋田城が活発に活動していた頃、正確に直線を描いて飛ぶ多数の矢が秋田城に収蔵されていた証拠である。
荻原さんの流暢な説明で多数の出土品の詳細をお聞きした後、政庁跡に向かう。
政庁中央の正殿跡に立つと正面遠くに真っ白な鳥海山の爽やかな姿が望めた。
感―激! 萩原さんによるとこの地点から鳥海山が見えるのは年間、多くは無いとの事。出羽の国の我々が今知っている四つの古代城柵、秋田城、払田柵、大鳥井山遺跡、城輪柵、何れからも雄大な鳥海山が見える。秋田城、払田柵からは遥か都の方向に遠景が望めるし、城輪柵ではまじかに大きな鳥海山が北に聳えている。古代出羽の城柵に住む人々にとって鳥海山は守護の山の様にも感じられたであろう。
政庁跡から復元された東門に向かう。北東北の官制諸城柵の中で最も精神的な安らぎを感じさせる復元遺構が秋田城の東門外の風景である。胆沢城、志波城、城輪柵等の左右対称な矩形の遺構と異なり、東門から沼に向かう緩い坂道も、なぜか穏やかな印象である。それは、方形の各城柵で見た柵外を拒絶するような印象と異なり、版築の塀の中と外が有機的に結合しているような印象を受ける。その理由の1つが門の外の古代の祭祀に利用されたと聞く沼の遺構や大きな井戸の遺構である。門の側の沼で古代の秋田人や都から来た官人達は何を祈ったであろうか? 沼と井戸の上の丘の高みには渤海使節の為の客館跡の礎石や隣の僧坊や経蔵跡が残っている。
次に渤海使節が使用したという水洗厠に向かう。渤海使節の水洗厠はヒバの木の太い丸木の柱に支えられ3室からなる内部は予想以上にゆったりとしていている。萩原さんによると沈殿槽の有効条虫卵から豚を常食とする渤海人の使用が判明したとの事。復元されたトイレに柄杓で水を萩原さんが流すと予想以上に深く、水音が遠くから反響しているような気がした。そして厠の下に広がる古代と変わらぬ沼と広い湿地。秋田市の近郊で良くこれだけの自然環境を保存出来たものだと思う。
渤海は中国東北部から今の北朝鮮を含む広大な領土を誇った強国高句麗の滅亡後、勃興した国家である。建国当初から渤海は国際的な孤立を恐れて、唐や我が国に使節を熱心に派遣した。そして、渤海使が日本を目指す前半の目標が出羽の国だったのである。後半の渤海使節は能登その他の経由となり秋田には来ていない。渤海の使節が秋田城の迎賓館設備を利用したのは727~796年の間で6~7回だったと考えられている。
渤海使節の出羽来着時期は、古代東北にとって大変な激動期であった。特に隣の陸奥を中心に古代東北最大の「三十八年戦争」が発生していた。この大波に秋田城も大きく揺さぶられて在庁官人達の心も動揺していたと想像される。
主な見学が終了した後、秋田城跡のある高清水の丘全体を西に東に車を走らせてみた。地形的には朝廷が東北に建設した城柵の内で最も複雑な地形に建設された城柵である。雄物川からの高低差も大きい。多賀城も似た雰囲気の起伏のある丘陵地帯に建設されているが、南門に続く築地塀の直線性や南門から政庁に至る通路の直線性に相当注意して、地形を無視して建設した傾向がある。しかし、ここ秋田城址では政庁の矩形は維持したものの外郭線は自然地形を優先して設定している。その結果、外郭の南門も西門も政庁の南門、西門と軸線が対応していない。
しかし、この遺跡からは清原氏が後年建設する城柵のヒントは何も得られなかった。敷いて見れば、高低差の多きい地形を最大限に生かした外郭線の設定と外郭の木柵外にある客館や僧坊等の諸施設の充実度位しか理解できなかった。
翌日、早い時間、朝日を斜めに浴びて渤海使節の泊まった客館跡と思しき礎石の間に立った。古代を復元した東門下の沼も早朝の静けさの中にあって、厠の下の沼の向こうには山藤が薄紫色に滲んで見える。
東門外の風景を前にして、昨夜、秋田駅前のホテルで空想した渤海使と清原氏の先祖の会話を想いだした。全く素人の勝手な妄想ほど困ったものは無い。しかし、ファンタジーの世界が次の真実を解き明かす場合も少なくないので、我慢してお付き合い頂きたい。都から来て秋田で権力を確立したい清原氏の先祖と渤海の広大な領土と強固な城を誇りたい渤海使の11世紀の筆談による会話の想像図である。
【渤海使と清原氏先祖の夢の会話】
清原氏――貴国、渤海は大変広い国とお聞きしているが、どのようにして、その広大な国
土を治められているでしょうか?
渤海使――我が渤海の国は広々とした平原が多く広大な国土の為、都は一つではありません。五京を持って統治しているのです。
清原氏――ほう、都が五つですか!
清原氏――貴国、渤海では周辺に異民族が多いと聞く。彼等に攻め込まれた時に、貴国はどの様にされているのでしょうか?
渤海使――確かに我が国の富を狙う敵は周辺のいたる所に存在します。五京を初めとして全国土の彼方此方に緊急避難用の多数の山城を持っている。
清原氏――それは、貴国の伝統なのですか?
渤海使――これは、渤海の前の国、高句麗時代からの流れで、都の郊外に緊急避難用
の山城を築く習慣があった。この習慣は、他の朝鮮三国の百済、新羅でも
同様である。
清原氏――確かに、我国でも天智天皇の頃、大宰府周辺や瀬戸内の国々で、百済様式
の山城を多数、築いたと伝えられている。
多分、ここで、渤海人達は渤海や朝鮮半島の石垣による山城の堅固さを吹聴して、日本人達を羨ましがらせたかもしれない。そして、木柵による単純な防御線の弱さを暗に批判したかもしれないし、日本人に同情して、大陸の新知識を得意になって披露して、複数の城による連携の重要性と防御力の向上についても話してくれたかもしれない。
渤海使――単純な一列の柵では、一か所が突破されれば、全部が崩壊してしまう。複
数の場所を柵で囲めば安全性はもっと大きくなるのではないか!
清原氏――単純な一つの柵よりも二つ以上の郭の方が守りが強力という事ですね!
渤海使――平地の城と近接する堅固な山城の連携は強力な防御力を生む。当地の場合、平地の柵よりも、独立した丘陵や小高い山に柵を設けた方が防御性はもっと高くなる。それは我が国の経験からして断言できる。
清原氏――この秋田城の柵の欠点をお教え頂きたい。
渤海使――柵の外側に最低、壕は必要でしょう。それも、深く、広い壕が!
空想ではあるが、そんな会話があった可能性も否定できないような気がする。