05.Dark change.
一度嵌った歪んだ思考の渦からは、なかなか浮き上がる事が出来ない。こと、唯に関わると冷静な判断がかけ、特にひどくなる。
これでは中三の時の二の舞だと、理性では分かっているのに、感情がついていかない。
あの児玉と言う男と一緒に駅前の喫茶店にいるのを見かけた時は目の前が真っ赤になった。
真っ黒ではなく真っ赤。自分の感情が一気に燃え上がり、俺の全てを焼き尽くす。
俺の朝からの態度が良くなかったのはわかってる。でも、唯はそれの方がいいんだろう?
だから、急に変わった俺に対しても何も言わず、責めもせず、離れる俺を黙認した。
なぁ、どうしてそんなに態度が変わらないんだよ? 少しは動揺してくれないのかよ?
側にいるようになったらあんなに「どうして?」って聞いて来たのに、いなくなるのには「どうして?」って聞いてこないんだよ?
まるで何もなかったかのように……。まるでこの数週間が存在しなかった様に……お前はやっぱり俺の事を否定するんだ……。
気がついたら俺は唯を自分のベットに押さえ込んでいた。ひどい言葉を投げつけ酷い態度を取る。
泣いて嫌がる唯を無理やり抱こうとして、さっきまで児玉と話していた笑顔の唯がチラつく。
「ちがっ、あれは、偶然会って……謝りたい、って言う、から……」泣きながら一生懸命言い訳する唯を見て……一気に熱が冷めた。
「お前、もう帰れ」急に冷静になってどうにかそれだけを告げると、すぐに唯が家を飛び出して行く音が響いた。
俺は壁を拳で打ち付ける。何度も、何度も壁を打ち、酷くなった痛みに拳を見れば皮膚が切れ血が出ていた。
「くそっくそっ! くそ、くそっくそっ!」悪態をついても一向に楽にならない。それどころかより一層俺の心を蝕んでいく。
そんな自分が情けなくて馬鹿らしくて……そのままベットへ倒れこんだ。
「プルルルルルル」響いた携帯の音でふと我に返ると、いつの間にか部屋が暗くなっていた。俺は一体どのぐらいボーっとしていたんだろう……。
時計を見るともう七時で、溜息が零れた。
「プルルルルルル」一度止んだはずの携帯が再び存在を主張する。
……なんだよ、誰だよ……。手を伸ばして画面を見ると、またあの女の名前……。荒んでいた心に拍車をかけて怒りが沸く。
「……はい」
「慶二君? 電話に出てくれて良かったわ。今ね、兄が帰って来てるのだけど、慶二君の話をしていてね。兄が会いたいって言うから、どうかしら? 今から会えないかしら?」この間の事など何もなかったかのように話す玲子に俺は怒鳴りつけたいのをグッとこらえ会いに行く事を了承する。
今ここで言い合った所で聞きそうにない。ならば土曜日に書かせた誓約書を持って堂々と乗り込んでやる。
そして兄貴にしっかりとストーカー行為を報告してやらないと。かなり、攻撃的な気持ちで俺は家を後にした。
後にして思えば、この時誰かにちゃんと話しておくべきだった。だがこの時の俺は唯との事があって正常な精神ではなかったせいか、落ち着きと言うものを無くしていた。
結果、誰にも相談せず単身、無謀にも敵の本拠地へ乗り込む事となってしまった。
この間も感じた玲子への違和感を、しっかりと考える事もせず俺は怒りだけを感じて玲子の住むレオンタワーズへと向かった。
◆ ◆ ◆
「いらっしゃい、慶二くん。久しぶりだね?」そう言って笑顔で俺を招き入れる玲子の兄――長谷川司を見て、急に頭が冷えた。
この間……玲子にも感じた違和感が司からも感じられて……情けなくも背中がゾクッとする。
「……どうも、お久しぶりです」内心の不審を抑えてなんでもないように返事をしながら部屋に通されたが、言いようのない気配が家中を支配していて……俺は後悔した。
一人で来るべきではなかった。もしくは一人で来るなら誰かにちゃんと報告してから来るべきだった……。
唯とあんな風になった後誰とも話さず来るべきではなかった……。事情を知っている兄貴に相談しておけばよかった……今更の後悔を胸に抱きながら、それでもこのままこの場から逃げようと言う気は起きなかった。
そう、それが一番の敗因。異常な相手に正論が通るわけなどないのに、なぜか俺は一人戦う気でいて、そしてあっさり負けてしまった。
会話なんて必要なかった。そこまでの強行に出るはずないだろうなんて高を括っていた俺はあっという間に麻酔を嗅がされ……フェードアウトした。
勝負はとっくについていた。俺が家を訪れてしまった時点で、すでに俺は負けていたんだ。
気がついた時は玲子のベットの上だった。体がだるくてたまらない。ぼんやりと周りを見渡すとカーテンの隙間から光が漏れていて、あぁ、朝になっている、と理解した。
体を動かしてみようと力を入れてみたが、あまり言う事を聞かず……仰向けで寝ている俺は寝返りさえうてない状態だった。
まずい……。どうにか頭を動かし自分の姿を見ると服装は昨日のままだ。さすがにコートは脱がされているが、それ以外の変化はない。
だが左手に怪しい器具が刺さっていて、こんな状態だと言うのに鼻で笑ってしまう。
どう見ても点滴だろ。あいつら……病院関係者だからってやりすぎだろ。そもそもなんでこんな事すんだよ。俺を監禁して何が楽しんだか!
少し覚醒してきた頭で悪態をつくと力ずくで点滴を引っ剥がす。
「いってーっなぁ!」口に出すと少し力が出てきて、どうにか体を起こす事が出来た。だが、この状態で逃げるのは無理か……。
考えろ、考えるんだ。このままじゃいけない。あいつらが気付いてまた変なもの点滴されたらたまったもんじゃない。
……だがあいつらはプロ。俺はド素人。点滴をごまかす方法なんて思いつくはずがない。でもこのままじゃマジでヤバイ……。
朦朧としてまとまらない思考では得策など思いつくはずもなく……二人が入ってきた。
「おはよう、良く眠れたかしら?」そう言って艶やかに微笑む玲子を睨み付けるが、自分がこんな状態ではまったく牽制出来てないのは分かっていた。
「……慶二君……身体の調子はどうだい?」一緒に入ってきた兄の司にも眼を飛ばすがすっと目をそらされた。
その態度を見て、やはりまだ多少は司の方が理性がありそうだ。玲子の異様さはもう、どうにもならなそうな、会話が成立するとは思えないような……そんな雰囲気が表に出ているが、司は違う。
理性がありながら……こんなことを容認している。そこにはどんな背景があるのか……正直働かない頭ではまったく分からない。
「慶二くん? 点滴無理やりはずしたの? ダメよ? 後遺症が残ったら大変だわ」そう言いながら俺の腕へ伸ばしてきた手を払う。
「もう! 聞き分けがない人ね。あなたはこのままずっと私と一緒に過ごすのよ? だから、ちゃんと言う事を聞いて頂戴」
「……玲子、私がやるから、君は朝食の用意をしてくれるかい?」
「そう? 仕方がないわね。ならすぐ作るから宜しくね?」
玲子が部屋から出て行って司と二人きりになると、頭を下げられた。
「すまない、本当にすまない。だが……こうするしかなかったんだ」
「妹の異常さを正さず、余計に悪い方へ進ませているようにしか見えないけど?」かなり嫌味ったらしく言ってやる。
「……そう、だな……。だが、このまま壊れていくのを見ていられなかった……」
「……司さん、もうやめにしましょう。逃がしてください。こんなこと続けられるわけないんですよ? 明るみに出たら……病院も只では済まないはずです……」
揺れている司を逃さぬように一生懸命言葉を重ねた。ここで、どうにか踏みとどまって貰わないと本当に洒落にならない。
そりゃ十分今でも洒落になってないけど、それでも今ならまだ後戻り出来る。
「お兄ちゃん? 用意出来たわよー」玲子の声が聞こえて意識がそっちへ逸らされた瞬間、気付いたら注射を刺されていた。
「……つ、つかさ……さん……?」
「悪いな、もう後戻りも出来ないんだ。俺達は破滅するしかない。なら……行く所まで行くだけだ……」
ブツブツと呟く様な彼の声を聞きながら、また後悔した。あぁ、俺って意外に人見る目ないのかも。
冷静そうに見えた司だって、結局は玲子と変わらない所まで落ちていて……まんまと騙されちまったなぁと薄れ行く意識の中でぼんやりと思った。
◆ ◆ ◆
「ちょっとは遠慮して下さらない? 今私のマンションに二人でいるのよ。分かるでしょう?」ぼんやりとした意識の中で玲子のそんな声が聞こえてきた。
寝かされている部屋のドアが開いていて、玲子が電話している姿がぼんやりと見える。部屋は真っ暗で、玲子のいる所は電気がついているようだから、夜になっているみたいだった。
また無理やり点滴を抜いて、しばらくじっとする。
あの時――朝食と言っていたから朝何だろう時間――司に注射されて、また寝て、夜になったか……。
家にも誰にも連絡を入れていないから、皆不審に思っているはず……。
……唯は……、唯はどうしてるかな……。あんな事があった後で俺がいなくなって……どうしてるだろう。自分を責めたりしてないか……。
俺の事、少しは心配してくれたりしてるんだろうか……。唯……どうしてる?
……逢いてーな。そして謝って、ちゃんと話し、してーな。俺は唯の事が好きなんだって……ちゃんと言いてーな……。
「ご両親がご心配されてるようでしたら、私から慶二君にお電話するように伝えますわ。ですから唯さんはもう電話しないで下さる?」電話を切っただろう玲子の捨て台詞を聞いて、ガバっと起き上がる。
力が急に湧いて来るのが分かる。自分でもあまりの単純さに笑っちまうけど、それでも俺の全ての原動力は唯だから……。
その唯が俺を探してる。きっと心配して、俺に逢いたがってる。都合のいい解釈かもしれないけど、それでもそう思ったらこんな所で寝てるわけにはいかねーんだよ。
ドアからそっと様子を伺うと、玲子はまた誰かと電話をしている。内容からどうやら司みたいで……これからどうすればいいかの相談しているのか。
俺の方に背を向け電話に夢中になっている玲子は俺に気付かない。ふらつく体に鞭を打ちつつ、物音をたてないように慎重に部屋から出て玄関へと向かう。
やばい、真っ直ぐ歩けない。でもここで気付かれたらお終いだ。音をたてない様に、ゆっくりと、それでも素早く移動する。
玄関まで来たらもう音がたっても仕方ない。鍵を外してドアを開けて力の限り走る。
まったく走ってる事にはならないような速度だけど仕方ない。今の俺にはこれが限界。多分まだ気付かれてないから、エレベーターを使う。
階段なんか使っても途中でへばって意味がないだろうから、逸る心を落ち着かせながらエレベーターを待つ。
倒れ込む様にエレベーターに乗り込み両肩を擦る。
ヤバイ、超寒いかも。すっげぇ眠いし。逃げ出したはいいけど……俺、死ぬ?
一階に到着し、ふらつく足でどうにかエントランスを通り過ぎ、なるべくマンションから離れようと外へ向かう。
川沿いの遊歩道まで来た所で力尽きた。
もう足に力が入らない……。道のど真ん中で倒れるわけにはいかないから、どうにか植えられた木の方へ向かう。街灯から陰になっている木を背もたれに座り込んだ。
あぁ、本当にヤバイかも知れねーなー。震えが止まらない。寝そうになるのをこらえる為、腕をつねってみるが、指自体に力が入らないから効果がない。
マジで、死ぬのかな……なんて考えると思い浮かぶのはもちろん唯の事。どうしたって俺の一番は唯で、どんな時でもどんな状態でもどんな気持ちでだって……唯を想う。
このまま、唯と逢えずに終わるなんていやだ……。このまま俺が死んだらあいつは絶対に苦しむ。
後悔して、苦しんで……そんな感情でも俺の事を永遠に想い続ける唯を思い浮かべると、甘美な誘惑を感じない訳ではないけど、それは自分がいてこその喜びであって、自分が死んだ後なんか関係ない。
だったらやっぱり生きて、思い出なんかじゃなくて現在進行形でずっと唯の心に留まっていたいんだ。あいつを苦しめたいわけじゃない。あいつとずっと、永遠に一緒にいたいだけなんだ……。
「けいー?」風の音にまぎれて唯の声が聞こえたような気がした。やべぇ、幻聴かよ。
唯の事を想いすぎて朦朧とした意識のせいで木の囁きが唯の声に聞こえるなんて……本当に重症だな。
「け、けいー?」
…………え? あれ? マジで唯本人? 幻聴じゃなくて本当に本当の唯?
「……ゆ、い?」返事を返すと、ガザガサと音を立て近づいて来た。
「う、わ。マジで、唯?……おまえ、なんで、こんなとこいんの?」呂律の回らない舌でどうにか問いかけると、抱きつくかのように両肩を掴まられる。
「慶? 慶? 大丈夫??」心配そうに俺の名前を呼ぶ唯を見て力が抜ける。
こんな状況だってのに思う事は、唯の顔が見れて嬉しいとか唯の声は相変わらず可愛いなとかそんな事ばっかりで我ながら笑えてくる。
そのまま安心させるように笑って見せたが、唯は相変わらずこわばった顔のまま俺の腕をさすった。
「けい、慶。冷たい。すごい冷たい」
「めちゃ、くちゃねみー。……それ、に、さみー」そう言えば俺って死にそうになってたんじゃなかったかなーなんて思いながら唯に答えているとコートをかけられる。
あったけー。唯が今まで来てた温もり……そしていい匂い……。かるく変態になっている自信はあるが仕方がない。唯不足だ。
とりあえずこの状態では補充することも出来ないので、
「ゆい、……電話?」と半べその唯を正気に戻す。
慌てて携帯を取り出し電話し始めた事に安心して背もたれにしていた木により深く背を預ける。ふうっと深く息を吐き出して視線を上げたら……あの女がいた。
泣きながら、ひどい顔をした女がゆっくりとこちらへ向かって来る。
ゆっくりに見えたのは切羽詰った状況でだったせいなのか分からないけど、すごくゆっくりとスローモーションの様にあの女が太い木の棒を頭上に構えるのが見えた。
「ゆい!」夢中で名前を呼んで引き寄せる。振り下ろす姿を視線の端に捉え、とっさに唯に覆いかぶさる。
「っ!」激しい衝撃が後頭部を襲う。あぁ、マジで殴りやがったあの女。もし唯にあたってたらどうすんだ! ってか唯を狙いやがったよな!
「けいっ!!」唯の悲痛な声を受けながら、それでもあの女――玲子を睨み付ける。
唯を狙ったこと、ぜってー許さない。後悔させてやる。
「なん……なんで……かばっ……」俺の視線を受けて真っ青な顔でブツブツつぶやく玲子……。この状況じゃぁもうさすがにまた手を出してくる事はないか……。
唯が電話で叫んでいる姿を見つめながら力が抜けてきた。兄貴達が来るまではどうにか意識を保っておきたいが……無理かもなぁー……。
「慶? 慶!?」泣きながら俺を覗き込む唯を安心させたくて、笑ってみせる。上手く笑えてる自信はないが同じようにぎこちなく唯が微笑んでくれてホッとする。
「……よかっ、た。どうにか、体動いて……」唯の頬に触れようと手を伸ばすと両手でギュッと握りこまれる。
「ありがとう、慶。かばってくれて……ありがとう」その俺の手にキスするかの様にすがりつき、ありがとうを連呼した。
なんだがこそばゆくて、
「……ちょ、と……情けねーけど、な?」なんて茶化してみたら思いっきり抱きつかれてしまった。
嗚咽を漏らす唯を感じて心の中で謝る。ごめん。マジでごめん。心配かけて。唯にこんな思いさせて本当にごめん。
俺は唯にもたれかかりながら目を閉じた。
復活したらちゃんと話すから。ちゃんと謝って、ちゃんと自分も気持ち話すから……とりあえず今は唯の腕の中で何も考えず寝させて下さい。
唯の温もりをしっかり堪能しながら俺は何度目か分からない暗転を経験した。




