第一章『暗雲の序奏』(1)
第一章『暗雲の序奏』
静まった暗い通路を、大小二人が歩く。手に懐中電灯を持ち、最近冬服用の長袖に替えた制服を揺らして。
「なんだか、普通の依頼みたいだよねぇ」
しっかり制服の第一ボタンまでしめた純也が、帽子を片手で直して天井を照らしてみる。
依頼された宝石店はとても広いが、特に厄介そうな雰囲気はない。都内某所の、有名なジュエリーブランド店。各部屋のショーケースの中には高価な宝石をあしらったアクセサリーが飾ってある。値段は馬鹿高いが、これといって特別な商品も無い。
「油断すんなよ、純也。あのジジイが持ってきた依頼だ、必ず何かある……」
「それはそうだけどさぁ。でも考えすぎじゃないかな、本当に、たまたま本社が忙しかったんじゃない?」
忌々しげな遼平に、気休めを言ってみる。純也だって心から普通の依頼だとは思っていない。それでも、そう言ったほうが気が楽ではないか。……少なくとも、何かが起こるまでは。
「お前、それで今までどんな依頼が来たか全部覚えてるだろ?」
「う、うん……。町内夏祭りのドミノ倒しされた自転車整備とか、街中ゲリラライブの熱狂ファンを押し止める係りとか、動物園でのチンパンジー捕獲作業とか……あの時はすごかったよね、遼なんか最後はキレてチンパンジーと格闘してたし。檻とか壊したから損害賠償が大変だったんだから」
「あの猿どもが大人しくしねーのがいけねぇんだよ! ジジイめ、ロクな仕事持ってこねえ」
様々な苦労を思い出し、二人で同時にため息を吐く。板挟みになる真が仕事前、あまりに大量の胃薬を飲み過ぎていたので、純也は涙ぐんで心配したほどだ。純也の予想通りならば、その内真の胃には穴が開いてしまう。
「風薙社長もいい人だとは思うんだけどさ……僕不安だよ、真君いつか過労で倒れちゃうんじゃないかな」
「あいつが死ぬ時は、きっと死因は過労死だな……」
「せめて遼と澪君がもう少しケンカしなければ、真君のストレスも軽くなると思うんだけど?」
「俺のせいかよっ。紫牙の野郎が人をバカにした態度とりやがるからだろうが!」
「遼の心があと一立方センチ広かったらねぇ……」
澪斗の性格もだが、正直遼平の方が人間として問題だ。それに希紗と純也でプラスα。これらをまとめなくてはいけない部長の心理とはいかほどか。心配しつつ、純也は絶対にそんな立場は遠慮したいと思っている。
正面に一際大きい扉が現れた。この宝石店で一番大きい展示室。ここを見回れば、一度希紗のいる監視室に戻ることができる。
「ここで最後だな、入るぞ」
重たい扉を、軽々と片手で遼平は押し開ける。中を懐中電灯で照らすと、ガラスのケースに収まっている宝石が虹色に反射した。広い部屋の中、隅々まで照らして奥へ入っていく。
「……おい、この依頼、一体なんでロスキーパーに来たんだ?」
部屋に踏み込みながら、遼平がもっともな疑問を口にする。予告状が来たなんて話は聞いていない。元々ロスキーパーは、短期間の警備しか行わない。特別何かがある時しか雇われないのだ。
「うんとね、最近表で宝石品の窃盗事件が多発してるんだって。それで、普通の警備会社では不安になったここのオーナーさんがドコかの仲介を経て風薙社長に依頼したってわけ」
「なんだよ、それだけか? 表の事件なんて、大したことねぇよ」
表社会での単なる窃盗事件。それに呼び出されたというわけだ。社長はただ面倒だったから、こんな依頼を寄こしたのだろうか。
「でね、とりあえずこの窃盗事件が落ち着くまで、僕らに警備していてほしいんだって。報酬はかなり貰えるよ」
「おかしい……こんなに上手く話がいくわけねぇ……」
遼平は納得がいかない。社長からの仕事だ、疑心暗鬼になっても仕方ないと言える。
次の瞬間、闇に溶け込もうとする何かの音。刹那に二人の瞳の色が変わる。
布が擦れたような音だった。瞬時に反応して遼平と純也は懐中電灯の明かりを消す。誰かが広いこの部屋に入ってきた……二つの足音がする。
展示室の奥に居た二人は、入り口の方へ目を凝らす。真達ではないはずだ、真と澪斗は今店の二階を見回っているはず。だとしたら。
「……聞こえるか、希紗」
『わかってるわ、侵入者ね。カメラが影を捕らえてる』
囁き声で無線機に話しかける。すぐ闇に慣れた目が映す、黒い二つの輪郭。ソレらはショーケースに手を伸ばし、ガラスを破壊しようと道具を取りだした。
「照明をつけろっ」
『オッケー!』
遼平の合図で部屋の電灯が一斉に点く。警備員二人は駆けだして、侵入者の前に立った。驚いて周囲を見回す、長いマントを羽織った侵入者二人。
「てめぇらが宝石泥棒か、観念しろ――――って、何!?」
有り得ない人物。言葉を失わざるを得ない。思考が急停止。
落ちた懐中電灯が、絶句した使用者の前に転がった。