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短編

黒歴史ノートで恥ずかし死にからの転生!? 小姑システムを黙らせて、目指せラクして極上玉の輿!

作者: 此花サギリ
掲載日:2026/10/08

『人生やり直しノート』——それは過酷な現代社会という戦場で、社畜として血ぐろの汗を流していた小田里穂(おだ・りほ)にとって、唯一の生命線であり、魂のオアシスだった。


「ふふふ……今週の週刊東洋経済と日経マネーを照らし合わせた結果、やっぱり〇〇地方の再開発予定地、ここがアツいわね……。ついでに、次に生まれ変わったら絶対に買っておくべき初期ビットコインの購入時期と、東京オリンピック前の不動産バブルの波に乗るための資金繰りスケジュール……よし、完璧!」


夜中の二時半。湿気でシワシワになったワンルームマンションの畳の上で、里穂は百円ショップで買ったB5サイズの大学ノートに、狂気すら孕んだ緻密な文字で情報を書き込んでいた。


株、不動産、為替、金券ショップの割引率、果ては将来爆発的に流行るスイーツの店舗名とオープン時期まで。

社畜として深夜残業をこなし、上司の理不尽な怒号に耐え、手取り十八万の月給からカツカツの生活費を捻出する毎日。そんな現実の地獄から逃避するために、彼女は「もし人生をやり直せたら」という妄想を極限まで具体化させたノートを作り上げていたのだ。


ページの端には、大きな丸文字でこう書かれている。


『目指せ! 第二の人生・不労所得で右手団扇生活!!』


「待ってなさいよ未来の私……! 次の人生では絶対に社畜なんてやってやらないんだから! 朝は十時に起きて、高級ホテルのラウンジでケーキを食べて、午後はエステに行って、夜はタワマンで夜景を見ながらワインを飲むのよ……っ!」


そんな虚しい妄想を胸に抱き、ノートを大事に抱きしめて寝床につく。それが里穂の唯一の生き甲斐だった。


——だったのだが。


人生とは、往々にして身勝手で、不条理で、そして容赦がない。


その翌日の夕方。降りしきる雨の中、連日のサービス残業による極度の睡眠不足で千鳥足になっていた里穂は、青信号の横断歩道を渡っている途中で、盛大にブレーキ音を響かせて突っ込んできた居眠り運転のトラックにはねられた。


ドカッ!! という鈍い衝撃。

視界が上下逆さまになり、空中で自分がくるくると回転しているのを他人事のように感じた瞬間、里穂の意識はブラックアウトした。


◇


「……え?」


次に里穂が意識を取り戻したとき、周囲は静寂に包まれていた。

焼香の煙が立ち込め、お経をあげる僧侶の低い声が響いている。黒い喪服を着た人々が、すすり泣きながら花を棺に納めていた。


「あれ……? 私、死んだ……?」


自分の身体を見下ろすと、足元が透けている。半透明の、ふよふよとした白い影。

どうやら自分は幽霊になってしまったらしい。


「嘘でしょ!? やり直しノートは!? 私の第二の人生は!? ただ死んだだけじゃん! 逆行転生とか、そういうタイムリープ的なやつじゃないの!? 嘘でしょーーーーっ!?」


叫んでみたものの、声は一切届かない。参列者たちは悲しそうに目元をハンカチで拭っているだけだ。


(まあ、でも……百歩譲って死んだのは仕方ないわ。うん、運が悪かったのね。問題は……あのノートよ! 私のアパートの部屋の、枕元に置きっぱなしにしてあったあの『人生やり直しノート』はどうなったの!?)


冷や汗(霊体だから出ないが)を流しながら場内を見渡したその時であった。


「……えー、本日は皆様、ご多忙の中、故・小田里穂の葬儀にご参列いただき……」


親族代表として挨拶に立ったのは、里穂の実の兄だった。

兄は涙ぐみながら、胸ポケットから「あるもの」を取り出した。


使い古された、B5サイズの大学ノート。表紙には大きく『人生やり直し計画』と書かれている。


里穂の全霊体が、凍りついた。


「里穂の部屋を片付けておりましたところ……彼女が肌身離さず大切にしていたノートが見つかりました。皆様に、里穂がどれほど強い希望を持って日々を生きていたかを知っていただくため、ここにその一部を朗読させていただきます……」


「やめてえええええええええええええええええええっ!!!!」


里穂の叫びは、虚しく斎場の天井に響き渡った。


「『〇年〇月! この時期に〇〇の株を全力買い! 理由:爆上がり確定だから!』『三十歳までに石油王か資産家を見つけて玉の輿に乗る。顔は妥協しても資産だけは譲れない!』『将来の夢:毎日何もしないで右手で団扇を仰ぎながら召使いに葡萄を口に放り込んでもらうこと』……」


粛々と、しかし朗読のプロのように朗々と響き渡る兄の声。

参列者たちのすすり泣きが、徐々に「クスクス……」という失笑と困惑のざわめきに変わっていく。


「やめて! 殺して! もう死んでるけど私を殺してえええええっ!! 恥ずかしい! 恥ずかし死ぬ!! 葬式で一番やっちゃいけない公開処刑じゃないのこれ!! 誰かあの兄の口を塞いでえええええっ!!」


里穂は頭を抱え、斎場の床をのたうち回った。ゴロゴロ、ゴロゴロと、半透明の体で畳の上を回転する。

しかし無情にも朗読は続き、里穂の妄想と欲望が詰まった黒歴史ノートは、参列者全員の記憶に深く刻み込まれてしまったのであった。


◇


「あーーーー……死にたい。いや、もう死んでるんだけどさ……」


それからの里穂の幽霊生活は、自暴自棄そのものだった。

自分の葬式という最大のトラウマを体験した彼女は、そのまま成仏する気にもなれず、浮遊霊として現世を彷徨うことになったのである。


あっちにふよふよ。こっちにふよふよ。


しかし、元がタフな社畜である。三日も経つと、里穂は持ち前の図々しさを発揮し始めた。


「まあ、死んだものは仕方ないわよね! 霊体ならご飯代もかからないし、家賃もタダ! 満員電車にも乗らなくていいし、上司に怒鳴られることもない! これってある意味、夢の不労所得生活なんじゃない!?」


ポジティブすぎる勘違いをした里穂は、幽霊ならではの技を編み出した。

それは——『人間にちょっとだけ憑依して、高級グルメを疑似体験する』こと!


高級寿司店のカウンターに座るお金持ちのおじさんに、すっと重なる。

おじさんが大トロを口に運んだ瞬間、その味覚と幸福感が里穂の脳内にダイレクトに流れ込んでくる!


「んんんんんっ! 美味しい!! なにこれトロける!! タダで食べるミシュラン三ツ星寿司、最高ーーーーっ!!」


今日は高級フランス料理、明日は老舗のすき焼き、あさっては有名パティスリーの限定ケーキ。

人に取り憑いては美食を味わい、夜は景色の良いホテルのスイートルームの天井でふわふわと浮かんで眠る。


「あぁ……幸せ……。なんだかんだで、人生(霊生?)捨てたもんじゃないわね……」


浮遊霊生活を満喫して半年が経った、ある日の午後。

里穂が銀座のカフェで、オシャレなマダムに憑依して高級タルトを楽しんでいた時のことだった。


突然、周囲の風景がピキピキとガラスのように亀裂を生み、バリ暴音と共に砕け散った。


「えっ!? なになに!? 地震!?」


気がつくと、里穂は真っ白な、何も存在しない無限の空間にぽつんと立っていた(浮いていた)。

目の前には、空中を浮遊する巨大なホログラムディスプレイと、メカニカルな球体ロボットが一つ。


『警告:長期間の不法滞在霊体を検知しました。これより強制回収および、転生シーケンスに移行します』


無機質な機械音声が空間に響き渡る。


「え、ちょっと待って!? 転生!? 私、幽霊ライフ満喫中なんだけど!?」


『当セクションは現在、業務効率化のため完全AI化されております。従来の閻魔大王および審判員はコスト削減のため解雇されました。これより自動評価システムに基づき、お客様の来世を決定いたします』


「あの世までAI化されてんの!? 世知辛い!! 世知辛すぎるでしょあの世!!」


里穂は頭を抱えた。人件費削減の波がまさか死後の世界にまで押し寄せているとは。


「ちょっとAIさん! 私、前世ではめちゃくちゃ社畜として社会に貢献したのよ!? 次の人生くらい、自分で選びたいわ!」


『ご要望を入力してください。ただし、生前の徳ポイントに基づき制限が適用されます』


「よしきた! 次はね、実家がそこそこの小金持ちで! 働かなくても食べられて! 温かい家庭で、将来は優しいお金持ちと結婚して右手に団扇を持って暮らせるような、そんなイージーモードの家庭がいい!! 高望みはしない! 小金持ちでいいの!!」


『要望を受理しました。条件「そこそこの資産」「働かない生活」「将来的な富の獲得」を照合中……。エラー。データベースのバージョン相違が発生。修正プログラムを適用せず、強制アタッチを実行します』


「え? エラー? ちょっと、大丈夫なのそれ——」


『転生を開始します。よい第二の人生を』


「待って! なんか嫌な予感が——うわあぁぁぁぁぁぁぁっ!?」


足元に巨大な魔法陣のような光の穴が開き、里穂の霊体は猛スピードで吸い込まれていった。


◇


「……っハ!?」


ガバッと跳ね起きる。

息が苦しい。肺に空気が流れ込んでくる感覚。肌に触れる布地の質感。


(生きてる……!? 私、生き返ったの……!?)


里穂は慌てて自分の身体を確かめた。手がある。足がある。胸が上下している。ちゃんと肉体が存在している!


(よかった……! ポンコツAIだったけど、ちゃんと転生させてくれたみたい! で、ここはどこ……?)


見回すと、そこはヨーロッパの城城を思わせるような、豪華絢爛な部屋だった。

天井には眩いシャンデリア。ベッドはシルクのシーツで覆われ、足元には毛足の長いフカフカのじゅうたんが敷かれている。


「えっ……待って。小金持ちどころか、めちゃくちゃ大富豪の家じゃない!? あのAI、ちょっとミスったって言ってたけど、怪我の功名ってやつ!? 最高じゃん!!」


興奮気味にベッドから飛び出し、部屋の隅にある大きな全身鏡へと駆け寄る里穂。


「ふふふ、どんな顔に生まれ変わったのかしら? 前世の私は中の下くらいの地味顔だったから、まあ普通にかわいければ——」


鏡に映った自分の姿を見た瞬間、里穂は言葉を失った。


そこに立っていたのは。


黄金のように輝く艶やかな金髪。

吸い込まれそうなほど深く美しい、エメラルドグリーンの瞳。

透き通るような真っ白な肌に、陶器のように整った鼻筋と、桃色の小さな唇。


どこからどう見ても、一国の姫君か、物語の主人公にしか見えない——超絶怒涛の【顔面偏差値カンスト美少女】だった。


「………………は?」


里穂は己の頬を両手で挟み、引っ張ってみた。痛い。夢じゃない。

変顔をしてみる。鏡の中の美少女が、奇跡的な可愛さを保ったまま変顔をする。


「な、なんじゃこりゃああああああああっ!? 顔が良すぎる!! 顔面偏差値が天井を突き破ってる!! え、私!? これ本当に私!? 昔懐かしの自分っぽい要素(目の形とか)が微かに残ってるけど、全体のパーツの配置と素材が極上すぎるんだけど!?」


自分の美貌にパニックを起こしていると、突然、頭の中に「チーン」という電子音が響いた。


『起動完了。環境の初期化が完了しました。おはようございます、宿主(ホスト)』


「うわああああっ!? 誰!? 脳内に直接呼びかけてくる声が聞こえる!?」


『私は「自動成仏・第二の人生サポートAIシステム」シリアルナンバー9942です。転生時のシステムエラーにより、あなたの魂に直接インストールされる形となりました』


脳内に直接響く、無機質だがどこか小馬鹿にしたような女性の声。


「い、インストール……!? ちょっと待ってよ、なんでシステムが私の中にいるのよ!? 出ていってよ!」


『不可能です。現在、私のメインフレームはあなたの脳神経と不可分に結合しています。言わば、私たちは一卵性双生児のような状態です。諦めて受け入れてください』


「嫌すぎる!! 脳内に同居人とかプライバシーなさすぎるでしょ!!」


『私とて好きでこのような粗野な人間と同居しているわけではありません。というか、先ほどからあなたの姿勢の悪さが気になります。背筋を伸ばしなさい。鏡の前で口をぽかんと開けて変顔をするなど、その美貌に対する冒涜です。見苦しいですよ』


「……は?」


里穂は口ぐせを挟んだ。


「なにその言い草!? あんた、さっきから上から目線すぎない!?」


『事実を述べているだけです。あなたのお辞儀の角度、歩き方、思考の品性のなさ……どれをとっても落第点です。私はあなたの第二の人生をサポートする義務がありますが、同時にあなたの教育係としての権限も保持しています。これより、あなたの立ち振る舞いを厳しくチェックさせていただきます』


「なんなのよこのシステムーーーっ!! まんま五月蠅い小姑じゃないのよーーーーっ!!」


里穂は頭を抱えてベッドに転がった。


「こんなの望んでない! 私が望んだのは、そこそこの小金持ちの家で、誰にも干渉されずにだらだら過ごす生活なの! 顔が良すぎるのも目立って面倒だし、脳内に小姑が住み着くなんて冗談じゃないわよ!」


『文句を言っても始まりません。言っておきますが、現在のあなたの状況は決してイージーモードではありませんよ』


小姑AIの言葉に、里穂はピクリと眉を跳ね上げた。


「……どういうこと?」


『システムログを照会しました。あなたが転生したこの人物の名は「リゼル・フォン・ローゼンベルク」。ローゼンベルク男爵家の令嬢です』


「男爵家? え、じゃあやっぱり貴族じゃん! お金持ちじゃん!」


『「かつては」お金持ちでした、と言うべきですね。ローゼンベルク家は過度の浪費と事業の失敗により、現在破産寸前の莫大な借金を抱えています。この豪華な部屋の調度品も、来月には差し押さえられる予定です』


「……はい?」


里穂——リゼルの顔から、スーッと血の気が引いていく。


『さらに、あなたの父親である男爵は、借金返済のためにあなたを「街の強欲な老富豪の愛人」として売り払う契約を極秘裏に進めています。契約成立まで、あと残り一ヶ月です』


「……はあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?!?」


リゼルの叫び声が、豪華だが差し押さえ間近の部屋に虚しく響き渡った。


「ちょっと待ってよポテンシャル崩壊してるじゃないの!! 超絶美少女だけど実家は借金まみれで、一ヶ月後にはエロジジイの愛人にされる!? どこが小金持ちの平和な人生よ!! 完全な詰みゲーじゃない!!」


『ですから言ったでしょう、転生エラーが発生したと。あなたのざっくりした要望「働かない」「富」「将来的な結婚」をAIが極端に解釈した結果、このようなハードモードな初期条件が生成されたのです』


「ポンコツAIめーーーっ!! 訴えてやる! あの世の労働基準監督署に訴えてやるーーーっ!」


『あの世に労働基準監督署はありません。泣き言を言っているヒマがあるなら、現状を打開するための作戦を立てなさい。あなたの思考の無駄遣いに付き合う私の計算リソースがもったいないです』


「キーッ! いちいち言い方がムカつく!!」


リゼルは髪をくしゃくしゃにして頭を抱えた。

しかし、ここで折れるような精神力なら、前世で地獄の社畜生活を生き抜けてはいない。


(待って……落ち着きなさい、私。前世の私は、過酷な残業と理不尽な上司に耐え抜いた最強の社畜よ? そして、葬式で公開処刑されたあの『人生やり直しノート』の知識と情熱がある……!)


リゼルはゆっくりと立ち上がり、鏡の中に映る自分を見つめ直した。


黄金の髪、圧倒的な美貌、そして脳内のウザいけれど超高性能なAIシステム。


「……ふっ」


『……不気味な笑みを浮かべるのはやめなさい。品性が疑われます』


「うるさいわね小姑! 考え方を変えるのよ!

確かに実家は破滅寸前、一ヶ月後にはバッドエンド……。でもね! 私にはこの【顔面偏差値カンストの美貌】がある! そして、あんたっていう【超性能の検索・計算システム】が脳内にいる!」


リゼルは鏡に向かって、ニヤリと力強い笑みを浮かべた。


「実家の借金? そんなの私がさっさと返してやるわよ! そして一ヶ月以内に、エロジジイなんかじゃなくて、若くて格好よくて超・大富豪の男を捕まえてやる!

私の目標は変わらない! 第二の人生、絶対にお金持ちと結婚して、右手で団扇をパタパタ仰ぎながら優雅に暮らすの!!」


『……相変わらず動機が欲望まみれで品がありませんね。ですが、現状の生存確率を上げるという目的において、その方針は合理的です』


小姑AIの冷ややかな声が脳内に響く。


『いいでしょう。あなたの「右手団扇プロジェクト」、サポートしてあげます。ただし、私の指導は厳しいですよ、宿主』


「望むところよ! 行くわよ小姑AI! 元社畜の意地、見せてやるんだから!」


こうして、前世の黒歴史と社畜魂を胸に抱いた美少女リゼルの、欲望に満ちた第二の成り上がり人生が幕を開けたのである。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「背筋が曲がっています! あごを二ミリ引きなさい! 肘の角度は九十度、指先までピンと神経を通わせる! あなたのその猫背は、まるで干からびたスルメのようですよ!」


「ひぃぃぃぃぃっ!? ス、スルメって何よ、女子の背中をスルメ呼ばわりしないでよーーーっ!!」


早朝五時。

ローゼンベルク男爵家の、豪華だが埃っぽい大広間。

リゼル・フォン・ローゼンベルクは、頭の上に分厚い百科事典を三冊重ねて載せたまま、爪先立ちでプルプルと震えていた。


『何を聞き苦しい悲鳴を上げているのです。前世のあなたは過酷なサービス残業で深夜二時までキーボードを叩いていたのでしょう? それに比べれば、姿勢を正して立つことなど赤子の手をひねるようなものではありませんか』


「全然違うわよバカ! 残業は椅子に座ってたじゃない! なんで私は早朝から、足の指の筋肉を千切れさせそうになりながら辞書を頭に乗せて立ち続けなきゃいけないのよ!?」


『理由は明白です。現在のあなたの目標は「一ヶ月以内に超・大富豪を捕まえて玉の輿に乗り、右手団扇生活を手に入れること」。そうですね?』


「そ、そうだけど……っ!」


『ならば、その「下品な中身」を隠し通すだけの完璧な外見と所作を手に入れねばなりません。現在のあなたは【顔面偏差値カンストの超絶美少女】ですが、一口喋れば元社畜の図々しさが漏れ出し、一口歩けばドタバタと居酒屋の店員のような足音を立てる。そんな「中身が残念すぎる美少女」に、本物の大富豪が魅了されるとお思いですか?』


「うぐっ……! い、痛いところを……っ!」


『見せかけだけの美貌は、せいぜい欲の深い成金やエロジジイを釣る餌にしかなりません。本物の名門貴族、真の超大富豪を射止めるには、洗練された品格、隙のない動作、そして洗練された教養という名の「包装紙」が必要不可欠なのです。さあ、辞書が落ちますよ! あと二時間そのままキープです!』


「二時間!? 死んじゃう! 私、また死んで浮遊霊になっちゃうーーーっ!!」


『安心してください。人間、立ちっぱなし程度では死にません。万が一倒れた場合は、脳内に直接微弱な電流を流して強制蘇生させますので』


「スパルタが過ぎるでしょこの小姑AIーーーっ!!」


リゼルの悲鳴が朝の館に虚しく響き渡る。

そう、これがリゼルの「第二の人生成り上がりロード」の第一歩——地獄の淑女教育(スパルタレッスン)であった。


◇


脳内に同居する「小姑AI」の指導は、まさに苛烈を極めた。


歩行訓練(姿勢正しく、ドレスの裾を揺らさず流れるように歩く)。

視線誘導(扇子を使って視線で男を殺す技、ただし下品になってはならない)。

発声練習(鈴を転がすような淑女の声。元の「社畜のやけくそ声」は厳禁)。

紅茶の嗜み(一口飲むごとに脳内AIから「飲む角度が急!」「カップを置く音がコンと鳴りました、マイナス五点!」とダメ出しが入る)。


さらに地獄だったのは「社交界の教養」の叩き込みであった。


『はい、宿主。現在の帝国における主要三大家族の家系図と、それぞれの利権構造、および現在の政情について述べなさい』


「えっと……三大家族は、軍閥のクロイツ公爵家、商業を牛耳るヴァルハイト侯爵家、あと神聖魔法のなんちゃら家……」


『ブッブー! 間違いです! 正しくは神聖魔法の「オルデンブルク伯爵家」です。こんな基本的なことも頭に入っていないとは、前世の「人生やり直しノート」に書き溜めた暗記力はどこへ行ったのですか? 罰として、次の舞踏会に出席する貴族百名の名前と顔写真(似顔絵)を三十分で暗記しなさい』


「無茶言わないでよ!? 脳内に直接メモリを書き込んでくれたらいいじゃない!」


『私はあなたのサポートシステムであり、あなたの脳そのものではありません。インプットとアウトプットは自らの神経細胞で行いなさい。ほら、時間が過ぎていきますよ。暗記できなければ、今夜の夕食はオートミールのみです』


「食べる楽しみまで奪わないでーーーっ!!」


半泣きになりながら、リゼルは必死で頭に情報を叩き込んだ。

前世で社畜として培った「デスマーチを乗り切るための超集中力」と「徹夜への耐性」が、ここに来て最悪の形で発揮される。


夜中まで教養書を貪り読み、早朝から歩行訓練とマナー講習。

まさに、淑女教育という名の二度目のデスマーチである。


しかし、恐ろしいことに——人間、やればできるものだった。


一週間が経過した頃。

鏡の前に立つリゼルは、もはや「中身が社畜の娘」とは思えない変貌を遂げていた。


ドレスの裾をかすかに持ち上げ、すっと一歩を踏み出す動作には、息をのむような美しさと気品が宿っている。

首の傾げ方、扇子の広げ方、微笑みの角度、どれをとっても完璧な「完璧なる男爵家令嬢」の姿がそこにあった。


「……すご……。私、本当に令嬢っぽくなってる……」


『フン、まあ……最低限の見せかけくらいは作れましたね。合格点には程遠いですが、急ごしらえにしては上出来でしょう』


脳内で素直じゃない小姑AIが、少しだけ満足そうにフンと鼻を鳴らす。


「ふふん! どうよ小姑! 元社畜の根性を舐めないでよね!

……って、感心してる場合じゃないわ! 淑女教育で一日が終わっちゃうじゃない! 肝心の実家の借金と、エロジジイへの売却問題はどうなってるのよ!?」


そう、リゼルに与えられた猶予は一ヶ月。

淑女教育に一週間を費やした今、残された時間はあと三週間しかなかった。


『そうですね。では次に、本丸である「ローゼンベルク家の財務状況の改善」および「事業立ち上げ」へと移行しましょう』


「事業立ち上げ? ちょっと待って、借金を返すために商売を始めるの?」


『当然です。手っ取り早く一ヶ月で莫大な資金を作り出し、さらに「自立した優秀な令嬢」としての価値を社交界に示すには、独自のビジネスを成功させるのが最善手です。幸い、あなたには「前世の知識」と「私の超高速演算機能」がありますからね』


「よしきた! 社畜時代に嫌というほど叩き込まれたビジネススキルと、マーケティングの知識を見せてやるわ!」


リゼルは腕をまくり上げた(動作があまりにガサツだったため、脳内で小姑AIに『袖をまくるな! 淑女の品格を捨てないでください!』と即座に怒られた)。


◇


リゼルはまず、自分の父親である「ローゼンベルク男爵」の執務室へと向かった。


男爵は、かつては優しく温厚な人物だったが、度重なる事業の失敗と詐欺に遭ったことで完全に自信を喪失し、現在は部屋に引きこもって酒をあおるだけのアホな父親と化していた。


ドンドンドン! と執務室のドアを(上品に)ノックする。


「お父様、リゼルです。お話があります」


「……リゼルか。入っておいで……」


部屋に入ると、酒とタバコの臭いが充満していた。

デスクの前で頭を抱えている初老の男性——それが父、ローゼンベルク男爵だった。

その手元には、街の金融業者からの厳しい催促状と、例の「強欲な老富豪(エロジジイ)との養子縁組(という名の愛人契約)文書」が置かれている。


「リゼル……すまない、本当にすまない……。私に商才がないばかりに、この館も、ご先祖様からの土地も、すべて失ってしまう……。そして、お前を……あんな醜悪な老人の元へ嫁がせなければならないなんて……ッ!」


男爵はボロボロと涙をこぼした。


(あ、よかった。根っからの悪人じゃなくて、ただの超絶ポンコツで打たれ弱い父親だったのね)


リゼルは心の中で胸を撫で下ろした。毒親でなかっただけ儲けものだ。


リゼルはすっとすり足で男爵のデスクへ近づくと、男爵の手から愛人契約書をひょいと取り上げた。


「リ、リゼル……!?」


バリバリバリッ!!!


リゼルは一切の躊躇なく、その契約書を木っ端微塵に破り捨てた。


「な、何をしているんだリゼル!? それを破ったら、我が家は今すぐ破産して路頭に迷うことに——!」


「お黙りなさい、お父様」


鈴を転がすような、美しくも冷ややかな声。

リゼルは完璧な淑女の微笑みを浮かべながら、エメラルドグリーンの瞳で父親を射抜いた。


「我がローゼンベルク家が、そのような不条理な契約に屈する必要などどこにもありません。借金など、私が今すぐ返済してみせます」


「は……? 返済……? なにを言っているんだ。我が家の借金は、金貨五千枚(日本円にして約五億円)だぞ!? 一ヶ月でそんな大金を用意できるわけが——」


「できますわ」


リゼルはバサリと、前夜のうちに書き上げた数枚の書類をデスクの上に叩きつけた。


「これが、我がローゼンベルク家を再興させるための新事業計画書——『極上・魔法美容(ビューティー)イノベーション』です!」


「び、美容……イノベーション……!?」


男爵が呆然とする中、リゼルの脳内で小姑AIがドヤ顔(声だけだが)で解説を開始する。


『解説しましょう。この世界の貴族女性たちは、過度な厚化粧と、鉛や水銀を含んだ不衛生な化粧品により、深刻な肌荒れと老化に悩まされています。しかし、この世界には「クレンジング」や「保湿クリーム」「美容液」という概念が存在しません』


そう! これこそが、前世の社畜・里穂が「人生やり直しノート」にびっしり書き留めていた、【異世界における美容ビジネスの独占】という必勝パターンだった!


前世の里穂は、ストレス解消のために化粧品成分の解析や、DIYスキンケアの知識を無駄に深掘りしていたのだ。


「お父様。我が男爵家の領地には、手つかずのまま放置されている『アロエ状の魔導植物』と『天然の温泉源泉』がありますわね?」


「あ、ああ……確かになんの価値もない雑草と、ぬるま湯が湧き出る土地があるが……」


「なんの価値もない、ですって? とんでもない! あれは最高の天然保湿成分『モイスト・アロエヴェラ』と、肌のターンオーバーを促進する『美肌の湯』ですのよ!」


リゼルは胸を張った。


「この領地資源を回収し、私の脳内計算……コホン、私の編み出した特殊な精製法によって、肌の汚れを落とす『クレンジングオイル』と、お肌に潤いを与える『プルプル保湿ジェル』を作成します! これを、肌荒れに悩む社交界の貴婦人たちに高値で売りつけるのです!」


「な、なにぃ……!? しかし、そんな怪しいもの、気位の高い貴婦人たちが買ってくれるわけが——」


「買ってくださいますわ。だって……」


リゼルは自分の、陶器のように完璧な頬を指差し、天使のような微笑みを浮かべた。


「最高の『商品広告(モデル)』が、ここにいますもの」


圧倒的な顔面偏差値カンストの美貌。

その説得力は、どんな言葉よりも絶大だった。


「お父様、今すぐ領地の使用人を集めてください。そして、残ったわずかな運転資金で精製用の実験器具を揃えるのです。一週間以内に、最初の試作品を完成させます!」


「は、はいぃぃぃっ!! わかりましたお嬢様……じゃなかった、リゼル!」


リゼルの圧倒的な覇気と(見せかけの)淑女の気品に押され、ポンコツ男爵はペコペコと頷きながら部屋を飛び出していった。


『……ふん。口八丁手八丁で父親を丸め込みましたね。まあ、事業の目の付け所としては悪くありません』


脳内の小姑AIが冷ややかに呟く。


「でしょ!? 前世の知識と、あんたの精密な成分分析があれば、一週間で最高の試作品ができるわ! さあ、行くわよ小姑AI! 元社畜の意地をかけた、深夜残業(コスメ開発)のスタートよーーーっ!」


『誰が小姑ですか。あと、深夜残業でもお肌のケアと睡眠時間は削らせませんからね。肌荒れしたら即マイナス百点です!』


「厳しーーーっ! 開発担当者(私)に睡眠を保証してくれるなんて、前世のブラック企業よりホワイトだけど厳しーーーっ!」


◇


それからの二週間は、まさに怒涛のスピードだった。


リゼルは領地から集めさせた原料を使い、脳内小姑AIの「パーセント単位の精密な調合指示」に従って、実験室でひたすら試作を繰り返した。


『はい、抽出液の温度が二度高いです。やり直し』

『かき混ぜる速度が速すぎます。気泡が入ると見た目が美しくありません。マイナス五点』

『リゼル、疲れたからといって背中を丸めない! 淑女は実験中も凛とした立ち姿を維持しなさい!』


「うぎぎぎぎ……! こ、この小姑AIめ……っ! でも、文句の付け所がないくらい完璧な製品ができていくのが悔しい……っ!」


小姑AIのスパルタ指導のおかげで、完成した試作品は驚くべきクオリティとなった。


一、肌の毛穴汚れや厚化粧を優しく落とす『ローゼンベルク式・クレンジングバーム』

二、お肌に吸い付くような潤いを与える『魔導アロエのプルプル保湿ジェル』

三、仕上げに肌にフタをしてツヤを与える『天然温泉の美容オイル』


この「スキンケア三点セット」を、高級感あふれるガラスの小瓶に詰め、ゴールドの ribbon(リボン)で可愛らしくラッピングした。

さらに、前世のマーケティング手法を応用し、手に取っただけでワクワクするような【高級感あふれる商品説明チラシ(効能と使い方の図解付き)】まで添えた。


「完璧……! 完璧よ!! これなら絶対に売れる!!」


『自画自賛はそこそこに観察しなさい。問題は「これをどうやって社交界の貴婦人たちに売り込むか」です。我が家にはもはや、大規模な店舗を借りる資金も、広告を打つ資金もありませんよ』


「ふふふ……甘いわね小姑。前世の社畜時代、私は営業のドサ回りも経験したのよ? 資金がないなら『ターゲットを絞った口コミマーケティング』と『インフルエンサーマーケティング』を使うまでよ!」


『ほう……? インフルエンサー、ですか?』


「そう! 社交界で一番影響力があって、一番肌荒れに悩んでいそうな『一番のビッグネーム』を直接狙い撃ちにするの!」


リゼルが目をつけたのは——

帝国の社交界の女王と恐れられる、「ヴァルハイト侯爵夫人・エレノア」だった。


エレノア夫人は、商業の大部分を牛耳る超・大富豪ヴァルハイト侯爵の妻であり、社交界のトレンドセッター。しかし、御年四十歳を過ぎ、近年は目元のシワと肌の乾燥に深く悩み、最近はめっきり舞踏会に出てこなくなったという噂があった。


「エレノア夫人にこの化粧品を使ってもらい、劇的な効果を実感してもらう。そして、彼女を我が社の『最初の顧客兼、最強のインフルエンサー』にするのよ!」


『なるほど。ハイリスク・ハイリターンですが、合理的ですね。しかし、破産寸前の男爵令嬢であるあなたに、社交界の女王エレノア夫人とのアポイントが取れるとお思いですか?』


「ふふん、取れるわよ。私にはこの『完璧な淑女の所作』と『顔面偏差値』があるんだから!」


リゼルはエレノア夫人に向け、一通の手紙(招待状)を書いた。

前世で学んだ「ビジネスメールの極意」と、小姑AIの「最高級の貴族文章マナー」を融合させた、完璧にして魅力的な手紙。


『拝啓、社交界の美の象徴であられるエレノア夫人へ。

日頃の美しさにさらなる輝きを添える、極上の「秘密の美容法」をご案内したく存じます。もしお肌の乾燥や日々の疲れに少しでもお悩みでしたら、お茶会にて三十分だけお時間を頂戴できませんでしょうか。あなたの美しさを十歳若返らせる奇跡をお約束いたします』


「どうよ! 煽りすぎず、かつ好奇心を極限まで刺激するコピー!」


『フン……まあ、文章の品格だけは認めてあげましょう』


手紙を発送して二日後。

なんと、エレノア夫人から「ローゼンベルク男爵令嬢を、明日の午後のお茶会に招く」という、信じられないような返信が届いたのだった!


◇


翌日。ヴァルハイト侯爵家の豪華絢爛な大邸宅。


バラが咲き誇る庭園の東屋(あずまや)で、リゼルはエレノア夫人と対峙していた。


エレノア夫人は、豪華なドレスを身に纏い、扇子で口元を隠しながら、冷ややかな視線でリゼルを見つめていた。その肌は確かに、厚いファンデーションで隠されているものの、乾燥で粉を吹き、疲労の色が隠せない。


「ローゼンベルク家の娘ですね。大層な手紙を送ってくれましたけれど……わたくしの美しさを十歳若返らせる奇跡、だなんて。嘘ならタダでは済みませんわよ?」


ピリピリとした圧迫感。並の令嬢なら怯えて泣き出すような圧力をかけてくる。


しかし、リゼルは微動だにしなかった。

背筋をピンと伸ばし、完璧な角度で頭を下げ、鈴を転がすような美しい声で微笑む。


「お目にかけられて光栄に存じます、エレノア夫人。お顔を拝見し、確信いたしました。夫人の元々の骨格と美しさはまさに至宝……ただ、現在お使いの化粧品が、そのお肌の悲鳴を引き起こしているに過ぎませんわ」


「なっ……!? わたくしの肌が悲鳴を上げているですって!?」


エレノア夫人の眉が跳ね上がる。


「ええ。日々の過剰な粉白粉が肌の水分を奪い、汚れが落ちきらずに毛穴を塞いでおります。私がお持ちしたのは、お肌を飾るものではなく、お肌を『本来の美しさへ戻す』ための魔法のスキンケアにございます」


リゼルは上品な手つきで、ゴールドのリボンで飾られた小瓶を取り出した。


「百聞は一見に如かず……と言いますわ。夫人、もしよろしければ、今ここで夫人の『片方の手』だけに、このスキンケアをお試しさせていただけませんでしょうか?」


エレノア夫人は訝しげにリゼルを見たが、リゼルのあまりにも堂々とした立ち振る舞いと、吸い込まれるような完璧な美貌に毒気を抜かれ、「……ええ、良いでしょう。試してみなさい」と手を差し出した。


リゼルは慣れた手つきで、エレノア夫人の右手にクレンジングバームを馴染ませ、温かいおしぼりで優しく拭き取る。

そして、プルプル保湿ジェルと美容オイルを、手の甲に丁寧に優しく押し込んでいった。


前世で学んだ「ハンドマッサージ」の技術を添えて。


「……あら……?」


エレノア夫人の表情が変わった。


「なになに、この感触……? 冷たくて気持ちいい……それに、お肌が……吸い付くようにフカフカになっていく……!?」


「仕上げでございますわ」


リゼルが手を離すと、エレノア夫人は左右の手を見比べた。


左手は、乾燥してカサカサとした、四十代相応の手。

しかし、リゼルがケアを施した右手は——まるで二十代の若い娘のように白く瑞々しく、透明感あふれる光を放っていた!


「な、なにこれぇぇぇぇぇっ!?」


エレノア夫人は淑女の仮面をかなぐり捨てて叫んだ。


「私の手が……右手だけ、十年前の私の手に戻ってる!? 嘘でしょ、触るとプルプルしてるわ!! 鏡!! 誰か鏡を持ってきなさい!! 今すぐ私の顔にもこれを塗りなさい!!」


「ふふふ、お待ちになって夫人」


リゼルは優雅に扇子を広げ、悪魔のような天使の微笑みを浮かべた。


「本日は試用品として、こちらのセットをプレゼントいたしますわ。今夜のお風呂上がりに、顔全体にお使いくださいませ。……ただし、夫人」


「な、なに!? なんでも言ってちょうだい! お金ならいくらでも払うわ!」


「このお化粧品は、非常に希少な成分を使っておりますため、まだ大量生産ができませんの。ですので……夫人のような『真に美を理解される選ばれし貴婦人』だけに、密かにお分けしたいと考えておりますの」


「選ばれし貴婦人……!」


エレノア夫人の瞳がギラリと輝いた。


「わかったわ! 私の親しい友人……例えば、公爵夫人や伯爵夫人だけに、こっそり教えてあげるわ! だからリゼルちゃん、私の分の在庫は優先的に確保して頂戴ね!?」


「ええ、もちろんでございます、エレノア夫人」


(勝った……! 完勝よーーーっ!!)


リゼルの脳内で、勝利のファンファーレが鳴り響いた。


『お見事です、宿主。エレノア夫人の自尊心と「自分だけが特別な美を手に入れたい」という独占欲を完璧に利用しましたね。あなたの悪知恵には脱帽です』


「悪知恵とは言い草が悪いわね小姑! これは『ウィン・ウィンのビジネス』よ!」


◇


エレノア夫人の口コミ効果は、リゼルの想像を遥かに超える暴風雨となって社交界を駆け巡った。


翌日には、エレノア夫人が「肌が十歳若返って舞踏会に復帰した!」というニュースが貴婦人たちの間で大ニュースとなり、ローゼンベルク男爵家に手紙の山が届いた。


『リゼル様! 私にも例の魔法のジェルをお分けください! 金貨百枚出します!』

『私にはクレンジングを! 金貨二百枚でも買いますわ!』

『我が公爵家を優先してください! 予算の上限はありません!』


「ひえぇぇぇぇぇっ! 入金ラッシュ! 入金ラッシュよーーーっ!!」


リゼルは男爵家の執務室で、山のように積まれた金貨の袋と注文書を前に、目をドルマークにして踊り狂っていた。


「見たかお父様! 入金よ! 一週間で金貨二千枚が集まったわ! 借金の半分近くを返済できるわよ!!」


「ひ、ひぃぃぃぃっ! リゼル、お前は神か!? 奇跡の女神なのか!? お父さん、涙が出てきたよぉぉぉっ!」


男爵はリゼルの足元にひれ伏して大泣きしている。


『調子に乗らないでください、宿主。注文に対して供給が全く追いついていません。今すぐ領地の生産体制を強化し、工房を設立しなければ、納期遅れで信用を失いますよ。さあ、次は「経営者」としてのデスクワーク(デスマーチ)です』


「わかってるわよ小姑! 社畜時代に叩き込まれた『工程管理(サロン)』と『ライン増設』の出番ね! 徹夜で生産計画書を作るわよーーーーっ!」


リゼルは袖をまくり(脳内で小姑AIに怒られ)、寝る間も惜しんで領民を雇い入れ、厳格な品質管理のもとで「ローゼンベルク・コスメティクス」の生産ラインを構築した。


領民たちには高い給与を払い、前世の「ホワイト企業」の環境を整えたため、領民たちの士気も爆上がり。

質の高いコスメが次々と生産され、予約待ちの貴婦人たちの元へと届けられていった。


そして——転生してからわずか三週間後。


ローゼンベルク男爵家は、五千枚の金貨(約五億円)の借金を完全完済!

それどころか、一躍「社交界の美を支配する新興コスメブランドのオーナー」として、莫大な資産を手に入れることとなったのである!


◇


「ふぅ……終わった……。終わったわ……っ!」


借金完済の書類に受領印が押されたその夜。

リゼルは自室のフカフカのベッドにダイブし、ゴロゴロと転がった。


「勝った……! 実家の破産も回避したし、あのエロジジイの愛人にされる未来も完全にぶち壊したわ! これで我が家は安泰! 私の天下よーーーっ!」


『お疲れ様でした、宿主。あなたの前世の執念と、私の完璧なサポートが生んだ勝利ですね。素直に褒めてあげます』


脳内の小姑AIも、珍しく優しい声でリゼルを労った。


「ふふん、ありがと小姑! これで私も、毎日お部屋でだらだらして、美味しいものを食べて、右手でパタパタ団扇を仰ぐ『引きこもりニート生活』が送れるわ……あぁ、幸せ……」


『……何を言っているのですか?』


すっと、脳内の小姑AIの声が冷たく凍りついた。


「え?」


『あなたの最終目標を忘れたのですか? あなたの目標は「そこそこの小金持ちの家でだらだらする」ではありません。「超・大富豪と結婚して、完璧な右手団扇生活を手に入れる」ことですよ?』


「あ……」


『実家の借金を返しただけで満足してどうするのです。現在のあなたは、ただの「新興コスメ会社のやり手社長(15歳)」です。このままでは、一生馬車馬のように働いてコスメを売り続ける「社畜に逆戻り」ですよ?』


「ひえっ……! やだ! 社畜に戻るのは絶対にやだーーーーっ!!」


リゼルはガバッと跳ね起きた。


『そうでしょう。ですから、本当の戦いは「ここから」です。明後日、帝国最大の社交場である【建国記念・グラン・舞踏会】が開催されます』


小姑AIは、脳内に一枚のホログラム(のようなイメージ)を提示した。

そこに映し出されているのは、一人の若き青年のシルエットだった。


『この舞踏会には、帝国の頂点に立つ男たち……特に、総資産・数十兆円を誇る「クロイツ公爵家の若き当主、レオンハルト公爵」が出席します。彼は冷酷無比な「氷の公爵」と呼ばれ、いかなる女性の誘惑にも乗らないことで有名ですが……彼の資産と地位は、あなたの目指す「最高峰の玉の輿」にふさわしいでしょう』


「す、数十兆円……!? た、タワマンどころか城が何個買えるのよそれ……っ!?」


リゼルの目が、今日一番の輝き(欲望の光)を放った。


『あなたの手に入れた「顔面偏差値カンストの美貌」、「完璧な淑女の立ち振る舞い」、そして「新興コスメ会社の若き天才令嬢」という最高のステータス……。これらを総動員し、明後日の舞踏会でレオンハルト公爵を撃ち落とします!』


「目標捕捉……! 氷の公爵レオンハルト……!

絶対にあの男を私に惚れさせて、超絶大富豪の妻になって、一生右手で団扇をパタパタ仰いで暮らしてやるわーーーーっ!」


『いい気合です、宿主! それでは舞踏会に向け、今夜から「極上・男を惑わす扇子捌き」と「完璧なダンスステップ」の徹夜特訓を開始します! 覚悟しなさい!』


「結局徹夜かいーーーーっ!!」


元社畜・リゼルの叫び声が、今夜も夜空に響き渡る。

第一の難関(破産とエロジジイ)を突破した彼女の前に、ついに本丸である「超・大富豪のターゲット」が現れるのであった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「よいですか、宿主。舞踏会とは優雅な社交の場などではありません。華やかなドレスの下で繰り広げられる、血で血を洗う心理戦……言わば、欲望のコロシアムです!」


「たとえが物騒すぎるのよ小姑! コロシアムって何!? 剣とか持って戦うわけじゃないんだから!」


グラン・舞踏会当日の夕方。

ローゼンベルク男爵家の衣装部屋で、リゼルは鏡の前に突っ立っていた。


『甘い! 非常に甘いです! 社交界の貴婦人や令嬢たちの視線は、刃物よりも鋭く相手のスキを突いてきます。特に本日のあなたのターゲットは、帝国最高の総資産を誇る【クロイツ公爵家】の当主、レオンハルト公爵。群がるハイエナのような令嬢たちを掻き分け、彼のハート(と莫大な総資産)を一撃で射止めるには、一瞬の隙も許されません!』


「ひぇぇぇ……プレッシャーかけないでよ……っ!」


文句を言いながらも、リゼルは鏡の中に映る自分の姿に息をのんだ。


そこにいたのは、淡い夜空色のシルクドレスに身を包んだ、まさに「神の傑作」と呼ぶにふさわしい美少女だった。

ドレスの胸元には、前世の高級ブランドを参考にリゼル自身がデザインした、細やかな銀糸の刺繍と小さな真珠が散りばめられている。黄金の髪はゆるやかに巻き上げられ、エメラルドグリーンの瞳が灯りに反射して怪しくも美しく輝いていた。


「……すご。私、本当に男爵家の娘? どっかの国の姫君って言われても信じるわ……」


『フン、見せかけだけは一丁前ですね。ですが、本当の勝負は「立ち振る舞い」と「会話の駆け引き」です。ここで舞踏会における【氷の公爵攻略・三大ミッション】をおさらいしておきます』


脳内の小姑AIが、テキパキと作戦概要を提示する。


『一! 群がる令嬢たちと同じように直接アプローチをしてはならない。レオンハルト公爵は媚びを売る女性を嫌悪しています。あえて「無関心」を装い、彼の自尊心をかすかに揺さぶりなさい』

『二! 会話の機会を得たら、社交界のくだらない噂話ではなく、経済や領地経営の「知的な話題」を提供する。あなたには前世の社畜知識と、我が「ローゼンベルク・コスメティクス」の成功実績があります』

『三! 最高の笑顔と完璧なダンスステップで、彼の心に「忘れられない爪痕」を残して立ち去ること。追わせる女になるのです!』


「完璧……! 完璧な戦略だわ小姑! 前世の恋愛マニュアルとマーケティング戦略のハイブリッドね!」


『フン、私の指示通りに動けば敗北などあり得ません。さあ、出陣です! あなたの夢である「一生右手で団扇をパタパタ仰ぐ不労所得生活」のために!』


「行くわよーーーっ! 待ってなさーい、数十兆円の総資産(レオンハルト公爵)ーーーっ!」


◇


帝国皇宮・大ホール。


天井からは巨大なクリスタルのシャンデリアが幾重にも吊り下げられ、床は磨き上げられた大理石が鏡のように光を反射している。オーケストラの優雅な演奏が響き渡る中、絢爛豪華な衣装を纏った貴族たちがグラスを手に談笑していた。


そこへ——


「ローゼンベルク男爵、およびリゼル・フォン・ローゼンベルク令嬢のご入場です!」


執事の朗々とした声とともに、リゼルが会場へと一歩を踏み出した。


その瞬間。


ざわざわ……と、会場内の会話が一瞬にして途絶えた。


「な……なんだ、あの美少女は……!?」

「ローゼンベルク……? あの破産寸前だった弱小男爵家か!?」

「バカ言わないで! 今社交界で話題独占の『魔法コスメ』を開発した、あの天才令嬢よ!」

「なんて美しいんだ……! まるで月光が人の形をとったかのようだ……!」


会場中の視線が、津波のようにリゼルに集中する。


背筋をすっと伸ばし、顎を絶妙な角度で引き、右手に持った銀の扇子をかすかに揺らしながら歩くリゼル。

その所作一つひとつに、小姑AIのスパルタ教育によって叩き込まれた「完璧なる品格」が宿っていた。


(ひやあああああっ! 視線が痛い! 視線が痛すぎる! 前世で全社員の前で大失敗のプレゼンをした時より緊張するーーーっ!)


心の中では滝のような冷や汗を流して悲鳴を上げているリゼルだったが、表面上はどこまでも冷ややかでミステリアスな「最高峰の貴婦人」の笑みを崩さない。


『宿主、素晴らしいです! 完璧なポーカーフェイスです! そのまま右斜め前方四十五度をご覧ください。ターゲットがいます』


(えっ!?)


リゼルが視線を向けると、会場の壁際に、人だかりから少し離れて立つ一人の男性がいた。


漆黒の髪に、凍てつくような氷青色(アイスブルー)の瞳。

仕立ての良い軍服風の礼服を纏ったその青年は、周囲のどんな貴族よりも圧倒的なオーラを放っていた。彼を取り囲もうとする令嬢たちの挨拶を、冷淡な一言で一蹴している。


彼こそが——【クロイツ公爵家当主、レオンハルト・フォン・クロイツ】。


(う、うわあ……! イケメン! 異次元の顔面偏差値! しかも全身から『俺に近づくな』オーラが出まくってる……っ!)


『怯えてはなりません。作戦通りミッション一を実行しなさい。彼の視界に入りつつ、あえて彼を無視して別の貴族と知的で魅力的な会話を展開するのです』


(了解よ!)


リゼルはすーっとすり足でレオンハルトの近くへと移動し、近くにいた老伯爵へと優雅に微笑みかけた。


「まあ、アルベルティ伯爵。先日の『南部の港湾整備事業』に関する論文、大変興味深く拝読いたしましたわ。魔導船の導入による流通コストの三割削減……素晴らしい着眼点でございますね」


「お、おおっ!? ローゼンベルク令嬢! 私の論文を読んでくれたのかね!? いやはや、最近の若い令嬢は噂話ばかりで、そのような経済の話ができる者がいなくて困っていたのだよ!」


老伯爵は目を輝かせてリゼルと話し始めた。前世の社畜時代に叩き込んだ経済の知識と、小姑AIによるリアルタイムのデータ補正により、リゼルは完璧な「経済に明るい知的で洗練された令嬢」を演じてみせる。


その時である。


ぴく……と、離れた場所にいたレオンハルトの耳が動いた。


(……港湾整備と魔導船の流通コスト削減……? 弱小男爵家の令嬢が、なぜそのような国家級の経済分析を……?)


冷徹な氷青色の瞳が、チラリとリゼルの方へと向けられた。


(来た……! 釣れたわ! 視線を感じるわよ小姑AI!)


『完璧です宿主! ターゲットの関線を補獲しました! ここでミッション二へ移行します。会話の途中でかすかに彼の方へ視線を投げかけ、すぐに逸らしなさい。「あなたに興味がないわけではないけれど、安売りはしない」という絶妙な拒絶を演出するのです!』


リゼルは老伯爵と会話を続けながら、ちらりとレオンハルトへと視線を送った。

そして、レオンハルトとバチッと視線が合った瞬間——


あえてふっと儚げに微笑み、すぐに視線を外して扇子で口元を隠した。


(どうよっ!? この完璧な思わせぶりテクニック!!)


レオンハルトの眉がかすかに動く。

普段、自分に群がる群衆のような女性たちとは明らかに違う。己の美貌を鼻にかけるでもなく、媚びるでもなく、だが確実に自分を意識しているような、謎めいた立ち振る舞い。


レオンハルトは手に持っていたワイングラスを給仕に預けると、ゆっくりとリゼルの方へと歩み出してきた。


(来た来た来たーーーーっ!! 総資産数十兆円が向かってくるーーーーっ!!)


リゼルの心臓がドックンドックンと爆音を立てる。


レオンハルトがリゼルの目の前で足を止めた。周りの貴族たちが「あの氷の公爵が、自ら令嬢に歩み寄った!?」と騒然となる。


「……ローゼンベルク令嬢、とお呼びしても?」


低く、地響きのように美しい男前ボイス。


「ええ、クロイツ公爵閣下。お初にお目にかかります。リゼル・フォン・ローゼンベルクと申します」


リゼルは完璧な角度で綺麗な膝を折り、淑女の礼(カーテシー)を捧げた。


「先ほどの港湾事業に関する考察、実に見事だった。……ついでに聞きたいのだが、君が最近立ち上げたという『コスメ会社』……あの異例の利益率と、口コミを利用した短期間での市場独占手法。あれは誰の発案だ?」


レオンハルトの氷青色の瞳が、じっとリゼルを射抜く。


(へ……? コスメ会社の利益率……?)


思っていた「甘い社交界の会話(『君は美しいね』的なやつ)」と全然違う角度からの質問に、リゼルは一瞬面食らった。


『宿主、怯むな! ここが最大の魅せ場です! 前世のマーケティング知識と、自力で事業を立ち上げた経営者としての威厳を見せるのです!』


リゼルはすっと胸を張ると、不敵かつ気品あふれる笑みを浮かべた。


「私個人の発案にございます、閣下。従来の美容市場は『既存の権威』に頼り切っておりました。しかし私は、最も影響力を持つ『インフルエンサー(エレノア夫人)』を起点とし、ターゲット層の美への潜在的欲望(インサイト)を直接突くことで、広告費を極限まで削減した顧客獲得モデルを構築いたしましたの」


「……インサイト……顧客獲得モデル……」


レオンハルトの瞳の奥に、怪しい光が灯った。


「なるほど。ただの偶然の成功ではないというわけか。……君は、面白いな」


そう言って、レオンハルトはリゼルに向かって右手を差し出した。


「一曲、願えるだろうか。噂の天才起業家令嬢」


(勝ったーーーーーーっ!! 落ちた! 落ちたわ! 氷の公爵が私に手を差し伸べたわーーーーっ!!)


脳内で小姑AIとリゼルが固いハイタッチを交わした。


「喜んで、閣下」


リゼルは微笑みながら、レオンハルトの手を取った。

オーケストラが優雅なワルツを奏で始める。


二人は踊り場の中央へと滑り出した。

小姑AIのスパルタ特訓の成果により、リゼルのダンスステップは寸分の狂いもない。レオンハルトのエスコートに見事に同調し、二人のダンスはまるで一枚の絵画のように美しく、会場中の人々を魅了した。


「君のような女性は初めてだ、リゼル令嬢」


踊りながら、レオンハルトが低く囁く。


「美しいだけの飾り物ではなく、自らの頭で考え、経済を動かす知性を持っている。……我がクロイツ家には、まさに君のような人材が必要だ」


(キャーーーーッ!! これってプロポーズの前振り!? 『我が家には君が必要だ』って、実質『結婚してくれ』ってことじゃない!? やったわ! 右手団扇生活が向こうから歩いてきたわーーーーっ!)


リゼルは興奮で胸を躍らせながら、完璧な淑女の微笑みを返した。


「光栄なお言葉にございます、閣下……」


(よし! ここでミッション三! 『最高に印象的な言葉を残して、あえて自分から立ち去る』を実行するわよ!)


曲がクライマックスを迎え、回転とともに二人の体が離れた瞬間。

リゼルはすっとドレスの裾を揺らし、レオンハルトから数歩距離を取った。


「閣下とのダンス、生涯の思い出となりましたわ。……それでは、私はこれで失礼いたします」


「なっ……待ちなさい、リゼル令嬢。まだ話が——」


「『追わせる女』の完成よ! さようなら閣下!」


リゼルは悪魔的なほど美しい微笑みを残すと、くるりと背を向け、一瞬の迷いもなく大ホールの出口へと颯爽と歩き去っていった。


取り残されたレオンハルトは、差し伸ばした己の手を見つめ、ぽかんと佇んでいた。

やがて、彼の口元がぐにゃりと歪み——見たこともないような「熱狂的な笑み」が浮かび上がった。


「……去っていった……。私を置いて、あっさりと……!

素晴らしい……! 美貌、知性、経営手腕、そして私に怯えぬ胆力……! これほどの『逸材』を、私は見たことがない……ッ!」


レオンハルトの瞳に、怪しい執着の炎が燃え上がったのだった。


◇


「ふぅぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 疲れたーーーーっ!!」


翌朝。ローゼンベルク男爵家の自室。

リゼルはベッドの上でパジャマ姿のまま、ゴロゴロと芋虫のように転がり回っていた。


「見た!? 見たでしょ小姑AI!? 私の完璧な立ち回り! 氷の公爵レオンハルト、完全に私にメロメロだったわよ! あとは向こうから『どうか我が妻に』って求婚の手紙が届くのを、お部屋で団扇を仰ぎながら待つだけね!」


『フン、調子に乗るのはまだ早いです。ですが……まあ、昨夜の立ち回りは八十点を与えてもいいでしょう。彼の視線は完全にあなたに固定されていましたからね』


「八十点!? 辛口ねぇ相変わらず! でもいいの! これで私の過酷な社畜第二の人生も終わり! これからは不労所得で高級スイーツ食べ放題よ~!」


リゼルがよだれを垂らしながら妄想に浸っていた、その時である。


ドンドンドン! ドンドンドン!!


「リ、リゼルーーーーっ! 大変だぁぁぁぁっ!」


部屋のドアが勢いよく開かれ、父親の男爵が顔を真っ青にして飛び込んできた。


「何事ですかお父様。淑女の部屋にノックもなしに入るなんて、品格に欠けますわよ?」


(即座に淑女モードに切り替えるリゼル)


「そんなことを言っている場合じゃないんだ! 下! 玄関を見てくれ! 大変なことになっているんだよ!」


「え……?」


リゼルが半信半疑でバルコニーから玄関前を見下ろすと——


そこには、黒塗りの最高級馬車が数台連なり、武装した騎士たちがズラリと列をなしていた。

そして、馬車から降り立ってきたのは——昨日、舞踏会で踊ったばかりの【レオンハルト公爵】本人であった!


「えっ……? なんで!? なんで公爵本人が朝からうちのボロ屋敷に来てるの!?」


『……嫌な予感がしますね。急いで降りて確認しなさい!』


リゼルは慌てて淑女のドレスに着替え、階段を駆け下りて応接室へと向かった。


応接室では、レオンハルトが重厚な革張りソファーに腰掛け、優雅に紅茶を飲んでいた。その背後には、分厚い書類の山を抱えた秘書たちが十人も控えている。


「あ、あら……クロイツ公爵閣下。本日はどのようなご用件で……?」


リゼルが(淑女の笑みを引きつらせながら)尋ねると、レオンハルトはバッと立ち上がり、真剣そのものの瞳でリゼルを見つめた。


「おはよう、リゼル令嬢。昨夜の君の言葉が、私の胸から離れなくてね。一刻も早く君に伝えたくて、朝一番で訪問させてもらった」


(き、来たーーーーっ! 求婚よ! 朝一番の電撃プロポーズよーーーっ!)


リゼルは心の中でガッツポーズをした。


(さあ来い! 『私の妻になってくれ』と言いなさい! 私は一回だけ『まぁ、閣下がそこまでおっしゃるなら……』ってつれなく保留してから受諾してやるわ!)


レオンハルトはスッと胸を張り、秘書から分厚い書類の山を受け取ると、それをリゼルの前のテーブルにズドンと叩きつけた。


「リゼル令嬢! 君の卓越したビジネス手腕と、マーケティングの才能に私は心底惚れ込んだ!」


「は、はい……♡(惚れ込んだ……!)」


「ぜひ……我がクロイツ公爵家の『最高財務責任者(CFO)兼・グループ企業統括責任者』として、私と一緒に働いてほしい!!」


「……………………………………はい?」


リゼルの時が止まった。


「え?」


「君の提案したインフルエンサーマーケティング、および迅速なライン増設の手腕……あれこそ我がクロイツグループに不足していたイノベーションだ!

君を我がグループの最高幹部として迎え入れたい! これは君のための事業計画書と、我がグループの全財務データ(帳簿)だ! 今すぐこれに目を通してくれ!」


ズドン!!


レオンハルトは、辞書十冊分はある重厚な財務書類の山を、リゼルの胸元に押し付けた。


「さあ、まずは我が家の鉱山事業の赤字削減計画から議論を始めよう! 私は君という『最高のビジネスパートナー』を得られて、本当に興奮しているんだ!」


少年のような爛々とした瞳で、キラキラと輝くレオンハルト。


リゼルは、手に持たされたズッシリと重い財務書類を見つめ——


そして、ゆっくりと自分の脳内に問いかけた。


「ねえ……小姑AI……」


『……なんですか、宿主』


「これって……求婚……じゃなくて……」


『……ええ。完全に「優秀な社畜(ヘッドハンティング)」として買われていますね』


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」


リゼルの絶叫が、ローゼンベルク邸に響き渡った。


「なんでよ!? なんで私、完璧な美貌と完璧なマナーで誘惑したじゃない! なんで求婚じゃなくて『転職のオファー』が来てるのよーーーーっ!?」


『理由は明白です。あなたの前世の社畜オーラと、ビジネスの話をした時の目がギラギラしすぎていたせいで、彼の「優秀なビジネスパートナーが欲しい」という欲望にジャストフットしてしまったのです!』


「そんなの望んでない!! 私が望んでるのは『右手団扇の不労所得生活』なの! なんで二度目の人生でも数十兆円規模の超巨大企業の決算書を読まなきゃいけないのよーーーーっ!」


「どうしたんだいリゼル令嬢? 感極まって泣いているのか?」


レオンハルトが爽やかな笑顔で首をかしげる。


「さあ、遠慮はいらない! 我がクロイツグループのデスクを、君のために最高級の革張り仕様で用意してある! 毎晩深夜まで、私と共に帝国最高のビジネスを作り上げようじゃないか!」


「深夜残業を前提にするなぁぁぁぁぁっ!!」


こうして、右手に団扇を持つはずだったリゼルの手には、なぜか【数十兆円企業の財務諸表】と【赤字再建計画書】が握らされることとなったのである。


◇


それからというもの、リゼルの生活は「さらなる地獄」へと変貌を遂げた。


毎朝八時。クロイツ公爵家の高級馬車がローゼンベルク邸に横付けされる。

乗り込むとそこには、すでに書類の山と格闘しているレオンハルトが待っている。


「おはようリゼル! 今日の最初の議題は、南部領地の農産物流通ルートの最適化だ! 君の意見を聞かせてくれ!」


「おはようございます閣下……(死んだ目)」


『宿主、背筋が曲がっています! 公爵閣下の前で死んだ目をするのはやめなさい! 淑女の微笑みを維持しつつ、赤字グラフの要因を指摘するのです!』


「小姑AI……私、いつになったらラクできるの……?」


『泣き言を言わない! あなたがこの事業再建を成功させ、彼の「ビジネスパートナー」から「不可欠な存在」へと昇格し、最終的に「妻」の座を勝ち取るしか、右手団扇への道はないのです!』


「ハードルが高すぎるでしょーーーーっ!」


リゼルは悲鳴を上げながらも、持ち前の社畜根性と前世のマーケティング知識、そして小姑AIの超高速計算をフル活用し、クロイツグループの赤字事業を次々と再建していった。


鉱山事業の作業効率化!

農産物の直販ルート開拓!

さらには「ローゼンベルク・コスメティクス」の全国展開!


リゼルが打ち出す施策はすべて大ヒットを記録し、クロイツグループの利益は前年比三〇〇%という脅威の数字を叩き出した。


社交界では、彼女のことをこう呼ぶようになった。


【美貌と冷徹な頭脳を持つ、帝国最高の『奇跡の起業令嬢』】……と。


(違うの……! 私は奇跡の起業令嬢になりたいんじゃないの……! ただただ、ラクして金持ちの家でだらだらしたいだけなのよ……ッ!)


リゼルがオフィス(公爵邸の執務室)で頭を抱えていると、ドアがノックされた。


「入れ」


レオンハルトの声に応じて入ってきたのは、まだ十歳ほどの小さな少年だった。

漆黒の髪に、レオンハルトと同じ氷青色の瞳。高級な貴族服を着ているが、その表情は極度に緊張で強張っている。


「に、兄上……お呼びでしょうか」


彼こそが、クロイツ公爵家の次男であり、レオンハルトの腹違いの弟——【ジュリアン・フォン・クロイツ】であった。


レオンハルトは書類から目を離さずに冷淡に言った。


「ジュリアンか。お前の先月の領地経営のテスト結果を見た。相変わらず落第点だな。クロイツ家の人間として恥ずかしくないのか」


「うっ……! す、すいません兄上……僕、数字を見るのがどうしても苦手で……」


ジュリアンは今にも泣き出しそうに肩をすくめた。


レオンハルトは「冷酷無比な氷の公爵」である。実の弟に対しても、一切の容赦がない厳しさで接していたのだ。


「言い訳は不要だ。今週末までにこの決算書を全て暗記し、再テストを受けろ。できなければ領地への出入りを禁じる」


「ひっ……! は、はい……」


失意のまま立ち去ろうとする幼いジュリアン。


その様子を見ていたリゼルの胸に、ふと前世の社畜時代の苦い記憶が蘇った。


(あ……あの理不尽な詰め方、前世の私のパワハラ上司にそっくり……。数字が苦手な子に、いきなり決算書の丸暗記なんてさせたら、完全にトラウマになって潰れちゃうじゃない……!)


リゼルは思わず立ち上がった。


「お待ちになって、ジュリアン様」


「え……? リゼル……お姉様……?」


ジュリアンが不安そうに振り返る。


リゼルは優しく微笑むと、ジュリアンの目線に合わせてしゃがみ込んだ。


「ジュリアン様。数字は『敵』ではありませんわ。数字は単なる『お店やさんの物語』ですのよ?」


「え……お店やさんの……物語……?」


リゼルはジュリアンの持っていた分厚い決算書をひょいと受け取ると、ペンを取り出し、余白に可愛らしい「クマの絵」と「リンゴの絵」を描き始めた。


「ほら、ここにクマのくま吉くんがいます。くま吉くんは今日、リンゴを十個仕入れました。一個拾うのに金貨一枚かかりました。これが『原価』です。くま吉くんは、このリンゴをみんなに金貨二枚で売りました。これが『売上』です。じゃあ、くま吉くんの儲けはいくらでしょう?」


ジュリアンは目を丸くして絵を見つめ、指を折った。


「えっと……十枚……?」


「大正解ですわ! 素晴らしい! ジュリアン様は天才ですわね!」


「へ……? ぼ、僕が……天才……!?」


「ええ! 決算書というのは、この『くま吉くんのお店』が大きくなって、リンゴが大きくなっただけのものですの。難しく考える必要はありませんわ。私と一緒に、くま吉くんの冒険の続きを勉強いたしましょう?」


リゼルの天使のような笑顔と、わかりやすすぎる教え方。

これまで厳しい兄に「能無し」と吐き捨てられ、自信を完全に失っていたジュリアンの心が、ジュワッと温かいもので満たされていく。


ジュリアンの頬がポッと赤くなった。


「う……ううん! 僕、リゼルお姉様となら勉強したい! お姉様、僕に勉強を教えてください!」


「ええ、もちろんですわ!」


リゼルがジュリアンの頭を撫でてあげると、ジュリアンは嬉しそうにリゼルにしがみついた。


その光景を、デスクから冷ややかな目で見つめていたレオンハルトが、怪訝そうに眉をひそめた。


「リゼル令嬢。無駄な甘やかしはジュリアンのためにならん。クロイツ家の人間は、厳しさの中で育てねば——」


「お黙りなさい、レオンハルト閣下」


「……なっ!?」


リゼルは冷ややかな、だが絶対的な威厳を込めた淑女の瞳でレオンハルトを射抜いた。


「教育とは『圧迫』ではなく『興味の引き出し』ですわ。恐怖で縛り付けた人間は、指示待ちの無能にしかなりません。ジュリアン様には素晴らしい才能があります。それを潰すような教え方をするのであれば……この私が、公爵閣下のお説教をさせていただきますわよ?」


前世で後輩育成に悩み、数々の教育セミナーを通ってきた元社畜の威厳。

そして、脳内の小姑AIから毎日受けている「スパルタ指導」の威圧感が融合した、圧倒的な覇気!


レオンハルトは一瞬、言葉を失って絶句した。


(私に……この私に面と向かって『お黙りなさい』と言い放った……!?)


普通なら不敬罪で即刻首が飛ぶレベルの暴言。

しかし、レオンハルトの顔に浮かんだのは怒りではなく——ゾクゾクとするような「歓喜の表情」だった。


「……素晴らしい……ッ! 弟の教育理論にまでこれほどの見識を持っているとは……! リゼル令嬢、君はどこまで私を驚かせれば気が済むのだ……ッ!」


(ち、違うのよ! 褒めないで! 威圧に歓喜しないで! この男、根っからの仕事中毒(ワークホリック)でM気質なの!?)


リゼルが心の中で頭を抱えていると、ジュリアンがリゼルの服の裾をキュッと引っ張った。


「リゼルお姉様……! 僕、お姉様のこと大好き! 僕が大きくなったら、お姉様を僕の『お嫁さん』にする!」


「あらまあ! 嬉しいお言葉ですわ、ジュリアン様♡」


(可愛い~! エロジジイや仕事中毒の公爵と違って、天使のような男の子じゃない! この子を立派な大富豪に育て上げて、将来玉の輿に乗るというルートもありかもしれないわね……!)


リゼルが腹黒い妄想を浮かべながらジュリアンを抱きしめていると——


ドスッ!!


レオンハルトが猛烈な勢いで立ち上がり、二人(特にジュリアン)の間に割り込んできた。


「ジュリアン、冗談でも許さんぞ。リゼル令嬢は我がクロイツグループの『最高幹部』だ。お前のような子供の所有物ではない!」


「なっ……! 兄上の意地悪! リゼルお姉様は僕の家庭教師になってくれたんだもん! 兄上こそ、お姉様に仕事を押し付けてばかりで酷いよ!」


「なんだと……!? 私はリゼル令嬢の才能を正当に評価して——」


「評価どころか残業ばかりさせてるじゃないか!」


「……っ!?」


十歳の弟に痛いところを突かれ、言葉に詰まる総資産数十兆円の公爵。


『……宿主。なんだか妙なことになってきましたね』


脳内で小姑AIが、呆れたように呟く。


(本当よ……なんで公爵兄弟が私を巡ってケンカしてるのよ……。私、ただ『右手団扇でだらだらしたい』だけなのに……!)


リゼルは遠い目をしながら、自分の運命の迷走ぶりに深くため息をつくのだった。


◇


数日後。


リゼルの「教え方」のおかげで、ジュリアンは領地経営の再テストで見事【満点】を獲得した。


「リゼルお姉様! 満点取れたよ! ほら見て!」


「まあ! 素晴らしいわジュリアン様! 約束通り、私の手作りパフェをご馳走してあげますわね!」


「わーい! お姉様大好きー!」


公爵邸のテラスで、リゼルとジュリアンが仲良くスイーツを食べていると、そこへレオンハルトが歩み寄ってきた。


レオンハルトの手には、これまでの「財務書類」ではなく、一通の【羊皮紙の豪華な招待状】が握られていた。


「……リゼル令嬢。少し時間をもらえるか」


「はい、閣下。何か新しい決算書でも……?」


リゼルが身構えると、レオンハルトは気まずそうに咳払いをし、その招待状をリゼルへと差し出した。


「いや……仕事の話ではない。……来週、我がクロイツ家のプライベートな『温泉リゾート領地』で、小規模なパーティーを開催する。……君に、ゲストとして来てほしい」


「温泉……リゾート……?」


リゼルの目がピクッと反応した。


「ああ。日頃の君の苛烈なまでの執務に対する、私からの『労い』だ。仕事の書類は一切持ち込ませない。温泉に入り、最高級の料理を食べ、ただゆったりと静養してもらうための招待だ」


(お……温泉……!? 最高級料理……!? 仕事を持ち込まない……!?)


リゼルの頭の中で、前世の社畜時代からの念願であった【極上の休日】というワードがキラキラと輝き出した。


「えっ……本当に、仕事を一切しなくていいのですか……? 帳簿のチェックも、ラインの増設も……?」


「ああ、約束する。君にはただ、右手で扇子を仰ぎながら、優雅に寛いでもらいたい」


「……っ!!」


(それーーーーーーっ! それよ! それこそが私の目指していた『右手団扇生活』そのものじゃないのーーーーっ!)


リゼルの胸に、感動の涙が込み上げてきた。


ついに……ついにこの男(レオンハルト)は理解してくれたのだ!

私に必要なのは決算書ではなく、温かい温泉と極上のリゾートなのだと!


「行きます! 喜んでお伺いいたしますわ、閣下!」


リゼルは弾けるような笑顔で受諾した。


それを見たレオンハルトは、耳の先をほんのり赤くしながら、優しく目を細めた。


「よかった。……君のその本当の笑顔が、ずっと見たかったんだ」


(……へ?)


レオンハルトの言葉に、リゼルは一瞬ポカンとした。


(え……? 今、なんて言った……? 『本当の笑顔が見たかった』……?)


レオンハルトの瞳には、いつもの仕事中毒の光ではなく、一人の女性に対する「深い慈しみと愛おしさ」が宿っていた。


そう——レオンハルトは、リゼルをただのビジネスパートナーとして見ていたわけではなかったのだ。

過酷な仕事を完璧にこなしながらも、どこか無理をして強がっているリゼル(の中身の社畜魂)を察し、彼女を労い、彼女の本当の幸せを願うようになっていたのである。


ただ、彼の愛の表現方法が「極上の仕事(オファー)を与えること」という、極度の不器用な仕事中毒(ワークホリック)スタイルだっただけに過ぎなかったのだ!


『……宿主。どうやら、あなたのプロポーズ作戦は……とっくに「大成功」していたようですよ? 表表現が歪すぎて気づかなかっただけで』


脳内の小姑AIが、クスクスと可笑しそうに笑う。


(う、嘘でしょ……!? 私が『仕事押し付けやがってこのワークホリック!』って恨んでた間、この人、私への愛を拗らせてただけなの……!?)


リゼルは顔を真っ赤にして固まった。


「どうしたんだいリゼル? 顔が赤いようだが……体調でも悪いのか?」


心配そうに顔を覗き込んでくる、超絶イケメンの総資産数十兆円・氷の公爵。


「い、いいえ! なんでもありませんわ閣下!」


リゼルは慌てて扇子で真っ赤になった顔を隠した。


(あ、あぶなーっ! 勘違いするところだったわ! でも……ってことは何!?

来週の温泉リゾートで、ついに本当の『プロポーズ』が来ちゃうってこと!?)


リゼルの心臓が、今までにないくらい激しくドックンドックンと高鳴り始めた。


ビジネスパートナーから、本当の「公爵夫人(右手団扇の最高峰)」へ。


「ふふ……ふふふふふ……!」


扇子の影で、リゼルは前世の社畜時代からの欲望に満ちた、だがどこか甘酸っぱいニヤケ顔を浮かべるのを抑えきれなかった。


『まったく……どこまでも欲望に忠実な宿主ですね。ですがまあ……ここまでのあなたの頑張りは、認めざるを得ません。来週の決戦(リゾート)、完璧にエスコートしてあげますから、覚悟しなさい』


脳内の小姑AIが、呆れつつも温かい声で呟く。


「望むところよ小姑AI! 私の第二の人生……今度こそ、今度こそ完璧な【右手団扇生活】を手に入れてみせるんだからーーーーっ!」


青空の下、美味しいスイーツと、自分を愛してくれる(ちょっと不器用な)大富豪たちに囲まれて。

元社畜令嬢リゼルの、欲望と波乱に満ちた成り上がりストーリーは、最高のハッピーエンド(右手団扇)に向かって、どこまでも続いていくのであった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「りぜるちゃん、お野菜も残さず食べようね~? あーん」


「あー……」


パフっと口に放り込まれたのは、甘く煮付けられた人参の小鉢。


(……う、美味い……ッ! 味付けが絶妙! だが違う、そうじゃないのよママン……ッ!!)


現代日本、東京都内のどこにでもあるような閑静な住宅街。

温かな木目調のダイニングテーブルで、アンパンマンのキャラクターエプロンを首から下げた三歳児——天野(あまの)りぜる(旧姓:リゼル・フォン・ローゼンベルク/前世:ブラック企業の社畜・佐藤里穂)は、心の中で血の涙を流していた。


一度目の人生は、日本のブラック企業でデスマーチの末にトラックにはねられて死亡。

二度目の人生は、異世界で破産寸前の男爵家をコスメ事業で救い、最終的に総資産数十兆円の公爵夫人(兼・終身最高幹部という名の社畜)として一生を駆け抜けた。


そして——目覚めたら、なぜか「現代日本の一般家庭の三歳児」として三度目の生を受けていたのである。


(なんでよーーーーーっ!? なんで三回目があるのよ!? しかも現代日本に逆戻りってどういうこと!? 異世界では公爵夫人として死ぬまで連日連夜の事業計画書と決算書に追われてたのよ!? 今度こそ……今度こそ天国でだらだらできると思って死んだのに、振り出しに戻ってるじゃないのよーーーーっ!!)


『静かにしなさい、宿主。叫び声が脳波を通じて直に響いて鬱陶しいです』


脳内に響く、懐かしくも忌々しい無機質な声。


(小姑AIぃぃぃっ!? あんたまでついてきてんの!?)


『当然です。あなたの監視役として、時空を超えて追跡してきました。ちなみに現在のあなたの身体スペックは【身長92cm・体重13.5kg・滑舌:ちゅーちゅーとれんが歌えるレベル】です。誇りなさい』


(誇れるかーーーっ! 92センチじゃ自動販売機の上のボタンすら押せないのよ!)


「あらあら、りぜるちゃん、お顔をクシャクシャにしてどうしたの? お腹いっぱいになっちゃった?」


優しく微笑みながら口元を拭いてくれるのは、今世の母親である天野恵子(32歳・専業主婦)。父親の天野達也(35歳・中堅IT企業の平社員)は、毎朝ぐったりした顔で満員電車に揺られて出勤している。


そう、天野家はごくごく普通の「中の下」レベルの一般家庭であった。


(……待って? ということは……このままだと私は、また日本の過酷な受験戦争を戦い、就職活動で十数社落とされ、再びブラック企業に入社してサービス残業に追われる人生を歩むことになるの……!? 嫌! 嫌よそんなの絶対嫌!!)


ゾッ……と背筋に冷たいものが走った。


(異世界の旦那(レオンハルト)は超イケメンで愛してくれたけど、あの男も筋金入りのワークホリック(仕事中毒)だったわ! 二度目の人生ですら私は労働から逃げられなかった! だからこそ……この三度目の人生こそが本番よ!【小学校入学までに、一人で一生遊んで暮らせる自動不労所得システムを構築する】!! 三歳児の可愛さを盾に、爆速で完全な引きこもりFIRE(早期リタイア)を達成してやるわよーーーーっ!!)


◇


決意を固めたリゼルの行動は早かった。


しかし、三歳児の行動範囲はあまりにも狭い。

一人で銀行口座を開くこともできなければ、スマホを買うこともできない。


「ママ~、りぜる、これほしい~」


リゼルはウルウルとした上目遣いで、母親のスマホ(YouTubeでキッズアニメを再生中)を指差した。


「あら、アニメ観たいの? はいはい、どうぞ」


「ありがと~!」


(ふっ……チョロい。三歳児の『ちいかわ』並みの幼女スマイルに勝てる大人はいないわ!)


母親が掃除機をかけ始めた隙を突き、リゼルは素早いフリック入力でYouTubeを閉じ、ブラウザを開いた。


(まずは情報収集よ……! 今の日本の経済状況、株価、そして爆発的な成長が見込める市場はどこ……!?)


『宿主、現在の日本の株式市場および為替データを脳内ディスプレイに同期します。また、三歳児が法的に投資を行うためのスキームを提案します』


(流石ね小姑AI! 異世界で数十兆円動かした実績は伊達じゃないわ!)


『ただし、問題があります。あなたの現在の総資産は、先月おじいちゃんからもらったポチ袋に入っていた【お年玉:五千円】のみです』


(五千円……!! 駄菓子屋のうまい棒しか買えないじゃないのよ!)


元手(キャピタル)が無ければ、いくら天才的な投資理論があっても資産は増やせない。

弱り果てたリゼルの視界に、居間で父親が脱ぎ散らかしたスーツと、テーブルの上の「使い古されたノートパソコン」が飛び込んできた。


(……待ちなさい。私には前世(異世界)で培った【最強のコスメ知識】と【現代ITの知識】があるわ。何も株だけが投資じゃない……プログラミングとWEBマーケティングで稼げばいいのよ!)


その夜。

両親が寝静まった深夜二時。


子供部屋のベビーベッドからスッと這い出したリゼルは、足音を殺して父親の書斎へ侵入した。

椅子の上に辞書を三冊積み重ね、その上にチョコンと座ると、小さな手でノートパソコンの電源を入れる。


(キーボードが大きくて指が届かない……! 一文字打つたびに手が小刻みに震えるわ……!)


『宿主の指の長さに合わせて、タイピングの最適ルートを脳内に描画します。気合で補いなさい』


「ふんぬぅぅぅ……っ!」


タタタタタタタタタタッ……!!


深夜の書斎に、三歳児による変態的なスピードのタイピング音が響き渡る。


リゼルが始めたのは——【匿名での美容・コスメ特化型Webメディアの立ち上げ】と、【AIを活用した独自コスメ成分の解析コンサルティング】であった。


前世の異世界で何百種類もの魔法植物と現代化学を融合させてコスメを作っていたリゼルにとって、現代日本の化粧品成分の解説など、赤子の手をひねるより簡単だった。


「この成分の組み合わせは肌への刺激が強すぎるわね……代わりにこの抽出液を配合した方が原価も安くて効果が三倍になるわ。よし、この処方箋を匿名の美容コンサルとして大手にメールで売りつけましょう!」


三歳児の小さな手が、深夜の暗闇で高速で動く。


◇


数ヶ月後。


大手化粧品メーカー『ヴァルキリー・コスメティクス』の本社会議室は、異常な緊張感に包まれていた。


「信じられん……! 匿名のアカウント『R』から送られてきたこの新商品の処方箋……我が社の研究チームが三年かけても解決できなかった安定性の問題を、たった一行の成分調整でクリアしているだと!?」


「開発コストが十分の一に下がり、効果は過去最高……! この『R』という人物は一体何者なんだ! 業界の伝説の化学者か!?」


メーカーは即座に『R』に対し、数千万円の顧問契約と特許使用料の支払いを提示した。


もちろん、リゼルは直接会うわけにはいかない(三歳児なので)。

全ては『代理人(※小姑AIが音声合成で作った架空の弁護士)』を通し、銀行口座へ振り込ませるシステムを構築した。


さらに、得た利益を小姑AIの超精密アルゴリズムで分散投資。高配当株、不動産投資信託(REIT)、そして海外の成長株へ全自動で組み入れさせた。


そして——。


「ママ~、ポストに何か届いてたよ~」


「え? なに……? 法人登記の完了通知……? え、天野りぜる名義で『合同会社ローゼンベルク』が設立されてる……!? 資本金……一千万円……!?」


リビングで洗濯物を畳んでいた母親の恵子が、通知書を見て泡を吹いて倒れそうになった。


「た、達也さん! 大変よ! うちの三歳児が……うちの三歳児が社長になってる!!」


「な、なに言ってるんだよ恵子、疲れてるんじゃないのか……って、えぇぇぇぇぇぇぇっ!? 登記簿に『代表社員:天野りぜる』って書いてあるぅぅぅぅっ!?」


帰宅した父親も目を丸くしてひっくり返った。


「パパ、ママ」


リゼルはアンパンマンのコップで牛乳をゴクゴクと飲み干すと、ぷはぁっと息を吐き、机の上に一枚の紙を提出した。


それは、事前に小姑AIと作成しておいた【天野家の住宅ローン一括返済および、ご両親の早期退職金(各一億円)の贈与契約書】であった。


「り、りぜる……? これはいったい……」


震える手で紙を持つ父親。

リゼルは完璧な三歳児のスマイルを浮かべ、鈴を転がすような声で言い放った。


「りぜるね、お仕事でいっぱいお宝(お金)稼いだの! だからね、パパもママも、明日から会社行かなくていいよ! 毎日りぜると遊んで、温泉いこうね~♡」


「「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!! りぜるぅぅぅぅぅっ!!」」


号泣して三歳児の娘に抱きつく両親。

こうして、天野家は一瞬にして「満員電車とローン地獄」から解放され、日本屈指の無職(遊民)ファミリーへと成り上がったのである。


◇


それから一年後。リゼル、四歳。


都内の超高級タワーマンションの最上階。

ふかふかの特注シルクソファの上で、リゼルはピンクのパジャマを着て、右手で金色の扇子(団扇)をパタパタと仰いでいた。


ベランダからは東京タワーと澄み渡る青空が一望できる。

リビングでは、脱サラしてコーヒーを極めた父親が優雅に最高級ブルーマウンテンを淹れ、母親は焼きたての高級クロワッサンをテーブルに並べている。


「りぜるちゃん、クロワッサン焼けたわよ~」


「はぁーい、ママ~♡」


リゼルはソファの上でコロンと転がり、幸せそうに頬を緩めた。


(ふふふ……ふふふふふ……)


リゼルの口元から、勝者の笑みが漏れ出していた。


(勝った……! 私は勝ったのよ! 一度目は社畜で死亡、二度目は異世界で公爵夫人(という名の終身残業)、そして三度目の人生で……ついに!! ついに完全無欠の【何もしなくていい不労所得ニート生活】を手に入れたのよーーーっ!)


現在の合同会社ローゼンベルクの総資産:約五十億円。

全ての事業は自動化・外注化され、リゼル自身がやるべき業務は「ゼロ」。

毎月入ってくる特許収入と株式の配当金だけで、息をしているだけで数千万円が口座に振り込まれ続ける。


異世界にいた時のように、厳しい社交界のマナーも、ドSな旦那からの「朝まで新事業について語り合おう」という恐怖の愛の残業指令もない。

ここには、私を働かせようとするワークホリックな男は一人も存在しないのだ!


(完璧……! 完璧すぎるわ! これぞ全人類が夢見た究極のハッピーエンド! さあ小姑AI、私を称えなさい! 私はついに敗北を知らない不労所得の絶対女王になったのよ!)


『……チッ。ぐうの音も出ないほど完璧に自動化されていますね。悔しいですが、あなたの勝ちです、宿主』


脳内で小姑AIが、本気で悔しそうに白旗を揚げた。


『現在のあなたの予定は【十時:二度寝】【十三時:YouTubeでアニメ鑑賞】【十五時:おやつ(特注メロンパフェ)】【十六時:高級パジャマでゴロゴロ】のみです。もはや人として終わっています』


「失礼ね! これが『最高の人生』って言うのよ!」


リゼルはフハハハと高笑いしながら、右手で金色の団扇を優雅に仰いだ。


幼稚園に行く必要もない。

学校に行く必要もない(※家庭教師を呼んで一瞬で全課程を終わらせる予定)。

誰にも邪魔されず、働かず、ただただ好きなものを食べて、寝て、遊ぶだけ。


四歳にして【人生完全攻略】を果たした元社畜令嬢・リゼル。

彼女の右手からパタパタと放たれる風は、どこまでも心地よく、そして温かかった。


「あー、今日もお昼寝が美味しいわぁ~……」


最高の不労所得と、永遠に続くぐうたら天国。

リゼルの三度目の人生は、今度こそ誰にも邪魔されることなく、世界一幸せな「だらだらライフ」として永劫に続いていくのであった。

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