6.リーゼロッテ・ドロス、の前の話 2
職場でも、彼との接触が自然と増えて行った頃。神妙な顔をした先輩女性に声をかけられた。面倒見の良い、優しい先輩だ。
そしてお決まりの給湯室でのその話は、にわかには信じたくないことだった。
「最近、本社からの人とずいぶん一緒にいるけれど、付き合ってたりしないわよね?」
「ま、まさか!私なんて相手にされませんよ。もの珍しくていじられているだけで」
「……そう?だったらいいの。彼、早くに結婚していて東京に奥さんと子どもがいるから。嵌まる前にと思ったけど、余計な心配だったわね」
「そ、そうですよ、やだなあ」
あはははは、と、いつものように笑えていたかも分からないし、その日はどう仕事をして、どう帰ったかも覚えていない。
私は馬鹿だ。きちんと把握していなかったから。みんなと早く繋がってれば知れたことなのに。
悲しいのか怒りたいのか、涙は出なかった。
ただ、ただ、この子のために何とかしなくちゃ、って。
彼は結婚しようって。それは今のご家族を捨てて?それとも私に都合よく言っただけ?……どちらにしても、だめだ。私は誰かの幸せを壊してまで、自分の幸せは望まない。……望めなく、なってしまっている。だって、いろんな立場の子どもたちを見てきてしまっていたから。
「家族、作りたかったけど。ううん、この子とちゃんと家族になる」
いろんな環境を確かに見てきた。厳しい現実も。でもシングルで頑張っている人だって同じ様に見てきた。
会社には相手は隠して、職場でシングルマザーになると話して、何とか仕事を続けさせてもらって。難しくても、しがみつくんだ。それで、それより、まずは。
「彼とは、別れないと」
私は、「奥様がいることを知りました。私とは別れてください。さようなら」と、メッセージを送り、彼の連絡先を消却した。ものすごく頑張って引っ越しをして、携帯も変えて、職場でも不自然にならないように避けて。
なのに彼は私に接触するのを諦めなくて。仕事にかこつけて、私と話そうとするのだ。その頃は不思議とそのタイミングで他の社員さんに彼は用事を頼まれて、しぶしぶ私から離れるということも多かったので助かったのだけれど。少し前より彼と他の社員さんの接触が増えたなとも感じたものの、そもそもの彼の出向理由はうちの支社の立て直しだ。それも当然かと思った。
幸せな家庭があるのに、羨ましいのに、それを壊すようなことをしている彼に、だんだんと怒りを覚えていた頃。ようやく彼が東京へ戻る日になった。
正直、ほっとした。
彼を必要以上に嫌わずに済むし、これで会社にも話がしやすくなる。……やっぱり仕事を続けさせてくれるかは、不安がないわけでもないけれど。
「この子のために、頑張る!」
私の、大切な家族。
「絶対守るからね」
前を向いて、頑張りたかったのに。
……職場は、振り返ると本当に温かくて優しくて。人によっては甘すぎると言われるかもくらいに。今まであまりプライベートの話をしなかった私に親身になってくれて。シングル予定についても無粋に突っ込んで来る人はいなかった。
だからその日、少し先が見えてホッとして、いつもより警戒心が緩んでいたのは確かだったと思う。
けれど、こんな小娘にいつまでも彼が執着するなんて、誰が思ったであろうか。
その日は、雨が強く降っていて。
会社からの帰り。視界がいつもより悪かったのだ。彼が待ち伏せしているなんて夢にも思ってなかった私は、気づいたら目の前に立っていた彼に腹部を刺された。
倒れて意識が遠のく中、彼が「僕から、逃げようとするからだ……お前に、お前が……!僕は君といたかったのに……!」とか何やら勝手なことを言っていて、その彼に職場の先輩男性が殴りかかって……忠告してくれた、女性の先輩も泣きながら走って来てくれていて……
ごめんなさい。声をかけてもらったのに上手くできなくて。応援してくれていたのに、こんな……
ああ、何より、赤ちゃん。赤ちゃんだよ。
「産んで、あげたかっ……」
私の意識は、そこで暗転した。
「ん、り、じゅ……」
「ちゃんといるよ。まだおねむする?」
「ん……すぅ」
くうくうと再び寝息を立てるアンネリーゼを優しく撫でる。
愛おしいって、こういうことよね、と思う。
「……我ながら、なかなかヘビーな前世だったけど。リーゼのママになれたのは嬉しいなあ」
正直、男は懲り懲りだ。
この結婚も、記憶を思い出した後は悩んだけれど、そもそも私が言い出したし、いろんな決まりごとを思うと、やっぱり嫌ですとは言えなかった。エリー情報で、白い結婚が濃厚と言われたことと、アンネリーゼの存在があったから決断できたようなもの。賭けに勝った気分よ。
「リーゼのママの分まで愛して育てます。リーゼママも心残りだよね、心配だよね。でも、頑張るから、私」
ーー-あの子の分まで。
「一緒に見守ってくれたら嬉しいな」
改めて決意表明を一人言ると、花瓶の花が優しく揺れた。
リーゼママからの返事のような気がした。




