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夜明の青い海

 新しい一日を迎え朝日に照らされた青い海は、太陽が空の上へ昇るごとにグラデーションを変えていき、ヨミョウは長い間その景色を眺めていた。物心ついてからずっと空にあった星々が姿を隠し、黒い空はどこにもなく、白い雲が頭上にある。海とは異なる色をした空は、最初はオレンジ色だったのに、気付けば水色になって驚いた。地球はこんなにも色に満ちていたのかと、ヨミョウは足の力が抜けてへたり込み、そのまま両足を抱えて座っていた。

 海。青い海……。月から眺めていた地球の海よりも色が濃い。空の方が想像の青色に近いぐらいだ。それでも心を奪われる。海には匂いがする。地球の匂いだと思っていた香りは、海の潮の香りだとガリバーは言っていた。味もついているらしい。ガリバーには止められたけど舐めてみた。不味かったので二度と舐めないと誓った。風が頬を撫でる。機械で風を起こさなくても、地球には風が吹いている……。

 時間も忘れて、ヨミョウは海を眺めていた。水平線以外に何もない海原のど真ん中に彼女はいたが、ここから見える景色すら、彼女にとっては新しいものしかなかった。

 時々水面に見える小さな影は、カグヤ様やガリバーが話していたサカナと呼ばれる生き物だろう。

 もっとよく見たい。もう一度飛んでほしい。と、ヨミョウは水面を見つめながら祈る。

「海の中に潜ってみたくないか?」

 背後から声が聞こえてヨミョウの両耳がピンと伸びた。海を見つめていた顔が一時間ぶりにガリバーに向いた。唇をぎゅっと結び、余計な言葉を押さえつける。

「入れるノ?」

「ああ、ちゃんとした装備があればな。ジェシカの――妻の親戚が持ってるから借りられるぞ」

 だから家に行かないか、と言葉を続けてヨミョウを促すつもりだったが、察しの良い彼女に次の言葉は不要だった。白い耳がうなだれる。

「そうだった、ゴメン」

「しょうがないさ、気持ちは分かる」

 ヨミョウは立ち上がり、もう一度目に焼き付けてから船室に戻った。

「よいショ」

 ガリバーのために用意されたコックピットの座席に腰を下ろす。着水してすぐに投影されていたホログラムが彼女の前にあった。青く透き通った地球儀が浮いている。

「今はココだワ」

「大西洋か」

 ガリバーが自身の顎を指で擦る。地図上に立ったピンはアメリカ南東の海を示していた。たしかここには深い海溝があったはずだ。

「ガリバーの家はドコ?」

「ここだ。アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン。港町から少し離れた住宅街に俺の家がある」

 指をさそうとして地球儀に触れると、別のピンが地図上に立った。開けたままだった搭乗口が閉じ、船体が揺れ始めた。窓の外に広がっていた水平線が上がっていく。宇宙船は海の中に潜った。

 地球儀上にはルートと時間が表示された。

「すぐ着くワネ」

「国境警備隊が……気にしなくていいか」

 千年間、月の都の存在を隠し続けた兎人たちが作った船だ。宇宙船一つ隠すぐらいの機能は当たり前のように搭載されているだろう。

 ガリバーが言いかけた言葉にヨミョウは眉をひそめたが、聞き返すことはなかった。

「船を降りるトコロは見られちゃマズいワ。人が少ない場所はアル?」

「こことか。斜面と林で視界が遮られている場所だ。少し歩けば道路もあるから、船を降りた後の移動も楽だと思う」

 ガリバーが指をさす。今度は地球儀に触れないようにした。

「いいワネ。じゃあソコに向かいまショウ」

 彼が示した場所をヨミョウが触れた。ピンの位置が更新される。表示された時間は、船旅と比較すると短いが、月から地球への飛行時間ほどあっという間に着くわけでもなかった。しばらく暇だ。

 ほっとして、つい欠伸を漏らす。心身共に疲れる一日だった。仮眠を取ろうとヨミョウに声をかけると、高所からの着地に使っていた光のクッションを出してくれた。光の上に身体が浮いているのは奇妙な感覚で、自宅のベッドのような寝心地の良さは無かったが、寝転がった瞬間に睡魔が襲ってきた。ヨミョウがかけてきた言葉も認識できないまま、彼は意味を持たない声を返して、重い瞼を閉じた。


 数時間後、アラームの音に起こされたガリバーのまどろんだ脳は、視界に緑色が入った時点で覚醒した。コックピットに座ったまま眠っていたヨミョウも、前方の窓に駆け寄ったガリバーの足音で目を覚ます。

 緑の葉を蓄えたマツの木に茶色い土。それに加えて、無造作に生えた雑草。地球の大地だ。

 船体が陸に乗り上げ揺れる。搭乗口が自動的に開き、外の匂いが入り込んできた。潮の香りに土の匂いが混ざる。かすかに、地球文明の騒がしい、懐かしい音も聞こえた。

 ガリバーは外に飛び出し、船体を歩いて土の上に飛び降りた。手を付いた拍子に落ち葉がひっついてくる。土を払って匂いを嗅ぐ。色んなものが混ざり合った匂いがする。

 高いマツの木を見上げて、ガリバーは膝をついた。

「大丈夫?」

 後から出てきたヨミョウが声をかける。周囲の景色に気を取られながらもガリバーに近づいた。

 ガリバーは首を振る。帰ってきたと確信した途端に全身の力が抜けてしまった。

「分からん」

「家まで行かないト。家族に会うんデショ」

 肩を支えられながらガリバーは立ち上がった。彼女の言う通り、まだ帰るべき場所にはたどり着いていないんだ。彼は深呼吸して前を向く。

 ヨミョウが持ってきた小さな荷物だけを取り出した彼らは宇宙船の前に立った。宇宙航行から潜水までこなした船体を眺めながらガリバーが尋ねる。

「この船は?」

「海の底でバラバラになってもらうワ」

 搭乗口を閉めてしばらく経つと宇宙船が振動し、後方に下がりはじめた。海面を進むこともなく海中に沈んでいく。飛び込んだ海溝に戻るのだろうか? ガリバーには分からなかった。未来の人類が宇宙船の残骸に出会う頃には、月との交流が始まっているような気がした。

 ついに宇宙船の痕跡もなくなった海面をしばらく眺めたあと、脇に抱えたヘルメットを見つめる。

「これも隠しておくか……」

 ヨミョウに手伝ってもらい、宇宙服を脱いで船内服姿になった。ガリバーは身体を伸ばして地球の空気を吸った。こちらの方が動きやすいし、無駄に目立たなくて済む。代わりに宇宙服は持ち運べなくなったので近くの草むらに隠した。高価な機材を草の中に隠すなんて、NASAのスタッフが見たら苦言を並べそうだが、宇宙飛行士が無事に帰るなら構わないだろう。そうであってほしい。

 宇宙から帰ってきたら身体が重くなっているというが、アカルメイナスの重力のおかげでガリバーがその経験をすることはなかった。しっかり運動もしていたから今すぐ走れと言われても全力で走れる体調だ。野球だってできる。

 見事な文明だった……。月で起きた出来事の数々を思い返しながら、彼は空を見上げた。

「ハァ?」

 おかしな声が出た。月に刻まれたクレーターの一つに町が見えた。全体に比べるとごく一部のエリアだが、肉眼でも視認できるサイズだ。あんなものを今まで見逃してたのか?

 初めて見るマツの木を撫でていたヨミョウが眉をひそめて振り返る。ガリバーの視線を追い、「アア」と呟いた。

「人の意識から逸らしてるって言ったデショ。ガリバーはアカルメイナスのコトを知ったから見えるようになったノヨ」

「おお……」

「ワタシのバングルにも仕込んでるワ。コノ耳は他の人に見えなくなるから心配しなイデ」

 ヨミョウがバングルを操作した。表面を走るラインが緑色に光る。アカルメイナスを人類から隠していた機能と同じ機能を起動したようだったが、ガリバーには全く違いが分からない。

「ガリバーはワタシの耳のコトを知ってるから見えるワヨ?」

 まじまじと観察しているとヨミョウが一歩引きながら言った。それでもガリバーは目を離せない。瞼を細めて観察するが、光学迷彩だとか、ホログラムだから時折映像が揺れるだとか、そんなこともない。思わずうなり声が出た。驚くべき技術だ。

「行きマショ。それとも、ワタシが聞きたいコトにココで答えてクレル?」

 ヨミョウはガリバーを無視して荷物を持ち上げてから尋ねた。答えが一つしかないのは分かっている。ガリバーもヨミョウの耳を見つめるのはやめた。

「歩きながらにさせてくれ。帰れなくなるぐらい聞きたいことがあるだろ?」

「ソノ通り」

 マツの木に掴まって、人が歩くことなど考えられていない斜面を進む。息が上がる前に車道が見えて二人は一緒に安堵した。走り去っていく車両の数々。交通量は多くない。林から現れた二人にちらりと目を向ける運転手はいるが、車は止めずに道の先へ消えていく。アスファルトにタイヤを接地して走るファミリーカーにガリバーは涙ぐみ、頬へ流れないうちに手で拭った。ヨミョウが走り去る車を夢中で眺めていたおかげで気付かれずに済んだ。また見られることがないようにガリバーは彼女の前に立ち、石を積み上げて作られた塀を手でなぞりながら、ヒューストンの中心部に向けて歩き始めた。

 舗装されていない道を歩きながら、ヨミョウはたくさんの質問をガリバーに投げた。アカルメイナスでガリバーが目を覚ました日、モルト通りを歩いた時のようだ。今は落ち葉と土が積もった大地の上を歩いている。降り注ぐ太陽の光は葉に遮られて木漏れ日となり、鳥の鳴き声も聞こえる。

「あの音ハ?」

「鳥の鳴き声だな」

「どんなトリ? いっぱいいるんデショ?」

「あれは……なんだろうなあ」

 白い耳を木の上に向けたまま歩いている。ヨミョウには何もかも新鮮に映っているようで、彼女の質問が止まることはなかった。この道はガリバーも車で走ったことがあったが、彼女の質問に答えるために周囲をじっくり観察すると、知らない道を歩いているように感じた。

 しばらく歩くと林が途切れ、建物が目に入りはじめた。見知ったビルが遠くに見え、段々と近づいてくる。記憶にある店を見つけるたびにガリバーの足は速くなり、胸の鼓動も早くなった。すれ違う人々の視線を感じたが、ガリバーの格好に目を細めるだけで、話しかけられることはなかった。

 町の中を進むあいだもヨミョウは周りを眺めていたが、次第に口数は減っていった。ただガリバーの背中を追いかける。彼女が口を閉ざしたことを、ガリバーは数分後に気付いた。斜め後ろからついてくるヨミョウは今でもキョロキョロと周囲を見回している。聞きたいことは山ほどあるだろうに、我慢してくれていることに感謝する。

「……あそこだ」

 あのダイナーは知っている。よく知っている……肉汁が零れる絶品のハンバーガーを作る店だ。アボカドバーガーを家族と一緒に食べるのが、月に一度の楽しみだった。この向きから見ることは珍しい。自宅から出発すると正面に見えるから。あの交差点を左に曲がれば、もう地図はいらない。

 ダイナーを背にしてガリバーは進む。出来る限り冷静に歩こうとしたが不可能だった。ブロックを三つ越えた頃にはほとんど走っているような速度になっていた。ヨミョウのことも忘れて走る。彼女はガリバーの背中を追いかけて走る。何度か住民が怪訝な視線を向けてきたが振り返らない。

 ガリバーの足が止まった。

「ああ……!」

 数メートル遅れていたヨミョウも止まり、額に垂れた汗を拭った。荒くなった呼吸を整えながらガリバーの視線を追う。クリームイエローのペンキで彩られた二階建ての家。閑静な住宅地に建つ、他よりも少し大きな一軒家。ガリバーに聞かなくても、彼の表情を見ればここがどこなのか分かった。庭に植えられたスターチスの花はちょうど咲き頃で、黄色い花たちが初夏の爽やかな風に揺られていた。

「行かないノ?」

 ガリバーが動かなかったので、ヨミョウが先に歩きはじめた。ガリバーも慌てて彼女に並ぶ。歩道のアスファルトから洒落た石畳に足元が変わる。

 息を吐いた。長い息を吐いても心臓は鳴りやまなかった。愛しの我が家だというのに、怖い。玄関ドアの前で立ち止まる。呼び鈴に置いた手が震える。一ヶ月間、俺は死んでいた。長すぎる一ヶ月だった。家族は今、何を――。

 視界の隅に白い耳が入った。一歩下がって彼を待っているヨミョウは、彼が振り向いたので頷いてやった。ガリバーも頷き、呼び鈴にのせていた手を押した。

「はい」

 よく知る声が届く。弱々しい返事はドアに阻まれて消えてしまいそうだった。パタパタと走る音が近づいてきた後、ピタリと音が止まった。鍵の開いて、また音が止み、ゆっくりとドアが開く。

 口を開いたジェシカの瞳が、ガリバーをじっと見つめていた。

「ただいま。俺だよ、ジェシカ」

 声をかけられたジェシカは身体を硬直させる。ドアを開き、ルームシューズを履いたまま彼の前に立つ。ほほえむ彼を見つめたまま、彼の胸に手を置いた。心臓の鼓動と体温が彼女の手に伝わる。胸に移った視線が、またガリバーの青い瞳に戻る。

「パパ!」

 ジェシカの背後から幼い声が上がった。胸に抱えていたウサギのぬいぐるみを投げ捨てて、ガリバーの一人娘が父親に駆け出す。

「モニカ……!」

 震える声で名前を呼び、ガリバーはモニカを抱き上げた。モニカは一ヶ月ぶりに再会した父を強く抱きしめて頬をこすりつける。

 娘の肩越しに、ガリバーはジェシカへほほえんだ。ジェシカの瞳から涙が溢れだす。

「ガリバー? ガリバーなの? 本当に?」

「ああ、俺だよ、俺だよジェシカ……!」

 声をあげてジェシカは泣いた。ガリバーは彼女を抱き寄せて彼も涙を流す。モニカだけは二人を困惑した様子で眺め、もう一度父を抱きしめてみた。後ろから静かに三人を見つめていたヨミョウの口元には、彼女も気付かない笑みが浮かんでいた。

 ジェシカが落ち着くまで待ってから、ガリバーは彼女の背中を優しく叩く。

「ここじゃ目立つから、一旦中に入れてくれないか」

「ええ、ええ。あなたの家だもの」

 ジェシカは夫とキスを交わしてから彼のためにドアを開いた。モニカを下ろしたガリバーは、ジェシカの背中に手を回して一ヶ月ぶりの玄関を通る。

「そちらは?」

 敷居を跨いだところでジェシカが尋ねた。

「ああ」

 ガリバーがヨミョウを手招きする。彼女も入ったところでドアを閉めて、ジェシカに振り向いた。

 なんて紹介すればいいか考えていなかった。月の都のことは言えないし……まあ、NASAのスタッフということにすればいいか。事故が起きたあとに助けてくれたとだけ言って。あとでヨミョウと一緒に詳細を詰めよう。

「紹介するよ。彼女は――」

「え」

 ジェシカの声が遮った。ガリバーは彼女に視線を向ける。ガリバーよりも少し濃い青色の瞳が丸くなっていた。

 彼女の腕が上がっていく。震える指がヨミョウの顔を――いや、顔よりも上に向けられた。

「耳が」

 ジェシカが掠れた声を漏らした。

 嫌な悪寒が背中に走って、ガリバーは振り向いた。

「ドーモ奥サマ! ワタクシ、月の海からやってきたヨミョウと申しマス!」

 高く掲げられた手。まっすぐに伸びた耳。演技っぽい上ずった声。さっきまで灯っていたはずの光が消えたバングル。絵本の中から飛び出してきたうさぎの少女を見つめる、幼いモニカの輝く瞳。

 ジェシカの視線は長すぎる旅から帰った夫に助けを求めていた。今にも気絶して倒れそうな妻に駆け寄ったガリバーも、呆然と口を開いた。

 月のうさぎが浮かべた笑顔は、満月のように輝いていた。

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