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第6話『スターチス』

 青い星は今日も月を見守っている。直視できないが、その横には輝かしい太陽も見えた。アカルメイナスの中心部で響くノイズは遠く、居候している家の屋上に設置したハンモックで揺られていれば、宇宙に寝転がっているような気分になれた。開放的で、静かで、船外服も着なくていい、いくらでも使える贅沢な寝床だ。

「何やってるノ」

 屋上のドアが開く音が聞こえ、直後にヨミョウの声がガリバーの耳に届いた。彼はハンモックに身体を預けたまま、一瞬だけ青色の瞳を彼女へ向けて、また視線を空に戻す。彼は右腕を地球へ伸ばしていた。掲げた手の親指を立てて地球に被せ、数秒待ってから角度を上げて地球をからどける。

「『アポロ13』って映画があってな、船長がこうして月を見上げてたんだ。宇宙飛行士なら一度は真似したことあるだろうな。もちろん俺も真似した。ここに来る前にもやってたんだ、ヒューストンにある俺の家から。その時は地球じゃなくて月を見上げてな」

 ガリバーの口角が上がっている。トム・ハンクス演じるジム・ラヴェル船長は、庭に置いたサマーベッドから夜空を見上げて月を隠していた。そのシーンを真似したくて、月探査ミッションのクルーに選ばれたときは、すぐさまサマーベッドを買って庭に置いた。打ち上げ前にクルーの家族が集まってバーベキューをした時には、それはもう好評で、クルーたちで代わる代わる寝転がって月に手を伸ばした。妻は苦い顔をしていたが、無視して買ったのは間違っていなかったと思っている。

 クルーに選ばれてからは、アポロ13は観ないようにしていたが。

 思い出をなぞる彼の隣で、ヨミョウが床に横たわって彼の動きを真似する。

「こんだけデカい月だって、地球から見上げれば親指に隠れるぐらい小さかったんだ。それでも俺は今ここにいる。ここから地球だってすぐに行けるさ」

「フーン」

 親指で隠して、もう一度見る。それからヨミョウは体を起こし、ハンモックのガリバーに尋ねた。

「ところでアポロ13ってナニ?」

「映画だよ」

 調子の良い声で答える。ヨミョウはあの名作を知らなかったか。次の質問が来ると思い待つ。反応が無い。視線を向けると、首は傾げているヨミョウがいた。

「あー……」

 そういえば、映画もテレビもアカルメイナスでは見かけなかったな。

 彼も身体を起こした。

「地球に行けば観られるぞ」

「ソウ」

 赤い瞳が星空を向く。

「じゃあ行かなきゃネ」

 そう言って彼女は、地球を見上げながら立ち上がった。ガリバーもハンモックから降りる。背筋を伸ばしてヨミョウと向き合い、目の下にクマを作った彼女に言った。

「おかえり、ヨミョウ。準備ができたんだな」

「できたワ。ガリバーと話せるうちに説明しておきタイ。作戦場所へ向かいながら説明スル」

 ヨミョウが家の中に戻っていく。最後にもう一度地球を見上げてから、ガリバーも彼女を追う。ヨミョウの横に並んで、彼女の背中を優しく叩いた。


 ガリバーがヨミョウに過去を打ち明けた日から五日が経過していた。ヨミョウと会うのも五日ぶりだ。赤い瞳に再び光が宿った日の翌朝、ガリバーが目を覚ました時にはヨミョウの姿は消えていた。心配が安心に変わったのはさらに翌日、ヨミョウは研究センターにいるらしいとヤザラから聞くことができた時だ。あまりの安堵にその場に崩れ落ち、彼女に笑われてしまったことはまだ記憶にハッキリと残っている。ヤザラは常連であるカイから聞いた。カイは彼の店の常連である研究センター職員から聞いたらしい。その研究センター職員もまた、同僚の研究センター職員から――。

 ヨミョウは同じラボにいるメンバー以外の誰とも会っていなかったらしい。毎日彼女の動向を尋ねたものの、情報が変化することはなかった。彼女が担当している仕事も続けていたようだ。ただ、帰宅時間になっても帰る準備など一切せずに、何らかの開発を続けていたと言っていた。ラボメンバーが話しかけても反応は薄く、彼女が何に集中しているのか誰も知らないという。

 目の下のクマは濃い。おそらく寝てもいなかったのだろう。それでも、赤い瞳は力強く輝いている。タグレに計画が露見してからの数日よりも――ガリバーが出会った頃のヨミョウよりも。彼女の瞳は夢を見ている。

「出発は今日デショ」

 ヨミョウが言った。秘密研究所を訪れた時に着ていた黄色い宇宙服を上に纏った彼女は、食糧生産センターで作られた携帯食を頬張りながらガリバーを案内していた。人が少ないこの道はガリバーも歩いたことがある。研究センターの裏口へ続いている道だ。

「ああ。昨日研究センターのスタッフが伝えに来た」

 ついに今日、遠く離れた我が家へ帰ることができる。ガリバーは研究センターの奥にある発射施設に目をやった。今はまだ、発射装置であるマスドライバーは高い塀に囲まれて先端しか見えないが、あの根本にロケットが配置されているのだろう。一ヶ月の間に兎人たちの技術への疑念は綺麗さっぱり吹き飛ばされた。心配は欠片も無い。乗れば間違いなく帰ることが出来る。

 月に堕ちてからずっと待ち望んでいた日がやってきた。だがもはや、帰れることが確定した今となっては、帰還ロケットのことなど心の奥底に追いやられていた。

 一つだけ残された心残りをこれから解決しなければいけない。

「間に合って良かッタ」

 ヨミョウが安心したように息を吐く。ピンと伸びていた白い耳からわずかに力が抜けた。

「どこまで行くんだ?」

 ガリバーが尋ねた。この道を通ったのは研究センターへ裏口から忍びこんだ時だが、今回は中に入るわけではないだろう。

「アノ丘の上マデ」

 わずかに油汚れが残る彼女の指は、研究センターの右側を指していた。

 二人は歩いた。人通りが少ない、クレーターの外縁部に近い道を選びながら進んだ。右側にはクレーターの縁がある。彼女の夢を初めて聞いた丘からはすでに離れつつある。左側は下り坂になり、彼が生活したアカルメイナスの町がよく見えた。真っ白で飾り気のないヨミョウの家。ヤザラと働いてたくさんの兎人と話したモルト通り。マヒルや子どもたちと月の野球を楽しんだ公園。月面を眺めながら知らない果物のジュースを飲んだカフェ。

 この町にいたのは一ヶ月だけだ。それなのに、一ヶ月とは思えないほどたくさんの思い出ができた。元のミッション期間に比べると長く、しかしあっという間に過ぎ去り、言葉にできない感情が心が満ちる。幸福と寂寥感がごちゃまぜになっている。

「コレを作ったノヨ」

 ヨミョウに話しかけられて彼女の方を向いた。彼女に振り回された時間も、地球に帰れば全部良い出来事だったと懐かしむことができるだろう。そしてきっと、地球に戻ってからも、彼女と思い出を語り合っているはずだ。

 彼女が差し出した手に載せた物をガリバーが中々受け取らないので、彼女は眉をひそめた。表情が変わったことに驚き、ガリバーは現実に引き戻される。

 差し出された手から彼女が渡そうとした物を手に取った。いつも見ていたバングルだが、見覚えのない握り拳大の金属製のボックスが取りつけられている。デザインはスマートじゃない。とりあえず何かを保護するために箱を作ってバングルにくっつけたような雑な見た目だ。ボックスとバングルの内部を繋げる配線はむき出しになっている。

「起動しないデ。慌てて作ったから耐久性まではテストしてナイ。月の裏側に行った時に渡したバングルとは別物ヨ」

 観察するガリバーの横からヨミョウが言った。

「改造したのか」

「エエ。アカルメイナスの重力装置を無効化する装置を小型化して付けタ」

 ガリバーは目を丸くした。一度ヨミョウを見てから、改めてボックスを見つめる。重力操作はアカルメイナスの兎人たちもまだ研究を続けている分野だと言っていたはずだ。

「成功したのか?」

「エエ」

 ヨミョウが頷いた。

「ウェラ・イーの秘密研究所で見た発明品が役立ったワ。彼が開発した機械は内部にあるパーツ間のエネルギーの送り方が違ったノヨ。大がかりなパーツは必要なくナル。ウェラ・イーもヒントは残していたみたイ。アカルメイナスの地下に埋まっている重力装置の設計を何度も見なおして、ようやく理解したワ。今日までかかちゃったけどネ。本物があればもっと楽だったノニ……」

 唸り声がガリバーの喉から漏れた。

「ホバーバイクの前後に取り付けられた円盤とは違うんだな?」

「別物ヨ。あの装置だと、アカルメイナスの中にいたらアカルメイナスの重力をそのまま受けル。ワタシの装置は、起動すれば使用者の周りだけ重力を打ち消して月の重力と同等にできるノヨ。今の六分の一よ、高く跳べるワ。秘密研究所に入ったときみたいニ。アカルメイナスは地球と同じ重力に設定した町ナノ。誰もアノ柵を飛び越えるなんて思わないワ」

 声が止まる。息を吐き出す音がハッキリ聞こえた。

「バングルに取り付けられるぐらい小型化できたのは、ワタシが初メテ」

 足を前に進めながら、ヨミョウはガリバーを見つめた。彼はしばらく腕輪を見つめた後、彼女にニコリと笑顔を向けた。

「やったんだな、ヨミョウ」

「ワタシにも作れたワ。テレポート装置ほど優れた機能じゃないケド」

「この装置でも夢に近づける。それで、その後は?」

 ガリバーの質問と同時に交差点を曲がった。その先で舗装路は途切れ、灰色の大地が広がっていた。縁にある岩の影にポツンと、一台のホバーバイクが置いてあった。

「バイクも準備済みヨ。アトは跳ぶダケ」

 ヨミョウが研究センターへ視線を向け、ガリバーも後に続く。たどり着いた丘は研究センターよりも地面がやや高い。おかげでマスドライバーを隠していた塀を上から覗き込むことができた。

 ヨミョウはマスドライバーの手前にある地面を指さした。

「ワタシはアソコの盛り上がってる地面から発射台に向かって跳ぶワ。そしたら……今は見えないけど、ロケットに繋がる連絡橋の下に潜り込ム」

「俺はどうする?」

「予定通りに過ごシテ。タグレに会っても何も言わないデ。ガリバーに頼みたいのは一つダケ。ロケットが発射する前に、ギリギリまで扉を開けてイテ」

 ガリバーの質問が無いことを待ってから、ヨミョウが言葉を続ける。

「ワタシは発射の直前に忍びこまなきゃいけないワ。早すぎたら見つかるリスクが増エル。だから、ココから跳ぶのは発射直前ヨ。鏡はアル?」

「持ってないが……タグレか誰だか知らないが、連絡橋にいるスタッフが皆いなくなったら、この場所に向かって太陽光を反射させて合図だな? 探しておく」

 ヨミョウが頷く。

「さすがガリバー、理解が早いワネ。ヨロシク」

 ガリバーが右手の親指だけ立てて同意を返した。天空へ伸びる黒いレールを眺め、ふと眉を上げてヨミョウの方を向いた。

「タイミングが遅れたら発射の衝撃に――」

「巻き込まれて死んでも、地球に行けないままココで生きていても同じヨ」

 覚悟した声が言葉を遮る。強い視線をガリバーに送ったあと、ヨミョウは肩をすくめた。

「まあ、簡単には死なないワヨ。死んじゃったら地球も見上げられなくなるワ。次のチャンスも無くなっちゃウ。失敗した時に隠れられる場所も目星を付けているワ」

「ならよかった」

「ウン」

 頷いて、ヨミョウの口が閉じた。話は終わった。ガリバーは空を見上げる。青色が視界に映った。

「一緒に地球の海を見よう」

「ウン」

 ヨミョウも空を見上げた。

「ガリバー」

 ぼそりと、彼女は隣に立つ地球人の名前を呼んだ。

「もし……もし、ワタシが来なかったら――」

「来るさ」

 彼女が何を言いたいのか、表情を見たら分かった。表情がほとんど変わらないヨミョウがどれだけ表情豊かなのか、ガリバーはついに理解することができた。彼女の感情が今なら分かる。地球人と月のうさぎはちょっと遠いだけの隣人だ。同じ感情を持ち、同じ夢を抱く。言葉を遮ったガリバーはほほえんだ。ヨミョウが不安を抱えていることも、不安よりも遥かに大きな願いを胸に宿していることも、彼は知っていた。

「ヨミョウのことを忘れたりなんかしない。俺と一緒に地球に行くんだからな」

 ヨミョウは、落としかけた視線を上げて、ガリバーを見つめた。

「行くワ」

「行けるワケがナイだロウ!」

 二人の会話は響き渡る怒号によって遮られた。

「ヨミョウ! ガリバー! 手間をかけさせおッテ!」

 人の影が一つ、足音を立てて近づいてくる。顔面には深い皺が寄り、頭に生えた白い耳はピンと伸びている。宙に浮かぶ球状ロボットが背後に一体。表面に刻まれた溝に光が走ったかと思うと、畳まれていたアームが外へ伸ばされた。主の命令を待っている。タグレが一言口にすれば、あのアームはガリバーとヨミョウを掴むだろう。

 だが男は、ただこちらを睨んでいた。奥歯を割りそうなほどに食いしばり、血が滲みそうなほどに拳を握りしめて。

「タグレ……!」

「監視されてないとでも思ったか!」

 タグレは赤黒い瞳を見開いている。無駄に力を込めた一歩で二人と距離を詰めた。ヨミョウはバングルに取り付けた装置を隠してガリバーの横に立つ。遅れて丘にたどり着いたタグレの部下たちは、睨みあう彼らを見て目を丸くした。

「無許可での月面探索。ウェラ・イーの秘密研究所への不法侵入。遺物の持ち出し。忠告で済ませてやったというのに、懲りずに月からも逃げ出すつもりカ!」

 一言発するごとに顔の赤みが増していく。

「今日はカグヤ様も打チ上ゲを見に来ると言っているんダ! それなのに、それなのに今日騒ギを起こすカ! もう我慢ならン! お前ら二人とも拘束させてモラウ! ガリバーは今スグに出ていけ! ヨミョウは二度と外に出サン!」

 ガリバーの隣に立った少女は平静を装っていたが、名前を呼ばれた直後、一瞬身体を硬直させた。視界の端にその姿が映り、ガリバーはタグレからかばうようにヨミョウの前に立つ。タグレの眉間の皺が深くなった。

「まだヨミョウをかばうカ!」

 歪んだ口。冷たい目つき。月で出会った兎人で唯一ガリバーに笑顔を見せなかった男は、嫌悪を隠そうともしない声を出す。

 ――やっぱり彼とだけは、良き隣人として関われないようだ。

 ガリバーも目を細め、彼に冷たい目つきを返してやった。短く息を吐いて感情を落ち着かせる。頭ごなしに怒鳴り合う時間を過ごすつもりはない。人間には理性がある。

「俺の命を救ってくれた恩人はヨミョウだ」

 ガリバーの視界の外で、背後に立つ少女が顔を上げた。

「ヨミョウがいなかったら、俺は夢を叶えられずに死んでいたんだ。月の大地を踏めずに死んでいた。月に住む隣人たちのことも知らずに人生を終えていた。俺が今ここにいるのは、俺を助けてくれた彼らと出会えたのは全部ヨミョウのおかげだ」

 気難しい顔をした男が言い返してくるかと思い身構えたが、彼は口を閉ざしていた。死んでいた。そう言った時、タグレの皺が少しだけ浅くなったような気がした。

 タグレの声が来ないので、ガリバーは続きを口にする。

「俺の夢を叶えてくれた恩人が、人生をかけて夢を叶えようとしてるんだ。夢を叶えるためにたった一人で頑張ってるんだよ。俺が応援してやらなかったら誰が彼女を助けられるんだ」

 次の言葉を発する前に、ガリバーの視線が逸れた。千年以上前に落ちた隕石によって生まれたクレーターの縁からは、アカルメイナスの町が一望できた。美しい不毛の大地に築き上げられた兎人たちの都。地球人はこの町の存在を知らない。

「月の掟のことは知ってる。俺がこの町を知らないのは、皆がルールを守ってきたからだ」

 一瞬だけ目を伏せて、ガリバーはタグレを見た。彼の冷たい視線から決して目を逸らすことなく、ガリバーは彼に向き合った。背筋を伸ばして、彼に言うべき言葉を口にした。

「けどな……誰に何を言われても諦めきれない夢を持っちゃうんだよ、俺たちは。夢を追いかけて、俺たちの人生は先に進んでいくんだ」

 服が引っ張られた。振り向くと、服の裾を掴んでいるヨミョウと視線が交わった。怯えた目だ。ガリバーが口を結ぶ。ここで諦めれば全ての道が途絶えてしまう。ヨミョウと話す機会は失われ、友人を残して一人地球に帰ることになる。彼女は囚われ、星空が見えない場所に閉じ込められてしまうかもしれない。ヨミョウもそれが分かっているのだ。

 そして、きっと、彼女はもう二度と夢を追いかけることが出来なくなる。居場所を奪われ、機会も奪われ、ただ待つしかできない人生になる。ガリバーの眉が下がる。この瞳を昔の自分も浮かべていた。夢が遠ざかってしまった時の瞳。

 だが、たしかに彼女の瞳の奥には、夢を追いかけていた頃のガリバーには無かった光が灯っていた。背中を押してくれる友への信頼を浮かべて、ガリバーを見つめていた。

「地球に行っても孤独になるだけダ。海を見たトコロで、その先にあるのは一人で生きる長い時間ダ。アカルメイナスからの助けも無イ。我々はエイリアンだ、地球人にはなれナイ」

 タグレの声に迷いは無い。固く信じて疑おうとしていない。

「俺がいる。ヨミョウを一人にはしない。まだ地球の隣人と話したいことはたくさんあってね」

 ガリバーも迷いなく言い返す。爆発寸前のタグレは顔をしかめて耐えている。

「それに……」

 次の声が勝手に出た。

 無意識に発された言葉は次の言葉を教えてくれず、ガリバーは口を開いたまま固まった。ふと、頭に両親の顔がよぎり、彼は目を細める。どうして今――。

 脳裏に両親の顔がある。怒りと悲しみがこもった表情。忘れるわけもない、幼い自分が最初に両親へ宇宙飛行士になる夢を語った時の姿だ。一番長く見守ってくれた人たちに夢を否定され、これ以上ない孤独を感じた日の記憶だった。寝ている間にフラッシュバックして飛び起きたことが何度あったか分からない。

 けど、どうしてだか、嫌な記憶ではなくなっていた。ガリバーは夢を語る少年であり、しかし少年ではなくなっていた。一人の幼い少年の背中が見える。必死に涙をこらえる丸まった背中。孤独を感じ、それでも一人で夢を追いかけようと決意した少年が、彼の前にいた。

 ようやく俺は、少年の背中を押すことができる。

 ガリバーはほほ笑んだ。

「月と出会った子供の頃の俺に、胸を張って誇れる大人になりたかったんだ」

 ヨミョウの手がガリバーの服の裾を一層強く握りしめ、離れた。

 ガリバーはタグレの目を見る。彼はガリバーの過去を知らない。言葉の意味も、不意に浮かべた表情の理由も分からず、眉をひそめて固まっている。ガリバーは彼と距離を詰めた。手を伸ばせば届く距離まで近づいた彼をタグレが見上げる。

「アンタにも夢はあるだろう? どうして彼女ばかり目の敵にする」

 丸く開かれた赤色の瞳がガリバーを見つめ、二秒後に冷たさを取り戻した。口を歪め、トーンが低くなった声が返ってくる。

「いいや、私には夢は無イ。私の役目はアカルメイナスの発展させるコトだ。夢なんて忘レタ」

「だから一人なんだな」

 タグレが目を見開いた。背後に彼の部下が二人立っている。だが二人とも、タグレに近づこうとはしなかった。困惑を顔に浮かべた二人でアイコンタクトを取り合うだけで、タグレに手を貸そうとする素振りも見せなかった。タグレがガリバーから言い争い始めてからずっと。

「アンタの方が孤独じゃないか。夢を思い出せよ、タグレ」

 冷たい声にタグレはたじろいた。月の砂を踏みしめる音がして、彼の身体がガリバーから半歩離れた。タグレの口が開く。喉から出た声は、彼が出そうとした声よりも小さく、震えていた。

「月にはルールがアル」

「なあ、一つ聞かせてくれ。地球に行っちゃいけないルールって何なんだ? ウェラ・イーが言ったからいつまでも従うっていうのか? 交流できる技術を自分たちでも生み出しているのに?」

 タグレがガリバーを睨みつける。

「お前には分かラン。我々の技術を伝えて、地球の文明の発展が停滞したらどうスル? 技術の享受だけを願うようになったらどうする?」

「アンタは停滞した文明を見たことがあるのか?」

 質問を返された男の視線が逸れた。

「そんなに人間は弱くない。俺たちには夢がある」

 ガリバーが言葉を続ける。溢れ出そうになる感情を押しとどめて、タグレの言葉を待つ。しかし彼は、自分から口を開こうとしなかった。

「勝手な想像で、先に進みたい人の邪魔をするな」

「弱い生き物かもしれないだろう!」

「俺たちは弱くない! 俺たちも、君たちもだ!」

 ガリバーは叫んだ。

「ガリバー!」

 後ろから名前を呼ばれた。振り返って走り出した。月面に接する丘に響いた音は、ホバーバイクの起動音。浮かび上がったバイクのハンドルをヨミョウが握り、片手をガリバーに伸ばしている。ガリバーも手を伸ばした。触れた手は小さく、しかし力強く彼を引っ張った。

 ガリバーが彼女の身体に掴まったのとほぼ同時に、ヨミョウがハンドルを前方へ倒した。円盤の唸りが最高潮に達する。二人を乗せたバイクはアカルメイナスの町に向けて走り出した。

「ヤツらを追いかけロ!」

 背後からタグレの声がする。視界だけ後ろに向けると、タグレの周囲に浮いていた浮遊ユニットがバイクめがけて飛んできていた。

 住宅の影に入り、タグレたちの姿が消える。ホバーバイクが二台すれ違える程度の車道を駆け抜け、追跡を振り切るために交差点を曲がった。左へ、右へ身体を振られ、ガリバーはヨミョウの身体を掴む。月の裏側での疾走も恐ろしかったが、今はその比ではない。ヨミョウの土地勘と操縦技術に頼るしかなく、ガリバーはただヨミョウにしがみついた。星空を見上げる余裕はなかった。

 細い路地を抜けて道幅が広がった。ヨミョウがハンドルをさらに倒してスピードを上げる。集中する彼女の白い耳は畳まれている。幸い周囲に兎人はいない。昼時の今はモルト通りに集まっているのだろう。下り坂を高速で走るバイクもアカルメイナスの中心部へ向かっている。

「これからどうする!」

 ガリバーはヨミョウに向かって叫んだ。彼女は前を見たまま叫び返す。

「とにかく逃げるしかないワヨ!」

「モルト通りか!?」

「スピードで振り切れるのに賭けるシカ……!」

 最後の返答はほとんど呻き声だ。背中からはハンドルを握る手しか見えない。よほど強く握りしめているのか、白い肌に血管が浮かんでいる。

「来たぞ!」

 浮遊ユニットが飛び出してきた。ヨミョウはまた交差点を曲がる。スピードをほとんど緩めないまま何度も曲がり、モルト通りに飛び出した。歩道を歩いていた兎人たちが目を見開いて叫ぶ声が聞こえた。アカルメイナス最大の大通りで、ヨミョウはハンドルを完全に倒し、輸送トラックの間を縫うようにフルスロットルで駆け抜ける。

 建物の影に隠れるように走っていたというのに、振り向いたガリバーの視界には浮遊ユニットの姿があった。黒い球体は中心に取り付けられたカメラで二人を捉え続ける。

「何かないか!?」

「何かってナニ!」

「ピストルとか!」

「……ナニ!?」

 言葉の意味を聞き返すような言い方。なんて平和な町なんだ。ガリバーの思考が一瞬だけ逸れる。

 街中を疾走するバイクから敵を撃ち落とすなんてアクション映画らしいじゃないか。ガリバーは脳裏に、銀幕に映るヒーローたちを描いていたが、現実はそう上手くいかないらしい。問題は深刻だ。飛び道具が無ければ近づくまで対処できない。ただ、近づくのはよくない気がする。機体に隠されたあのアームはどんな機能を持っているのか、あまり考えたくない。

 何か投げるものはないか!

 危険を承知で片手を離し、服を探る。右足のポケットに硬いものが入っていた。マヒルと一緒にいった丘の上で拾った月の石だ。ちょうどボール大で握りやすく、つまり投げやすい。

 お守り代わりに持っていた。守ってくれるなら今しかない。どうせ持ち帰ることは許されないし、町の外側に行けばいくらでも転がっている。

 別れを惜しみギュッと握りしめた石を、彼は不安定に身体を傾けたまま背後に投げた。

「当たった!」

 灰色の石は黒い球体に命中した。ストライクだ!

 歓喜の声を上げたガリバーの顔はすぐに歪んだ。命中したのはコントロールが良かったからじゃない。ユニットが避けなかったからだ。ガリバーは唇を噛んだ。当たり前じゃないか。あんな小さな石が、しかも子供がキャッチボールする程度のスピードしかない石が当たったぐらい脆いものを兎人が作るはずがない。いや、地球の機械だって傷がつくだけで終わりだ。

 冷静さを欠いていることをガリバーは自覚した。

「落ち着け、落ち着け……」

 ヨミョウに掴まり、彼女の背中に額を当てながら呟く。

「落ち着いてられル!?」

 前を向く彼女の口が出した声はバイクが切り裂く風と混ざっていたが、完璧に聞き取れた。

 ガリバーが顔を上げる。バイクが傾き、モルト通りの対岸にある路地に入った。

「このままあてもなく逃げ続けるのは無理だ。何か策を考えないと」

 一瞬だけヨミョウが声を上げたが、意味を持つ返事にならないまま止まった。

「外には逃げられないよな」

「ムリ。外の方が隠れられる場所が少ないワ、あのロボットには追い付かれる」

 ヨミョウがハンドルを切りながら答える。一つ前の右折に比べると落ち着いたカーブだった。少しだけ心に余裕が生まれたガリバーは、ハンドルの奥にある道に見覚えがあることに気が付いた。記憶を頼りに現在地を割り出そうとする。

「どうにかして追手を撒かないト」

「撒ける場所なんてあるのか?」

 答えは返ってこない。

 案を二つ出しただけの僅かな間にも、ヨミョウが操るホバーバイクは複数の角を曲がっていた。新しい道が視界に広がるたびに、兎人たちが叫び声を上げて道の端に身体を寄せる姿がガリバーの目に入る。しばらく直線に走っていれば浮遊ユニットが現れる。捕まるか、事故を起こすか。どちらが先でもおかしくない。

「一旦バイクを捨てるのはどうだ? 隠れられる場所も増える」

「バイクが無いと計画が――」

「危ないッ!」

 ガリバーの叫び声と、ヨミョウの手で無理やり進路を変更させられたバイクの呻き声は、ほとんど同時に町に響いた。死角にいた幼い兎人は身体を硬直させ、目の前を過ぎ去るホバーバイクを視線で追うこともできない。ヨミョウはハンドルを離さなかった。後方に引いブレーキをかける。前後に配置された円盤が熱を上げる。

 スピードは緩んだが、すでに手遅れだった。止まり切れなかったホバーバイクは住宅の塀に衝突し、二人は投げ出された。

「ガリバー? ヨミョウ姉チャン?」

 遠くから声が聞こえる。ガリバーは痛む手を支えにして身体を起こした。全身を見るが致命的な傷は無い。手の甲についた擦り傷程度だ。壁に突っ込んだ衝撃と同時に、月面に墜落した時の痛みも蘇ってきた。全身に鳥肌が立つ。よく生き残れたものだ。あの痛みと恐怖に比べたら、この程度の怪我は土産話にもならない。ヨミョウに目をやったが、彼女もすでに起き上がっていた。お互いに心配を込めた眼差しで見つめ合い、必要が無いと悟り立ち上がる。

 子供は無事か?

「ガリバー!」

 また名前を呼ぶ声がした。危うく轢きかけた兎人が駆け寄って来る。ガリバーは眉を上げた。

「マヒルか! 怪我は!? ぶつかったか!?」

「ビックリしたけど大丈夫。何して――」

「来るよガリバー! バイクはダメ!」

 ヨミョウが叫ぶ。ホバーバイクは煙を上げて横たわっていた。フレームが曲がっている。

 ガリバーは顔をしかめ、戸惑うマヒルの全身を目でなぞった。擦り傷一つ無い、無事だ。

「すまないマヒル!」

 ガリバーは立ち上がりヨミョウに向けて走った。彼女もガリバーに並んで駆け出す。マヒルの方を振り向く余裕はない。浮遊ユニットの駆動音がかすかに聞こえる。二人は路地を曲がった。

「どうシヨウ、どうシヨウ」

 震える声が耳に届く。ちらりと彼女へ視線を向ける。頬を流れる小さなものが光を反射した。足を止めて彼女を落ち着かせたいが、二人を追うユニットはそれを許さない。励ます言葉を考えようとして、ガリバーは思い直す。違う、励ましている場合じゃない。捕まったら終わりだ。

 足を止めずにガリバーは周囲を見渡す。この区画は住宅地だ。モルト通りのような店はない。誰かの家に忍びこむしかないか? 忍びこんだところで行き先は無い。走り続けるしかないのか。

 あの家は見覚えがあるな?

 ふと目に入った光景にガリバーは眉をひそめた。数十メートル先に建つ白い家。どこの家も似ているが、あの家は屋上に緑色が見えた。

 ガリバーは記憶を辿る。屋上の緑。この道は知らないが、あの家は別の角度から見た。あれはどこに向かっている時だったか。アカルメイナスを隅々まで見ようとして……子供たちと一緒に歩いた。子供たちはこの区画に詳しかった。マヒルがさっき歩いていたのは――。

「野球場の近くか!」

 ガリバーが声を上げた。

「こっちだ!」

 屋上の緑は野菜の葉だ。家庭菜園が好きな兎人が住んでいるのだろうと勝手に想像していた家を目印にして、ガリバーは左に曲がった。今度は完璧に記憶通りの道に変わる。

「アイツらに野球場の重力操作装置は効くか?」

 ガリバーが尋ねるとヨミョウは両目を拭った。声の震えを抑えるようにゆっくりと声を出す。

「効く、ハズ。姿勢制御が狂うワ。ちょっと足止めできるぐらいかもしれないケド」

「その間に無力化しよう。できるか?」

「やるワ。やらなキャ」

 少女が強く頷いた。ガリバーも頷いてみせる。子どもたちに囲まれながら歩いた道を全力で駆け抜け、緑豊かな公園が視界に入った。木の葉の間から覗く星空を眺めていた兎人たちが二人に視線を移す。視線を無視してウォーキングコースを垂直に横切りフィールドにたどりついた。目の前にあるのは一塁のボード。コンソールはダイヤモンドの向こう側だ。残り五十メートル強。

「クソッ、近い!」

 駆動音が聞こえた。振り返らなくても分かる。追手はもうそこまで迫っている。

 ガリバーは唇を噛んだ。

「俺が起動する。ヨミョウはこのまま走れ!」

「ガリバー」

 ヨミョウの視線がガリバーと交わる。

「諦めるな」

 ガリバーは真っすぐに彼女の赤い目を見つめて言った。少女はコクリと頷いた。

「こっちだ!」

 顔だけ背後に向けたガリバーが叫んだ。彼の声と同時に、ヨミョウの足は突如方向を変え、外野へ向かって走り出す。浮遊ユニットが一瞬停止した。中央のカメラは腕を振り走る二人を捉え、白い耳の生えた少女を標的に定める。

 ヨミョウは走った。流してしまった涙の跡は乾ききっている。顔が歪む。感情が外に出にくくなっていても痛みは別だった。肺が焼ききれそうなほど痛む。喉も痛い。ホバーバイクから飛び出した時にぶつけた腕も、重い靴を懸命に動かし続けた足も、血を巡らせ身体を前に進めてくれる心臓も全部。浮遊ユニットの音はすぐ後ろに聞こえる。アームを伸ばせば届く距離かもしれない。それでも彼女は走り続けた。不意に空を見上げ、星空に浮かぶ青色を見た。アノ場所まで走らなクチャ。

 ロボットのアームが伸びた。

 コンソールのレバーが倒れる。

 黒いアームはヨミョウの黄金色の髪に触れ、しかし握りしめる寸前で本体がよろけ空を掴んだ。突然弱まった重力と内部パーツが発生させている磁力のつり合いが崩れ、機体の天地が逆さまになる。ヨミョウはベルトに着けていた工具バッグからドライバーを取り出す。だがカメラは、まだ彼女の黄金色の髪を捉えている。アームが再び彼女へ伸びる。

「走れ!」

 ピンと立った白い耳がガリバーの声を聞いた。

 反射的に飛びのき、眼前で黒い手が振りぬかれて心臓が飛び上がる。勢いを止められずに浮遊ユニットは機体を回転させた。ヨミョウはユニットに背を向けた。

 フィールドに穴が開いている。金属製のポールの先端が飛び出し、星空へ向けて伸び始めた。ヨミョウはポールに捕まり、改造したバングルを起動して、伸びる勢いをそのままに飛び上がった。ふわりと浮いた少女の姿は住宅の向こうへ消える。制御を取り戻したロボットは彼女を追いかけようとしたが、伸びきったポールの間に出現したバリアに阻まれた。フラフラと左右に揺れたかと思えば動きが止まる。ヨミョウの姿はどこにもない。

 浮遊ユニットは機体を反転させた。フィールドの端に設置されたコンソールに寄りかかる一人の男をカメラに映す。近づく間も男は動かない。肩で息をするその男は口角を上げてカメラを見つめている。ロボットはスピーカーに回路を繋いだ。

「同行願イマス」

 黒いアームが男の行く手を阻む。ガリバーは両手を上げた。


   ☽


「ヨミョウはドコへ行ッタ」

「知らない」

 手首に取り付けられた機械のモニターが波形を表示している。どうやら噓発見器のようなものらしいが、モニター上部に取り付けられたスピーカーが出力する音はまだ聞けていなかった。この高性能な機械のおかげで、嘘を吐いていないことが証明らしい。ヨミョウが研究室で使っていたデスクよりも綺麗なデスクの向こう側に座るタグレは、ガリバーの返事から数秒遅れて舌打ちをした。月に来てから初めて聞いた音だ……。

 浮遊ユニットに捕まったガリバーは、その後ウェラ技術センターに連れてこられた。アカルメイナスには犯罪者を閉じ込めるための留置所のような施設は無いらしい。センターの正門に一番近い棟にある、エントランスに一番近い会議室で柔らかなワーキングチェアに座らせられた後、どこに連れていくのか決められない兎人たちの悩み顔を十数分眺めた末に、中央棟の所長室まで丁重に案内された。所長がいる部屋――今はタグレの部屋ということになる。最上階に設置された部屋は壁一面に窓ガラスが嵌めこまれ、アカルメイナスの町がよく見えた。

 もう顔を低くすれば地球も見えそうだな。ガリバーは腰を前へ滑らせる。

「悪いが、もしオレがアンタの方に協力したいと思っていても、答えは同じだよ。本当にヨミョウがどこに行ったのか知らない。民家の向こうに消えて、それきりだ」

 噓発見器はアラームを鳴らさない。端から端まで事実だ。タグレと同じ疑問を抱いて、ガリバーは貴重な所長室からのアカルメイナスの景色を眺める。一体彼女はどこに隠れたのだろう。もう少しだけ姿勢を下げたら、町の上に地球の青色が見えた。

「ナニがしたいんダ。こんなコトをしても、お前にはナニも得することはないダロウ」

「損得じゃないんだよ。オレだって、このまま帰れなくなったりしたら怖いが……ヨミョウを見捨てたら、俺は子どもの頃の自分に向ける顔が無くなる」

 タグレは顔をしかめた。言いたいことは、細めた目を見れば分かる。ため息を吐いたガリバーは天井を見上げた。どこまで話せばいいのやら。

 面倒にならない程度の昔話をしようと本気で考えていたものの、疲労に襲われて気が失せた。

「俺も子供の頃に色々あったんだよ」

 口を開いて、タグレの動きが止まった。尋問でもするような気配を放っていたが、何を言えばいいのか分からなくなったらしい。罵声の代わりに、大きなため息が彼の口から漏れる。

「疲レタ」

「悪いな」

 もう一つ、今度はわざとらしいため息をタグレが吐いた。

 地球を見るための不自然な体勢を戻す。両手を上げて伸びをした彼の背後から、所長室のドアが開く音がした。椅子を回転させて振り返ると、ライトグレーの作業服を着た兎人が立っていた。

「報告デス」

「通信で良いダロ」

「ガリバーさんもコノ部屋にいると聞いたノデ」

 彼と目が合い、ガリバーは背筋を伸ばした。兎人は笑顔を浮かべている。

「ロケットの試験が完了しまシタ。これからマスドライバーへ移動し、最終チェックを開始シマス。四時間後には打ち上げ可能となりマス」

 タグレは思わず報告に来た兎人を睨みつけた。ガリバーも、彼自身意外なことに、兎人を見つめたまま唇を曲げてしまった。予想と真逆の反応に、作業服を着た兎人は二人の間で視線を往復させていた。彼の動揺に気付いたガリバーはそっと笑いかけた。

「ありがとう。君たちのおかげで家に帰れるよ」

 兎人の顔がパァッと輝いた。

 ガリバーは椅子に座ったまま上半身を前方へ傾け、右手で口元を覆った。上げた口角を戻して唇を結ぶ。ついに故郷へ帰り、家族へ無事を伝えることができる。そのことは間違いなく嬉しい。

 だが、ヨミョウが夢を叶えるために行動できる残り時間も決定してしまった。ホバーバイクが壊れた時点で最初に言っていた作戦は破綻した。彼女は今どこに……。

「カグヤ様は?」

「打チ上ゲの一時間ほど前に来るそうデス。いつも通り、従者の方々も数名一緒にいらっしゃるト。所長とも話したいそうデス」

 ため息の代わりに拳がデスクを叩く音が響いた。

「コノ忙しい時に、ヨミョウメ!」

 口から長い息を吐き、タグレは頭を切り換える。

「カグヤ様の対応をする人員を確保してオケ。私も時間が来たらソチラに向カウ。カグヤ様と従者の方々の部屋も、それぞれもう一度掃除シロ。失礼のナイようニ」

「ハイ」兎人が頷く。

「報告はソレだけカ? ヨミョウはまだ発見できないのカ」

「まだ捜索メンバーからの連絡は何モ……」

 兎人が答えるとタグレはドアに背を向けて、片手をあげて宙を払った。兎人はガリバーにお辞儀をして去っていく。タグレはじっと、アカルメイナスの町を眺めている。

「さっきの話だが……アンタは本当に夢を忘れたのか?」

 ガリバーが尋ねると、振り返ったタグレの冷たい視線が返って来た。動じずに、ガリバーは肩をすくめてみせる。ここに閉じ込めるつもりなら、暇つぶしの話し相手ぐらいにはなってもらわないと。それに、逃走劇が始まる前のタグレの反応も気になっていた。

「忘れたナ」

 そう言うと、彼の視線はまた窓の外に戻った。

「アンタらの神も言ってたぞ。夢を抱いて生きていけって」

「ウェラ・イーが?」

 一つ前の質問より反応が早かった。食い気味の返事は声量も上がっており、ガリバーの心臓がわずかに跳ねた。身体ごとガリバーへ振り向いたタグレはデスクに両手を置いて前に乗り出した。

「アノ研究所で何を見タ」

 今までになく強い視線だ。ガリバーは唾を飲む。怒りに好奇心が混ざった重い視線で刺されている。隠すことは賢い選択ではではなさそうだ。慎重に選んだ言葉を声に出す。

「この月の都を生み出した彼は偉大な科学者だったって事実を見た。地球はおろか、今のアカルメイナスの技術ですら、彼の足元に届いた程度のレベルだと思う。彼はずっと先の未来を歩んでいた。けど、そんな神様も、俺と……」

 口を閉じて言い直す。

「俺たちと同じ、夢を抱く一人だったってことを知っただけさ。あとは彼が遺した発明品ぐらい」

 曖昧な気もするが、嘘を吐いてもいない。ガリバーの手首に取り付けられたまま放置されている噓発見器は黙っていた。ガリバーはタグレを見つめる。大事なのは詳細な話じゃない、彼に納得させることだろう。

 タグレに眉間に皺が寄っていったが、不意に緩んだ。またもや大きなため息を吐き、ドスンと音を立てて椅子に腰を落とす。

「まあ、イイ。ヨミョウを捕まえてじっくり聞き出ス。お前を帰せば、時間はいくらでもアル」

 静かで波の無い声色だ。タグレの身体から力が抜け、今にも柔らかな背もたれに飲み込まれてしまいそうだ。初めて出会った時より何歳か老けたように見える。ガリバーも人並みの罪悪感を覚えて視線を逸らした。

「所長!」

 限界まで開いたドアが跳ね返る音が静寂を破り、二人目の訪問者の声が続いた。耳を立てた兎人が息を切らして立っている。頬は紅潮して髪は乱れている。ガリバーには目もくれない。

「今度は何ダ! ヨミョウが見つかったカ!?」

「いえ、ヨミョウはまだデスガ、それよりも外ヲ……!」

 息も絶え絶えに窓の外を指さす。眉をひそめたタグレは窓に目を向けた。漆黒に星が煌めく空と、クレーターに広がるアカルメイナスの町。今日まで眺めていた景色と何も変わらない。さらに窓に近づく。外の景色が広がっていく。手を伸ばせば窓に触れられる位置まで近づいた瞬間、タグレは残りの一歩を素早く踏み出し、拳を握りしめてガラスに当てた。冷たいガラスに体温が逃げていく。

「一体何ヲ……!」

 声が震えていた。ガリバーも立ち上がり、彼の隣に駆け寄った。タグレが見つけたものは一目で分かった。地上にある研究センターの正門に兎人たちの集団が詰めかけていた。

 数十人程度じゃ収まらない規模にガリバーも目を丸くする。一人一人の表情は見えず、目的も想像できない。一ヶ月の月面生活でも想像できなかった姿だ。デモを起こすような人たちじゃない。数え切れないほどの白い耳が揺れている光景は恐怖すら覚える。

 目を引いたのは、集団の先頭にいる二人だった。正門が区切る研究センターとアカルメイナスの境界線で、二人の兎人が研究センターの職員と向かいあっていた。一人は平均的な背丈だが、もう一人は周囲の兎人に比べて背が低い。平均的な背丈をした兎人の髪は腰まで伸びている。結ばれた髪が揺れるのはロングスカートの上だ。ワインレッドで彩られたスカートの。

「ヤザラ? ……マヒルか!」

 遠いが間違いない。ヤザラとマヒルの二人が職員と話している。

「ガリバーさんにお別れをさせてほしいと言ってイマス。研究センターの外で会いたいと……」

 報告に来た兎人が言った。ぽかんと口を開けたタグレは答えず、身体を硬直させて正門前を見続けている。数秒待ってから兎人が言葉を続けた。

「所長……ガリバーさんを外に出してあげませんカ? ガリバーさんに会えるまで彼らも解散しない気がするシ……ボクもちゃんとお別れしたいデス。ガリバーさんも皆と話したいですヨネ?」

 突然話を振られてガリバーの身体が跳ねた。思わぬ救いの手に目を丸くして、すぐに頷いた。

「もちろん。もちろん会って話したい」

 願ってもない展開だ。このまま出発時刻まで閉じ込められるんじゃないかと諦めかけていた。

 ため息しか呼吸の方法を知らないんじゃないかと思うような息を吐いたタグレは、弱い足取りで窓から離れ、星空に背を向けてこめかみに手を当てて俯く。

「好きにシロ……」

 声まで弱い。

「ヨミョウの捜索は続けるンダ。もしかしたら、ヤツも会いに来るかもしれないカラナ」

 了解しました、と兎人は答えて、それから一気に笑顔を輝かせた。

「ではガリバーさん、行きまショウ!」

 救いをくれた兎人の手で手首に装着されていた機械が外されて、ようやく手首が軽くなる。壊さないようにタグレのデスクに置いて、ガリバーは兎人と一緒に所長室を出た。

 中央棟で働いていた研究者たちは、正門へ向いた廊下の窓から兎人たちの騒ぎを不安そうな顔で眺めていたが、ガリバーが通ればたちまち表情を明るくした。所長室から解放されたことに安堵して彼を励まし、外に出ようとする彼の後を追いかける。中央棟の玄関から外に出る頃には、様々な経路で噂を聞きつけた別の研究棟の職員たちも集結しており、外に集まった兎人たちにも負けないほどの人数が集まっていた。

 ガリバーが正門までたどり着くと、彼の姿を見つけた兎人たちから歓声が上がった。ガリバーは地球から飛び立つ前の喧騒を思い出していた。

「ガリバー!」

 マヒルが名前を呼んだ。ヤザラと一緒に駆け寄ってくる。

 二人にガリバーが笑顔を向けると、ヤザラは大きく息を吐き出して胸に手を当てた。

「ああ良かった。本当に良かったわ。このまま帰っちゃうんじゃないかって不安だったの」

「その通りの展開になりかけてたよ。この騒ぎはヤザラたちが起こしたのか?」

 ヤザラとマヒルが視線を交わした。マヒルに手招きしたのでガリバーは彼に近づいて屈みこんだ。マヒルは彼の耳に顔を近づけて囁いた。

「ヨミョウお姉ちゃんに会って頼まれたンダ。ガリバーが捕まっちゃったから、研究センターから出られるようにミンナを連れて騒いでッテ。できるだけ騒ギを大きくしてって言われたヨ」

「オレたちがマヒルに会った後にヨミョウに会ったのか?」

 マヒルが頷く。ガリバーは曲げた膝の上で拳を握った。ヨミョウはまだ諦めていないらしい。

 次にヤザラが普通の声量で話す。

「きっかけはマヒルくんが話した通りだけど、私たちがガリバーとお別れしたいのも本当よ。モルト通りの人たちに話したら皆来てくれたわ。こんなに来るとは思っていなかったけど」

 ヤザラはクスクスと笑っていた。立ち上がったガリバーが集まった兎人たちを見渡すと、会話したことがある知り合いが手を振っており、その隣ではすれ違ったかどうかも覚えていない兎人も手を振っていた。たくさんの白い耳が揺れ、兎人たちの壁の向こう側は完全に隠れている。

「もうすぐ出発でしょ? 行きましょう、お別れパーティの準備をしてるの」

 二人はガリバーを挟むように立った。ヤザラが前に出した手がアカルメイナスの町へ誘う。彼女のなめらかな指が示す先では、兎人たちの笑顔が待っていた。

「今度はヨミョウのことも助けられたかしら」

 小さな声でヤザラが言った。

「ああ、助けられたよ。ヨミョウはまだ夢を追いかけられる。ありがとうヤザラ」

 ガリバーの答えを聞いて、ヤザラはゆっくりとほほえんだ。

「マヒル」

 歩き始めてから兎人の少年に声をかける。ガリバーから彼に顔を近づけて小声で尋ねた。

「ヨミョウの居場所は知っているか?」

 マヒルが首を振った。

「ボクも知らない」

 分かった、とだけ言って、ガリバーは顔を離す。ヤザラにも視線を送ったが、言葉にする前に首を振ってきたのでそれ以上は何も聞かずに口を閉じた。

 正門を出る直前に、ガリバーは中央棟の最上階を見上げた。窓から見下ろしているタグレの姿が見えたが、彼が浮かべる表情は見えなかった。


   ☽


 ガリバーが率いるうさぎたちのパレードはモルト通りを進み、星空の下のパーティ会場に到着した。研究センターの前に集まっていた兎人たち以外にも多くの兎人がガリバーを出迎え、アカルメイナスの全住民がこの場所にいるんじゃないかと彼は笑いを漏らしてしまう。町で一番広いモルト通りの道いっぱいにテーブルたちが無造作に並べられ、机上には様々な料理やドリンク、雑貨やゲームまで置かれていた。未だパーティ会場は完成していないようで、次から次へと増えつつある。

「ガリバーに見てほしいからって、みんなが色々持ち寄ってきたからあっという間に会場ができあがったわ。それでね、一番大事なことだからよく覚えておいてほしいのだけど、私のお菓子はあそこのテーブルよ」

 ガリバーの笑い声が弾けた。

「もちろん最初に食べに行くよ」

 いつになくヤザラは陽気だ。ニコニコと笑みを浮かべ、身体も耳も揺らしている。

「無駄にならなくてよかったわ~」

「ありがとう。本当にありがとう」

 誰かの楽しそうな声が耳に届くたびに、ガリバーは胸の奥で沸き起こる熱を感じた。涙がこぼれそうになる目を瞑りながら、声が震えていることがバレないように祈って感謝を伝える。ヤザラもマヒルも彼の隠し事には気付いていたが、何も言わずに二人でほほえみあうだけだった。

「ガリバー! 今日帰るんだってナ!」

 不意に背後から大きな声が聞こえ、三人揃って身体を飛び跳ねさせた。早速話しかけてきた兎人はレストランの陽気な店主だ。彼もまたガリバーの友人だ。彼が振る舞う料理をヨミョウやマヒルたちと一緒に食べながら何度も何度も話した。彼が料理人になる夢を抱いたきっかけも知っている。そんな兎人の友人たちが、ここにはたくさんいる。

 隣からヤザラが声をかけた。

「まだ作ってる途中のお菓子があるから、私は一旦抜けるわね。楽しいでちょうだい」

「ボクもミンナのコト呼んでくる!」

 二人は手を振りながら去っていった。残ったガリバーは店主と会話して、その途中でまた別の兎人が話しかけてきた。ヤザラが気に入っている雑貨屋の主人。マヒルたちの野球セットを自作したという学校の先生。地球の物語をたくさん読みたいと話していた本屋の店員。もうすぐ学生時代が終えて大人になっていくことへの不安を相談してきたメガネの女学生。マヒルと友だちになりたいと言うので協力してあげた引っ込み思案の少年。ガリバーと宇宙に関する熱い議論を交わして新しい夢を見つけた、引退予定だった初老の研究者。それから後もずっと、ずっと。

 友人となった隣人たちと話しながら、時折ガリバーは他のグループにも目をやった。皆と言葉を交わすには、一ヶ月という時間は短すぎる。すれ違うこともなかった住人たちが大半だろう。それでも、ガリバーに話しかけない兎人たちも、彼の帰還を祝福するためのパーティに参加して友人と共に笑いあっていた。ガリバーはほほえんだ。これでいい。俺のためだけのパーティじゃない方が楽しいじゃないか。月に住むうさぎたちのパーティは、一生思い返しては戻りたくなるような幸せな時間だった。地球が見守る星空の下で、白い耳たちが揺れている。

 次々に訪れる兎人たちと話す。感謝を伝えられ、感謝を伝え返す。勧められた料理に舌鼓を打つ。マヒルと子供たちが輪になって回る姿を眺める。大人たちも加わり、どこからか音楽が流れ始めた。

「ガリバー」

 名前を呼ばれた。よく知る声がした方へ振り向き、彼は眉を上げた。彼の名前を呼んだヤザラはドレスに身を包んでいた。兎人たちが着ている機能性の向上を目指した服とは違う、彼女の美しさを際立たせるワインレッドのドレス。ガリバーも、周囲の兎人も、ヤザラの姿に目を奪われていた。

 彼女はガリバーに手を差し出した。頬を紅く染めて。

「よかったら、私と踊ってくれませんか」

「……もちろん」

 男は彼女に見惚れたまま手を取った。

 二人ともダンスは初心者だ。正しい踊り方なんて知らない。音楽から伝わる感情のまま身体を動かし、手を取り合って、鏡のように向かい合って、二人は踊った。音楽の区切りと同時に彼らのダンスが止まる。ぎこちない足取りだったが、二人のダンスを見守っていた兎人たちは拍手をくれた。

「ありがとう、ガリバー」

「こちらこそ」

「ああ暑い! 向こうで休んでくるわ!」

 顔を赤くしたヤザラは、止める間もなくドレスを着たまま人混みの向こうへ消えていった。

 ガリバーとヤザラを見ていた兎人たちも、二人が離れた輪の中に入って踊り出していた。笑顔は伝播し、好き勝手踊る輪が広がっていく。月の音楽家たちの演奏が最高潮のままフィナーレを迎え、踊っていた兎人たちは皆で笑った。

 幸福の中にいる兎人たちの姿を眺めるガリバーは、深いため息をついた。心の底から楽しみたいと願っているのに、ふとした瞬間に、ガリバーの心はパーティから離れていた。

 次の音楽が始まって兎人たちが再び踊り始めた。そばにいた兎人に誘われたガリバーは、「ちょっと休ませてくれ」と言って笑顔を作り、輪から抜けて会場の端にある椅子に腰かけた。近くにあったドリンクを取って口に運ぶ。ほのかな甘みが広がった。この味は、月で出会った他の味よりも記憶に強く刻み込まれている。月面がよく見えるカフェで飲んだジュースだ。彼女に教えてもらった名前も憶えている。マモモジュース。

 ――ヨミョウはどうしているのだろう。

 モルト通りの中央で踊る兎人たちの中を探しても、彼女の姿はなかった。

「ガリバーさん」

 男の声で名前を呼ばれて視線を動かす。声の主たちを見て、恐らく夫婦だろうと最初に思った。柔らかな笑みを浮かべた男女が寄り添って立っている。年齢は自分より少し上か? ガリバーは二人の顔を見つめながら考える。ジロジロと見つめるのは失礼だと分かっていた。ただ、どうしても思い出せない。地球人への興味で話しかけにくる兎人たちとは様子が違う。ガリバーという人間と話そうとしていた。穏やかな笑顔を見つめながら、罪悪感を顔に浮かべることになった。

「えっと……」

「お話するのは初めてですネ」

 女性が言った。

 なんだ、初めてだったか。お世話になった人を忘れたわけではなかったことに安堵し、しかしまた別の疑問が生まれた。やけに丁寧に話しかけてくる。ガリバーも自然と背筋を伸ばして、彼女たちの次の言葉を待つ。

「私はホタマ。ヨミョウの母デス。コチラは夫の――」

「シナトといいマス。初めまシテ」

 ガリバーは目を見開き、慌ててグラスを置いて立ち上がった。テーブルに置かれていたナプキンで口元を拭い、シナトが差し出していた手を握り返す。

「初めまして。ご挨拶が遅くなりました、ガリバーです」

 ホタマも手を差し出してきたので握り返した。

 手を離してから、何から話したものか分からず言葉に詰まらせた。両親の話はヨミョウから聞いていた。母は教師、父は建築家。ヨミョウとは別の家で暮らしていて、たまに会いに帰っていると。ガリバーからしたら羨ましい家族の話だったが、地球でいくらでも聞ける一般的な家庭の話でもあったので、深掘りすることはなかった。挨拶をした方がいいかとヨミョウに聞いたが気にしなくていいと言われ、案内されることもなく会う機会も無かった。顔を見るのも初めてだ。

「娘がご迷惑をおかけしませんでしたカ?」

 眉を下げたホタマが問いかける。ガリバーはすぐに首を横に振った。

「いえそんな! 私の命を救ってくれただけじゃなくて、ロケットが完成するまで居候させてくれて、感謝してもしきれません。救ってくれたのが彼女でよかった」

「そうでしたカ」

 ホタマはホッと息を吐いてニコリと笑った。隣でシナトが頷いている。

 それからホタマは周囲を見回した。

「あの子はココにはいないのですネ」

「……はい」

 返事が遅れた。ガリバーは視線を合わせていられずに逸らしてしまう。

 シナトがホタマに続いて話し始めた。

「私たちの自宅にもウェラ技術研究センターの人タチが来たんデス。ヨミョウの居場所を知らないかと聞きニ。ヨミョウは夢を叶えようとしているんですネ?」

 穏やかな声色だ。ガリバーを責めようという気は少しも感じない。最後の質問は、ガリバーに問いかけてはいたが、たしかな確信を含む声だった。ガリバーが頷くと、母は父の方を向いた。

「ネ」

「アア、そうダネ」

 二人は互いに見つめ合いほほえんでいる。それからガリバーに向いた。

「分かっていまシタ。今朝あの子がウチに来た時カラ」

 ガリバーが瞳に浮かべた色は、幼い彼が、おもちゃ屋のショーウィンドーの前で浮かべていた色と同じだった。店内から出てくる同じぐらいの年齢の子供たちが胸に抱いている姿が羨ましかった。近くにあるのに手に入らないものがあった。自分の両親が自分のことを想ってこんなにも優しい表情を浮かべていたことは記憶にない。いや、もしかしたらあったのかもしれない。けれどその記憶は、夢を否定された悲しさと孤独にかき消されてしまっている。思い出すことはできない。ずっと憧れ続けたものを、ヨミョウは持っている。

 ガリバーは唇を曲げた。自分の子を送り出すことがどれだけ辛いことなのか、まだ先の話だとしても、考えずに避けてきた。二人だってきっと同じだ。二人はヨミョウを愛している。俺が手を貸して、この優しい夫婦の娘を危険に晒してしまった。

「申し訳ありません。私が来たことがきっかけで、彼女に大きな……取り返しのつかない選択をさせることになってしまって」

「いいんですヨ。ヨミョウなら大丈夫ダカラ」

 ホタマは笑顔でそう言って、笑みを浮かべたまま首を傾けた。

「この一ヶ月で伝わりませんでシタ?」

「ええ……それはもう充分に。彼女は勇気を持っています。良い未来に歩もうと願う人なら誰もが望むものです。無鉄砲と言う人もいるかもしれませんが、彼女は違います。しっかりと考えて前に踏み出せる」

「エエ、自慢の娘なんデス」

 誇らしげに彼女は言った。彼女の言葉が本心であることは、疑う気も起きなかった。

「あの……ホタマさん、シナトさん」

 ガリバーがおずおずと名前を呼んだ。

「どうしても、聞きたいことがあって」

 心臓がキリキリと痛む。これから言おうとしていることは聞かない方がいいのかもしれないと、ガリバーは半分思っていた。それでももう半分が彼の背中を押す。責任ある大人として聞かなければいけないのだ、例えそれが無責任な言葉だったとしても。

 二人と同じ、子を持つ親としても。

「彼女が月を離れようとしていることを、私は今からでも止めるべきでしょうか」

 シナトが眉を上げた。

「私にも娘がいるんです。娘を想う気持ちは分かる……分かると思っています。だから、お二人が望まないような道を選ばせてしまったのではないかと……気になって」

 目を逸らしたい気持ちを抑えて、ガリバーは二人を見た。もう目を逸らさないとヨミョウに誓った。ここから逃げ出しはしない。

 キョトンとした顔を浮かべた夫婦は二人で視線を交わす。視線だけで会話した彼らは再びガリバーを見て、シナトが彼の肩に手を乗せた。

「ありがとう、そんなコトを考えてくれるナンテ」

 どこまでも柔らかな声だ。怒りなど微塵も浮かんでいない。

 ホタマが夫の声に続く。

「もちろん、心配デス。アカルメイナスに住んでいた先祖たちが足を踏み入れなかった領域に飛び込むコトになるし、地球でどんな生活をしているのかは私タチもよく知らないですカラ」

 一言聞くたびに罪悪感が胸を刺すようだ。ガリバーが結んだ唇には一層力が入る。周囲の兎人たちが生み出す賑やかな音も次第に聞こえなくなる。彼の耳には夫婦の言葉しか届かなくなっていた。

「でも、私タチへの心配はいりまセン」

 ガリバーの眉が上がる。ホタマの声は静かで、揺るぎない意志がこもっている。ガリバーの想像とは真逆の表情を浮かべる二人の言葉を、ガリバーは真っ直ぐに立って受け止めようとする。

「だって――」

 ホタマとシナトは視線を交わした。何も言葉を交わさずとも、今朝会った彼女が輝かせていた瞳を二人で思い出して、ホタマはほほえんでガリバーに言った。

「大切な子供の夢が叶って嬉しくない親なんて、ドコにもいませんヨ」

 太陽がガリバーを照らした。

 歓声が聞こえる。今までモルト通りを満たしていた歓声と笑い声がガリバーの元に返ってきた。彼はホタマと視線を交わしていたが、彼を囲む世界を、はるか彼方まで感じていた。地球。星空。夢に見た灰色の大地。月の都で育つ花々。白い耳を揺らして踊る兎人たち。鮮やかなその景色は、しかし今までよりも色彩に満ちている。

 スミソニアン博物館の記憶が脳裏によみがえる。何時間も月の石を見つめていた彼を呼びに来た両親は、困ってはいたけど、笑っていた。歪んだ顔しか残っていなかった両親は、愛を込めた眼差しでボクを見ていた。

「……はい」

 か細く震えた声でガリバーは言った。

「帰ったら、両親ともう一度会ってみようと思います」

 不意に涙がこぼれて、ガリバーは顔を俯かせて手で覆った。頬が熱い。羞恥心と感謝で感情はめちゃくちゃだ。

 ヨミョウの両親はわけも分からず顔を見合わせたが、もう一度笑みを浮かべてから伸ばした手をガリバーの肩に置いた。

「おお、あそこダ。ガリバー!」

 後ろから男の声が聞こえてガリバーは視線を上げた。急いで顔を拭って振り返る。兎人たちの中でも早い頃に知り合った二人がいた。

「カイ、ロッコ」

「打ち上げの準備が……ア? 泣いてんのかイ?」

「忘れてくれ。出発の準備ができたんだな。ありがとう」

 また頬に熱を感じる。口角を上げて首を振った。

 彼らは反対に口角を下げる。

「寂しくなるネェ」

「コレからも良い人生を、ガリバー。楽しかったゼ」

「君たちも元気で」

 カイとロッコと握手を交わす。またどこかから名前を呼ぶ声がしたので振り返ると、ガリバーが去ることに気付いたのか、彼の名を叫んで手を振る兎人たちがいた。彼らのそばにはガリバーに構わず踊り続けている兎人たちもいる。友人との会話に花を咲かせている兎人たちも。みんなそれぞれの場所にいて、みんな笑顔だった。

「ガリバー」

 一つだけ小さな――沈んだ声が聞こえた。視線を下ろすと、彼を見上げるマヒルと目が合った。

「もうちょっとココにイナイ?」

「ああ……」

 彼の表情を目にして、声が漏れた。マヒルは月にいる間、ヨミョウやヤザラと同じぐらいの時間を一緒に過ごした兎人だ。会わなかった日は両手で数えられるほどしかない。彼はずっと友人たちに囲まれていた。子どもたちのグループで、最年長者としてリーダーを務める彼は大人びて見えていた。月に墜落した地球人の元へ、誰も湧かなかった勇気を出して訪ねてきた日からずっと。しっかりした子だと、ガリバーは思っていた。

 膝を折って彼と視線を合わす。爛々と輝いていた彼の赤い瞳が潤んでいた。

 マヒルもまだ子供じゃないか。こんなに小さな……。

 ガリバーは彼の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「ごめんな。俺もマヒルたちと一緒にいたい。でも、地球で俺のことを待っている人がいるんだ。きっと悲しませてるから、生きてるって伝えないと」

 マヒルは賢い少年だった。ガリバーの帰らなければいかないことも理解している。わがままを言ってはいけないことも。それでも彼は、潤んだ瞳から涙がこぼれないように顔を歪ませながら袖を掴んでいた。ガリバーはマヒルの背中に腕を回して抱きしめてやった。背中が震えている。

「必ずもう一度会いに来る。それまで待っていてほしい。地球に帰ってもマヒルのことは忘れないよ、俺の親友なんだから」

 マヒルはガリバーの肩に顔を埋め、声を殺して泣いていた。

「ありがとな」

 彼だけに聞こえる声でガリバーは言った。マヒルはガリバーを強く抱きしめながら、うずめた頭を縦に振った。

「私も混ざっていいかしら?」

 次は上から声がした。ドレスで着飾った女性がほほえんでいる。

「ヤザラ」

 スカートに両手を置いて、彼女もガリバーたちと視線を合わせた。振り返ったマヒルの頬に流れていた涙を彼女は指で拭う。ガリバーは片腕を広げた。彼女も両腕を広げてマヒルとガリバーの身体を包み、マヒルとは反対側の肩に頭を乗せる。二人の白い耳がガリバーのこめかみをくすぐった。

「ガリバーが来てくれたおかげで夢を叶えられたわ。もしかしたら、ずっと叶わない夢なんじゃないかと思っていたの。夢って本当に叶うのね」

 ガリバーを抱きしめるヤザラの腕が強くなる。彼女の表情はガリバーには見えない。それでも、同じ表情を浮かべているだろうと彼は思う。

「あなたに出会えてよかった。この一ヶ月のことは一生忘れない」

「ヤザラもありがとう。月でお菓子屋の仕事をするなんて思わなかったよ。月での生活のことも教えてくれて助かった」

 彼は笑顔を浮かべたまま、ヤザラの言葉に応えた。

 二人がくれた温もりを刻み付けるように強く抱きしめて、ガリバーは立ち上がる。頬を伝う涙を感じたけれど拭うことはしない。恥じるような涙じゃない。

「マヒル、ヤザラ。今日まで本当にありがとう。君たちのおかげでたくさん思い出ができた」

 ありありと浮かぶ一ヶ月の記憶と、二人の笑顔を記憶に刻みながら彼は言う。

「今度来るときは地球のレシピ本を持ってきてほしいわ」

「分かった、持てるだけ持ってくる。代わりに、俺の家族の分も作ってもらおうかな」

「また野球やろうネ! 絶対やろうネ!」

「おう。地球に帰ったら練習するよ。もうちょっとは上手くなれるだろ」

 握った手をマヒルに向けると、彼も拳を握りしめてガリバーの拳にぶつけた。隣でヤザラが見つめていたので、そっちにも拳を向けてやる。ヤザラはほんのりと頬を染めてマヒルの真似をした。

 それから彼女は開いた両手を身体の前で絡ませて、紅い瞳でガリバーを見た。

「私たちはいつでもここにいるわ。月を見上げたら、私たちのことを思い出してね。あなたたちが来る日を、ここでずっと待ってるから」

 ガリバーは頷く。二人の親友の後ろでは、鳴りやまない音楽の中で兎人たちが手を取り合って踊り、奥へ伸びるモルト通りの先では地球が見守り、太陽が彼らを照らす。

 地球の隣人たちの声も熱も、心の中の宝箱にしまって、ガリバーは帰路へ足を向けた。


   ☽


 修理された地球の船外活動服を着て、ガリバーは帰還船に続くブリッジのエントランスロビーに立っていた。ヘルメットだけ脱いだガリバーは唇を曲げている。身体が重い。腕を回そうとするが、思ったように回らない。

「ドコカ壊れていますカ? 可能な限り、元の状態に近づけましたガ」

 着用を手伝ってくれたエンジニアに尋ねられた。ガリバーは首を振る。

「いいや、完璧だよ。ありがとう。どこも壊れていないが、君らの服の優秀さがよく分かってね」

 打ち上げ前の訓練で、初めて最新鋭の宇宙服に袖を通して胸を高鳴らせた記憶は比較的新しいというのに、月で使われている宇宙服の身軽さを知ってしまった後では不自由に感じた。可動域が狭すぎる。あの優れた宇宙服だけでも持ち帰りたいものだ。

 もうすぐ帰る地球での生活を思い出していると、ロビーに続く廊下からカツカツと足音が聞こえてきた。リズムが速く、靴を叩きつけているような音だ。

 角から出てきた仏頂面は、ガリバーが予想した通りタグレのものだった。

「ヨミョウは見つけられたか?」

「捜索中ダ!」

 口にした質問に、食い気味で答えが返ってくる。肌は紅潮し、鼻の穴は広がり、血走った目も見開かれている。

「何か知っているんじゃないだろうナ」

 荒々しい声が飛んでくるのにもそろそろ慣れた。地球に帰った後に彼の声を思い出そうとしても、この怒りに満ちた声しか思い出せないだろう。

「知らないって言っただろう。さっき俺の手首に繋いでた機械は噓発見器だろ? 何も反応が無かったのを見てたじゃないか」

 淡々と事実を繰り返す。

 タグレがまた怒鳴るのではないかと、ガリバーは隣にいた兎人とほとんど同時に身構えたが、タグレの表情が突然落ち着いて彼は目を丸くした。

「それならもうイイ。早く帰ってクレ。約束通り、準備は完了シタ」

 抑揚のない声でタグレはそう言って、ブリッジに繋がる出入り口の操作盤に触れた。表示されたボタンを機械のように押す。ガラス戸がスライドして開き、先に進みながらガリバーを手招きした。

 タグレの後に続いてブリッジに足を踏み出した。外に出ると同時に足音が小気味いい金属音に変わり、遠くから兎人たちの声が聞こえてきた。パーティは続いているようだ。頬がほころぶ。

 右前方には帰還船があった。設置されたレールは遥か遠くまで伸び、星空に向かってカーブしている。初めて目にしたときは骨組みだけだった船体は、今や立派な船と化していた。乗ってきたロケットと異なり直線は少なく、十数メートルの卵型の白い船体に、これまた卵型のブースターが三つ取り付けられている。SFに出てきそうなデザインだが、近未来の地球人が作るロケットというよりも、地球を訪れた宇宙人が乗っている宇宙船のデザインのように感じる。

 今の状況は宇宙人側で正しいか。ガリバーは小さく笑い、タグレに怪訝な視線を向けられた。

 近付いてくる船体を眺めていたガリバーは、ふと、視界の端に走った光に気を取られた。背後にある管制塔から光が放たれている。ガリバーは足を止めて振り向き、目を細めた。あの光はマスドライバーを照らすライトではなく、太陽の光でもない。というより、気軽に見てはいけないような気がして背筋がわずかに冷える。光量は少ないはずなのに、何故だか眩しく、直視するのが難しい。

 光の中心には人の影があった。

「あの光が……」

 カグヤ様か。ガリバーは途中まで出した言葉も忘れてカグヤ様を見た。マスドライバーを見下ろす、彼がいるロケットより高い管制塔に作られたもう一つのブリッジに彼女は立っている。光に目を凝らしてみれば、兎人たちとは異なる衣服に身を包んでいることが分かった。似たような外見の服をテレビで観たことある。日本の古都を紹介する旅行番組だったはずだ。長い袖に長い裾。両手を身体の前で重ねて、色とりどりの生地の上に置いている。左右の胸あたりに縦に入った黒く太い線は、柄ではなく髪か。真っすぐな髪を追って頭に視線を移したが、表情までは見えなかった。

「あまりジロジロ見るナ。高貴なお方ダ」

 振り向いたガリバーがタグレを見る。見るなと言ったタグレの瞳も光を見つめていた。

「ロケットの打ち上げが見たいそうダ。思うトコロがあるのダロウ」

 少しだけ和らいだ彼の表情に、月の裏側で聞いたウェラ・イーの話を思い出す。友が欲しかったというカグヤ様。孤独だった彼女の願いが、巡り巡って俺の命を救うことになった。彼女やウェラ・イーにも感謝するべきなのかもしれない。

 前を歩くタグレが立ち止まる。カグヤを見つめていたガリバーは危うくぶつかりかけた。タグレの声が聞こえて、あと一歩の距離で立ち止まることができた。

「ココから入りタマエ」

 ブリッジの道が分かれている。直角に伸びた道の先に、帰還船の入り口があった。

「入って左側に座席とモニターがアル。発射までは管制室から制御するが、地球に着いてからはモニターの指示に従エ。お前が示す場所の近くの岸まで連れてイク」

 ぶすっとした顔に戻ったタグレは船体を指さして言い、それから口を一文字に結んで何も言わなくなった。ガリバーが帰還船に乗るのを待っている。これ以上話すべきことは無いようだ。月での時間が終わろうとしている。

 ガリバーは帰還船に続く通路に身体を向け――立ち止まった。タグレに向き直る。

「ありがとう、タグレ」

「……なんだト?」

 タグレの耳がピンと伸び、固まった。

 構わず言葉を続ける。

「恩を仇で返すことになったことは申し訳ないと思っている。俺はヨミョウの味方だ。彼女を探すことだけはどうしても協力できない。それでも、俺が帰れるようにロケットを作ってくれたことに感謝してるんだ。あなたたちのおかげでもう一度家族に会うことができる」

 眉をひそめたタグレは身体を固めたままガリバーの言葉を聞き、言い終えてから数秒後に普段の表情に戻った。

「ソレも月のルールだからダ」

 ため息が続く。そのあと、彼は咳払いをした。人差し指をガリバーの胸にむける。

「いいか、ガリバー。二度と月に堕ちてくるナ。お前がいなくなるコトで悲しむ人間がどれだけいると思ってイル? お前は家族の話しかしないが、お前は家族以外にも知られるような人物だったのダロウ? お前も他の誰かの夢を背負っていたのダロウ?」

 言い返す言葉が全く浮かばず、ガリバーは口を結んだ。彼の言っていることは全て正しい。

 彼が言い返す言葉を持っていないと確信してから、タグレは指を戻して背中で両手を結び、胸を張って話を続ける。

「これ以上事故を起こすナ。今回の墜落原因は不運な偶然だろうガ。一歩一歩確実に踏み出して生きるコトを忘れるナ。確実な生き方から逸脱するコトは好ましくナイ。そのためにルールがアル」

 ガリバーは頷く。彼の言うことは間違いない。自分というよりヨミョウに伝えようとしている言葉であることも気付いていた。ヨミョウに再会したら彼女にも伝えるつもりなのだろう。

 力強い言葉だった。ただ声量が大きいだけの怒鳴り声とは違う、強い意志が込められた声だった。ガリバーはタグレに尋ねた。

「あんたも色々あったんだな?」

 タグレは何も言わない。ただ、逸らした視線は彼の口より物を語っていた。

「また会った時に聞かせてほしい。今度はルール通りに来るから」

 ガリバーは手を差し伸べる。タグレは顔をしかめたが、彼の手をしっかりと握り返した。

 握り交わした手を離し、ガリバーはアカルメイナスに背を向けて帰還船に続く通路を歩き始めた。地球へと連れて帰ってくれる白い船体を撫でて入り口をくぐる。船室に入って左側、マスドライバーの先端へ向かう方に、ボタンが数個だけ取り付けられた操作盤がある。前方に開く窓の他に、側面と頭上にも外が見える窓が用意されていた。頭上にある窓は戦闘機の操縦席のようだ。わずかに盛り上がっているおかげで、頭を出して周囲を確認できる。

 中にあったのはそれだけだ。ストレッチもできそうなほど広い、殺風景な船室だった。端にベルトがあったので、脇に抱えていたヘルメットを括り付けた。

「良い旅ヲ」

 タグレが扉のハンドルを掴み閉めようとしている。慌てて駆け寄って彼の手を止めた。

「まだ閉めないでくれ!」

「なんだ、もういいダロウ。ヨミョウを待っているなら無駄ダ。どうせココへは入れナイ」

 ガリバーがたじろぐ。ヨミョウはタグレが去ってからここに忍びこむと言っていた。まだその時は来ていない。ホバーバイクは壊れてしまった。ヨミョウも姿を消してしまった。それでも、作戦は終わっていないのだ。ヨミョウは諦めていない。

「月の人たちの声が聞きたいんだ」

 ガリバーがタグレの背後を指さしながら言った。マスドライバーを囲む塀の向こうから声が聞こえてくる。パーティ会場は放置して、彼が乗る帰還船を見送りに来てくれたらしい。

「アンタが屋内に戻るまでは発射しないよな? 管制室の声も聞こえてる。発射する直前までは開けさせてくれ。いいだろ?」

『大丈夫ですヨー』

 船室にある操作盤から声が聞こえた。管制室にいる兎人の声だろう。

 タグレは苦い顔をしていたが頷く。それから、ガリバーの胸を指さした。

「今度はルール通りに来ると言ったナ。ソノ言葉、忘れるナヨ」

 ガリバーは彼の瞳を見て頭を縦に振った。タグレも満足げに頷くと、閉じた口は二度と開かず、振り返ることもせずに管制塔へ戻っていった。

 コックピットの窓からタグレの背中を視線で追う。ガラスの向こうに姿は消え、いよいよガリバーは一人になった。開け放たれたままのドアを通って、灰色の塀の向こうから声が届く。だがそれも、遠く離れた街の喧噪のようで、ガリバーと直接言葉を交わせる者はいない。風もなく、ただ星がいる。静寂がある。

 ガリバーは頭上の窓から顔を出した。船外服の腕についていた反射板に光を反射させ、発射台を見下ろす丘に向ける。何度か光らせた後、彼は静かに腕を降ろした。

 ――俺の仕事は終わった。

 座席に身体を預けて空を見上げた。あと数分もすれば打ち上げだというのに、心はいやに落ち着いている。ハリケーンが町に襲い掛かる前のような静けさ。身体は重く、疲労すら感じる。長く息を吐いた。別れの景色で上書きされていた逃走劇の記憶が蘇ってくる。

 アカルメイナスに一人消えたヨミョウ。もう何もできることはない。あとは彼女にかかっている。

『所長が屋内に戻りまシタ。発射シーケンスを開始しマス』

 カタパルトの装置が起動した。駆動音が耳に届き、ガリバーの心臓が急速に動きはじめる。

「ドアは?」

『まだ大丈夫デス。ギリギリまで開けていて構いませんヨ』

 管制塔の言葉を聞くのに精一杯だ。ヨミョウのことが頭を埋め尽くしている。座っていられずにガリバーは立ち上がった。窓から外を覗く。今朝訪れた丘が見えたが、そこには誰の姿もない。管制塔の方には、ガラスドアの向こうで腕を組んでいるタグレが見えた。

「ヨミョウ」

 名前が口から零れた。

「海を見に行くんだろ?」

 青い星が見守っている。

 視界の端で光が動いた。ガリバーは丘から目を離して光に目を移した。彼の遥か上から見下ろしていたカグヤ様の光。その光が、数歩横に動いた。

 彼女の後ろに立つ従者たちが目に入る。皆一様に笠を被り、笠から垂れさがる白い布で顔を隠していた。装飾の無い服も、立ち姿も統一された見分けのつかない従者たちに気を取られ、布の向こう側を想像する。

 彼は目を見開いた。

 従者の一人が笠を外した。ぴょんと飛び出す白い耳。満月のような黄色い髪。羽織っていた和服を脱ぎ捨てた兎人はカグヤに頷き、ブリッジの上を走り始めた。カグヤの横を抜けてロケットに向かって駆ける。振っていた両腕を前に出しバングルを起動する。歩幅が変わるが速度は変わらない。彼女は強くブリッジを踏んでフェンスに足をかけ、次の一歩で宙を舞った。高く、高く、星空を泳ぐように、月のうさぎは飛び跳ねた。

 歓声を上げそうになる口を両手で覆う。声にできない叫びを抑え込んで彼は搭乗口から身を乗り出す。ブリッジの先に立つタグレも空を見上げていることに気がついた。あんぐりと口を開いて落ちてくるヨミョウを視線で追い、身体を反転させて走り出す。

 ブリッジに向かって放物線を描くヨミョウが再びバングルを操作する。正面に向けて青い光が放たれた。マヒルと初めて野球をした日に、ポールの上から飛び降りた少女が地面に向けて放った光だ。ブリッジの上で固まった光のクッションに飛び込んだヨミョウは、勢いを殺すことができずに床まで転げ落ちる。痛む身体を撫でながら、よろけながらも彼女は走り、ガリバーが伸ばしていた手を取った。彼女の熱が触れた手を、ガリバーは思い切り引っ張った。

『時間デス。ドアを閉めマス。椅子にベルトがありますので、身体を固定してくだサイ』

 ヨミョウを受け止めたガリバーが倒れた瞬間にドアが閉まった。

『ソレではガリバーさん、お元気デ』

『待て――』

 通信が途絶える直前でタグレの声が聞こえたが、ロケット内部まで響き始めた駆動音は止まることなく、次第に振動まで加わり始める。

「ヨミョウ!」

「後デ」

 ガリバーの腕はヨミョウを抱きしめようと広げられたが制止される。

「夢が叶うのに死にたくないワ。ガリバーも早ク」

 座席を指さしたヨミョウは黄色い上着から工具とベルトを取り出して内壁に取りつけ始める。雑でも気にせず作業を進める彼女の背中を見て我に帰り、ガリバーも慌てて座席に飛び乗った。背もたれから伸びるベルトに身体を通す。

 固定用の金具にベルトを通したその瞬間、ベルトが締まりガリバーの身体は座席にピッタリと固定された。船体を包む音が一段階上がり、最高潮に達する。肘掛けを握りしめると音が止んだ。一瞬の静寂の後、ロケットが加速した。

 ガリバーの顔が歪む。凄まじい重力で椅子に押しつけられ身動きが取れない。力を振り絞り、船体側面に取り付けられた丸い窓に顔を向けると、アカルメイナスが後方へ消えていくところだった。町の先に広がる月面が見え、次第に傾き始める。地平線がほとんど縦になり、再び振動が止まる。口を開こうとしたが別の機械音が聞こえて唇を閉ざした。先ほどよりは緩い再加速が始まり、肘掛けに置いた手に力が入る。後から肝が冷えた。喋っていたら舌を噛むところだった。

 数秒後に二度目の振動も止まり、身体を押さえつける重力も途切れた。身体が軽い。ベルトの金具を外して座席を腕で押すと全身がふわりと浮き上がった。

「もういいだろ! やったなヨミョウ! なんであそこにいたんだ! いや、カグヤ様に助けてもらったのか!?」

 窓の外に広がっている星空は、アカルメイナスから毎日見上げていた星空と同じだ。それよりも今はヨミョウと話したい。ガリバーは地球にも目もくれずにヨミョウに近寄った。興奮と高揚感で頬は紅潮している。口角は上がり声もはしゃいでいる。

 逆にヨミョウは、疲労が広がる顔で壁に身体を預けたまま彼の質問に答えた。

「ガリバーの言う通りヨ。カグヤ様のオカゲ。カグヤ様が初めて発射場まで見学に来たのも、ワタシに協力してくれたカラ。おかげで発射場の警護も減らせたワ」

 しばらく考え込み、ガリバーはハッと目を丸くした。

「まさか、研究センターにあった古い通路の話を聞いたのも、通路の先にホバーバイクを用意していたのも、カグヤ様が手を貸していたのか? ああ、今日のバイクもか」

「アラ。ネタバラシを楽シミにしてたノニ」

 唇が曲がった。

「ワタシはカグヤ様の友だちヨ。カグヤ様がそう言ってくれたノ」

 ガリバーを見つめるヨミョウの瞳は、彼女の言葉が真実だと告げている。彼は口をぽかんと開け、またしばらくアカルメイナスで得た記憶と情報を繋げてから声を出す。ガリバーが考えている間に、ヨミョウは慌てて取り付けたベルトの位置を調整していた。

「カグヤ様のことを俺に言わなかったのは、聞かれたら嘘がバレるからか」

「そういうコト」

 工具を持った手を止め、ヨミョウは振りむいて頷く。

 ガリバーは感嘆の声を漏らした。彼女が夢にかける想いは並大抵ではないと知っていたが、想像していたよりも重かったようだ。きっと、俺を助けた時点で計画は始まっていたのだろう。例え夢に協力してほしいという頼みを断ったとしても、最後まで実行していたはずだ。難しい道だが諦める理由にはならない。

 また首を傾げてガリバーは考えごとを始める。ヨミョウはすでに作業を終えて身体を休ませていた。長い吐息がガリバーの耳に届く。

「なんでカグヤ様はヨミョウのことを助けてくれたんだ?」

 一ヶ月の間に、アカルメイナスの住民たちと屋敷に住むカグヤ様と呼ばれる存在の距離感は分かったつもりになっていた。お互いを愛し合い、他に生命の無い灰色の大地で生きる存在たち。しかし兎人は、地球から訪れたガリバーのように友人関係を築こうとはせず、敬愛に近い感情を抱いていた。カグヤ様という人物も兎人たちを遠くで見守っているような立場だ。ヨミョウのように、個人に手を貸したような話は聞いたことがない。

 ふわふわと浮いていたヨミョウが壁にベルトを掴み、ガリバーの正面に身体を動かした。視線は船の前方につけられた窓を向いている。サイズが変わりつつある地球が浮かんでいた。

「カグヤ様も地球の景色を夢に描いているから」

 穏やかな声だ。ガリバーは身を前に倒して耳を傾ける。

「昔、おばあ様から地球の話を聞いた後、おばあ様がワタシをお屋敷まで連れていってカグヤ様に会わせてくれたノ。地球の話を聞かせたい子がいるって言ってネ。ホントはワタシがワガママ言ったのヨ、もっと地球の話が聞きたいッテ」

 ガリバーには、彼女の声だけではなく視線まで柔らかくなっているように見えた。瞳に浮かべている輝きは、夢に出会った頃の彼女が瞳に宿していた輝きだろうか。

「ルール違反ではないけど、そんなコト誰もしてこなかったから、ずっと秘密にしてたノ。初めて話すカグヤ様は、ソノ日までに何度か町で見かけた高貴な姿と変わらなかったワ。でも、ワタシが夢中になって話を聞いているうちに、カグヤ様の表情も軽くなっテ……。その後もお屋敷に招待されるようになって、二人でたくさん話したワ。ワタシたちのことは誰も知らなかったと思ウ。ワタシはカグヤ様との関係をどう言えばいいのか迷っていたけど、同じ夢を抱いた秘密の友ダチだって、ある時カグヤ様が言ってくれたノ。嬉しかったワ」

「へえ、良い話じゃないか。友だちだから協力してくれたのか?」

 ヨミョウは首を左右に振った。

「ソレだけじゃないワ。今の地球の景色を見てきて、今度はワタシから話を聞きたいって頼まれたノヨ。カグヤ様はワタシたち月のうさぎが生まれる前から、ずっと叶わない夢を抱いていたワ」

 彼女の視線は、またフッと色を変える。地球に向けられているはずの視線は、どこにもない遠い場所を見つめているようだ。

「目を逸らそうとしても――例え物思いを失ったとしても、心の中で形を変えずに残り続けるものがあるのです」

 声色を変えて彼女は言った。

「そう、カグヤ様は言ってたワ」

 再びガリバーと視線を交わした時、彼女の瞳は、ガリバーがよく知る彼女の色に戻っていた。

「助けてくれるなら、最初からその作戦だけでよかったんじゃないか?」

「カグヤ様が助けてくれても、もう一手が無いとココまでロケットまでたどり着けなかッタ。ワタシを地球に送るようにカグヤ様から命令できるような関係でもないワ。できるならカグヤ様には迷惑をかけずに出発したかったしネ。だからカグヤ様と相談して、月の裏側まで行ったノヨ」

 ガリバーは口を結ぶ。アカルメイナスの外に出るために使った古い通路。なぜヨミョウが知っているのか不思議だったが、カグヤ様に聞いたなら納得だ。カグヤ様が自分の屋敷に繋がる道を知らないわけがない。ホバーバイクまで用意してくれるとは、余程ヨミョウに夢を託したかったようだ。

 話す機会はなかったが、背中に光を纏う未知の存在が急に身近に感じられた。ガリバーは口角を上げた意味をヨミョウに悟られないように祈った。

「結局、秘密研究所まで行った成果は手元に残らなかったけど、コノ装置を作れたワ。コレはガリバーのおかげネ」

 左腕を出して、バングルをガリバーに見せる。最初に見た時は綺麗だったのに、今では擦り傷だらけだ。ゴテゴテとした追加パーツのバランスも悪く、重そうだ。不格好だったが、形に残っているのはヨミョウの努力だった。

「ソレに、カグヤ様に協力してもらう作戦だけじゃ、タグレは管制塔から引き剝がせなかったワ。カグヤ様の対応が無かったら、タグレはきっと私を見つケル。だから別の作戦を考える必要があったノ。成功すればソレで良し、失敗してもカグヤ様に協力してもらってロケットに忍びこメル」

 不意にヨミョウの口からため息が漏れる。

「あんなに追いかけてくるロボットを連れてるとは思わなかったけどネ。危なかったワ」

 肩を落として顔を覆った。ガリバーは隣に座り背中を叩いてやる。

 顔を上げたヨミョウは彼の方を向いた。

「逃げたワタシをやっきになって見つけようとしていたデショ。時間が経つほどタグレは怒るワ。そしてワタシを見つけるコトしか考えられなくナル。それじゃあワタシは見つけられないワヨ」

 ヨミョウはニヤリと――ガリバーは目を疑ったが、たしかにニヤリと口角を上げた。

「人は見ようとしたモノしか見えないからネ」

 何度もタグレから聞いた言葉だ。ガリバーは腹を抱えて笑った。彼の姿を眺めていたヨミョウの身体も熱くなり、抑えられなくなった胸の鼓動が表情を変えた。ヨミョウはほほ笑んでいた。

「カグヤ様とワタシの関係は、ガリバーもタグレも、お父さんもお母さんも知らないワ。ワタシとカグヤ様だけの秘密。最後の切り札だったのヨ」

 ヨミョウの笑顔を見つけて、ガリバーはまた笑う。今度は娘に見せるような柔らかなほほえみだった。叶えられない夢に思い悩んでいた少女が重荷を下ろせたのだ。一つ夢を叶えても次の困難が待っていることをガリバーは知っている。それでも彼は、命を助けてくれた恩人の――かつての自分と同じ無力さを知ってしまった彼女の成長を嬉しく思った。

「やったな、ヨミョウ」

「ウン」

 頬をわずかに染めた少女が頷いた。白い耳がゆらりと揺れた。

 ロケットは星の海を進んでいる。ガリバーは天窓に目をやったが、初めて訪れた宇宙空間で夢中になって眺めた星空も、今ではすっかり見慣れた景色になっていた。地球では想像できない数の光が散りばめられた空の美しさは変わらず、きっと地球に戻ってからしばらく経てば懐かしく思うのだろう。けれど今は、満天の星空よりも青い星の美しさに目を奪われてしまう。

 雲と海と大地が作る美しい地球。家族が待つ星が近づいてきている。

 ……なんか大きくないか?

「地球にはどれぐらいで着くんだ?」

 窓の外を眺めたままヨミョウに尋ねた。周囲に広がる星空は形を変えないが、やけに地球が大きく見えてガリバーは眉をひそめた。振り返ると、月は想像していたよりも小さい。それどころか、今も目に分かるスピードで縮んでいた。

 ヨミョウはコックピット前方のコンソールへ向かう。いくつかボタンを押すと、いつもの青いスクリーンが空中に投影された。サイズが異なる二つの球体が映し出され、その間に矢印がある。矢印は小さな球体から大きな球体へ移動していた。すでに中間地点を越えていた。

「あと五分ぐらい?」

「ごっ……」

 意味のある言葉は出せなかった。

「エンジンは旧型だって言ってなかったか?」

「すごく遅いワネ」

 こともなげに彼女はそう言って、宙に浮いたスクリーンを閉じた。

 ガリバーはぽかんと口を開けて地球を見つめる。早く着くことは嬉しいことだが、衝撃に上書きされてしまった。俺らが狭い船内で三日かけて移動した距離を、十分かそこらで……。

「ガリバー」

 まだ船外を呆然と眺めていた彼の裾をヨミョウがグイグイと引いた。

「今のウチに言っておきたいコトがあるノ」

「あ、ああ」

 ガリバーは屈んで船内に戻る。真剣な眼差しを向けるヨミョウの前に屈む。

「ワタシの夢を叶えさせてくれてありがトウ」

 床に腰を下ろしたのと同時に彼女が言った。

 ガリバーは首を横に振る。

「オレは何もしてないよ。カグヤ様に協力してもらったのだって、最後に跳べたのだって、ヨミョウ自身の努力の結果だろ」

 次にヨミョウが首を振った。瞼を閉じて左右に頭を動かし、またガリバーと視線を合わせる。

「ガリバーがいなかったらワタシは諦めていたワ。ワタシの背中を押してくれたデショ。ワタシがもう一度立ち上がれたのはガリバーのおかげヨ」

 一呼吸置き、言葉を続けた。

「ワタシのワガママに付き合ってくれてありがトウ、ガリバー」

 コンソールの駆動音が船内を包む。

 お礼を言いたいのはこっちだ。ガリバーはそう答えようとして、ヨミョウの瞳を見て思い直した。彼女の感謝を受け止め、彼はほほえんだ。

「どういたしまして」

 また駆動音だけが船内を満たす。ヨミョウの次の言葉を待っていたが、わずかに頬が赤くなったことにガリバーは気付いた。声には出さずに笑ってから、彼女に声をかけた。

「これからが楽しみだな!」

「そうネ。すっごく楽シミ」

 コンソールが鳴った。二人の視線が船の前方に移る。地球は目前だ。あと数十秒も経てば地球の全景が一度に見られなくなる。

 ガリバーとヨミョウはそれぞれの座席に戻った。ベルトを締め直し衝撃に備える。ヨミョウの胸は高鳴っていた。何年も待ち望んでいた景色ともうすぐ出会うことができる。望遠鏡の中にしか存在しなかった景色の中に立つことができる。もし想像しているよりも綺麗ではなかったら……と、一瞬頭をよぎった疑念もすぐに消え去る。地球の話をしているカグヤ様はいつだって幸せそうだった。そして、離れてしまった悲しみも浮かんでいた。そんな星が、美しくないわけがない。ワタシとカグヤ様の夢を叶える日が来たんだ。

 ガリバーの胸は、ヨミョウよりも早い鼓動を打っていた。愛する家族に生きていると伝えられる。愛する家族を抱きしめることができる。幕を降ろしていたはずの人生の続きがあり、また大地を踏めることも嬉しかったが、彼は表情を固めたまま地球を見つめていた。

 目の前に迫った地球が大きくなる。今までと変わらない速度でサイズを変えている。アメリカの南東に広がる大海原をロケットは目指しているらしい。ほとんど減速せずに。

「まさか突っ込む気か?」

 ガリバーが声を上げた。

「ゆっくり行ったら気付かれるワヨ」

 自分のベルトを掴んだヨミョウが答えた。それ以上尋ねることはできずにガリバーは口を結んだ。

「サァ突っ込むヨ!」

「大丈夫なんだな!」

「大丈夫! ワタシたちの船だモノ!」

 窓の外に広がる景色は一瞬で変化した。星空全体がオレンジ色に染まったかと思えば、衝撃と共に再び闇の中へ戻る。前方に投げ出されようとしている身体をベルトが支え、ガリバーの口から激しいうめき声が漏れた。

 船が止まった。長いうめき声をようやく抑えたガリバーは、息を吸いながら窓に目をやる。真っ暗だ、星も無い。何も見えない。それからまた一瞬ののち、星代わりの水泡が窓を覆う。船体が突然横向きに変わり、船体の下から衝撃が届いた。

 船はしばらくゆらゆらと揺れ、最後に大きく揺れて止まった。

 ガリバーは天井を見上げた。コックピットの天窓の外には星空が広がっている。月で見上げた星空と同じようで、しかしうっすらと色がついていた。黒ではなく紺色で塗られている。星の手前に白色の綿が浮かんでいる。

 コンソールからスクリーンがポップアップした。ヨミョウがベルトを取り外してガリバーの前に身を乗り出す。スクリーン上に表示されたボタンを操作すると、密閉されていた搭乗口がガチャリと音を立てて開いた。流れ込む空気と共に、潮の香りが鼻をつく。

 ヨミョウが立ち上がり、搭乗口から外に出た。初めて浴びる自然の風が頬を撫で、後を追うように自身の手で頬に触れる。宇宙船は揺れていた。ヨミョウは両腕を広げてバランスを取りながら立ち上がり、大きく息を吸った。海の香りが鼻孔を刺激するが、それが海の香りであることを彼女はまだ知らない。

 空が白みはじめ、空と海の境界が現れる。四方を囲む水平線は、月の地平線よりも真っすぐで、ヨミョウの視線を奪う。

 不意に、強い光がヨミョウを襲った。手で両目を塞ぎながら光の方を見る。太陽。地球も月も見守る恒星が海から顔を覗かせ、果てしない大海原に光の道を作っている。世界に色がつき、ヨミョウは海と出会った。海。広大な海。夜明けが照らす、青い海。

 ガリバーが声をかけた。

「地球へようこそ」

 ヨミョウは口をぎゅっと結んだまま、頷きを一つだけ返した。

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