第5話『その青色は未だ遠く』
「ヨミョウが何を言っても無視しろと言ったダロ」
声に苛立ちが込められている。タグレは細めた目でガリバーを睨みつけ、わざとらしく大きなため息を吐いた。額の血管がピクピクと動いた感触で、タグレはさらに不快感を顔に浮かべる。襟を正し、天を仰ぐ。それからもう一度ガリバーを見た。
ガリバーは俯いたヨミョウの頭の上からタグレに視線を向けていた。
「どうして」
最初に出てきた言葉は漠然とした疑問だった。どうして、こんなに早くバレたんだ? ウェラ・イーの秘密研究所に忍びこんでから半日も経ってない。行きも帰りも、研究センターの古びた地下通路までの道では誰にも出会わなかった。人影すら見ていない。秘密研究所を守るバリアを越えてからは、兎人たちの技術は目にしていない。
「そんなコトも分からないとはナ」
鋭いタグレの言葉が肌を刺す。アカルメイナスは静かだ。兎人たちが集まるモルト通りから離れるほど音は少なくなる。星の瞬きすら聞こえてきそうなほどに。タグレが声に込めた怒りも、遮られることなく伝わってくる。
「私が本気で、あんなバリア程度で秘密研究所への侵入を防ごうとしていると思っていたノカ? 私をナンダと思ってイル? 私はウェラ技術研究センターの所長ダ。月ノ。最も偉大な機関ノ。私には月を守る責務がアル」
タグレが人差し指を真っ直ぐ上に立てた。
「あのバリアはフェイクだヨ、ガリバー。本命は上空に打ち上げた小型衛星ダ。ウェラ・イーが残した秘密研究所の直上から周囲を撮影して映像を送ってイル。気付かなかったダロウ」
今度は声に確信が込められていた。
「ヒトは見たいモノしか見ようとしないと言ったナ」
タグレの視線がヨミョウに移る。
「こういうコトダ」
肩を落としたヨミョウ。垂れ下がった耳にもタグレの言葉が届いてしまっているようだ。彼女の身体が段々と縮んでいく気がする。存在感を消そうとしているようだった。
唇が白くなるほど強く噛んでいたガリバーの思考は、定まることなく動き続けている。
バリアの前で立ち止まったあの時、もっと警戒していればよかったのか?
焦るヨミョウを落ち着かせていれば、彼女も気付けたのか?
今更後悔しても遅いと分かっているのに、どこで間違えたのか考え続けてしまう。タグレはガリバーたちの次の言葉を待っていた。彼の後ろに待つ兎人たちは狼狽えた表情を浮かべる人物もいたが、ヨミョウやガリバーに声をかけられることはなかった。町は静かだったが、ガリバーの耳は激しい心音に襲われ続け、割れてしまいそうだった。
俺は地球に帰れるのか?
「俺たちはどうなる」
「どうもしナイ。アカルメイナスには悪人を捕まえるような施設は無いのダヨ。何百年も破られるコトがなかったルールを違反するような悪人は今までいなかったからナ。ガリバーの脱出の準備も急いで進めル。早く帰りたいダロウ、一週間以内には完了する計画だ。それに、私たちとしても、コレ以上ヨミョウの協力をしてもらっては困る」
安堵が彼の身体から力を奪おうとする。足から崩れおちそうになるが壁に手を付いてなんとか支えた。深く息を吐いて身体を楽にしたが、今度は胸の痛みを感じた。物理的な痛みじゃない、心が乱れるようだ。
「ヨミョウはどうなる」
「何もしナイと言ったダロウ。今は、ナ。家で大人しくしてイロ。仕事を進めてもらっても構ワン。月の発展のために必要な研究はまだアル。ただし、二度目のルール違反があったら、月の施設が増えるコトにナル。そうなれば、地球は二度と見上げらレン」
最後の言葉だけ、タグレはヨミョウに向けて口にした。視線を下げたままのヨミョウがビクリと身体を震わせた。
ガリバーは彼女の細い腕を掴んで家の中に引き寄せた。ふらふらと歩く彼女を背中に回し、彼女を隠すように前に立つ。タグレに視線を向けた。彼は冷たい目で二人の様子を見つめていた。
「分かった。俺が聞くべきことはそれだけだな」
「ウム」
「ヨミョウと話したい。二人にしてくれ」
タグレは頷き、それ以上言葉を発することはなかった。最後にもう一度二人に鋭い視線を向けてから振り向き、兎人たちを従えて去っていった。
兎人たちが交差点の角の向こうに消えるのを確認してから、ガリバーはそっとドアを閉めた。背中にヨミョウの体温を感じる。彼の服を握りしめて顔をうずめ、身体を震わせていた。
ヨミョウの背中に手をまわし、ガリバーは彼女をリビングのテーブルに連れていった。倒れてしまいそうな彼女を支えて椅子に座らせる。部屋は暗い。空は星空のままだが、時間は夕方だ。日は沈みかけ、ヨミョウの家に影が差そうとしている。電気は点けていない。
わずかな光を反射した虚ろな赤い目が、部屋の中に浮かんでいた。
ガリバーはすぐに目を逸らした。完全な闇に包まれる前に壁のスイッチを押す。ライトが部屋を照らし、ヨミョウの姿がはっきりと見えた。握りしめた拳を腿の上に置いた彼女は微動だにしない。
「お腹、空いたよな」
どんな言葉をかければいいのか分からず固まりそうになったところを料理の香りが救った。返事を待たずにキッチンへ行き、完成していた料理を温め直してからテーブルに運ぶ。ヨミョウの視線が少し上がった。
「まずは食べよう」
反応がない。立ち上る湯気を見つめたまま、並べた食器に手を触れようとしない。ガリバーは何度も話しかけようとして、そのたびに口を閉ざす。彼女を見ることができない。顔を下げれば、まだ手をつけられていない料理が視界に入る。
何を話せばいい状況なのか分からなくても、空腹であることはたしかだ。いつも夕食を取る時間になっていた。せっかく並べた料理が冷めてしまうのも辛いものがある。どんな時でも食べなければ生きていけないのだ。彼はスプーンを手に取り、料理を口に運んだ。
「うまい」
声が漏れてしまった。知らない食材で作った料理だったが、思ったよりも味がいい。
ヨミョウが顔を上げた。
「おいしソウ」
ガリバーも顔を上げる。彼女の表情に、わずかだが生気が戻った気がする。少なくとも感情が浮かんでいた。ヨミョウはテーブルに並んだ品々を見回してから尋ねた。
「ガリバーが作ったノ?」
「……ああ」
「すごイ。料理もできたノネ。キッチン使ったノ? もしかしたら初めてカモ。ワタシはキッチンなんて使ったコトなくって」
口を閉ざしていた彼女が口を動かし続けている。身体の前に置いた小皿によそってから皿を持ち上げてしげしげと眺め、その間も喋り続けていた。いくつか質問を声に出したが答えを待とうとしなかった。ガリバーは見つめるしかなかった。
ヨミョウはフォークを手に取って口に運んだ。何度か噛んだ後、不意にガリバーと目が合う。口に入っていたものを飲み込み、彼女はガリバーに向けて笑ったが、口角が上がっているだけのように感じた。
「おいシイ! コレはなんて」
ヨミョウの身体が固まった。
「なんて、料理、ナノ」
声が途切れる。浮かべていた笑みが固まり、顔に張り付いて動かなくなる。瞳はガリバーを見ていた。ガリバーも彼女の瞳から逃げることなく見つめ返していた。ヨミョウの目が潤んだ気がした。
「地球ノ」
沈黙が訪れた。
「すまない」
ガリバーがそう言うと、ヨミョウはまたニコリと、慣れない笑顔を浮かべる。
「もういいノ」
よそった料理がまだ残っている皿にフォークが置かれ、カチャリという音がガリバーの耳に届く。ヨミョウは椅子を引き立ち上がった。ガリバーは止めようとしない。
背を向けたヨミョウは腕を頭まで上げて何かを拭った。声も出さずに階段に向かう。また腕が頭まで上がった。姿が見えなくなるまでの短い間に何度も。
「クソッ……」
彼女の背中が消え、悪態が口をついた。何に対する言葉なのか、自分でもよく分からない。スプーンを握りしめる手が痛む。
それからしばらくして、くぐもった泣き声が、階段の上からガリバーの耳まで届いた。
☽
それから三日間、ヨミョウはほとんど部屋から出てこなかった。タグレが来た日の夜以降、泣き声が聞こえていない。静寂。不安になる静寂が家を蝕んでいる。
ガリバーは一人リビングのソファに座り、背もたれに身体を預けてガリバーは天井を見つめていた。机の上にホログラムゲームの映像が浮かんでいる。以前、ゲームショップで働くカイという兎人に紹介されたゲームだ。二人用の対戦型ゲームだが、一人でも遊ぶことができる。
ゲームオーバーの文字が浮かんだまま、画面は切り替わらない。コントローラーのボタンを押せばリトライできるが、コントローラーはガリバーの手から離れていた。
「何をしてるんだ……」
誰が答えるわけでもない問いかけを口にする。
ヨミョウはこのゲームが上手かった。将棋でも勝てないし、このゲームでも勝てていない。頭の回転が早く、器用でもある兎人。それがヨミョウだ。リベンジするためにこそこそと練習していたが、もう、そんな機会は無い気がする。
ヨミョウのワガママに巻き込まれても、思い返せば楽しいという感情しか残っていなかった月の都での日々が、望まない形で終わろうとしている。地球に帰れることが嬉しくても、一人の少女が夢を失った姿を見るのは辛い。
ヨミョウが会いたがっていないことをガリバーは分かっていた。ご飯を作ったと伝えれば部屋から出てくる。食事は変わらず取っていたが、息が詰まるような沈黙の中での食事だ。彼女は黙って食事を取る。生命活動を続けるためだけにカロリーを摂取しているような動作だ。最初はガリバーも同じテーブルに座って食事をしていたが、二日目から止めた。ヨミョウが食事を取る間、彼はキッチンで待っていた。
あの日以来、ヨミョウと視線を交わしたのは三回だけだ。ガリバーから話しかけてヨミョウが顔を向けたのが一回。偶然目が合ったのが二回。どれも彼女から目を逸らした。彼女の瞳にあった炎は消え失せ、夢を語っていた彼女とは別人のようだった。今までの彼女は表情豊かに話していたのだと、今のガリバーは感じている。無表情という言葉の意味を知ってしまった。
ノックの音が聞こえた。
ぼうっと脱力していたガリバーの瞳に力が戻る。ホログラムを閉じて立ち上がる。
「ガリバー!」
来訪者への返事をする前にマヒルの声がした。出会ってから変わることのない元気な声だ。他の声も複数聞こえる。また友人たちを集めてやって来たのだろう。
ガリバーは身体を伸ばしてから玄関に向かった。ドアの先で待っているのが友人だと分かっていると気が楽だ。三日ぶりにドアノブを掴んで外の空気を入れると、明るい笑顔を浮かべたマヒルが待っていた。
ほんの少し心が軽くなり、ガリバーの顔にほほえみが浮かぶ。
「どうした?」マヒルに尋ねた。
「もうすぐ地球に帰っちゃうデショ? だから今のうちに遊んでおかなきゃ」
眉を下げて笑うマヒルの声は、今までよりも静かに聞こえた。ガリバーは彼の頭を撫でてやる。
「そうか、ありがとな」
「今から遊べる?」
おずおずとマヒルが問いかける。ガリバーは顔をこわばらせたが、すぐに笑顔に戻した。つい一分前までいた暗い部屋が頭に浮かぶ。ヨミョウのそばにいなくてはいけないと心の声が聞こえたが、澱んだ空気に満ちた部屋に戻りたくなかった。
「遊べるぞ。また野球でもするか? それともサッカーとか?」
「サッカーしてみたイ! コレがあればできル?」
今日のマヒルは野球ボールよりも一回り大きな球を抱えている。サッカーボールよりも若干小さいが、子供が遊ぶ分には問題ないだろう。ガリバーは頷いた。
「ヤッタ! ヨミョウ姉ちゃんも誘いたいナ」
何も知らない子供が言った言葉に胸を痛める。マヒルはガリバーの身体を避けて家の中に目をやるが、誰もいない。静かで暗い空間が口を開けている。
開いたドアの、外と家の境界で、ガリバーは天井を見上げた。今日も二階からは物音がしない。一時間ほど前に昼食を食べていたので起きているのは間違いない。それからずっと部屋に籠っている。きっと、何もせずに。
苦悶が顔に出ないようにほほえんでみる。
「今日は家でゆっくりしてたいみたいだ」
「なーんダ」
マヒルは肩を落とした。
自分とマヒルに嘘を吐くごとに、ナイフが胸を刺すような感覚が走る。それでも彼は笑みを欠かさなかったが、マヒルは彼の鼻筋にかすかに皺が寄ったことに気が付いた。笑顔を浮かべた地球人を見上げて声をかけた。
「何かアッタ?」
「いや」
ガリバーはまたごまかそうとしたが、マヒルに勘付かれるような気がして口を閉ざす。本当のことを包み隠さず言うつもりもない。ヨミョウがしたことを子供に伝えてはいけない気がする。
「ちょっとな」
中途半端な答えを口にすることは憚られたが、結局言葉を濁すしかなかった。
マヒルは眉を下げてガリバーの言葉を待った。濁した言葉に続く声が無いと察すると、彼の唇がきゅっと結ばれた。他の子供たちはそれぞれ雑談していたが、ガリバーの様子がいつもと異なることに気付いて、段々と会話が止まり視線が集まり始めていた。白い耳たちがガリバーへ向けられる。
「甘いモノでも食べにいこうヨ。ヤザラさんの店トカ」
ニコリと笑ったマヒルはそう言った。ガリバーの手を掴み、家から外へ引っ張る。無理やり引きずりだすようなことはしない。彼の優しい小さな手の感触が、ガリバーの肌に伝わってくる。
もう一度家の中に目をやる。ヨミョウの声は聞こえない。ここにいても自分には何も変えられないと、ガリバーは唇を噛む。
それから子供たちの方を向いた。
「ああ、行こうか」
「ミンナ行くヨー!」
マヒルのかけ声で、周囲で話していた子供たちはガリバーの元に駆け寄ってきた。離したドアがパタリと閉まる。子どもたちに囲まれながら、今は全て忘れようと、彼らの声だけに耳を傾けた。
マヒルが連れていったのはモルト通りだった。ウェラ技術研究センターから伸びる、アカルメイナス最大の大通り。飲食店も雑貨屋も、ほとんどがこのモルト通りで営業している。一本横の道に逸れれば、そこは住宅街と言っていい。いくつかの公園やインフラ施設があるだけで、月のうさぎたちが生活する区画になっている。今日もたくさんの兎人たちが、モルト通りに繋がる横道から買い物や友人と会うために訪れていた。
ガリバーは子どもたちに囲まれて店を巡った。ヤザラが営む菓子店以外にも店がある。月で改良した果物のジュースを提供していたり、食べ歩きをするために片手サイズにした料理が売られていたり。今日は子供たちが興味を示さなかった日用品店を見られなかったが、月の住民たちの生活が想像できる貴重な場所だ。
「これオイシイんだヨ! ママがよくお弁当に入れてくれるンダ!」
「ガリバー! コッチも見テ! 私が好きなお菓子!」
「そんなに食べられないなあ」
「エー」
不満の声が聞こえてガリバーは笑った。すでに胃がはちきれそうだ。
子供たちがせわしなくアピールしてくる品々を眺めながらガリバーは歩く。彼らが周囲で走り回る姿をガリバーは目で追っている。
彼の脳裏に浮かんでいたのは、ヨミョウと一緒に歩いた記憶だった。
この場所は歩いたことがある。ウェラ技術研究センターを見学した後、彼女と仲良くなり始めた頃に、ヨミョウと二人だけで。アカルメイナスについて尋ねた質問を無理やり彼女の夢の話に繋げて協力を仰いできた店。月から見た地球の美しさを語ってくれた店。片手にジュースを持ち、彼女のことと自分のことを、ただ教え合った店。全部、忘れられるわけがなかった。頭に生えた白い耳への違和感はまだ抱いていたが、彼女はあの日、友人となった。娘が大きくなったら彼女のように熱く夢を語るのだろうかと想像していたことも覚えている。
ここにヨミョウがいないことを寂しく思い、笑顔が乱れる。子どもたちのはしゃいだ声の中で、ガリバーだけに影がさしていた。
一時間ほどモルト通りを巡り歩いたあと、ガリバーたちはヤザラの店にたどり着いた。彼女の菓子店もモルト通りに建っているが、研究センターに近い一番賑わっている場所からは離れている。すれ違う住民は少なかった。焼き菓子が並ぶカウンターに頬杖をついていたヤザラも、歩いてくるガリバーたちをすぐに見つけて口角を上げた。
「クッキーくだサイ!」
ガラス製のカウンターに掴まったマヒルはつま先立ちをしている。
「はーい。いつものでいいかしら?」
「ウン! 砂糖がいっぱいの甘いヤツ!」
大きな紙袋にクッキーを入れて、ヤザラはマヒルに手渡した。値段を聞くこともなく、マヒルはいつも渡している金額分の硬貨をポケットから出してヤザラに渡す。彼女が数え終わるのを待ってから、道で追いかけっこを始めた友人たちの元へクッキーを持っていった。
「はい、ガリバーの分」
マヒルの後ろ姿を眺めていたガリバーに、ヤザラは別の袋を渡した。マヒルが持っていった袋よりも小さな紙袋の中には、クッキーに加えてキャンディやパウンドケーキまで入っている。いつになく豪華だ。
「お代はいいわ。プレゼント」ヤザラがほほえむ。
「ありがとう。おいしくいただくよ」ガリバーも笑顔を浮かべた。
「もうすぐ帰っちゃうのよね。寂しくなるわ」
また頬杖をついたヤザラのほほえみが、物思いに沈んだ切ない笑みに変わっていく。ガリバーも同じ気持ちだ、寂しくなる。今は、特に。
寂しさを紛らわすように、ガリバーはヤザラに渡された袋からクッキーを取り出した。トッピングは無い狐色のクッキー。素朴な味だが、心に残る味だ。味を競う有名店のクッキーではなく、愛情をこめて家族のために作ったクッキーのような。
クッキーを見つめ、遠い誰かを思い出すような顔をしながら食べるガリバーを、ヤザラは静かに眺めていた。
「今日はヨミョウは仕事?」
飲み込んだ頃を見計らってヤザラが尋ねた。ガリバーは返事をしない。口には何も残っていないが、その口を開くことはない。視線はヤザラを避け、駆け回る子どもたちへ向けられている。
五秒ほど待って、声を落としてもう一度問いかける。
「喧嘩でもした?」
ガリバーは首を振るだけだ。
「何かあったのね」
ヤザラがそう言うと、視線を落としていたガリバーの顔が彼女の方を向いた。
ヤザラはカウンターから離れると、オーブンが置かれたキッチンで屈んだ。下にある棚から、アルミ製の容器を取り出す。スプーンとティーポッドも取り出し、蓋を外した容器から茶葉を移した。
地球にあるという紅茶の噂をどこかから聞いて、兎人たちが生み出したというハーブティー。多くは量産されておらず、いつでも手に入るわけではないということをガリバーは知っていた。その貴重な茶葉を、ヤザラが特別大切にしていることも。
「いつガリバーと一緒に飲もうか迷っていたのよ」
二つ注いだカップの片方を、彼女はガリバーの前に置いた。このハーブティーを振る舞われたのは彼女と出会ってから初めてだ。ヤザラは自分のカップに注いだ分を飲んで、彼を見つめていた。ガリバーも彼女に続いて口に含んだ。身体がほのかに温まり、静かに息を吐き出した。
「俺は、なりたくない大人になっていたみたいだ」
ヤザラは待っている。
ガリバーは、口に出すべきなのか分からない言葉を丁寧に頭の中で結んで、伝える言葉の意味を噛み締めるように声に変えた。
「地球に連れていってくれって、ヨミョウに頼まれたんだ」
「あら」
驚いたような反応を菓子店の兎人は口にしたが、声も顔も言葉にあっていない。目尻が垂れた赤い瞳はガリバーの言葉を聞く前と変わらない視線で彼を見つめている。声も平坦だ。用意していた言葉をそのまま再生したかのように。
「知ってたのか?」
眉をひそめたガリバーが尋ねた。
「いいえ。でも、ヨミョウならそんな願い事をしているかも、とは思っていたわ。あの子が言わないなんてあり得ないわよね」
ヤザラはカップの中で揺れる琥珀色の水面を眺めてから口に運ぶ。
「それで?」
会話の流れが普段より遅い。会話の続きを促さなければ、お互いが一言発するごとに、子供たちの声が空間に満ちることになる。
それでもいい気がした。ガリバーはマヒルたちを眺める。いっそ忘れてしまえば、彼らと一緒に笑えるだろう。ボールを追いかけて走り回る時間も楽しいだろう。
でも、それじゃあ、恩人を傷つけたまま残りの人生を過ごすことになる。
「……断ったんだよ。ヨミョウの夢は手伝えないって。月のルールがあったから」
「そう」
今度はヤザラも声を落とした。
「ウェラ・イーの秘密研究所のことは知ってるか?」
「もちろん」
彼女は頷く。一呼吸ほど置いてから目を丸くした。
「行ったのね?」
「ああ」
「まあ、あそこに……」
開いた唇を手で隠している。視線には驚愕と好奇心が入り混じっていた。眉も上がっている。
「ヨミョウが?」
「ああ。ヨミョウは夢を叶える覚悟をしていた。今はまだ入っちゃいけない研究所に命がけで忍びこむぐらいに。ヨミョウは努力して、夢を叶えられる鍵を手に入れた。でも……その姿を見られていた。帰った後にタグレがやって来た。ヨミョウと、研究所で手に入れた鍵を持って」
「ああ……」
ヤザラが一度は唇から離した手を、また角度を変えて口を隠した。
「そんなことがあったのね」
ガリバーは頷く。再び沈黙が訪れた。
次の言葉が出てこない。ガリバーは唇を噛んでいた。ここまで話したことはただの事実だ。記憶をなぞっていけばいい。
ここで彼女と話しているのは事実を伝えたかったからではない。ガリバーは分かっていた。マヒルが心配するほど心が沈んでいたのは、タグレに計画を阻止されたからじゃない。自分が話そうとしていることも、これだけじゃない。
それでも口にしようとすると胸が痛んだ。言うべき言葉もまとまらない。彼は目を伏せた。星空から届く光に作られた影をただ見つめる。
「俺は……」
いきなり言葉が途切れたが、ヤザラは待ってくれた。聞きたいことも、言いたいことも飲み込んで、彼女は友人が悩みを打ち明けられるまで待っていた。ガリバーは伏せた視線を上げてヤザラを見る。目が合ったヤザラは彼に視線を返し、静かに頷いた。太陽の光を受けてワインレッドが混ざった髪をかき上げて、彼女は男の言葉を待つ。
ガリバーは唇をぎゅっと結んでから、一度は飲み込んだ言葉を口にした。彼女という友人と出会えたことに感謝しながら。
「俺は何もしなかった。ヨミョウの夢を叶えるためにできることがあったはずなんだ。でもやらなかった。それだけじゃない、ヨミョウが助けを求めて差し伸べた手を握らなかったんだ。月のルールがあったから。俺は、そういう選択をしてしまったんだ」
ゴクリと息を飲み、続ける。
「君たちの生き方も、全部理解したわけじゃない。だから……」
「うん」
結局最後まで言葉を作ることはできなかったが、ヤザラは理解し、優しく応えてくれた。
喉を潤すために残っていたハーブティーを飲む。優しい味だ。ヤザラが差し出した菓子にも手を伸ばして口に運ぶ。ヤザラの菓子はいつだって美味しかった。彼女の温かさがこもっているようで。
どうしても、母の顔を思い出してしまう。まだ優しかった母が、古びたオーブンで焼いてくれたクッキーの味と共に。
「俺も親に反対されてたんだ。叶うわけがない宇宙飛行士なんて職業は諦めろって。辛かったんだよ、ずっと孤独だった。だから俺はああはならないって……決めたのになあ」
妻以外の誰にも打ち明けたことがなかった言葉を最後に、彼は口を閉ざした。
「ガリバーは、月が好きだったからここに来たのよね。ご両親の意見に逆らってまで」
空になった彼のカップに二杯目のハーブティーを注がれる。ガリバーは顔を上げてヤザラを見た。子どもたちは道でボールを蹴り、二人の様子をチラチラと伺うマヒルも話しかけてはこない。
「私たち、月のうさぎも同じよ。みんな地球が大好きなの」
ガリバーは頷いた。月の都に来て三日経った頃には知っていたことだ。
「ちょっと待ってて」
そう言って、頭に白い耳を二つ生やした兎人は店の奥に消えていった。戻ってきたのはガリバーが二杯目を飲み終える頃で、彼女は両手で四角い金属の箱を抱えていた。
平たい底面に、アーチ状のカバー。背面に取りつけられている小型のパラボラアンテナをヤザラが地球に向ける。正面にはボタンとツマミが並び、彼女が何度か操作すると、スピーカーから音が出た。ノイズは次第に鮮明な音へ変化し、ガリバーがよく知るロックバンドの曲が流れ始めた。
「ラジオか」
「そう。私が作ったのよ」
「ヤザラが? すごいな。地球じゃ店に置いてても違和感ないぞ」
ラジオにパラボラアンテナが装着されているのは初めて見たが、それ以外は洗練されたデザインだ。とても手作りだと思えない。ツマミを回して周波数を変えると別の電波をしっかりと受信した。
「ふふ、嬉しいわ。ここに並んでるお菓子はね、このラジオでレシピを聞いたお菓子なのよ。おかげでお菓子のお店を経営する夢も叶えられたわ。たくさん聞いたの」
「そういうことだったのか」
改めてクッキーを口に運ぶ。地球で味わったことがある食感と味の焼き菓子が月にも存在するのは、こういう理由があったのか。謎が一つ解けた。
「私って他の人より地球の言葉が上手いでしょ」
「ああ」
ガリバーは頷く。ヤザラの英語の発音は他のどの兎人よりも自然だった。あまりに自然に話すので、独特なアクセントで話すヨミョウやマヒルと違うことに気付くまで数日遅れたほどだ。
自作のラジオを眺めながらヤザラはほほ笑んでいる。
「いっぱい練習したのよ。地球から発信されるラジオの電波を拾って、毎晩毎晩真似していたの。いつか地球から人が来た時に、たくさんお話するのが夢だったのよ。だからガリバーと話せた時はとっても嬉しかったわ」
兎人の笑みがガリバーに向く。
「でもね、私よりずっと努力をしていたのがヨミョウなの。青い海を夢見て頑張って来たのよ」
ラジオの電源が消された。音楽もノイズも消え、二人の間に流れるのはお互いの声だけになる。
ヤザラは道で遊ぶ子どもたちに目をやった。視線はボールを追う子どもたちに向いているが、ガリバーには、彼女がどこか別の場所を見ているように感じられた。
「ヨミョウはね、あんなに元気な子じゃなかったのよ」
ガリバーが眉をひそめた。
「今よりも? いや、あのヨミョウが元気だっていうのか?」
「ええ、ガリバーが来てから変わったのよ。前はね、暗い、暗い……力の無い目をしていたわ」
力の無い目。昨日見たヨミョウの瞳が脳裏によぎる。
「ヨミョウが夢を持ったきっかけは、おばあ様から地球の話を聞いたこと。というのは知ってる?」
「知ってる。病院で目が覚めて初めてヨミョウと話した日に、本人に熱く語られた。カグヤ様が話したっていう、地球の風景の話だろ」
「ええ。それを聞いてね、ヨミョウは地球に行きたいって夢を話すようになったの」
ヤザラの声が止まった。間を空けて続いた彼女の声は沈んでいた。
「ヨミョウはまだ、月にある掟の話を聞いていなかった」
再び間が空く。ガリバーは何も言えずに俯いた。幼いヨミョウを想像し、締め付けられるような胸の痛みを感じた。
「地球の人々が自分たちで月の都を見つけるまで、月に住むうさぎは地球へ行ってはいけない。月のうさぎから地球人に都の存在を明かしてはいけない。ガリバーみたいに月で死にそうな人を見捨てるほど厳しくはないけどね。掟の話を聞いたヨミョウはショックを受けていたようだけど、それほど深く考えていなかったみたいなの。きっとすぐに地球に行けるようになる、って。まだ幼かった頃の話なのよ」
記憶を辿ってヤザラは喋る。思い出すと胸を襲う悲しさに話を遮られることはあったが、地球から来た男に伝えるべき言葉はスラスラと出てきた。忘れたくても忘れられない記憶として、ヨミョウの姿が残っていた。
「ヨミョウは成長していった。誰よりも勉強をして、若くして研究センターに入ったわ。あの年齢で入って、しかも活躍するなんて珍しいことなの。ヨミョウは頑張っていた。だから気付いちゃったのよ。地球に行けるようになるのはずっと先の話だって」
また、間を空ける。
「地球のことを知るたびに遠のいていくように感じたみたい。よく笑う元気な子だったのに、段々と笑顔がなくなっていって……。彼女に味方できる人もいなかったの、私もね。慰めることはできるけど、夢を叶える手伝いはできないわ。月には掟があったから。地球人が私たちの町を見つけるまで待つしかないのよ。気付いた時には、ヨミョウは笑わなくなっていたわ。綺麗な目も曇って……」
ため息が一つ聞こえた。
「一人で寂しかったんだと思う」
ヤザラはガリバーに視線を送った。彼はカウンターの上で両手を握りしめて、二人の間にある何もない空間を見つめている。
「そんな話、俺には一度も……」
「思い出したくなかったんでしょうね」
できるだけ優しい声色でヤザラは言った。
ガリバーは天を仰いだ。店先に付けられたひさしの端から星空が覗いている。ちょうどアカルメイナスの上に地球が浮かんでいる時間だった。
ヨミョウに信頼されていなかった、ということでは無いだろう。太陽の光に、ガリバーは目を細める。計画を暴いたタグレの前で、彼女が俺だけに見せた笑顔。心配させたくないと、彼女は思っていたのだと思う。
話すために思い出すのも辛い記憶だったんだ、彼女が孤独を感じていた時間は。
「ガリバーが来てから変わったの。あなたが月に来てからの一ヶ月は、笑顔はまだないけれど……昔に戻ったみたいだったわ」
ヤザラはガリバーに笑いかけた。
「あなたを助けて、ヨミョウが保護することになって、そこで跳ねまわっていたのよ。私もビックリしちゃった。興奮気味に話していただけでもビックリしたのにね。私のお菓子を買って両手に持って、踊ってるみたいにクルクル回るんだもの」
「ヨミョウが?」
「ええ。あなたが知っているヨミョウが」
あのヨミョウが。ガリバーは振り向いて、ヤザラの店の前を通る道を眺め、ヨミョウを描こうとしてみた。どうしても想像できない。彼女に笑顔はなく、その表情と同じように身体も動かない。手に持った菓子を美味しそうに食べている姿が想像の限界だ。
ふと、ガリバーの視線が子どもたちの方へ向いた。お互いパスしていたボールを変に蹴ってしまったらしく、誰も受け止められなかったボールがガリバーの元へ転がって来る。
「ごめんナサーイ!」
一人の少年が白い耳を揺らしながら駆け寄ってきていた。ガリバーはボールを蹴り返してやる。彼は両手で受け止めてガリバーに手を振った。
「ありがトー!」
仲間たちの方へ戻っていく。誰の頭にも白い耳が生えていた。
ヤザラが尋ねる。
「ガリバーは、地球人と私たちは違う存在だと思う?」
「いいや」
迷わずに答えた。子供たちを見つめながら首を横に振る。初めて彼らと出会った時は驚いたが、今ではもう、気にすることはなくなっていた。頭に白い耳が生えていたとしても、彼らは地球人と同じ心を持った存在だ。
ガリバーの視界の外で、ヤザラの表情は明るくなっていた。
「私だって、決められたルールを破るのは良くないと思うわ。私も時が来るまで地球に行ったりしちゃいけないって教えられて育ってきたもの。でもね、どんなに難しくても、どんな障害があっても、誰かに祈って待ち続けるだけなんてできない夢だってあると思う。そうよね、ガリバー」
ガリバーはヤザラに視線を戻した。ヤザラは真っ直ぐに彼を見ている。目尻を垂らした赤い瞳の中に光を灯して。星条旗の前で夢を語ったヨミョウと同じ光を。
「月に住んでる私たちも同じよ」
彼女の柔らかな手がガリバーの手に重ねられた。
「私たちには大きな耳が生えているけど、地球に住んでいるガリバーたち人間と変わらない存在だと思っているわ。夢を見て、夢を追いかけて、夢を叶えるために生きる。どこで生まれたって同じよ。それだけは信じてほしいの」
そう言ってから、ヤザラは子どもたちの方へ声を上げた。
「マヒルくん!」
「ナニー?」
彼女と同じ大きな声で返事をしたマヒルが駆け寄ってくる。眉を下げたヤザラは彼に言った。
「みんなと遊んでいるのにごめんね。ガリバーを丘の上に連れていってあげてほしいの」
「ワカッタ!」
二つ返事でマヒルは引き受けた。また子供たちの方へ駆けていき、ガリバーと二人で離れることを伝える。子供たちは遠目でも不満を顔に浮かべていることが分かった。彼らをなだめるマヒルの背中を見つめていたガリバーは、視線をヤザラに移してから問いかけた。
「ヤザラは?」
「私はお店の仕事があるわ」
ヤザラは目を逸らした。焼き菓子を取るためのトングを手に掴んだが、特に使うこともせず、彼女の右から左へ場所を移しただけだった。
ガリバーはヤザラを見つめる。ヤザラの瞳がガリバーへ向いた。しばらく口を結んでいた彼女は、ふっと口角を上に上げたが、薄い眉は目尻の方へ下がっていた。
「ヨミョウのことを知っていたのに、ずっと遠くから見ていただけだったのよ、私は。今になって、ガリバーがいるからって一緒にヨミョウを救おうとするなんて自分勝手だわ。ヨミョウを救えるのはあなたよ」
そんなことはない。と、ガリバーは彼女に言おうとしたが、口を開く前にヤザラは首を振った。
「帰る前に、もう一度でいいから、お店に遊びに来てね。待ってるわ」
「必ず来る」
そう答えると、ヤザラはニコリと笑った。ガリバーも笑顔を返したところでマヒルが戻ってきた。軽く手を振ってヤザラと別れ、ガリバーとマヒルはヤザラが言う丘へと向かう。
静かな住宅街、黒い空。うさぎの耳を揺らす少年は、黙って道を進みながら、時折ガリバーが着いてきているか確かめるために振り返る。
「大丈夫だよ」
そう返すと彼は頷いて前を向き、何度か角を曲がってからまた振り向いてきた。言葉が漏れ出さないように強く結ばれた唇を見つけて、ガリバーは、ふっ、と笑みを浮かべた。
「ありがとな」
男の言葉に、少年は眉をひそめた。
最後の角を曲がりたどり着いたのは、月に堕ちてアカルメイナスで目覚めたあの日、ヨミョウに連れられて訪れた丘だった。中心街から外れたクレーターの外縁部にある丘はどこよりも静かで、二人の他には誰もいない。舗装された道路は途切れ、足元にあるのは憧れ続けた灰色の大地だ。視界の端まで広がっている。目を凝らせばアカルメイナスを覆うドームも揺らいで見えた。あと十歩も進めば真空の宇宙に命を捧げることになる。遠くに浮かぶ山。変わらず星たちが瞬く空。さらに視線を上げれば、地球が浮かんでいる。
「この場所って観光地だったりするのか? 前にヨミョウにも連れて来てもらったんだ」
「町の全員が知ってるワケじゃないカナ。でもボクは好きだし、他にも好きな人はいるヨ。アカルメイナスの外に一番近い場所ナンダ」
たしかに、ヨミョウと訪れたカフェよりも月面が近い。あの時は床があったし、ウェラ・イーの秘密研究所の話に集中していたから外を眺める余裕はなかった。今は月面を直接踏んでいる。ホバーバイクに乗っていた時のように、景色が流れていくこともない。
離れたところにそびえる山脈を、目を細めて観察する。
「あの山は大きいな。何フィートだろう……」
「クレーターの右側に見える山? 登ったコトあるヨ!」
「へえ。どうだった?」
「遠くの地面が丸く見えタ!」
マヒルは腕を大きく広げて、身体の上で半球を作っている。
「地球から来た宇宙船が降りてくるのも見たコトあるんだ」
「ここから?」
ガリバーが片眉を上げた。
「ウン。遠くだったけど、キラキラしてたンダ。なんだろうって見てみたら、地球から来た機械だッタ。ガリバーは知ってル?」
口を結んだガリバーは、軽く握った手を口元へ運んだ。親指の爪が唇に触れる。
月に着陸した地球の船は多くない。ましてや、マヒルが生まれた後……マヒルが物心ついた後のことだと考えると、月へ飛んだ探査機は片手で収まる程度の数しか無いだろう。
もしかすると――。
「二年前ぐらい前か?」
半ば確信を持って尋ねる。
「そうソウ!」
少年は首を三回縦に振って答えた。
ガリバーの眉間に皺が寄る。
「俺が乗った宇宙船が来る前に月の環境を調査していた探査機だ。プライムⅡって名前だよ。向こうの方角だったりするか?」
マヒルが登ったという山の手前にあるクレーターを指さす。丘の上から見えるクレーターと山、マヒルが見たという探査機。あの場所しかない。
「そうダッタ! 何でわかるノ!?」
少年は赤い目を丸くした。
「そうか、マヒルは見てたんだな。俺たちにはアカルメイナスなんて見えなかったよ。プライムⅡの調査で、あの辺に基地を建てようって話になったんだ。俺が着陸しようとしてたのもあの辺だ」
「この町と近かったんだネ」
「そうだな」
マヒルから視線を移し、クレーターを見つめる。ヨミョウと来た時は気が付かなかった。会議室で何度も見ていたマップの景色を、同じ大地に立って眺めていることに。クレーターの奥にそびえる山脈。その下には、ここからでは見えないが、巨大な渓谷が存在する。
ガリバーはこの場所を知っていた。地球が見守る丘から広がる景色の中を、ガリバーの宇宙船は目指していた。
「……そうか」
だからヨミョウが気付けたのか。
地球が好きなヨミョウは、この丘に何度も来ていたはずだ。自作した望遠鏡を担いで。あの日もきっと、彼女はここから地球を眺めていた。月の石と出会った子どもの頃の俺と同じように、心に夢を抱いて。そして、俺が乗った墜落船を見た。
「マヒルも……地球を眺めに、ここに来てるのか?」
低い調子の声で、声を区切ってマヒルに問いかける。ガリバーの瞳は月面に向けられている。
「ウーン、それもあるけど」
マヒルは足元を探り、ちょうど手で持てるサイズの石を持ち上げた。野球ボールより少し小さい。
「ココなら石を遠くに投げても怒られナイ!」
彼は大きく振りかぶって石を投げた。
飛んだ石はアカルメイナスの重力圏を抜けて真空空間に飛び出す。石は音もなく飛んでいく。遠くへ、遠くへ、どこまでも飛んでいく。視界いっぱいに広がる月に向かって。
ガリバーは屈み、足元の石を持ち上げた。月の石。博物館で出会った石よりも無骨で、厳重な保護もされていない、そこら中に転がっている、大きな石――。
彼は石を握りしめた。
「ありがとう、マヒル」
マヒルが首を傾げる。
「ボクはヤザラさんに言われて連れてきただけダヨ」
ニコリと笑った彼の頭を、ガリバーは撫でてやった。白い耳に生えた毛が手に触れてこそばゆい。
「マヒルには夢があるか?」
「ウーン……なんだロウ。まだ分からないカモ」
撫でられたままの少年は口角を上げて腕を組んだ。月の大地を見つめて口を結んでいた彼は、ふと隣に立つガリバーを見上げた。
「またガリバーに会いたいナ」
小さな声で呟いたマヒルは、次の瞬間、パッと表情を明るくした。
「次はオレが地球に行って、地球でガリバーと野球がシタイ! 地球の人タチに野球を教えてもらいタイ! ソレがオレの夢!」
丸く開かれた少年の瞳が輝いている。
ガリバーの視線が彼の視線と交わった。
いや、ただ輝いただけじゃない。今この瞬間に、彼の瞳は強い光を宿したんだ。
眩い光はエネルギーに満ち溢れ、このままどこへだって行ってしまいそうだ。ガリバーに向けられた視界に映るのは、地球から来た男だけではない。遥か遠くのマヒル自身も見つめている。未来で夢を叶えた自分の姿を彼は脳裏に描いている。
ガリバーは拳を握りしめた。彼は見たことはないが、マヒルと同じ光を宿した自分の姿を知っていた。月の石と出会い夢を見つけた幼き日の自分は、目の前にいる少年と同じ瞳をしていたはずだ。
彼女も、きっと。
「叶えような、その夢」
ハッキリとした声でガリバーは言った。
「絶対に叶エル! 地球の人がアカルメイナスを見つけるのも待ってるからネ!」
マヒルが強く頷いた。
持っていた石をポケットにしまって、ガリバーは青色の瞳をアカルメイナスの町に向けた。
「やらなきゃいけないことができた。ごめんな、遊ぶのはまた今度だ」
「ウン、わかッタ」
マヒルはガリバーこれからどこへ行くのか何も知らない。それでもマヒルの視線は真っ直ぐにガリバーを見つめていた。ガリバーも少年に真っ直ぐな視線を返す。
「帰るまでにもう一回遊ぼうネ!」
「ああ、約束だ!」
二人でニッと笑ってから、ガリバーは走り始めた。海色の瞳に光を宿した男の背中を、地球は星空から見守っていた。
☽
「ただいま!」
ドアを開いて声を上げる。電気が消えた廊下を進み、薄暗く冷たいリビングへたどり着く。
「オカエリ」
テーブルで座っていたヨミョウが、数秒遅れて小さく声を返す。ぼうっと開いた口は閉じられず、弱い瞳がガリバーへ向けられる。両手で包んだマグカップは冷めきっていて湯気も昇っていない。
彼女はすぐに視線を逸らして立ち上がろうとした。
「待ってくれヨミョウ!」
思わぬ声量で名前を呼ばれた少女は驚いて体を硬直させる。その隙にガリバーは、ヨミョウの向かいに立ち、テーブルに両手を置いて身を乗り出した。
「話したいことがあるんだ」
椅子に座り、改めてヨミョウを見つめる。背もたれに手をかけて半分立ち上がっていたヨミョウは、彼の気迫に押されて腰を下ろした。
一瞬、二人の視界は交わったが、二人揃って顔を俯かせた。依然として部屋は暗がりの中にある。傾き始めた太陽は、しかしまだ高い場所からアカルメイナスへ光を注いでいた。カーテンが開かれている部屋にも光は届くが、二人の元まで届かない。ぼんやりと部屋を満たす光には、二人の顔にかかった影を照らす力はない。向かい合ったまま無言の時間が過ぎる。
先に口を開いたのはガリバーだった。
「今まですまなかった」
ガリバーに続いてヨミョウも顔を上げた。目の下にはクマができ、虚ろな瞳を彼に向けている。顔を上げただけで彼女の反応は止まる。まばたきの数も少ない。彼女の周りだけ時間の流れが遅くなったようだ。
しばらくガリバーを見つめていたヨミョウは、不意に弱々しい笑顔を浮かべた。元気のない口調で彼の言葉に応える。
「もういいノ。終わった話ヨ」
「終わってない」
食い気味に答えて、ガリバーは首を振った。
「まだヨミョウに話していなかったことがある。俺の過去の話だ。俺は宇宙飛行士になることを親に反対されていたんだ」
思い出したくなかった記憶を頭に描いて、彼は強い口調で言った。わずかにヨミョウの眉が上がったことに、彼は気が付いた。
それからガリバーは、ヨミョウに記憶の奥底に追いやっていた過去を語り始めた。月の石を見たこと。母親にも先生にも夢を否定されたこと。大学を卒業したタイミングで家出して、それ以来両親とは絶縁状態にあること。
最初は彼の声を音として聞いているだけだったヨミョウも、ガリバーが声に込めた感情が強くなるにつれて、彼の話に耳を傾けるようになった。彼女の虚ろな視線が、どこでもない空間からガリバーに定まる。ヨミョウは口を結んで、彼の夢までの道のりを聴いていた。
「ジェシカと出会って、宇宙飛行士になるまで孤独だったんだ。無理だって諦めかけたことも一度や二度じゃなかった」
「そう、だったノネ」
絞り出した声がヨミョウの口から出てきた。数秒経って、彼女は弱い声でガリバーに尋ねた。
「どうやって夢を叶えたノ?」
「歩き続けた。とにかく歩き続けたんだ。他に楽な道があるのは知っていたけど、俺はただ一つの夢を叶えるために歩き続けたんだ。倒れそうになっても、一人だけでも。ヨミョウと同じように」
一度言葉を区切り、短く息を吐く。
「まだできることはある。一緒に地球に行こう」
ガリバーの声に迷いはない。青色の瞳がヨミョウを見る。
彼女の赤色の瞳は彼から視線を逸らさないように堪えていたが、彼女の意志に反して離れてしまった。テーブルの何もない空間に視線を向けて、腿の間で両手の指を絡ませる彼女が口を開く。
「ウェラ・イーの装置はもう無いワ。タグレがドコに隠したかも分からナイ」
「なら作ればいい」
確信を持った声で言う。
ヨミョウは首を振った。
「ムリヨ。テレポート装置なんてワタシには作れない。発射場の壁を越えるのもムリ。外にあるバリアとはワケが違うワ。だって、だって、ここじゃあんな高サまで飛べナイ」
「俺にはできないけど、ヨミョウならできる。テレポートができなくても、代わりになるものが作れればいい。そしたら二人で作戦決行だ」
ガリバーの声は揺るがず、ヨミョウはまた彼に視線を戻した。
「なんでそんなコト言えるノ?」
背中を丸めて彼女は問いかける。俯いた顔で両目だけ上に向けて、黄金色の髪の向こうに座るガリバーを見つめて。
男は真っ直ぐに彼女を見ている。
「ヨミョウが今まで積み上げてきた努力を信じてるからだ。誰よりも机を汚すぐらいに頑張ってきたヨミョウの努力を信じることにした」
ヨミョウはガリバーの腕に着けられているバングルを見つめた。夢を叶えるために学び、夢を忘れるために研究に没頭していた頃に発明した腕輪。みんなから褒められて、夢じゃなくても嬉しかった努力の結晶。結局忘れられなかった夢のおかげで生まれた、ワタシの証。
「でも、でもワタシは」
言葉が詰まる。努力を重ねたって、もう夢を叶えるのは無理だ。無理だと諦めなくちゃ、ずっと心が痛いまま生きていくことになる。
それでもガリバーは彼女を見つめていた。
「走り続けるんだ。何があっても最後まで。俺は知ってる。ああ、俺は知ってたんだ。諦めきれない夢を抱いたヨミョウの気持ちを。あの日、君の夢を教えてくれたあの丘から、毎日地球を眺めていた君の気持ちを。俺は知っていたんだ」
ガリバーは、テーブルに乗せていた拳を痛むほど握りしめた。
「今まで悪かった。俺は卑怯者だ。知ってたのに、目を背けていたんだ。その方が楽だったから」
瞼の裏に海色の瞳が隠れる。俯きかけた彼は動きを止めて、ヨミョウに向けて瞼を開いた。
「俺はもう目を逸らさない」
ヨミョウは潤んだ瞳でガリバーを見つめている。
「でも」
か細い声が聞こえた。
「まだ走れるだろ。俺は知ってる」
ポケットに入れていた月の石を取り出す。
「ポケットに収まるぐらい小さい石だ。この小さな石と出会うために、俺はここまで来た」
男はニッと笑い、顔を上げたヨミョウに言った。
「やろう、ヨミョウ。俺は君の味方だ。君の夢を教えてくれ」
月の石は二人の間に置かれた。月が回り、太陽が傾く。窓から伸びた光は二人に届き、ガリバーの夢を照らした。
「ワタシは」
少女の声が聞こえた。前を向いた彼女の顔に影はもう無い。太陽が照らす赤い瞳。ピンと伸びた白い耳。潤んだ両目から一筋の水滴が零れ、月のうさぎは言った。
「ワタシは、青い海が見たイ」




