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第3話『アンチグラビティ・ガール』

「ガリバーにヨミョウじゃない。お出かけ?」

 聞き覚えのある声に話しかけられ、ガリバーとヨミョウはピタリと足を止めた。月の都の中心に伸びるモルト通りはショッピングに出かけてきた兎人たちの交流の場であり、そこから三つほど離れた裏の通りは人通りの少ない静かな道だった。兎人たちは楽しいことが好きだ。だから皆が集まる場所に自分も足を向ける。わざわざ裏通りを歩くことは無い。そんなことをするのは急いでいて人混みを避けたい時――あるいは人目につきたくない時だ。今の二人のように。

 声の主がヤザラであることは察していたが、ガリバーは振り向くまでに表情作らなければいけなかった。いい加減、月の都にも慣れてきた。クレーターの斜面に白い壁の四角い家が並び、屋根の上に星空と地球が浮かぶ光景を見ても動揺が顔に出ることはない。他に大きな秘密を持ってしまったことが今の問題だ。

 月面を望むカフェでヨミョウの計画を聞いたあの日から、一週間が経過していた。

「ヤザラじゃないか! こっちの道を使うなんて珍しい……んだろ? アカルメイナスの人たちはみんな大通りを歩くってヨミョウから聞いたんだが」

 嘘をつくのは苦手だ。大げさに身振りをしながらヤザラに笑みを向ける。バックパックを背負って隣に立つ少女の、文句を言いたげな視線を感じた。ヤザラが返した笑顔を見るに、嘘をついていることは気付かれなかったようで、ガリバーはゆっくりと息を吐き出す。

 ヤザラは腕にかけていたバッグを持ち上げた。

「目的の買い物はすんだし、これ以上無駄遣いもしたくなかったのよ。モルト通りにはお財布の紐がゆるんじゃうお店がいっぱいあるの。それに、こっちの道の方が空いてるでしょ。二人もそういう理由よね?」

「ソウソウ」

 今度はヨミョウが相槌を返す。文句を言いたそうにしていた割に、彼女の声は裏返りそうになっていた。表情に出ないのが卑怯だ。

「まだ見てない絶景があるってヨミョウが言うんだ。そう言うなら、月にいるうちに見ておかないと、ってな。ヨミョウに案内してもらってるところだよ」

「あら、いいわね。どこに行くのかしら?」

「教えてくれないんだよ」

 ヨミョウに視線を向ける。彼女も赤い瞳をガリバーへ向けていた。ガリバーが右の眉を上げると、ヨミョウは唇を曲げてヤザラに答えた。

「行ってからのお楽シミ」

「そう。ふふ、どこに連れていかれるのかしらね」

「さあな。ま、地球がよく見える場所だろ」

 ガリバーの言葉を聞いたヤザラがもう一度笑う。

「楽しそうね、ヨミョウ」

 ニコリとも笑わない少女を見つめてヤザラは言った。頷いたヨミョウへ向けられた瞳に、娘を見守る妻の姿を思い出す。

「まだ話していたいけどもう行かないと。ロッコを待たせちゃうから」

 左腕のバングルが表示する時計を見てから、ヤザラは眉を下げた。

「また手伝いに行くよ。今度はいつがいい?」ガリバーが尋ねる。

「明後日来てくれると助かるわ。新作に挑戦するの」

「分かった。じゃあ、また明後日」

 菓子店の女主人は笑顔で手を振り去っていく。急いでいるのか、ガリバーが手を振り返すのを待たずに背中を向けてしまったが、彼は構わずにワインレッドが混ざる彼女の後ろ髪に手を振った。それから横に顔を向けて、ヨミョウにニッと笑いかけた。

「楽しいんだな」

「ナニヨ」普段より低い声の返事が来る。

「ヤザラが言ってたじゃないか。楽しそうって。彼女には分かるんだな」

 驚きだ。ずっと同じ表情をしているヨミョウの感情が分かるなんて。

 地球の話をするときはいつも饒舌になる。そういう時にはガリバーも彼女が楽しんでいると分かったが、それ以外は推測の域を出ていない。こうして秘密を抱えたまま移動している今も、ヨミョウは楽しんでいるとは思っていなかった。彼女の練った計画の実行に緊張しているのだろうと考えていたが、どうやら真逆だったらしい。改めてヨミョウを見るが、やはり分からなかった。

 まじまじと顔を見られたヨミョウは、ため息をついてから道の先に目を移す。

「楽しいワヨ。地球のヒトと話せるノヨ? 会うコトはないかもしれないって思っていたのに、ガリバーと話せたワ。ガリバーだってワタシたちと話すの楽しんでるデショ」

「ハハ」

 思わず笑いが漏れた。彼女の言う通りだ、幼い頃から憧れ続けている場所に住んでいる人と話せるのだから、楽しいのは間違いない。ヤザラと話すのも、こうしてヨミョウと歩いている時間も、ガリバーは噛みしめていた。

「ずいぶんヤザラと仲良くなったノネ」

 再び歩き始めたヨミョウが尋ねた。ガリバーは数歩走って彼女に並ぶ。彼女が背負うバックパックは揺れても音を出さない。何が入っているのだろう?

「ヨミョウがいない間は、ヤザラの店を手伝いに行ってるんだ。一人じゃどこも行けないしな。ヤザラだけじゃなくてマヒルとも遊んでるし、カイやロッコとも最近よく話すぞ」

「カイ……ああ、ゲームショップのネ」

 月に来てから半月も経てば、ヨミョウ以外にも知り合いと言える人は増えていた。カイとロッコは広がった交友関係の中の二人で、ガリバーと年齢の変わらない兎人だ。生きる場所は違うが気の合う友人である。ヨミョウのことも知っていると言っていた。友人というほどではないらしいが。

「ロッコは……名前は聞いたコトあるワネ」

「食糧生産センターで働いてるヤツだな。二人ともヤザラの店の常連なんだ。楽しいヤツらだぞ」

 ロッコから恋の相談をされていることは言わない。昔ヤザラにフラれたが、もう一度想いを伝えたいのだと、ヤザラの店を手伝いはじめた地球人を頼ってきた。恋愛事情を話すのも無粋だし、ヨミョウが知らない月の住民の秘密を持っているのも気分がいい。

「フゥン」

 なんでもない風を装っているが、意識が自分に向いていることにガリバーは気付いた。唇は力強く閉じられ、視線は不自然なほどに前方を見続けている。チラリともガリバーを見ようとしない。

 からかってみたくなり、ガリバーは口角を上げる。

「嫉妬でもしたか?」

「してないワヨ」

 それだけ答えて、また唇がキュッと一文字に結ばれる。足も早くなったような気がして、彼女の一歩後ろを歩きながらガリバーは笑った。

「一昨日からカイにハチヨウショーギを教わってるんだ」

 背中に向けて声をかけた。ハチヨウショーギは月の都にあるボードゲームである。漢字で八つの葉の将棋と書くらしい。ルールは日本の将棋と似ているが、月の将棋では立体ホログラムで三次元のフィールドが展開される。将棋やチェスと同じように王を落とすか、富士山を舞台にした陣取りを先に終わらせれば勝利となる。月の娯楽の一つだ。

 ヨミョウの片耳が上がった。

「お前に負けたまま帰るわけないだろ。悔しがる顔を見てから帰ることにするよ」

 教えてもらったその日にヨミョウに惨敗した苦い思い出がガリバーの記憶に残っていた。訓練の暇つぶしにチェスをしていたおかげで多少の自信と腕前は持っていたのに、初のゲームとはいえ酷い負け方をしていた。それも三度も。リベンジしなければ満足して帰れない。

 上げた片耳を視線ごとガリバーへ向けたヨミョウは歩調を緩め、ガリバーに並んだ。赤い瞳で見つめて鼻を鳴らす。

「じゃあ、いつまでも帰れないワネ。ワタシは技術力も将棋の腕もガリバーより優れてるノヨ。ドコらへんに家を建てたいか言ってくれれば手伝ってアゲル」

「録音して負けた後のヨミョウに聞かせてやるか」

「いいワヨ。勝ち続けて、もう録音したくないって思うぐらい聞かせてあげるワ」

 勝ち誇ったような声。ヨミョウを見下ろすガリバーの眉が上がった。抱いていた決意の火はさらに燃える。本当に、地球へ帰る前に敗北を味わわせてやろう。明日もロッコの店に行こうと、ガリバーは心に決めた。

 話題が終わる頃には周囲の物音は少なくなっていた。なだらかな斜面に規則正しく並ぶ家々が見守る交差点を二、三度曲がれば、モルト通りの賑やかな兎人たちの声は遠くに消えていた。勾配が上がり、クレーターの中心に走るモルト通りが見下ろせるような高さになる。兎人たちの髪の色はブラック、ベージュ、アッシュと様々だ。そして、どの頭にも一対の白い耳が生えている。耳に限ればイースターの日にも見られる風景かもしれないが、アカルメイナスではこれが日常風景である。地球人と変わらないコミュニケーションを取れる彼女たちと話している間に、月にいることを忘れそうになっても、彼女たちの耳が現実を教えてくれた。

 モルト通りを眺めていたガリバーは正面を向いた。先導するヨミョウの頭上でもうさぎの耳が揺れている。その先にウェラ研究センターが見えた。タグレに小言を言われて以来足を踏み入れていない場所だ。今日は正面からではなく側面からウェラ研究センターを見ている。ガリバーは周囲を見回した。誰の姿も無い。声を落とし、ヨミョウに声をかけた。

「それで、俺はどこに連れていかれるんだ?」

 ずっと聞きたかったことを口にする。ヨミョウは黙ったままだ。足も止めない。

「一週間も待ったんだ、そろそろ教えてくれてもいいだろ」

「ウェラ・イーの秘密研究所ヨ」

「月の裏側だろ? そこまでどう行くんだって話だ」

「ちゃんと手段は用意してるワヨ」

 不意にヨミョウが立ち止まったのでガリバーも足を止めた。彼女は顔だけ彼に向けると、ただ一言だけ口にする。

「行ってからのお楽シミ」

 それ以上は続けずに、ヨミョウはまた前を向いて歩き始めた。ガリバーも諦め、彼女を追うことだけ考えることにした。

 次に二人が立ち止まったのは高い石塀の前だった。壁の向こうにあるのはウェラ研究センターだが、塀の真横にいる今はどの建屋も見えない。そこそこの高さがあったはずのヨミョウのラボがある棟も隠れていた。研究センターの敷地の端、端も端の石塀にたどり着いたらしい。

 石塀の一角に、キーパッド付きのドアが設置されている。

「気を付けて、誰にも見られないようニ。コノ先にある通路のコトは知られたくナイ」

 ガリバーが頷いたことを確認してから、ヨミョウはキーパッドを操作してドアを開けた。

 ドアの向こうには、ガリバーが乗ってきた月着陸船なら楽々と入りそうなサイズのハンガードアで閉じられた倉庫が建っていた。横に十個ほど並んでいる。緑色の木々が石塀に沿って植えられており、正門側の塀沿いで見た木々と変わらないように見えたが、ふと根本を見下ろした時に雑草が生えていることに気が付いた。伸び放題で手入れがされていない。正門側で生えていた木の下はもっと綺麗に整えられていた。

 倉庫の前まで身を屈めて走ったヨミョウが手招きする。ガリバーは通用口のドアを閉め、彼女に倣って身を屈めて小走りで倉庫へ近づいた。二人の足音の他に音は無い。

 足音を殺しながら二人は倉庫に沿って移動した。時折音が聞こえて立ち止まっても、ずっと遠くの研究施設から響いた実験音で、二人には関係のない音だった。星空だけが彼らを見守っている。

「監視カメラとか設置してないのか?」

「誰も忍び込んだりしないカラ。さっきのドアのキーパッドも、子供が勝手に入らないようにするための設備ヨ。大人なら誰でも自由に入れるワ」

 警戒心がない兎人たち相手に、きっとこの町での生活が始まってから今まで誰も実行しなかった悪事を進めていると自覚し、ガリバーの胸が痛む。

 倉庫が並ぶ列の端までたどり着いたところで、ヨミョウが立ち止まった。角から顔だけ出して周囲を伺う。同じように並ぶ倉庫が五列ほどと、その先にメインの研究棟群がある。視界に映る範囲に人影はない。ヨミョウは道に飛び出し、そのまま反対側へ駆け抜けた。ガリバーも後に続く。

 道の対岸には木々が並ぶエリアがあった。ただの余った敷地かと思ったが、どうも木の生え方が他の場所と異なっているように感じる。無造作に並べられ、雑草は通用口近くの石塀の下よりもさらに育っていた。

 木々の奥には古びた建物が眠っていた。真四角の、何の装飾も無い、小さな窓が数個取り付けられた箱のような建物。木の枝が侵食し、もはや家と呼ぶこともできない。入口のドアはロープで塞がれている。ヨミョウはロープをほどき、中に入っていった。眉をひそめたガリバーも追いかける。

「いいのか?」

 ヨミョウは黙っていた。床に伸びた木の根を避けながら部屋の奥へ進んでいく。ガリバーは目を細めた。あまりに静かだ。あまりにも静かで、一切人の痕跡を感じられない。生活の後も、研究設備も無い。木の根には埃がたまっている。途方もなく長い時間放置されていたような建物だ。

「ココが通路ヨ」

 立ち止まったヨミョウの前に、両開きのドアがあった。ドアノブに彼女が手をかけてゆっくりと開くと、蝶番に似た金属の部品がキィと鳴り、暗い空間の先に地下に続く階段が現れた。

「ゆっくり閉めて」

 彼女の言葉に従う。ドアノブに手をかけたまま、出来る限り音が鳴らないように動かす。パタリと閉じたところで、ヨミョウが鞄から手持ちのライトを取り出した。踏み外さないように注意しながら、二人は闇の中へ足を踏み出す。

 十メートルほど降りただろうか。階段が途切れたところでヨミョウがライトを消した。一瞬の暗闇が二人を包んだ直後、再び光が戻って来る。ヨミョウが照らしていたライトよりも強い光にガリバーは顔をしかめた。明るさに慣れてから瞼を開くと、天井でライトが点灯していた。

 ガリバーは顔の前の空間を手で払う。

「ずいぶん……埃っぽい通路だな」

 通路の電気が点いたが、どうも想定された明るさには達していないようだった。通路の先は薄暗いし、埃っぽい。閉じられていた通路だというのに、踏み出した足の周りに塵が舞ってガリバーは首を傾げる。通路の両端に設置された天井のライトはところどころ消えたり、点滅したりで安定することはない。道幅は四、五人が並んで歩ける程度だ。途中で横道に逸れるような扉は無く、何かの装置があるわけでもない。ただ、広く、平坦で、長い通路が伸びていた。

「長い間使われていない通路ヨ。隠れて外に出るならこれ以上の通路は無いワ」

 ヨミョウが歩き始めたのでガリバーも追いかけた。堅い床が二人の足音を響かせているが、ヨミョウはもう気にしていないようだ。ガリバーは道の先に目を凝らしてみたが特に何も見えない。興味をそそられる物も何も無い。

「こんな通路もあるんだな」

 ヨミョウの背中に話しかける。

「ワタシも知らなかったワ」

「どうやって知ったんだ?」

 この通路では沈黙が際立つ。会話の途中で足音しか聞こえなくなり、ガリバーは歩調を速めてヨミョウと並んだ。隣に来た彼女は男の瞳をじっと見つめ返す。

「たまたまヨ」

 月のうさぎはそれだけ答えた。

「先に渡しておくワ」

 唐突にヨミョウが立ち止まったので、ガリバーは数歩進んでから後ろに戻ることになった。彼女は家から背負ってきたバックパックを床に降ろして、中から荷物を取り出す。秘密研究所に忍びこむために様々な道具を持ってきたのだろう。というガリバーの予想に反して、バックパックの容量の大半を占めていたのはたった二つの荷物だった。

「ハイ」

 片方をヨミョウが差し出してくる。畳まれた服のようだが、今着ている月の服より厚みがある。秋から冬へ移り変わる頃に着るコートぐらいの厚さだ。端を掴んで持ち上げてみる。ちょうどガリバーの背丈に合うサイズだ。襟が高い。胸元にはいくつかのボタンがはめ込まれていた。

「なんだこれ」

「宇宙服」

 ガリバーの額に皺が寄る。

「これだけか? ヘルメットは?」

「ワタシたちが作った宇宙服ヨ。それだけで充分ナノ」

「そうか……」

 彼女が充分と言うなら、本当に充分ということだ。言いたいことはあったが、ガリバーは口を閉ざした。質問したところで詳細な説明は返ってこないような気がするし、返ってきても理解できない。アカルメイナスに来てから何度も経験してきた。ここで彼女が嘘をつくメリットもない。

 ヨミョウは自分の宇宙服を胸に抱えて再び歩き始めた。

「着なくていいのか?」

「後で着るワ」

 ならどうして今渡したんだ? ガリバーは首を傾げた。

 道の先に光が見えた頃には、階段を降りてから十分ほど経っていた。入ってきた時と同じ階段はなく、積み重なった岩が通路内とは異なる光に照らされていた。光に近づくほど床に小石が増え、舞う塵の量が多くなる。昔この場所で何かが起こり、通路が崩落したようだ。

 ヨミョウの説明は特に無い。口元を塞いで岩を登っていく。幸い両手が必要なサイズの塊は転がっておらず、階段と同じ要領で登ることができた。彼女が地上まで登り切ってから、ガリバーも胸に宇宙服を抱えて後に続く。自然が作った階段に太陽の光が差し込んでいる。

「ああ……」

 外に踏み出し空を見上げたガリバーの口から声が漏れる。頭上には星の海が広がっていた。入口のそばには建物はなかった。視界一杯に星空が満ちる。

「よかった、アッタ」

 声が聞こえ、ガリバーは視線を下ろした。ヨミョウは地上に目を向けていた。彼女の視線の先に目を移すと、バイクに似た乗り物がポツンと一台だけ置かれていた。前後に長いシートに、搭乗者の胸元に届きそうな高さのハンドル。タイヤがあるべき場所には円盤が取りつけられている。

 ガリバーの視線はバイクの先に移る。十メートルほど進んだところで小さなクレーターが刻まれていた。周囲には巨大な岩がいくつも転がっている。間を抜けられるぐらいの隙間はあるが、前触れもなく潰されてしまいそうで怖い。

 岩の向こうに緑色が見えた気がした。ガリバーが目を凝らすと、たしかに灰色に混じって緑色が存在する。町では見なかった細長い葉が、風もない月面で揺れている。

 バイクを調べていたヨミョウがガリバーに声をかけようと顔を上げ、彼が岩の向こう側を見つめていることに気が付いた。ガリバーに近づいてから指をさす。

「コノ先にあるノがカグヤ様のお屋敷。コノ通路は昔、カグヤ様のオ屋敷に物を運ぶために使われていたみたいヨ。町から逸らした隕石が落ちて通れなくなっちゃったノヨ。塞がれちゃったし、古くなっていたから作り直したノ。ホラ、アソコ」

 ヨミョウの腕が横に動いた。ガリバーも視線で追いかける。数百メートル先に白いチューブ状の通路が見えた。側面はガラス張りになっており、遠目だが中の様子が伺える。兎人も誰も通っていないが明るく照らされている。今まで歩いてきた埃っぽい通路よりも向こうのチューブの方が新しいことは疑いようがなかった。

「コッチはもう誰も使っていないワ」

「あれは……竹か? 日本に行った時に見たことがある」

「竹ヨ。カグヤ様のお屋敷は竹に囲まれているノ。ガリバーは入れないワヨ」

 ガリバーは唇が曲げる。昔話に出てくるお姫様の屋敷は、アカルメイナス――人類が科学と呼んでいるものとは別の事象の中にあるようだ。月には地球人が知らない生き物が二種類も住んでいた。

「ヨミョウの祖母は入ったことあるんだよな。ヨミョウは?」

「ワタシもワタシ以外もミンナ憧れているワヨ。カグヤ様のお手伝いができるのは選ばれたヒトだけナノ。おばあ様は選ばれたから入れたノヨ。優秀なヒトよ、ワタシぐらい」

 最後に付け足されたヨミョウの言葉が冗談なのか本当なのかは判断できなかったが、少なくとも兎人たちの憧れの場所だということはガリバーも知っていた。ヤザラの店を手伝っている間に雑談で話題に上げた時には、ヤザラは熱くなる頬を両手で抑えながら褒め讃えていたのだ。

 かぐや姫に出会ったと言ったら娘は喜んでくれるだろう。帰れたとしても、月で起きた出来事を話すことは許されていないが。

「ガリバーの目的地はコッチ」

 ヨミョウの指がバイクに向いた。岩の上から屋敷が見えないかと飛び跳ねていたガリバーは、ため息をついてから振り返る。

「ホバーバイクか?」

「磁力で少しだけ浮けるノ。これでアカルメイナスの大気ドームを出て、月の裏側に行くワ」

 シートを手で叩いた後、彼女はガリバーが胸に抱える服を指さした。

「さっき渡した服の出番ヨ。服の上からで大丈夫」

 ズボンに足を入れながら説明するヨミョウを真似てガリバーも着用する。着てみるといくらか余分な布があったが、胸元のボタンを押すと空気が抜けて身体にピッタリのサイズになった。

 手まで隠れた腕を回してみる。宇宙服とは思えないほど軽く、動きやすい。可動域は狭まるものの、冬場に手袋を付けた感覚と変わらない。黄色い布地の上着にはいくつか小さな機械が付いていた。正方形のボックスに、三日月が彫刻されている。

「ああ、コレもあッタ」

「俺のか!?」

 ヨミョウが取り出したものを見てガリバーは声を上げた。ヨミョウが開発したバングルだ。

「タグレ渡さなくていいって言われたケド、喜ぶと思って作ったノヨ。今日はソレが必要ダシ。余った部品で作ったから機能は少ないワ」

「嬉しいさ! ありがとう!」

 虹を見つけた子供のような笑顔でガリバーは手に取り、空に掲げた。むき出しの配線が取りつけられた銀色のリングが太陽の光を反射して煌めく。フンス、とヨミョウの鼻が鳴る音が聞こえた。たしかに彼女の言う通り、兎人たちが身につけているバングルとは違って手作り感満載の見た目だ。配線は外に飛び出しているし、部品を隠そうとしているカバーもツギハギ模様を作っている。それでもガリバーは頬を紅潮させていた。今すぐにでもヨミョウを抱きしめたい気分だった。

 宇宙服の上からバングルを嵌める。ブゥン、と低い音が鳴り、縁に沿って取り付けられた一本の線がぼんやりとしたレモン色の光を纏った。

「こうヨ」

 ヨミョウが自身の腕輪を指でなぞる。ガリバーも彼女の動作を真似て指でなぞった。バングルの光の線から繋がるように宇宙服の腕に光が流れ、角ばった模様を描きながら駆けあがってくる。光は首元にたどり着き、高い襟に隠れたリング状のパーツが輝いた。

 音が一段階遠くなった気がしてガリバーは眉をひそめた。耳に触れようと頭に手を伸ばす。触れることができない。いや、耳は指の形をした感触を覚えているが、しかしその感触は、彼の手を覆う手袋の感触ではないのだ。

「聞こエル?」

 ヨミョウの声が響いた。つい数十秒前に話していたときよりも近く聞こえる。

「ああ、聞こえる」

 ヨミョウがガリバーの頭に触れる。彼女が頬を押した瞬間、僅かに視界に虹色のノイズが走った。目を細めてじっと空中を見つめる。今度は手袋を外した自分の手で頭に触り、ようやく違和感の正体を理解した。見えないほどに薄いバリアが彼の頭を覆っていた。

「これがヘルメット代わりか」

「呼吸も心配しなくていいワ。圧縮された酸素が胸元のパネルに入ってるカラ」

「こんな薄いパネルに?」

「大きいタンクなんて必要ないノヨ。大丈夫そうだし、出発しまショウ」

 バイクに跨ったヨミョウはシートの後方を叩いた。乗れと言っているようだ。ペタペタと宇宙服を撫でていたガリバーは彼女に従った。乗り心地はバイクと一緒だ。

「しっかり掴まッテ」

 一瞬躊躇して、ヨミョウの腰に手を回した。彼女の身体にはできるだけ触れないようにする。

「もっとヨ」

 身体の前に来たガリバーの手に触れ、ヨミョウが声をかけた。

「もっと?」

「ホラ」

 グイ、と力強く引っ張られ、彼はヨミョウの背中に顔をぶつける。彼女は構わずに両手でガリバーの腕を反対側に送った。身体をピタリと密着させて抱きしめる体勢だ。

 まず頭に浮かんだのは妻の顔だった。次に、長いこと言葉を交わしていない母のしかめ顔。ジェシカと男女の付き合いを始めてから、彼女以外の女性を抱きしめるなんて不貞な真似はしてこなかった。ヨミョウの華奢な体にしがみつきながら、罪悪感が胸を刺す痛みを感じる。それに、自分の半分ほどしか生きていない少女を抱きしめるなんてことは――。

 ふと、疑問が頭をよぎった。

 こんなに強く掴まらなきゃいけないのか?

 顔を上げた彼の視界に灰色の月面が映る。

 ハンドルの間に設置されたコンソールのボタンをヨミョウが押した。モーターの駆動音が足から響く。細かな振動と共に足元の円盤が熱を帯び、車体が音もなく宙に浮いた。

「本当に――」

「行くワヨ」

 言葉を遮られたガリバーが食いしばった歯を、ヨミョウが目にすることはなかった。彼女が両手に持ったハンドルを前方に倒した瞬間、アカルメイナスの町は視界の端に消え去った。

 月のうさぎと地球の宇宙飛行士を乗せたホバーバイクが灰色の月面を駆けていく。轍を残すことも土埃を舞わせることもなく、高速の車体が月面を突っ切っていた。岩が、クレーターが、崖が視界に現れては一瞬で消えていく。一秒前に真横を通りすぎた岩がどんな形をしていたかすら分かりはしない。振り返っても地平線の彼方だ。

 ガリバーは目を見開き、そして笑った。高らかに声を上げ、うさぎの耳が生えた月の住民を、バイクが走り出す前よりも強く抱きしめて笑い続けていた。

「楽シイ?」

「怖い!」

 アドレナリンが体内を駆け巡っている。目をカッと開いたガリバーが答えた。心臓が激しく脈を打ち、ヨミョウの身体に回した腕を強く締めさせる。

 どれだけ速く駆けたとしても、空気が存在しない月の上では風を感じることはなかった。灰色の景色が流れていくばかりで、他にスピードを感じさせるものは無い。味わったことのない奇妙な感覚に鳥肌が立つ。跨っている乗り物が高速で走っていることを頭で理解していても、感覚はついてこなかった。ハンドルが狂ったらどうなってしまうのか。想像できず、身震いする。

 盛り上がった地面が目の前に迫るが、ヨミョウはスピードを落とさない。頂点を越えた瞬間にふわりと体が浮き、どこまでも星空の彼方へ飛んで行ってしまうような感覚に陥る。大して高さは無かったのに、いつまで経っても着地しない。月面が恋しくなった。今までとは違う気持ちで。

 数秒間の浮遊が終わり、再び地面に沿って走り始めた。落下の勢いで車体の円盤が残り数センチの位置まで地面に近づいたが、ギリギリ擦らずに済んだ。終始を眺めつづけていたガリバーは、深く息を吐いた後にヨミョウの背中に顔を押し付ける。頭を覆うバリアの中に生暖かい吐息が満ちて、首筋に不快感を覚えた。

「ありがとう。ヨミョウ、ありがとう」

「可哀想ニ。怖くておかしくなったノネ」

「おかしくなったかもしれない」

 ガリバーは顔を上げた。何度か呼吸をして、最後に細く長い息を吐く。

 ハンドルを握る月のうさぎを信じて、彼は前を向いた。車体の下で熱を上げる円盤。一瞬で真横を通りすぎる岩。その先に広がる灰色の大地。

 月面は、どこまでも広がっていた。生命の欠片もない静寂の世界。地球から見上げて想像していた月の姿は、想像していた通りの姿でそこにあり、恐ろしく、美しい。一度死にかけたこの場所は、しかしそれでも、ガリバーの胸に限りない熱をくれた。星空に浮かぶ地球が彼を見下ろしている。

「ヨミョウが助けてくれなかったら、俺の人生はこの景色を見ずに終わってたんだ。君は恩人だ」

「何度も聞いたワ」

「何度だって言いたいんだよ」

 ヨミョウがハンドルを引き、バイクの速度を落とした。一瞬で過ぎ去っていた岩やクレーターを観察できる速度になる。ヨミョウはガリバーと共に視界を流れていく月面を眺めていた。

「ソンナにこの景色が好きなノネ」

「ああ」

 視界いっぱいに黒色と灰色を満たして彼は言う。

「子供の頃に、ワシントンにあるスミソニアン航空宇宙博物館に行ったんだ」

「ワシントン?」

「故郷の国の首都だ。大西洋側にある……大西洋もダメだな。まあ、アメリカにある町の一つと思ってくれればそれでいい。ヨミョウは月面に立っている旗を見たことがあるか?」

「もちロン。何度も見たワ」

 力強い声で答えが返って来た。ガリバーがニッと笑みを浮かべる。

「あの旗を建てた国をまとめるお偉方がいる街さ」

 ヨミョウの視線がガリバーへ移った。スピードは緩んだまま、意識をガリバーへ向けている。

 ガリバーは話を続けた。

「あの旗を立てに来た宇宙飛行士たちがアメリカにいた。アポロ計画と呼ばれる大いなる事業だ。スミソニアン博物館には、彼らが乗っていた宇宙船や、彼らが持ち帰った月の石が展示されていた」

 唐突にヨミョウの顔を覆うバリアに赤い画面がポップした。前を向くと、正面に直径三メートルほどの岩が転がっていた。軽くハンドルを捻ってひょいと避ける。

「続けて」

 前を見たまま彼女は言った。咳ばらいをしてからガリバーは口を開く。

「当時の俺は、アポロ計画でどんな科学技術が使われていてどんな功績を残したかなんて全く分からなかった。アームストロング船長がどんな人物だったのかも知らなかったし、あまり興味も湧かなかった。でも俺は、月の石と出会った。小さな小さな石だ。その石を、困った親が引き剝がすまでずっと眺めていた」

 あの日の帰り道と同じように、彼は空を見上げた。夢を見つけた日の記憶を追う時は無意識に空を見上げてしまう。しかし今は、頭上には星空が広がっているだけだ。視界の端にチラリと青い惑星が映る。ガリバーは笑って視線を落とした。憧れて、毎日見上げていた月は、彼の足元にあった。

「空に浮かぶ丸くて黄色い星は、どこかに設置されたデカい映写機が映している映像じゃなかったらしい。どれだけ遠いかなんて想像もできないけど、あの場所に立つことができるって知ったんだ。世界が一気に広がった。俺はあの場所に立ちたいと願うようになったんだ。それで、まあ……」

 饒舌だった男の言葉が途切れる。振り向いたヨミョウの視界が、口を開いたまま固まっているガリバーを捉えた。視線は下に向いているが月面ではない場所を見ているようだ。

 丘を越えた拍子に車体が揺れた。ハッと顔を上げたガリバーとヨミョウの視線が交差する。

「まあ、色々あって、俺は仲間たちとここに来た」

「フゥン」

 相槌の主は前方に障害物が無いことを確認してから、ガリバーが見惚れる月面に視線を向ける。何も無い静寂の地。生まれたときからそこにある、見飽きた景色……。

 小さなため息が聞こえた。

「地球の人タチは『月の海』なんて大層な名前付けてるみたいだケド」

 長い耳を途中で折り曲げたうさぎの声が頭部のバリアに流れる。

「見てごらんヨ。ココは何の変哲もない砂利と岩が作った灰色の景色ダワ」

「それでも、俺らにとっちゃ憧れの海なんだよ」

 ガリバーは誇らしげな声で答えた。砂利と岩しかなくたって構わない。この景色の中にたくさんの夢が詰まっている。レゴリス一粒だって夢に見た宝物だ。手を伸ばしたい衝動を抑えて灰色の大地を見つめる。この速度で触れたら手にサヨナラを告げなければいけないのが惜しい。

「ワタシが地球の海を目指すのも同じ気持ちヨ」

 返事は来ないと思っていた。最後の言葉を言い終えてもヨミョウが黙っていたからだ。

 ガリバーは顔を上げ、前に座る少女に目をやる。彼女は前を向いたままだ。姿勢も変わっていない。ハンドルを握り、前方の地形に集中している。

 後ろの男が俯いたことにヨミョウは気付いた。すぐに顔を上げたガリバーは口を開いた。

「わかってるさ。でも、リスクを抱えたまま夢を叶えても楽しめないだろ? 俺も協力できない。仲良くしてもらってるけど、アカルメイナスにとっちゃただの部外者だ。まずは月に協力者を作らないか? みんな地球が好きなんだ。誰かが協力してくれるさ。ルールだって変えられるかもしれない。まずはそこから進めるべきだろう?」

 ヨミョウの返事を待たずに言い切る。耳障りの良い言葉を並べているだけなのは自分でも分かっていた。これ以外の答えは思いつかなかった。

「そんなのイツになるのカ……」

 少女の声はか細い。自分に向けた言葉ではないことはガリバーにも分かった。言い訳を重ねたくても言うべき言葉が出てこなかった。視界の端に消えていく景色の速度が上がっていた。

「影に入るワ」

 ヨミョウの声が静寂を破った。口を閉ざして、ぼんやりとした瞳で景色を眺めていたガリバーがバイクの前方に視線を移す。地面が灰色から黒色に塗り替わろうとしている。

 背後に感じる熱が途切れた。太陽の強い光は地平線の向こうに消え、代わりに星空の存在感が増していた。地平線から漏れる光のおかげで周囲の地面はまだ見えていたが、すぐに闇が訪れるだろう。段々と暗くなっていく。ガリバーは再びヨミョウの腰に強く抱き着く。

「ガリバーが見たがってた星空ヨ」

 ヨミョウの言葉にガリバーは上を向いた。満天の星空が広がっている。しばらく眺めていたが、彼はすぐに顔を下ろした。

「反応薄いワネ」

「しょうがないだろ」

 たしかに月の裏側から見上げる星空は、地球上で見たどんな星空よりも美しかった。ヘルメットも建物も、遮るものなど存在せず、視界の全てで星が煌めいている。夜空を照らしてしまう明かりなど一つも無い世界。アカルメイナスでも、ここまでの星空は見られなかった。星座に詳しければいくらでも見つけられるだろう。それとも、星が多すぎて一つも星座を結べないかもしれない。

 この景色を見れば、きっと誰もがこの瞬間を思い出に刻んで、過ぎていく時間の中で何度も反芻することだろう。だがガリバーは、心に刻むことはできなかった。ヨミョウはすっかり速度を戻し、フルスロットルでバイクを走らせている。見える光はコンソールが宙に映し出しているマップだけだ。他は何も見えない。山も、崖も、岩も、何もかも。

 恐ろしい。

 並走車はいない。対向車もいない。街灯もなければ道もない。拙い星々の明かりは月面を照らしてくれない。バイクはライトを点けていなかった。もしかしたら、元々搭載されていなかったかもしれない。

 車体が僅かに左へ曲がった。岩か何かを避けたのだろう。障害物は観測できるらしく、激しく脈を打つ胸の痛みがいくらか軽くなる。障害物を避けているのはヨミョウなのか、それともバイクを制御するコンピュータなのか。気になっていたが聞かなかった。求める答えが返ってこなかった時のことを考えたくはなかった。彼女を信じるしかなかった。

「見えタ」

 ヨミョウの声の後に、ホバーバイクの速度がゆるんで止まった。出発した頃の興奮はすっかり消え去り、ヨミョウの言葉を理解するまで時間を要した。

「アレがウェラ・イーの秘密研究所ヨ」

 ヨミョウは腕を伸ばして何かを指しているようだったが暗くて見えない。宙に投影されたスクリーンの光を反射するヨミョウの顔を確認してから、彼女の視線を追った。指を向けているであろう方向に目を凝らしてみる。研究所と呼べるような建物は見えなかった。下半分が隠れた星空だけだ。

「なにも見えない」

「あの山の間に建っテル」

 彼女の言う通り、山の形に星空が削れている部分が二つある。だが山の間には他と同じ星空が広がるばかりだ。

「何もないぞ?」

「ワタシの言葉を信じて見るノ。アソコに研究所があるッテ」

「何もないじゃないか」

「あるノヨ」

 唇を尖らせて、ガリバーはもう一度ヨミョウが指す方向を見た。やはり何も無い。月の裏側と星の煌めきだけ。

 ヨミョウはここまで話のできない兎人じゃなかったはずだ。別の星に住む宇宙人とはいえ、言葉は通じるし、食事をしながら日々の生活で起きる些細な出来事だって言い合える。

 ガリバーは目を閉じ、開いた。山の影と星以外に必ず何かがある。夢を叶えたいと言い続けているのに、月の裏側まで来て無駄なことをする少女じゃない。彼女の言う通り、彼女の言葉を信じよう。あの山の間に、ウェラ・イーの秘密研究所がある。

 瞼を開いて闇を見る。星空が揺らいだ気がした。瞳が乾いて瞬きをする。視界が戻り、ドーム状の白い建物が現れた。

「出てきた」

 目を擦ろうとしたがバリアに邪魔される。ぎゅっと目を瞑って、今度はゆっくりと開く。半円型の建物が視界に映る。数秒前まで見えていなかったのに。二つの低い山の間に建つ建物の壁は白く発光していた。月に建つ人工物。子供の頃に少年向けの雑誌で読んだ近未来予想図のような光景。

「アカルメイナスを地球から隠しているのもアノ技術ヨ。光に特別な波長を混ぜれば、知っている人には見えて、知らない人の意識からは逸らすコトが出来るノ。説明してもイイけど、今の地球の科学じゃ分からないと思うワ。カグヤ様のお屋敷も似たような状態で隠されてるノヨ。ソレをウェラ・イーが真似したってワケ。カグヤ様のお屋敷の方がすごいから、知ってても近づかないと見えないケドネ」

「見ようとしないと見れないってことか」

「そういうコト。もちろんカメラみたいなレンズへの対策もあるワ」

 地球からアカルメイナスが一切見えないことは不思議に思っていた。光学迷彩が使われていると予想していたが、もっと別の次元の技術が使われているらしい。言いたいことは分かったものの、ここでそれ以上の説明を求めようとは思わなかった。恐らく、時間がかかって後回しにされる。

「周りの光は?」ガリバーが尋ねる。

「周りのッテ? 研究所以外の光?」

「ああ。あれが隠してたのか? ……いや? アカルメイナスの空は透明だったな」

 ヨミョウがバイクを飛び降りた。腕のバングルを操作し、正面にスクリーンを投影する。景色を拡大した映像が、いつもより僅かに開かれたヨミョウの瞼を照らし出した。

「バリア……?」

 白に僅かに水色が混ざった光が、ウェラ・イーの秘密研究所を囲んでいる。ヨミョウの画面に映し出された光に見覚えがあった。マヒルと遊ぶ野球場にあったバリアだ。ボールが外に出るのを防ぐために設置されていたバリアと似た色の壁がある。高さが上がるほど薄くなっている。

 ヨミョウの声に動揺が滲む。

「バリアなんて、前に来た時はなかったワ。建物に近づいたトコロで誰も中には入れないのにどうして――所長ネ」

 声のトーンが一段低くなった。

「タグレが設置したんだワ。ガリバーが月に来た後ニ。ワタシに入らせたくないノヨ」

 スクリーンを投影したままヨミョウが腕を下ろす。顔が影に覆われて見えなくなり、初めて表情が見えたような気がした。眉間に皺が寄り、歯を食いしばり、ここにいない誰かを睨みつけるヨミョウの表情がガリバーの脳裏に浮かぶ。バングルの先にある、強く握られた拳だけが見えた。

 ガリバーもバイクを降り、初めて自らの足で月面に踏み出した。ヨミョウがくれた宇宙服の靴はバイクの前後に取りつけられた円盤と同じ技術が使われているようで、力を入れても地面ではなく空中に抵抗を感じる。元の月面探査ミッションを成功していたとしても素足で触れることは無かったので、地面を踏めなくても大して落胆は無い。それよりも、胸を包む冷たさが気になっていた。

 星空を見上げる。立ち止まって眺める星空は、やはり今まで彼が出会ったどんな空よりも美しかった。地球を飛び立った月探査船の小さな窓から、仲間たちと肩を寄せ合って眺めた星空よりもだ。

 だが、彼の表情は沈んでいた。美しさは今見上げている星空が優れていても、心に残ったのは、仲間たちと眺めたあの星空だ。月の裏側で星を見上げるガリバーの脳裏には、星空以外のノイズが何度もよぎっている。覚悟できていなかった月の裏側の恐怖で、彼は冷静さを取り戻してしまった。

 あのバリアを越えたところで、ヨミョウの未来に幸福はあるのか? ここまで来てしまった俺の未来には? お世話になった人たちに隠れて外に出たことがバレたら、二度と地球には帰れない可能性もあるんじゃないか? 妻と娘には、もう会えないんじゃないか。

 ――リスクを抱えたまま夢を叶えても楽しめない。

 月の表側でヨミョウに言った言葉が蘇る。言い訳がましく口から出た言葉だったが、間違いではなかったらしい。ガリバーは唇を噛んだ。

「諦めよう、ヨミョウ。やっぱり許されていないことはするべきじゃない。侵入が許されていないから、こうして研究所までの道を封じたんだろう? あれは……越えるべきじゃない壁だ」

「嫌、嫌ヨ」

 力強い否定の言葉が大きな音量で発され、ガリバーは顔をしかめた。

「どうしてそこまであの研究所にこだわる?」

「アソコにはウェラ・イーが残した発明品があるノ。一人で地球に行くコトぐらい簡単にできる発明品だって絶対にあるノ。考えても、考えても、ワタシにはできなかったワ。だからアノ研究所にある発明品が必要ヨ」

 ヨミョウは腕を上げてバングルを操作した。スクリーンが投影され、ヨミョウの顔に再び光が差す。赤い瞳は目を逸らすことなく研究所を見ていた。

「何か入る方法がアルワ。絶対ニ」

 ガリバーは口を閉ざした。話しかけることなど許されていなかった。例えそれがガリバーの思い込みだとしても、口を開く勇気はなかった。

「行きまショウ」

 スクリーンを閉じたヨミョウがガリバーへ顔を向ける。

「入れないんだろ?」

「行って考エル」

 ガリバーの横を通り抜けてバイクに近付く。跨る直前で彼女は振り向いた。

「ここまで来て諦めるわけないワヨ。ワタシは地球の海が見たいノ。その夢を叶えられるなら、なんだってスルワ」

 シートに手を当てて身体を上げ、ハンドルを握ってガリバーに視線を送る。

「早く座ッテ。じゃないと置いてく」

「分かったよ」

 ヨミョウは本気だ。ガリバーは諦めてシートに跨り、もう一度ヨミョウに掴まる。次の瞬間にはハンドルが前に倒され、熱を帯びた円盤がホバーバイクを前進させた。

 研究所を目指してバイクが疾走する。相変わらず音はなく光も無かったが、白く光る研究所が見えている分、全くの闇の中を走っている間より不安は薄い。

 数百メートルほど走り、ヨミョウがハンドルを切った。右に流れ、研究所が山の影に隠れる。ガリバーはドームが視界に戻るのを待つ。さらに数百メートル走った。ドームの光は戻らない。

「失敗したらゴメン」

 小さな、小さな声が聞こえた。

「おい? どこへ行くんだ」

 返事はない。嫌な予感がする。

「ヨミョウ?」

「しっかり掴まッテ」

 ヨミョウはハンドルを一気に押し倒した。

 唐突に慣性が身体にかかりガリバーがのけぞった。ヨミョウがハンドルから片手を離して彼の腕を引っ張る。ガリバーはヨミョウの身体をしっかりと掴み直したが、彼の身体は斜めに傾き、星空を向いていた。ヨミョウの身体も一緒に。バイクは急な坂道を駆け上がっている。

 ついにドームの光が見えた。前方ではなく、視界に広がる地面の下から。ドーム本体は見えない。待っているのは星空だけだった。

「おいおいおい待て待て待て」

 ヨミョウが何をしようとしているのか理解したガリバーが叫ぶ。

「そんなの無理だ! 考え直せ! ブレーキ!」

「やってみなきゃ分かんないデショ!」

「失敗したらもう二度と――」

 飛んだ。

 ヨミョウがハンドルを引く。円盤の振動が止まり推力が失われる。弱々しい重力をガリバーは身体に感じていたが、崖から飛び出したバイクは止まらない。無限の彼方に向かって飛んでいく。叫び声を出すこともできない。呼吸をしているかも分からない。心臓の鼓動が耳にはっきりと聞こえる。地面から放たれるバリアも彼女の元までは届かなかった。重力を振り切ったヨミョウを止めるものは、もう何もなかった。

 ヨミョウがハンドルを押した。

 彼女が身体を前に倒した瞬間、車体が月面を向き、加速した。ガリバーが気付くよりも早く円盤が地面を掴み、速度を保ったまま灰色の大地を走り出す。バイクが走る道は白い光に照らされている。ドームの壁はすぐそばにあった。円を描く壁と水色のバリアの間を縫って、ヨミョウが操るバイクが秘密研究所を一周する。ゆっくりとハンドルを引いて減速し、ヨミョウたちを乗せたホバーバイクは巨大な扉の前で停止した。

「着いたワネ」

 そう言って、ヨミョウは長い息を吐いた。固まっていた肩から力を抜いてぐるりと回す。

 背中に体温を感じていたが返事がない。

「大丈夫? また死んじゃッタ?」

 腹部に回されたままの腕を叩きながら問いかける。十秒ほど経ってから、力強く握られていた腕が離れた。ヨミョウが振り返ると、呆然と口と目を開いたガリバーの顔が視界に入った。彼は弱々しく足を上げてバイクを降り、俯いたまま月面に膝をつく。ヨミョウも地面に降りた。結んだ両手を頭上に上げて身体を伸ばす。ガリバーが顔を上げたので、彼に声をかけた。

「生き返ったワネ」

「ふざけるなよ!」

 耳をつんざくような声が響いた。ヨミョウは思わず後ずさり、睨みつけてくる男と距離を取る。慎重に口を開いた。

「直上に伸びるタイプのバリアは高サが出せないノヨ。地球から飛んできた船なんかとぶつかったら一大事ダワ。だからジャンプすれば越えられるノ。ガリバーに相談するより先に行動しちゃった方がイイって、最近分かってきたノヨ。生きて越えられたから問題ないデショ?」

「そういうことじゃない!」

 二度目の怒号。ヨミョウの身体が硬直する。

 閉じた白い耳に気付いて、彼は三度目の声を止めた。彼女の表情が変わらなくても、彼女が抱いた感情を察した。

 脳裏に両親の顔が浮かんだ。子供の頃の記憶も。

 子供を怖がらせるような大人になってはダメだ。家を出たときにそう誓っただろう。

 ぎゅっと目をつぶり、瞼の裏に月面を描いた。心を煩わせるものは何もない静寂の海に自分の意識を三秒沈める。さん、に、いち。

 深く息を吐き出して、ガリバーはヨミョウを見つめた。初めてガリバーから受けた怒声に怯えた赤い瞳が見つめ返してくる。彼は口を開き、言葉に重みをこめながらも柔らかな声色で語りかけようとした。口から出た声に怒りが残っていることには気付けなかった。

「ヨミョウはまだ若いんだ。月のうさぎたちの寿命は人間と変わらないって聞いたんだよ。人生はまだ長いのに、なんでこんなことをする? ヨミョウは将来も期待されてるんだろ? ヤザラもマヒルも、君のことを知ってるやつはみんな君のことを褒めていたんだ。彼女は優秀だから、きっといつか月の科学史に名を刻む発明をするって」

 赤い瞳がじっと見つめてくる。深呼吸をして、胸に手を当てて鼓動が本来の速さに戻りつつあることを確認してから言葉を続ける。

「こんなところで町のルールに違反するようなことをして、将来の道を閉ざすなんて間違ってる。これから先に、ヨミョウ自身の手で夢を叶えられる発明をすればいいじゃないか。地球でも宇宙開発は進んでいるんだ。そのうちアカルメイナスを見つけて、地球と月で交流する未来が絶対に来る」

「イツになるか、ガリバーは知らないデショ」

 ヨミョウが口を開いた。

「それに、ルールが大事って言うなら、ガリバーは町の外に出ちゃダメなノヨ。私の誘いに乗ったデショ、ルール違反と知りながラ。ワタシに怒る資格は無いワ」

「それは……」

「言ってるコトとやってるコトがめちゃくちゃヨ、ガリバー」

 ガリバーの唇が一文字に結ばれる。ヨミョウは彼の瞳を見つめ続けていた。目を逸らす素振りも見せずに。

 男は視線を逸らした。拳を握りしめて。

「とにかく、ドアは開けない。このまま帰るぞ」

「帰れないワヨ」

 ヨミョウが研究所を取り囲むバリアへ近付きながら言った。

「このバリアは旧型ナノ。設置は簡単だけど内外の概念は無いノヨ。外からは入れないし、中からは出られナイ。解除には鍵が必要ダワ。鍵を管理しているのはもちろんタグレ」

 ガリバーはもう一度ヨミョウを見た。彼女の手がバリアに触れている。外に出ていくことはない。彼も彼女の隣に立ってバリアに触れた。向こう側が透けて見えるほど薄いのに堅い。どれだけ押しても出れそうにない。

「ヨミョウも帰れないじゃないか」

 口をぽかんと開けてヨミョウに視線を送る。

「心配しないで、出る方法はあるワ。ウェラ・イーが残してくれたアイテムを使うノヨ」

 少女の指が扉をさした。

「中に入ってネ」

 歩き始めたヨミョウを追い、ガリバーは扉に近付いた。ウェラ・イーの秘密研究所は、遠くから見たときよりも存在感を放っていた。想像していたサイズの数倍ある。入り口の扉でさえ二十メートルはあるだろう。ヨミョウが近付いた操作盤はちょうど人間が操作できる程度の大きさだった。扉と比べると違和感を覚えるほどに小さい。操作盤にはパネルが二枚はめ込まれていた。

「手ヲ」

 ヨミョウが手を置いた。はめ込まれたパネルが白く光る。彼女に倣ってガリバーも手を置く。パネルが赤色に光った。

 操作盤が揺れた気がしてガリバーは手を引いた。ヨミョウとガリバーは同じタイミングで後ろを振り向く。巨大な扉が横にスライドして開きつつある。研究所が二人を招き入れようとしていた。

「ヤッタ」

 ヨミョウの小さな歓声が聞こえ、彼女は歩き出した。

 彼女の背中を見る男の額には皺が寄っていた。これが映画だったら、主人公たちは中に何の財宝が眠っているのか賭けながら足を踏みいれて、劇場のスピーカーから盛り上がる音楽が流れていたのだろう。けれど、声をかける気はなかった。ヨミョウも黙って先を歩いている。月の裏側に眠る秘密の研究所を開いた二人がお互いにかける言葉は一つも無い。

 暗い廊下が伸び、少し先にまばらな光が見える。ガリバーはヨミョウの横に並んだ。バリアの水色の光が後ろから差し、ヨミョウの表情は影になって見えなかった。口を閉ざしたまま、二人は廊下の先の光を目指した。背後から振動が届き、水色の光が途絶えた。

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