第2話『アカルメイナス』
「地球のオジサーン! 野球しようヨ!」
ガリバーが寝ていたハンモックの支柱はガタガタと音を鳴らしたが、バランスを崩して倒れるような悲劇は起こらなかった。代わりに揺れる布の上から転げ落ちたガリバーは、ヨミョウが住む家の屋上の冷たい床に両手をついて立ち上がり、縁へ歩きながら眉間に皺を寄せる。
今なんて言った?
「アッ、やっぱりいた」
顔だけ出して玄関の方を見下ろす。その場でガリバーを見上げていたのは一人ではなく十数人のグループだった。ヨミョウより幼い、まだ小学校に通っていそうな外見の子どもたちの集団だ。集まった彼らはガリバーを見上げながらヒソヒソと話している。
「野球って言ったか?」
声の主が誰だか分からない。とりあえず、ガリバーは全員に向けて聞いてみる。
「言ッタ! 知ってるよネ?」
子供たちが作る円の先頭に立つ少年が答えた。短い黒い髪はガリバーが家族と住む家の近所を走り回る子供と変わらず、しかし頭の上には一組の白い耳が生えている。
「知ってるが……」
少年が掲げた左手は茶色のグローブに隠され、右手には白いボールが握られていた。地球への帰還を望む寝ぼけ頭が聞き間違えたわけではないようだ。たまたま月で同じ言葉が別の意味で使われているわけでもない。あのうさぎの耳が生えた少年たちは、野球をしようと地球人を誘っている。
「ちょっと待ってろ!」
声を上げたガリバーは、ヨミョウから借りたハンモックをそのままにして家の中へ戻った。
不慮の事故でガリバーが月に落下してから、すでに三日が過ぎていた。月での生活はまだ慣れる途中という段階だが、途方に暮れるほど果てしない星空の下で恐怖と孤独に襲われ、身体を縮こまらせて身動きが取れなくなるようなことはもう無い。真空の衛星に墜落してボロボロだったはずの身体は、あの病院で施された治療のおかげですっかり元の調子を取り戻し、むしろ地球にいた頃より健康体になった気がするほどに回復している。一番不安だった故郷への帰還についてもヨミョウから聞くことができた。月のうさぎたちがどんな計画を立ててどんなロケットを設計しているのか知らないが、地球へ帰れることは間違いないらしい。
懸念は……無いとは言えないまでも、帰還という大きな問題はあっさりと解決した。あとは時間が経つのを待つだけだ。月の都で生活するために必要な基本的な物事を教わった彼は、まずは心を整理しようと今日を休息日としていた。月の都のことは気になるが、灰色の大地に着陸船ごと叩き付けられてからまだ三日だ。適切な休息が重要であることは空軍時代に身に染みている。それに、今日は日曜日だ。少なくとも地球上では。
借りている寝室のドアを開ける。用途の分からない機械だらけの部屋を進み、彼のために用意されたベッドの横にある衣装箱に手を伸ばした。月の服は非常にシンプルな見た目だ。小さな星の中にある資源しか調達出来ないからなのか、単にファッションへの興味が薄い種族なのか。まだ確信に至るまで文化を理解していないが、月の都の景色を見ていると、どちらの推測も誤りではない気がする。
ヨミョウから貰った長袖のシャツとズボンを身に纏う。見た目こそ、どこにでも売っていそうなシルバーグレーのTシャツだが、肌触りは滑らかな生地だ。水に濡らしても染み込まずに流れていく。汚れないから便利デショ、とヨミョウは言っていた。強度も高い。ヨミョウにハサミを渡されたので切ってみようとしたが、刃は一切通らなかった。何より、重量が無いと言ってもいいほど軽い。軽すぎて、何も着ていないように感じて落ち着かなかった。
ヨミョウのように工具でもぶら下げたいと思いながら、なるべく機械に触れないように物置部屋を出ていく。一階に降りた彼を迎えるのは灯りが消えたリビングだ。キッチンにテーブルにソファー。それに加えて、空中に映像を投影する未来のプロジェクター。誰も物音を発していない。ここにいるのは彼だけだ。ヨミョウは留守にしている。
「お待たせ」
「ワーイ!」
玄関ドアを閉め終わる前に子どもたちが駆け寄って来た。
「オジサンって地球から来たんデショ? どうやって来たノ!?」
「野球好キ?」
「本当に耳が無イ……!」
「わっ、落ち着け!」
ほぼ全員の声が一斉に広がった。背後で閉じたドアまでガリバーは後ずさるが、子供たちはその分だけ距離を詰める。紅潮した頬と前のめりになった身体。出発前のイベントで子供たちに囲まれた時も、ここまでのプレッシャーは感じなかった。ざっと数えて二十人弱。四十近いうさぎの耳がガリバーの視界で揺れる。
「ミンナ静かニ!」
一際大きな声が響いたかと思うと、子供たちは立ち止まり、グローブを持っていた黒髪の少年へ視線が集まった。子どもたちはまだワイワイと喋り続けている。ただ、言葉はガリバーではなくお互いを向いていた。声を上げた少年がガリバーに近づくと、他の子どもたちは一歩後ろに下がった。
「ごめんオジサン。話せるのが嬉しくテ」
浮かべる表情は他の子供たちと同じだが、彼は自制が効くようだ。目を爛々と輝かせながらも質問をまくしたてるようなことは無かった。
「ありがとう……助かったよ」
ガリバーは大きく息を吐き出す。押しつぶされるかと思った。
「オレ、マヒル! よろシク!」
「俺はガリバーだ、よろしく」
ガリバーが手を差し出すと、マヒルと名乗った少年はキョトンと目を丸くした後、グローブを外した両手で握り返して上下に何度も振った。
マヒルは他の子どもたちより年上のようだ。ミドルスクールに入学して一年目か、もしくはもうすぐ入学を控える身か。地球で見る子供と同じ見た目で成長するならそのぐらいの年頃に見える。他の子どもたちより背が高く、彼と同世代のうさぎは三、四人程度だ。きっと彼がこのグループのリーダーなのだろう。ところどころハネたショートの黒髪に、パッチリとした丸い赤目。幼さと成長期らしく溢れ出る元気を感じるが、大人びた表情と忍耐も覗く、印象の良い少年だった。
ガリバーと握手を交わした手には、病院にいた女性が使っていた銀色のバングルが装着されていた。よく見ると、周りの子供たちも同じバングルを身につけている。ヨミョウも同じバングルを持っていたはずだ。月の住民の標準装備なのだろうか?
マヒルが手を離したあと、ガリバーは彼が脇に抱えたグローブに視線を向けた。
「それで……野球をするって言ったか?」
「ソウ、野球!」
白いボールをガリバーへ差し出しながらマヒルが答える。ガリバーが受け取ろうとすると、少年は背負った鞄の中から更にもう一つグローブを取り出して彼に渡した。感触に違和感を覚え、ガリバーはまじまじと観察し始める。革ではない素材で作られているようだ。縫い目もおかしい。細かく見るとガリバーが知っているグローブと異なる箇所がある。ボールも赤い縫い目のような糸はあるが、何らかの理由がある縫い跡というより、形を真似て作ろうとして生み出された模様だ。
奇妙な気分だった。目の前にあるものは知っている見た目なのに、決定的に違っている。しかしそれは、疑いようもなく、ガリバーが知っているスポーツをするための道具であった。
「本当に野球なんだな……」
ボソリと呟く。マヒルの耳には届いたようで、彼は口角を思いきり上げて三回ほど頷いた。
「どこでやるんだ?」ガリバーが尋ねる。
「野球場! 一緒に行コウ!」
「わかったわかった」
ガリバーの返事を待つことなく、マヒルは彼の手を掴んで引っ張っていこうとする。子供たちも彼を囲んだ。ガリバーはマヒルの手に逆らわず歩き出す。今日は休むつもりだったけど、まあいいだろう。この機会を逃すなんてもったいない。
数歩歩いたところで、ふとマヒルが立ち止まった。彼の背後にある家を見上げる。
「そういえば、ヨミョウ姉ちゃんハ?」
赤い瞳がガリバーへ向けられる。周囲の子供たちも、一人で出てきた彼をじっと見つめた。ガリバーはわずかに顔をしかめて唇を結び、それから笑顔を作って口を開く。
「仕事中だよ。行こう」
マヒルは眉をひそめたが、ガリバーに背中を押されてそれ以上何も聞くことはできなかった。振り向かないようにしながら、ガリバーは彼らが言う野球場へ早足で向かった。
☽
「私を地球へ連れていってヨ」
地球が見えるクレーターの丘でヨミョウの願いを聞いた時、最初にガリバーの頭に浮かんだのはケープカナラベルの景色だった。東側に広がる大西洋と、空軍基地を囲む林。遠くに集まるマスメディアやファンたちと、天に向かってそびえ立つロケット。憧れの月を訪れる前、最後に見た景色。
「ダメだ」
「ナンデ」
少女の表情はほとんど動かないが、負の感情は比較的顔に出やすいらしい。ヒクリと眉が動いたかと思えば、眉間にはかすかに皺が寄る。
「ロケットに乗る手伝イをしてくれればいいノ」
声に力がこもっていた。瞳は、やはり変わらない赤色を向けてきていたが、奥底に影が差し始めているように見える。
「どうして俺に頼む? ロケットを作るのは難しいことじゃないんだろ?」
「ソレハ……」
ガリバーの質問にヨミョウは言葉を濁した。質問続きだった口が不意に閉じられる。
理由を考えるのは難しくなかった。いいぞ、頭が回るようになってきた。
「地球から来た人間との関わりを禁じられているのか? 地球に行くことが許されていないのか」
視線が逸れたのは後者の言葉を口にした時だ。
「ダメだ、ダメダメ。俺は手伝わないぞ。月からウサギの耳が生えた人間を連れて帰ったなんて言ったら騒ぎになる。運が良ければ俺は英雄かもしれないが、君はそうじゃないだろう。宇宙人だぞ? オカルトマニアも真面目な研究者も追いかけ続けてきた本物の宇宙人だ。何十年も前に撮影されたロズウェルの写真とはわけが違う。今は誰もがカメラ持って映像を世界に配信できる時代になったんだ。君の自由なんて無くなる。だからダメだ」
「耳は隠す方法があるカラ……」
「じゃあ何で一人で地球に行かないんだ?」
少女の顔が俯いた。瞳も見えなくなる。
「……一人じゃロケットなんて作れないし、地球に行くコトは許されていないカラ」
「ダメなんだろ?」
ヨミョウの口がまた閉じられた。
「それに、この……アカルメイナスだったよな? この町で禁じられている行動に手を貸したなんて知られたら、俺が帰れなくなるかもしれないだろ」
「帰れるワ」俯いたままの少女が答える。
「目を合わせて言ってみてくれ」
ヨミョウは顔を上げたが、ガリバーの青い瞳と視線を交わすとすぐに目を逸らしてしまった。結んだ唇を尖らせている。
ため息がガリバーの口から漏れた。胸に手を当て、鼓動が収まるのを待つ。感情的になってはいけない。彼女が抱く想いは痛いほど理解できる。
彼は可能な限り優しい声色を作り、ヨミョウに語りかけた。
「頭ごなしに否定しているわけじゃないんだ、ヨミョウ。俺を助けてくれて感謝してる。お礼だってしたい。でも、俺は家に帰りたいし、恩人の君を危険に晒したくないんだ。分かってくれないか。他のことならなんだって手伝うから」
声は返ってこない。うさぎの少女は耳が生えた頭を俯かせたままだ。
「な?」
もう一押しする。これ以上、この場でできることは思いつかなかった。
月の静寂を知るには充分な時間が過ぎた。
「ワカッタ」
力なく頷いた彼女はガリバーを視界から遠ざけながら、地球へ向けていた望遠鏡を片付けていく。ガリバーも言葉をかけることができない。
それから二日の間、彼女がこの願いに触れることはなかった。月の話と地球の話を交互にしながら楽しい時間を過ごしていたが、ガリバーは胸のうちに気まずさを隠すことになった。
☽
「地球ッテ月と何が違うノ?」
「そうだなあ。昼間の空には色がついてるな。地球の空は青くて、白い雲が浮いているんだ」
ガリバーが空を見上げながら答えると、周囲を歩く子供たちも一緒になって空を見上げた。
マヒルが連れていこうとしている野球場までの道のりは予想していたよりも長く、かれこれ十数分歩いていた。ようやく半分ほど近づいたらしい。大人の足には大したことない距離だが、心の方が疲れ始めていた。星空を見上げたついでに、ガリバーは深く息を吐いた。
道中が質問攻めになるのは予想通りだった。月であっても子供という存在は変わらないようだ。好奇心旺盛で、大人も驚くような疑問を投げかけてくることもある。ここにいる子たちは娘とも年が近いだろう。きっと仲良くなれるはずだ。次々と飛んでくる質問を捌いていくのはマヒルの助けがあっても大変だ。何も聞けない子ができないようにしなければいけない。不公平は良くないことだ。楽しいが、想像以上に疲れる。おかげでヨミョウの願いを断り、心が痛んでいたことは忘れることができたことには感謝している。
「あのヒトが地球から来たガリバーさんじゃナイ?」
「そうヨ! 耳が無いモノ!」
子供たちの輪の外側から声が聞こえた。二人の婦人が会話をしながら興味の視線を向けている。手を振ってみると、まるで偶然街角でミュージシャンを見かけたファンのように、胸元に上げた手を小さく振り返してきた。
月に落ちてからの三日間、うさぎの耳が生えた月の住民たち――兎人と呼ぶことにした――と話すうちに、段々と彼らの事が分かってきた。彼らは、自分と同じ人間である。兎人たちの頭には無視できない異物が生えている。だが、それ以外は人間と同じ存在だ。初日こそ、そう思い込むために必死だったが、彼らのことが分かった今は努力せずともそう思うようになっている。
彼らは食事をし、眠り、運動をする。友人と買い物に出かけ、空を見上げて夢を語る。二日目にヨミョウに連れられて町の主要施設や文化を見て回っていた時には、親切な兎人たちに声をかけられ、無事に地球へ帰れると励まされた。彼らの笑顔は未知の文明に対する警戒心を溶かしてくれた。うさぎの耳が生えているだけで、心は人間と変わらない。むしろ、地球人より澄んだ心を持っているかもしれないと思うほどだ。
兎人たちのことを知るにつれて、ヨミョウがどういう人物なのかも分かるようになってきた。出会ってから今まで彼女は少しも喜怒哀楽を顔に浮かべたことがない。声を聞いていれば彼女が人並みに幸福や興味、驚きや苛立ちを抱いていることは分かったが、表情から読み取ることはほとんどできなかった。兎人が皆そんなものなのかと思ったが、そうでもないとすぐに分かった。すれ違う兎人たちはよく笑っている。ヨミョウは特別に表情が薄い。代わりに、地球への憧れは他の兎人たちよりずっと濃いようだが。
「ジタカはさっき質問したダロ。今度はミアミの番ダ」
兎人たちのことを考えている間に、子供たちの間ではちょっとした言い争いがあったらしい。ムスッとした癖毛の少年を、三つ編みを垂らした少女が勝ち誇った表情で見下ろしている。仲裁しているのはマヒルだ。彼は頼りになる。
「マヒルがこのチームのキャプテンかな」
ガリバーは笑みを浮かべてマヒルに言った。
「キャプテンってほどじゃないヨ。ミンナが着いてきてくれるンダ」
「マヒルと一緒だと楽しいカラ! 野球を教えてくれたのもマヒル!」
「へえ」
ガヤガヤと子供たちの声が上がる。全部聞き取れたわけではないが、好意的な言葉しかなさそうだ。マヒルは平静を装い子供たちを静めようとしていたが、耳は赤く染まっていた。
結局、マヒルの努力が叶うことはなく、子供たちは子供たちで話し始めた。肩を落とした少年はガリバーの横に並ぶ。表情に疲労が浮かんでいることにガリバーは気付いた。興奮状態の子供たちをまとめるのは体力も気力もいるはずだ。自分だって、良い年齢の大人になったが、この人数の子供をまとめるには根気がいるだろう。言葉に出すことはないが、出来れば避けたいぐらいだ。マヒルはよくやっている。
「お疲れ」
ガリバーは彼の背中を叩いてやった。マヒルは眉をひそめながら地球人を見上げたが、彼の笑顔を見て、ふっと表情を軽くした。
子供たちの話し声を背に、大通りを越え、地元の住民しか使わない程度の道幅をした路地へ入る。店が無くなり住宅街のような静けさに包まれた一画をさらに進み、三つほど交差点を越えたところで、マヒルは前方に見える木々が生えた空間を指さした。
「あそこだヨ」
そこは公園としか言いようがなかった。ガリバーたちが歩いてきた石畳の道とは異なり、茶色の土がその区画に敷き詰められている。短い芝生が生える中に草が刈られた道が延び、その道に沿って並ぶ木々がミルク色の住宅街と空間を隔てていた。ランニングをしている男女も、木の下でピクニックをしている家族も、ガリバーを見つけると彼に笑いかけて手を振った。
ガリバーは緑色のアーチをくぐった先で、前方に広がる光景を見つめて立ち止まった。茶色の土で満たされた広場に数本の白い直線が引かれ、交点には四角い板が置かれている。黒線が作り出したひし形の中央は他よりも砂が積まれて盛り上がっていた。どう見ても野球場だ。あまりに精巧な。
「世紀の大発見だな」
ガリバーは笑っていた。まだまだ月は知らないことばかりだ。そろそろ驚くことにも慣れてきていた分、笑うしかなくなっている。地球のレベルから遥かに進んだ超技術を目にするより、地球と変わらない景色を月で目にする方が混乱すると初めて知った。光の速さでたった一秒で行けるお隣さんでも野球が流行っているようだ。
屈んで土に握ってみる。彼が知る地球の土と感触は似ていたが、サイズが均一の粒で構成されていた。この土も月で作ったのだろう。一体どうやって……。
「ヤザラさんダ!」
ガリバーとマヒルの後について歩いていた子供たちから歓声を上がった。土を片手に野球場を眺めていたガリバーと、彼の横に立っていたマヒルを追い抜き、三塁側にあるベンチへ駆けていく。カゴを抱えた女性が一人、ベンチに腰かけていた。髪を腰まで伸ばした女性は子供たちが囲むとニコリと笑い、カゴから何かを取り出して渡し始めた。
「あの人は?」
「ヤザラだヨ」
ちょうどマヒルが彼女の名前を口にしたタイミングで、ヤザラと呼ばれた女性が顔を上げた。周りにいる子どもたちが二人を指さすと、彼女は赤い瞳をガリバーたちへ向けた。マヒルが手を振る。手を振り返した彼女は子どもたちにカゴを渡し、広場の入口にいる二人へ早足で寄って来た。
ガリバーの前で立ち止まった女性は、すぐには口を開かず胸に手を当てていた。口角は上がり頬は紅潮している。緊張が手に取るように分かり、ガリバーも話しかけられずに口をギュッと結ぶ。彼女は深呼吸を二、三度繰り返してから、ついに声を出した。
「あなたがガリバーさんね」
「ガリバーです。初めまして、ヤザラさんですね?」
「あらあらあら!」
ガリバーが名前を呼ぶと、ヤザラの声がうわずった。さらに紅く染まった頬を手で触れ、一秒と経たずに下ろす。
「ヤザラよ! モルト通りで焼き菓子のお店を開いているの!」
差し出された手を握り返す。柔らかい手だ、そして熱を帯びている。熱くなっているのは頬だけではないようだ。
ヤザラは美しい女性だった。ガリバーの視線が彼女の前で上下する。年齢は同じか、少し上だろう。彼女の全身からは緊張と興奮が溢れ出していたが、最初に遠目で見た彼女からは艶やかで、しかし儚げなオーラも帯びていた。右肩から前に垂らしている黒髪には光の当たり具合でワインレッドが混ざり、目尻が下がった切れ長の赤い瞳は柔らかな笑みを届けている。スタイルも良い。視線の高さが変わらないほど長身だ。ワインレッドのトップスの下で、黒いロングスカートが揺れている。もしヒューストンですれ違っていたら、思わず目で追いかけ、妻のビンタが待っていただろう。
頭にはやっぱり、うさぎの耳。
「今朝ね、ずいぶんと楽しそうに町を歩いてるマヒルくんたちを見かけたのよ。話を聞いてみたら、地球から来た人に話しかけてみるって言うものだから、お邪魔しちゃったわ」
ヤザラが恥ずかしげに笑う。
「ヤザラさんもガリバーのコト、気にしてたデショ?」
「私だけじゃないわよ、この町にいる全員が気になっているわ。ほら、あそこにも」
彼女の視線の先には別の兎人がいた。こちらをチラチラと伺っていたが、ガリバーと目が合うなりぎこちない笑顔を浮かべ、そのまま去ってしまった。
「話しかければいいノニ」
ガリバーが言わなかった言葉がマヒルの口から出てきた。彼の耳の間にヤザラの手が乗る。
「勇気がいる行為なのよ。マヒルくんがすごいの。私だって、マヒルくんが作ってくれたチャンスがなかったら、いつお話できるか分からなかったわ」
少し撫でてから手を離して、ヤザラはベンチで話す子供たちへ手招きした。少女が一人、カゴを持ってやってくる。受け取ったヤザラはカゴの中から手のひら大の紙の袋を取り出した。
「よかったらこれ、どうぞ。私が作ったクッキーよ。地球のクッキーとは少し材料が違うと思うけど、お口に合うかしら?」
差し出された袋を開くと、中には三枚のクッキーが入っていた。キツネ色をした丸いクッキーだ、特にデコレーションもされていない。焼いてからそれほど時間が経っていないのか、香ばしい匂いがほのかに漂ってくる。
月の食材か、どんなものなのだろう。すでにヨミョウの家で食事をしているが、料理しているところは見なかったのでどんな食材で作られているのか未だに知らない。ヨミョウが「普通の食材ヨ」とだけ言うので、それを信じて口にしていた。今のところは身体に不調は無い。彼女は出来上がっている料理をテイクアウトして生活していることだけ分かった。
ガリバーは一枚取り出し、鼻に近づけて改めて匂いを嗅いだ。彼の頬がゆるんだ。変な匂いはしないし、むしろ知っている香りしか漂ってこない。クッキーといえば小麦に砂糖、バターにミルクだが、一体どうやって手に入れるのやら。ヨミョウが用意した食事も問題なかったので今回も大丈夫だろうと、彼はそのまま口に運んだ。口の中に、やはりよく知る味が広がる。目を閉じたガリバーはゆっくりと味わってから飲み込んだ。
「うまい」
そう呟くと、ヤザラは一番の笑顔を浮かべた。
「オレの分ハ?」
「残してあるわよ」
「ヤッタ!」
マヒルが同じクッキーをかじる横で、ガリバーも二枚目をかじる。なんのフレーバーも無いシンプルな味だが、ガリバーはそれがありがたかった。今度こそ知っているものだ。
「おいしいよ、地球で食べるのと変わらない味だ。ありがとう、ヤザラ。落ち着く味だよ」
「よかった! 今度は私のお店にも遊びに来てくれると嬉しいわ。他にも色々作っているの」
「もちろん行くさ。遊びというか、菓子のお礼に今度なにか手伝いをさせてくれないか? 時間が持て余すぐらいあるんだ」
この三日間で、いくら憧れの場所でも一ヶ月もあると意外と時間が余りそうだと感じていた。積極的に楽しみを探さなければ勿体ない。一人で出歩くわけにもいかないので、誰かと一緒に行動したいと考えていたところだ。
ヤザラは首を振っている。
「そんなのいいのに。地球の話を聞かせてくれれば、お礼なんてそれで充分よ」
「ヨミョウにも言われたな……」
ふふ、とヤザラが笑った。平静を取り戻してきたようだ。仕草と共に、声の調子も収まる。
「俺も一緒だよ。月の人たちがどんな生活をしているのか知りたいんだ。仕事ついでにお互いの町の話をするってのはどうだ?」
細めた赤い瞳と白い耳が星空を向いた。しばらく考え込んだあと、ヤザラの視線が戻って来た。
「わかったわ。それなら、明日来てくれるかしら? ちょうど食材の仕入れがあるの、整理を手伝ってほしいわ」
「了解」
地球に帰れることが判明して以降、余裕が生まれつつあったガリバーの脳内には、月の文明への疑問が湧き続けていた。今は質問を受けてばかりだが、そろそろこちらからも色々聞きたい。ヤザラの手伝いは時間つぶしにちょうどいい。身体を動かしながら会話もできる。今度は俺が月について知る番だ。楽しみが増えて笑みを浮かべたガリバーは、最後に残ったクッキーをかじった。
クッキーを食べ終わった頃、ずっと早く自分の分を食べきっていたマヒルが話しかけてきた。
「地球の人はみんな野球が得意なノ?」
彼の左はすでにグローブで隠されていた。白いボールを掴んではグローブに投げ、掴んではグローブに投げを繰り返している。パシンパシンと、一定のリズムを刻んでいる。
「皆ではないかな。運動が苦手な人だっている」
「じゃあガリバーは得意?」
「得意か……得意かな。昔は町のジュニアチームに所属していたんだ。結構強かったんだぞ、地区大会でベストスリーに入るのは当たり前で――それはいいか。今も野球が得意だって言える側の地球人さ。ハイスクールを卒業してからはキャッチボールぐらいで、もう十数年はバットを振ってないが……君たちに負ける気はしないな」
ガリバーはそう言って、ニヤリと笑みを浮かべてみせた。マヒルは眉をひそめ、彼に負けじと自信満々の笑みを浮かべる。
「それなら、地球じゃ出来ない野球をしようヨ」
マヒルが振り向き手を挙げた。ヤザラの焼き菓子を頬張っていた子どもたちはいつの間にか移動しており、グラウンドの端にあるコンソールの前に立っていた。子どもの腰より少し高いサイズのコンソールにはレバーやボタンが並び、病院で見た機器と同じく、空中に青白いスクリーンを投影している。耳を生やした少年少女たちはスクリーンではなくマヒルたちを見ていた。いや、彼らはたしかに、ガリバーへ向けて輝く視線を送っていた。
コンソールを操作する少年が、一番大きなレバーを倒した。
「お……おお!」
声を上げたガリバーの脳裏に蘇ったのは懐かしい記憶だった。
十数年前、まだ結婚する前の妻と一緒にロサンゼルスのパシフィック・パークに行ったことがある。桟橋の入口から眺める遊園地と、その先に太平洋が広がる光景は心を躍らせ、当時放映されていたドラマで観た景色の中にいることを嬉しく思ったものだ。観覧車は最後の楽しみ。最初に乗るのは、ジェシカが乗りたいと言ったフリーフォールのアトラクション。観覧車にも負けない景色を楽しみ、潮風を受け、その次の瞬間。
あの感覚だ。
声を上げたガリバーは思わず後ずさった拍子にバランスを崩した。身体が上手く動かない。慌てて後ろからマヒルが支えた。急激に身体が軽くなり、軽い吐き気を覚える。重力が弱くなったのだ。
「かっ飛ばせた方が面白イデショ?」
息をつく間もなく、続けて地面からは野球場を囲むように金属製の柱が出てきた。三十メートルほど星空に向けて伸びたところで止まり、柱と柱の間に薄く光る半透明の壁が生成される。防球バリアか? 防球ネット代わりの光の壁はプロリーグで使われるフィールドで見るような高さだが、今の重力なら子供でも飛ばせるかもしれない。まともにバットを振れれば。
コンソールを囲んでいた子どもたちは、よろけたガリバーのしかめ面を笑った後、フィールドの中で跳び始めた。一度のジャンプで何回転もするバク宙を披露している少年の横で、一歩が大きいスキップをする少女がいる。月で跳ねるうさぎたちは星空まで飛んでいってしまいそうだ。
「これが本当の月の重力なんだな」
両足で大地を踏んで、できるだけ軽く跳ねながら、ガリバーは言った。青い瞳には少年時代と同じ光が灯り、口角が上がっていることに彼は気付いていない。
「ココだけ元に戻せるんダ」
「月の重力は初体験?」
「ああ! 船外活動をする前に着陸船が墜落したから」
「そうだったわね……」
ヤザラの表情が曇る。ガリバーは頭を左右に振ってから彼女に笑顔を向けた。
「いいんだ、助かったからな。それに、宇宙服無しで月の重力を体験できるなんて俺が人類初だ! 楽しんでるよ!」
膝を曲げたガリバーは、腕を振り上げながら思い切りジャンプしてみた。身長の倍も軽く越えた視界に全身が震え、興奮とは別の理由で胸が高鳴っている。子どもたちも彼と一緒になって高く跳んだ。月のうさぎたちと彼は、同じ笑顔を浮かべていた。
わたわたと手足を動かしながらの着地は不格好だったが、地面とキスをすることは避けられた。高度に対して軽すぎる着地の衝撃に違和感を覚える。この感覚に慣れるまでは時間がかかりそうだ。
「月で野球も初めてデショ? 地球では上手いかもしれないけど、オレたちに勝てるわけ無いヨ」
両手をついて立ちあがったガリバーにボールを渡して、マヒルは笑った。腕を組んで胸を張り、白い耳もピンと立っている。たいした自信だ。ここまで舐められたからには、大人げなく全力を出して見返してやらなくては。
「地球人の意地も見せてやるよ」
グローブも受け取り、ガリバーも胸を張ってみせた。フィールドでは子どもたちが二つのグループに分かれて待っている。二人はそれぞれのグループと共にベンチに向かった。輝く瞳でガリバーを見つめる子どもたちに円陣を教え、気合十分に試合が開始された。
マヒルに対して啖呵を切ったものの、一回裏が終わる頃には、ガリバーは月の子どもたちとの差を思い知ることになった。バットを振ろうにも上手く踏み込めないので想定外の方向へ身体が回転するし、当たったところで一塁へ走るのも難しい。守備をやっても、跳びすぎたり、暴投したり。
宇宙服を着て月面を歩くより先に、月面で野球をすることになるなんて。灰色の衛星で待っていたのは奇妙な運命だったらしい。月の重力はこうも違うのかと、ガリバーは額に垂れた汗を拭う。すでに勝敗のことなど頭から消えていた。まともにプレイできるか、できないかだ。
「オメデトー!」
「ハハ……」
フライをキャッチして子どもたちに褒められる日が来るとは思っておらず、彼は頬を熱くしながら苦笑いを浮かべた。
月面野球の試合は、今まで彼が経験してきたどの試合よりも幸福な時間だった。ジュニアチームの地区大会で優勝した試合よりも、サヨナラホームランを決めたハイスクールでの試合よりも。子どもたちは自由自在に跳ねまわる。見ているだけでもダイナミックで、そこに自分も加わるのだから楽しくてしょうがない。
月の重力に身体を慣らすにも最適だった。彼の経験と月面の重力は、四回表を迎えたところでようやく噛みあい始める。子どもたちも彼のサポートをして、成長を見守ってくれた。ガリバーは、彼らが別の種族である不気味さなどすっかり忘れていた。
「そろそろ打てそう?」
四回表を零点に抑え、次のバッターはガリバーだ。バッターボックスに向かおうとする彼にヤザラが問いかけた。
「ホームランを見せてやる」
ガリバーが答えると、ヤザラはニコリと笑い頷いた。
バッターボックスに立ちバットを構える。身体のバランスも良い、今度は無様なダブルアクセルを見せなくてすみそうだ。ピッチャーはマヒル。少年の日を思い出す炎が灯った瞳で見つめてくる。大きく振りかぶりボールを投げた。ストレートだ。ガリバーは月の大地に踏み込み、思いきりバットを振った。
芯を捕らえた!
「しまった」
笑顔を浮かべたのも束の間、彼はその場で立ち止まったまま空を見上げていた。フィールドにいる誰もが遥か頭上を進むボールを見上げている。地球の重力でもフェンス際まで飛びそうな感覚が手に伝わって来た。それなら、月の重力下にいるボールは――。
ボールはグングンと高度を上げる。柱の間で輝くバリアを越えそうだ。向かい側には住宅街がある。あの高さから落ちたボールが窓に、いや、人に当たりでもしたら……。
「任セテ!」
センターを守っていた少女が走り出した。バリアを発生させている柱の根本まで走ると、僅かな突起を掴んで登り始めた。月の重力下での身体の扱い方をよく理解している。三十メートルはある柱の上までたどり着くのに時間はかからなかった。ボールはさらに上を飛んでいく。少女は屈み、力の限り跳び上がった。ボールとの距離は近づき、彼女のグローブがしっかりと受け止める。グローブを胸に抱きしめた少女が下を向く。彼女の足元に柱は無い。わずかに前へ飛び出していた彼女の下にはフィールドだけが広がっている。少女は三十メートルの高さから落下しはじめた。
重力が六分の一ならあの高さから落ちても大丈夫なのか?
頭に浮かんだ疑問の結論を出すより先に、ガリバーの身体は走り出していた。無事かどうかは考えても分からない。あの高さにその身一つで飛び出した経験なんて無いからだ。ただ、落下の恐怖はよく知っている。
少女を助けようとフィールドを蹴るが上手く走れない。一蹴りで進む距離も跳ねる高さも地球とは違う。酷く不格好なのは理解していたが、とにかくガリバーはうさぎの子を受け止めるために死に物狂いで足を動かした。
あと数メートルで彼女の下に飛び込める。身体を前方に投げ出そうと踏み込むが、ガリバーの足は直前で止まった。別の少年がガリバーの前に立ち、彼の進路を塞いでいた。
「大丈夫ダヨ」
彼の言葉を理解するより先に、彼の背後が光った。不意の光にガリバーは身体を硬直させる。光は落下している少女の腕から放たれていた。ヨミョウも腕に着けていたあのバングルだ。放たれた光は、地面まであと十メートルも無かった少女が落ちるよりも早く集束して直方体に形を変える。厚さ一メートルほどの塊に少女が落下し、彼女の身体は音もなく光に包まれた。再びバングルを操作する。直方体は端から光の粒子となり霧散していく。最後のひとかけらに支えにして少女は立ちあがり、ガリバーに駆け寄り、ボールを手渡した。
「ホームランだネ!」
少女はそれだけ言って、ニコリと笑った。
手のひらに収まったボールから顔を上げて少女に視線を移し、それから柱を見上げる。視線を落とし、直方体が姿を消した空間を見つめ、彼の膝から力が抜けた。
「月はすごいな」
夢見ていたよりもずっと。
笑うことしかできなかった。腰を落としたガリバーは、誰にも聞こえない声でぼそりと呟いた。落ちて来た少女も彼を止めた少年も、弱々しく笑う大人を見て眉をひそめている。
「ガリバー?」
差し出された手はマヒルの手だった。握り返すと、彼は腕を引き立ち上がらせた。
「戻すわよー」
ヤザラの声が届く。レバーを倒す音が聞こえ、段々と身体が重くなっていく。力が抜けた足では支えきれず、また身体が崩れおちそうになる。マヒルが繋いだままの手を引っ張ってくれたおかげで転ぶことはなかった。彼を巻き込んで倒れそうになったところで我に返る。
「まだ月の重力に慣れていないみたいね。まずは散歩をするのがいいんじゃないかしら。この場所なら自由に使って大丈夫よ」
ヤザラの言葉に返事は無い。マヒルと彼女は視線を交わす。
「疲れチャッタ?」
やはり返事は無い。地球人の視線は手に持ったままのボールに注がれている。
「ああ」
数秒後にガリバーの口が開き、彼はマヒルを見た。
「重力を操作する装置も、あの子を受け止めた光も、地球じゃ見たことない」
ボールを握りしめてガリバーは言う。彼を囲む子どもたちもマヒルも、様子が変わったガリバーに困惑し、口をつぐんでいる。
ガリバーの青い瞳が、今度はヤザラに向けられた。
「なあ、この町はなんなんだ? アカルメイナス、だったよな? 君たちはどうしてここで暮らしているんだ? 俺が見てきたものもここにあるものも、全部君たちが発明したのか?」
恐怖がゆり戻された。彼らの文明は常軌を逸している。彼らが地球に憧れているのは分かっていた。だが、地球の何に憧れるというのだ。こんなにも文明が進んだ星で。
落ち着いて一つ一つ尋ねようとしていた質問が、次から次へと脳内に溢れ出す。精査しようにも疑問だらけで、まともな言葉にすることができない。赤い瞳に見つめられることが恐ろしくなり視線を落とす。分かっていたのは月の住民たちの人柄の良さだけだ。それだけを見て満足した気になっていたが、ここは未知の文明だ。未知の文明に、俺は一人で迷い込んでいる。
子どもたちはキョロキョロと周囲を見回す。マヒルもだ。視線は次第にヤザラへ集まっていった。彼女は子どもたちの間を抜け、ガリバーの手からボールを取り、空いた手に優しく触れた。
「ごめんなさい、ガリバー。みんな自分たちの自慢のものを見せて、あなたを喜ばせたかったのよ。混乱するわよね。心配しないで、私たちはあなたの味方だから」
温かい手。病院でもそうだった。地球人と変わらない体温だけは、必ず心を落ち着かせてくれる。
ガリバーが長い息を吐き出す。
「わかってる……わかっているさ。驚いたんだ。俺の想像をどこまでも越えてくるから。恐ろしいものが眠っているんじゃないかって」
「恐ろしいものなんて一つも無いわ。ガリバーを傷つけるものなんて一つも無い。信じて。ここにあるのは、生活を便利にして、子どもたちが楽しく遊ぶための道具だけ」
ガリバーは頷き、一度だけ深呼吸をして顔を上げた。声色が戻った彼を見つめる赤い瞳たちから読み取れる感情は、心配と安堵。それだけだ。敵意は一つも無い。
「ここの機械を発明シタのは研究センターの人たちダヨ」
マヒルが言った。
「研究センター?」
「ウェラ技術研究センターよ」
聞き返したガリバーにヤザラが答えた。声が一段階大きい。彼女の瞳が丸く開かれている。
「ヨミョウから聞いていないの?」
「何も」
「あの子はウェラ技術研究センターで働いているのよ。月の技術はその研究所で作られているの。ここの重力操作装置は研究所のエンジニアが作った装置だし、このバングルはあの子の発明品だわ」
ヤザラが手を掲げる。銀色の薄い金属製バングルが手首で光った。
「さっきの衝撃吸収クッションもね。仕事のことは話していると思っていたのに」
首を振って否定する。ヨミョウから聞いたのは月での生活方法だけだ。あとは地球に関する質問。
「せっかくヨミョウと一緒に暮らしているのだから、見学しに行ってみたらどうかしら」
「見に行けるのか?」
「ガリバーがお客さんなら受け入れてくれるわよ。この町の話も気になるみたいだし、一緒に聞いたらどうかしら。……全部は教えてくれないかもしれないけど」
後から付け足された一言が気になったが、多少でも答えが知れるのなら問題ではない。どんな小さなことでも、何も知らない状態から進歩できる。
「連れていってくれないか。どこにあるんだ?」
「オレが案内するヨ!」
手を上げたマヒルはグローブを外して友人に預けた。ヤザラが彼に声をかける。
「お願いね、マヒルくん。ガリバーさんを困らせちゃダメよ」
「任セテ!」
ニッと笑い、ガリバーを手招きした。ヤザラと子どもたちにお礼を伝えてから、ガリバーは月の少年を追いかけた。
☽
ウェラ技術研究センターに到着したガリバーの目を引いたのは、正門の前に立つ鉄像だった。人型の像にはうさぎの耳が生えておらず、代わりに背中には一対の翼が生えている。
「ソノ人がウェラ・イー」
マヒルが言った。隣で一緒に像を見上げていたガリバーは聞き返す。
「ウェラ・イー?」
「知らナイ?」
首を左右に振る。聞いたことの無い名前だ。
「オレたちとアカルメイナスを作った神サマだヨ」
「マヒルたちって……月の人たちを作ったのか?」
「ソウ」
ガリバーが片眉を上げた。また理解の外にある話だ。ただし、今まで聞いた話とは系統が異なるような気がする。翼の生えた神様。あるいは天使と呼ぶべきか。男女とも見分けがつかない中性的な顔立ちの、腰まで届く長髪を垂らした人型の像。その視線はアカルメイナスを左右に分ける大通りを真っ直ぐに見つめている。この通りはモルト通りという名前だとマヒルが教えてくれた。
鉄製の像の後ろにはウェラ技術研究センターがある。敷地は広いらしく、複数の棟が並び奥は見えない。正門に近い場所にある棟が一番高く、ざっと数えて二十階はあった。奥で高い塀に囲まれたマスドライバーは先端だけ顔を出している。
研究センターも気になっていたが、ガリバーの興味はウェラ・イーに吸い寄せられていた。鉄像の周りをグルグルと歩き、ブツブツと独り言を呟きながら新しく湧いた疑問のヒントを得ようとする。マヒルは鉄像の正面で屈み、ガリバーを目で追っていた。
「……人間か? 翼が生えた……?」
「星空から降りてきて、星空に帰っていったみたいヨ」
翼を観察していたガリバーの背後から声がかかった。振り向いた視界に入ったのはヨミョウだった。家で着ているものとは異なる、油汚れが付着した服を着ている。作業着なのだろう。
「今から呼びにいこうと思ってたノニ。来るコト知ってたノ?」
駆け寄って来たマヒルの髪をヨミョウがガシガシとかきたてる。
「地球から来た人が研究所を目指して歩いてたら噂になるワヨ。アナタが案内してたのネ、いつもみたいに野球してたんじゃないノ?」
「ヨミョウ姉ちゃんの仕事が気になるッテサ」
ヨミョウの眉が上がる。
「そういえば話したコトなかったワネ。別のコトで頭がイッパイだったワ」
「俺に地球の質問してばっかりだったからな」
ガリバーの言葉に、特に悪びれもしない様子でヨミョウは頷きだけを返した。
彼女は親指だけ立てた手で背後の建物を指してガリバーに問いかける。
「見てク?」
「見たい。俺が入ってもいいのか?」
「大丈夫デショ。マヒルはドウスル?」
「オレはそろそろ帰ろうカナ。ミンナ待ってるシ」
ヨミョウから離れたマヒルはガリバーに手を振る。
「またねガリバー! 今度は別の遊ビをシヨ!」
「ああ。今日はありがとな」
頷いた少年は歩いてきた道を駆けて戻っていった。
「野球してたんダ」
消える背中を見つめていたガリバーにヨミョウが尋ねる。振り返ったガリバーの口角が予想よりも上がっていたことに彼女は驚いたが、動かない表情がそれを隠した。
「楽しかったぞ。月は面白いな」
「ソウ」
返って来たのは淡泊な返事だ。月の面白さに関する会話を広げる気は無いらしい。
「とりあえず中に入ル?」
頷くと、ヨミョウは黙って歩き始めた。多少気まずさは残っていたが、これから目にするであろう光景への期待と緊張のおかげで、ガリバーが気に病むことはなかった。
研究所の中は驚くべき光景ばかりだった。「地球人にはまだ見せられナイ」と秘匿されている部屋も存在したが、そんな部屋を除いても、SF映画の中でしか見られないような技術ばかりが存在していた。食材のコピー装置。病室でも見た傷病治療液タンク。とても実用的な段階ではないとヨミョウは言っているが、大がかりな二台の機械同士を繋ぐポータル生成機もあった。
「――で生成できるホロ粒子を空中で固定シテ、特定の周波数で固定した光線を当てればフィードバック付きのディスプレイ投影が――」
今は、町でも見かける機会が多かった空中ディスプレイの解説を聞いている。ヨミョウの説明を聞いたところで、一体何をどうやったら地球の文明でも再現できるのか全く想像できなかったが、それでもガリバーの胸は躍り続けていた。答えが分からなくても、未知は既知になりつつある。
次の目的地を目指す途中、廊下を歩きながらガリバーは問いかけた。窓からは先ほど観察していたウェラ・イーの鉄像が見下ろせる。
「ウェラ技術研究所、だったよな。ウェラ・イーが建てた施設なのか?」
「ソウヨ。もう千年近く前の話ダワ。私も記録でしか見たコトないケド、元から月に住んでいたカグヤ様が寂しそうだったから、ワタシたちを作ったんダッテ」
「カグヤ様……」
地球が見える丘でヨミョウの夢を聞いた時にも聞いた名前だ。あの時は気にする余裕がなかったが、そういえば娘の教養のために買った絵本にそんな名前があった。あれはたしか、日本の昔話だ。
「かぐや姫か? 月から地球に来て、月に帰ったんだっけ。実在するのか?」
「ヒメ? まあ、姫みたいなヒトカ。研究所の裏にあるオ屋敷に住んでいるワ。カグヤ様もミンナの憧れネ。優しくて綺麗な方ヨ」
そこまで言って、ヨミョウは咳払いして話を切った。
「ウェラ・イーはカグヤ様に会ってワタシたちを生み出シタ。神サマとも言われているケド、この研究所にいるワタシたちにとってはむしろ、計り知れない頭脳を持っていた偉大な技術者ヨ。それも全知全能の神サマだって言えるけどネ」
ガリバーが信仰する神よりも、ウェラ・イーは兎人たちとの距離が近いように感じる。実在していたことが現実味を帯びていく分、ウェラ・イーへの疑問が増えていく。
ヨミョウは立ち止まり、ガリバーの視線の先にある鉄像を見つめた。鉄像の先にあるのは、長い、長いモルト通り。モルト通りから枝が生えるように、月の都アカルメイナスは広がっている。
「ワタシも、ミンナも彼を目指しているワ。彼が、『いつかあの青い星から人が来る日を待ちなさい』って言ったノヨ。それまで技術を発展させて、彼らを迎えるに相応しい文明を築きなさい、ッテ。だからこの研究所で研究しているヒトが多いノ。それがワタシたちの使命ダシ、憧れの神サマに一番近づける場所でもあるカラ」
兎人たちが二人の横を通った。ガリバーに気付き興味の視線を送る。地球人に興味を示しているようだったが、ガリバーに軽い挨拶をした程度で、すぐに自分たちの研究の議論に戻っていった。
「ヨミョウもその一人なんだな」
通りすぎた研究者たちの背中を見つめてガリバーが言った。ヨミョウは頷く。
「ソウ。地球人と会いたかったシ……研究も楽しいノヨ。ソコがワタシのラボヨ」
彼女が指したドアを開ける。数名の研究員が振り向いて声をかけてきた。短い会話を交わしたあと、彼らは目の前に浮かぶディスプレイに表示されたグラフと再び向き合った。
ヨミョウのデスクはビルの窓に面していた。他のデスクに比べて明らかに散らかっており、たくさんの汚れがついていた。使い古した工具も多く置かれている。
デスクの中央に、分解されたバングルが置かれていた。幅は四センチ、厚さは五ミリ程度の薄い金属の中に、細かな配線が並んでいる。無駄のない回路は美しいとまで感じた。その中の数本が外に飛び出し、デスクに置かれた別の機械に繋がっていた。開発中の装置なのだろう。
「このバングルはヨミョウが開発したって聞いた」
「エエ、ワタシが作ったワ。色んな機能がある機械を楽に持ち運べたら便利デショ?」
ヨミョウは変わらない声色で答えた。
「ナニヨ」
デスクに向けられていたガリバーの視線が突然自分に移り、ヨミョウは思わず問いかける。
「ヨミョウは――」
口を開くが、感情を上手く言葉にできない。一度閉じてから開き直す。
「君のことを誤解していたかもしれない」
「どういうコト?」
身構えるような声色だ。彼女は腕を組んで彼の言葉を待つ。今度は頭の中で文章を組み立ててから、ガリバーは話しはじめた。彼の右手はヨミョウのデスクを撫でていた。
「初対面の地球人に無茶をさせる人だと思っていたけど、そうじゃないみたいだ。口に出さないだけで色々考えてるんだろ? 机を見たら分かるよ。これは努力家の机だ」
同じ状態の机をNASAの研究室で見たことがある。散らかっているようで、おそらく本人には使いやすいように物が配置された机上。小さな傷は気にしていない。
ヨミョウのデスクに並ぶ工具の横には、そっくりな形をした部品たちも並んでいた。形状はヨミョウや子どもたちが着けているバングルにそっくりだが、デザインがまだ洗練されていない試作品のようだ。日常的に身につけるには厚くて重そうなデザインもあれば、バングルと呼ぶには面積が広すぎる、肩まで覆われそうな機械もある。あそこに残っているのは試行錯誤の跡だ。
ヨミョウはまだ若い。町ですれ違った兎人や、研究センターで働く研究者たちを見ても、その認識は変わらなかった。それなのに、ヨミョウが開発したバングルは多くの兎人たちの手首にある。彼女はこの年齢で月の暮らしを変えたのだ。楽なことじゃないと彼には分かる。
ガリバーはヨミョウに、初めて意識して笑顔を向けた。
「尊敬するよ。地球人が全員、夢を叶えるために努力できるわけじゃない。月ではどうだか知らないが、少なくとも君は尊敬に値する人だ」
ヨミョウの耳がピンと立つ。表情が変わらなくても、かすかに頬の色が変わっただけで彼女の感情は分かった。ヨミョウの視線が逸れた。
「ガリバーだって、努力して夢を叶えた人デショ。変わらないワヨ」
「だから尊敬するんだ」
しっかりとした口調でガリバーが答える。
ふと、彼はヨミョウのデスクの先に視線を向けた。彼女のデスクが面する窓からはアカルメイナスの町が一望できる。彼は背中を丸めて視界を下げた。ちょうど椅子に腰かけたヨミョウの視線が来るぐらいの高さに。天井に隠れていた青い星が顔を出した。機械をいじりながら、手を止めて地球を見上げるヨミョウの姿が浮かぶ。
丸めていた背中を伸ばし、ヨミョウに向き合う。
「もっとヨミョウ自身の話を聞かせてくれないか? せっかく出会えたんだ。地球の質問にももちろん答えるけど、君のことが知りたくなった。夢の手伝いがするのは難しくても、友人になるぐらいならいいだろ?」
ヨミョウは背中に回した自身の指を絡ませている。返事を待つガリバーをちらりと見た。
「モルト通りにもレストランがあるらしいじゃないか。ここに来るとき良い匂いがしたんだ」
ガリバーが誘う。短い沈黙の後、ヨミョウの視線がガリバーの方へ戻った。
「ワカッタ。じゃあ明日、モルト通りへご飯を食べに行きまショウ。ワタシの話をするワ」
「ああ、約束だ!」
ガリバーが笑顔を送る。今回も彼女の顔に笑みが浮かぶことはなかったが、彼女と友人としての約束を交わしただけで満足だった。
ヨミョウのラボを後にしてしばらく歩き、エレベーターホールに出たところで彼女が立ち止まった。壁のディスプレイに表示されるマップを眺め、ガリバーへ振り向く。
「中はコレぐらいネ。あとはロケットを作ってる工場だけド……」
「俺が乗るロケットか? 見せてくれ」
ガリバーの目の色が変わる。ロケットを製造しているのもこの研究所か。人生を預けることになる乗り物だ、どれほど信頼できるものなのか見ておきたい。
ヨミョウも彼の想いを察したのかすぐに頷き、彼女のラボが入っている棟を出て敷地の奥へ歩いた。マスドライバーが近づき、巨大な黒いレールの全景が見えはじめる。その発射地点の真横に、目的地である工場が建っていた。
足を踏み入れた直後に、ガリバーの口から声が漏れ出た。
「これが……」
「ガリバーを地球に帰すためのロケット」
外から見れば十階建てほどの倉庫のような建物だが、中は吹き抜けになっていた。その中央に、卵型の骨組みが置かれている。建屋内を埋めるほどのサイズではない。大型バス程度の大きさだ。本体らしき卵の下には、さらに三つの卵が三角上に並んでいる。分かりやすい形状だ。下の卵にはブースターが載るのだろう。骨組みの周りでは兎人たちが作業している。耳まで覆うヘルメットを被り、ハーネスを着けて天井から吊られていた。
「重力を操作して身体を軽くするとかしないのか? マヒルたちの野球場にあった装置みたいな」
「重力操作の分野はワタシたちも研究中なのヨ。アカルメイナスが地球と同じ重力なのはウェラ・イーが残した機械のおかげ。ようやく少しだけ小型化できたのが、公園にある装置ヨ。量産したモノはマスドライバーの下にも設置されてるワ」
「へえ。それにしても、工場みたいな設備でロケットを作っているのかと思ってたが……」
言葉を濁す。今までの研究室の数々と違って、ここは古臭いというか、地球のようだ。
「ロケットを飛ばす機会は少ないから全部手作業で時間がかかるワ。設計も最初からヨ」
「最初から? どうして」
「新しい技術を試したいからヨ。部品のストックも少ないしネ。エンジンは旧型の予定ヨ」
ガリバーの顔が歪む。ロケットの発射は何度も試験を重ねるものだが、月はそうじゃないらしい。超文明だから抱ける自信の表れなのだろうか。
ヨミョウは彼が送ってきた視線に気が付いた。彼の心配が伝わってくる。ガリバーの方に身体を向けて彼女は言った。
「心配しなくていいワ。新しいロケットだけど、飛ぶワ。必ズ。だから安心シテ」
ヨミョウの声は少しの揺らぎも無い。普段は無い力強さも感じる。瞳が逸れることはなく、赤い瞳はまっすぐに青い瞳を見つめ続ける。
ガリバーは頷いた。
「信じるよ」
兎人たちの手作業による製造が、果たしてどの程度信頼に足るものなのか、ガリバーには分からなかった。それでも信じるしかないのだ。進んだ科学文明に住んでいる彼らにしか見えない景色もあるだろう。
ヨミョウが飛ぶと言っているのだ。なら、彼女のことを信じよう。
「キミがガリバーか」
唐突に、背後から聞いたことのない低い声で名前を呼ばれた。驚いたガリバーが振り向くと、工場の入り口に一人の男が立っていた。ヨミョウも振り向いて声の主へ視線を向けている。先に口を開いたのは彼女だった。
「ナニか用ですか所長」
「挨拶に来ただけダ、ヨミョウ」
ガリバーはヨミョウを横目で見て眉をひそめた。彼女の声には明らかに敵意が含まれている。所長と呼ばれた兎人の声にも棘がある。
「私はタグレ。このウェラ技術研究センターの所長を務めてイル――」
「面白ミの無いヒト」
「黙るんダ」
タグレと名乗った兎人は、ガリバーがそれまで見てきた兎人たちの中では珍しく、小太りと言われるような体型をしていた。纏っている衣服はヨミョウと変わらない作業服だが、彼女が付けているような汚れはない。新品のように綺麗だ。工具も所持しておらず、代わりにペン付きのタブレットを抱えている。背後に球状のロボットが浮遊し、ロボットが空中にスクリーンを投影していた。腕にヨミョウのバングルは着いていない。一九の比率で分けられた黒寄りのグレーの髪の間から、刻み付けられた皺が覗いている。赤い瞳にはヨミョウやマヒルのような光は灯らず、冷たい印象だ。
声をかけてからずっと、彼はガリバーたちに冷たい視線を向けていた。正直、気分が良いものではない。地球で宇宙飛行士として注目されてからの日々で、彼のような人物への対処を心得ていたのは幸いだった。ガリバーは目一杯の笑顔を作り、彼に手を差し出した。
「初めまして、タグレ所長。私のためにロケットを製造していただきありがとうございます」
「ソレがルールだからナ」
手が握られ、一度だけ上下した後にすぐ離れる。声に感情は無い。
「研究所を見学していたようダナ」
「ええ、ヨミョウの案内で。地球ではまだ存在しない技術ばかりで驚きました。まさか月にこんな高度な文明が隠れていたとは」
「そうだロウ」
必要なことだけを答えてくる。会話を楽しむ気は無いようだ。
彼はわざとらしく大きなため息を吐いくと、曲げた唇をガリバーに向けた。
「見学は構わないガ、地球ではココで見たものは胸にしまっておくコトダ。不要なトラブルは避けたいダロウ? この町を隠していた意味を考えタマエ。然るべき時まで口にしないでもらオウ」
思わず顔をしかめてしまったことにガリバーは気付いたが、もう一度笑顔を作る気にはなれなかった。タグレも彼が表情を歪めていたことに気付いていただろう。しかし彼は気にする様子もなく、今度はヨミョウに冷たい視線を送る。
「キサマはまだ地球に行きたいと言っているのカ?」
「なんですカ」
「ヨミョウが何を言っても無視するんダ、ガリバー。彼女の夢はこのアカルメイナスでは許されない行為ダ。月の文明も、カグヤ様も危険に晒すコトになる。地球に帰す願イを叶えるのだから、コチラの願イも聞いていただコウ」
彼が言いたいことは理解できる。ただ、言い方が気に入らない。ヨミョウが彼に敵意を向ける理由も察した。返事をする気にはならなかったので、首を縦に振るだけにした。
「別にいいデショ、地球に行きたいって言ったッテ。夢を持つのは自由デショ?」
「その夢を実現しようとしているのが問題ダ。月の文明をなんだと思ってイル? キサマには仕事があるんダ。我々には使命がアル」
「知らないネ」
腕を組んだヨミョウが言い放つ。所長のしかめ面が緩み、鼻で笑った。
「ヒトは見たいモノしか見ようとしない。何かを見ようと思ったら、それしか見えなくナル。他にも道はあるというノニ。他のものにも目を向けろ、ヨミョウ。ようやくヤル気を出したというのに、何をバカなコトを……」
ぶつぶつと呟きながら彼は振り向き、工場から出ていった。
「なんだアイツは」
彼の背中が壁の向こうへ消えた後、ガリバーはヨミョウへ問いかける。彼女はタグレが消えた先を見つめたままだ。腕を組み、フッと鼻を鳴らす。
「面白ミの無いヒトヨ。科学を研究して月の技術を発展させるために設立されたウェラ技術研究センターをまとめているのに、ルールばかり気にして研究にイチャモンつけてくる所長がタグレ」
赤い瞳がガリバーに向いた。
「そして、ワタシが一番の嫌ワレ者」
ヨミョウ以外の人間だったら、皮肉たっぷりな笑みを浮かべていそうな口調だ。彼がどう思われているのか、だいたい察することができた。彼女が特に気にしていないことも。励ます必要はなさそうだ。
腕を解いたヨミョウは外に続く入り口を顎で示した。
「もう見るモノも無いし、研究所はいいデショ。他の場所で話したいコトがある」
ガリバーは頷く。見たいものは見ることができた。会いたくない人物とも出会ってしまったが。興はすっかり削がれてしまったので、ガリバーはヨミョウを追いかけて研究センターを後にした。
☽
「月を脱出する計画があるワ」
研究センターから移動したヨミョウは、アカルメイナスの西側の縁に接する飲食店にガリバーを連れていき、注文を取りに来た兎人が離れるなりそう言った。
店の名前は『カントリーロード』。ガリバーが自宅のラジオで何度も聞いたジョン・デンバーの名曲が、店内のスピーカーから流れている。カフェのような店らしく、軽食とドリンクが頼めるとヨミョウは言った。店にはテラス席があり、町の端にあるカフェのさらに端に置かれたテーブルを選んだガリバーの視界には、灰色の月面と数多の星々が煌めく漆黒の空が広がっている。
「先に、これが何だか聞いてもいいか?」
ガリバーが返事に迷っているうちにドリンクが運ばれてきた。ヨミョウが適当に頼んだので、何が運ばれてきたのかよく分かっていない。トロリとした薄い黄色の液体だ。甘い香りがする。
「マモモジュース。月で作った果実のジュースだケド、元は地球から採って来た果実ヨ。月で遺伝子操作したヤツ」
同じドリンクを頼んでいたヨミョウは普通に飲んでいる。今まで同じ食事をしてきたから、地球人にも害は無いはずだ。少し緊張して胸を高鳴らせながら口に含んだが、飲んでみるとただのミックスジュースと同じ味だった。果物の良いところだけ抽出したような味だ。美味い。
「それじゃあワタシの話をするワ。月脱出計画を考えたから協力してくれるカシラ」
ヨミョウがじっと見てくる。二口目を飲む間に、ガリバーは回答を考えた。
「この間の話で諦めたんじゃなかったのか?」
「諦めるワケないデショ」
返って来た答えには小さなため息が混ざっていた。
「ガリバーはワタシの計画がバレて地球に帰れなくなるのが怖いのヨネ」
「そうだ」
「つまり、誰にもバレない計画にすればいいってコト。地球に行っちゃえばワタシの危険も無い。アカルメイナスの存在を自分たちからバラすコトはないから、手を出してくるコトもないワ」
言い切ったヨミョウは、一呼吸置いてからわざとらしく首を傾けてみせた。ガリバーの答えを待っている。彼は苦い顔をしていた。この少女は思ったよりも頑固者なようだ。
「親は反対してないのか?」
思いついた言葉で説得を試みる。
「反対? ナンデ? 夢を叶えるコトは良いコトでショウ?」
今度は自然に首をかしげたようだ。ガリバーは唇をきゅっと結んだ。
ヨミョウの言う通りだ。だけど、その一言で許されるなら、どれだけ楽だったか。
「ウェラ・イーの研究所があるノ」
今は客が少ない時間らしく、テラス席には二人以外誰もいない。店内では暇そうな店員が欠伸をしながら食器を拭いている。ヨミョウはテーブルに両腕を置いて身体を前に乗り出し、ガリバーに近づいてから問いかけてきた。
「研究所? さっきまでいた?」
「アソコとは違う、秘密の研究所」
首を振ったヨミョウは町の中心に顔を向けた。クレーターの北側の縁に、ウェラ技術研究センターが建っている。
「ウェラ・イーはワタシたちを生み出して、アカルメイナスの町を作ッタ。ココまで広げたのはワタシたちだケド、研究センターの周りは彼が作ったノヨ。それから、いくつかの技術を最初の住民たちに託して、彼は星空へ帰っていった。マスドライバーも無かった頃の話ヨ。このジュースの果実の元になった植物も、ウェラ・イーが地球から持ってきたって聞いてるワ」
ヨミョウが持ち上げたグラスの中で黄色い果汁が揺れた。ウェラ・イーのことを語る彼女の声には熱が入っている。瞼も普段より上がっていた。
赤い瞳が再びガリバーを捉える。
「彼が伝えた知識は、彼が持っていた知識の一部。そして彼は、月に滞在している間、彼だけが使う秘密研究所を建ててイタ。月の裏側にネ」
彼女はグラスを掴んで自分のジュースを飲んだ。向かい合って座るガリバーは、結露したグラスの表面を指でなぞっている。
「何者なんだ、ウェラ・イーって」
研究所でウェラ・イーの話を聞いた時から気になっていた。彼女の話が本当なら、途方もない知識と技術力の持ち主だ。
「ワタシにも分からナイ。地球も月も届かないレベルの文明から来たコトしか分かっていないワ」
ヨミョウが肩を落とした。
星空から来た天使――いや、エイリアンか。宇宙は地球人が思うよりたくさんの生命が存在しているらしい。遠い昔から見上げていた月に文明があることにも気付かなかったのだ、その先を知るには何年かかることやら。
「ウェラ・イーのコトはまだ謎が残っているけど、秘密研究所の場所はミンナ知ってるワ。秘密研究所の中に、彼が最初に伝えなかった技術も残したって記録も、アカルメイナスの住民なら知ってル。でも時が来ないと中には入れナイ」
ヨミョウが前に投げ出していた両手を絡ませる。
「秘密研究所の鍵を開くには二人必要ナノ。二人が同時に扉に触れれば扉が開ク。月に住むヒトと、地球に住むヒトヨ」
「ああ」
声が漏れた。だからどうしても俺の協力が必要だったのか。
ガリバーは天を仰いだ。雲一つない星空は複雑な思考を静かに掃除してくれる。
「ここまで移動してから話したってことは、普通には入れないんだろ」
「ウェラ・イーは地球の文明が月の文明と並ぶ日まで待つように言ったワ。ガリバーも月までたどり着いたケド、事故で偶然ワタシたちのコトを知ったから、まだその時じゃナイ」
後ろめたいことがあるとき、彼女は視線を逸らす癖があるようだ。一瞬何も無い床へ視線が移った後、再びガリバーの方へ戻って来た。
「でも気になるデショ? 神サマが残した超技術。ワタシと行くわよネ」
質問ではなさそうだ。テーブルに体重を預ける彼女は赤い瞳を真っ直ぐガリバーに向けている。
可能な限り視線を交わさないようにして、ガリバーはグラスを傾ける。目を細めて、白いテーブルに付けられた模様をしばらく眺めてから、一言で答えた。
「やめとく」
ヨミョウが目を見開き立ちあがった。
「ナンデ!?」
「初日にも言っただろ」
「そうだケド」
少女の両手が宙に泳ぎ、口がパクパクと開閉する。それから、開いた両手を胸で重ねた。
「秘密研究所に眠る超技術の数々、月のウサギでも作れない神秘の宝物! ああ、なんと素晴らしいのでショウ! 月のドコよりも夢に満ちた場所だワ! ガリバーも興味あるデショウ!?」
演技っぽく物事を語るヨミョウは身体の動作が多くなる。腕を広げたかと思えば自分を抱きしめ、最後には左手を胸に置いたまま片手をガリバーに差し出して、彼に問いかけた。
「まだ入っちゃいけない場所なんだろう? 俺は月の人々に助けてもらっている身だ、迷惑はかけられない」
「ちょっと見学に行くだけヨ」
「その技術を使って月から脱出する気なんだろ? 地球に行くのは許されてないって」
ほんの一瞬、ヨミョウが唇を噛んだ。
「ワタシたちの先祖がウェラ・イーの言葉を聞いて勝手にルールにしただけダワ。地球の技術より進んだ技術をいきなり与えるのは危ないって恐レテ。そんなの、誰も試してないノニ。誰も経験してないノニ。想像で言ってるだけヨ。地球のヒトがそんなに弱いわけないワ」
それだけ言って、ヨミョウの口が止まった。視線だけは動き続け、星と星の間を泳いでいる。
「月の裏側から見る星空は、ココらへんと比べ物にならないぐらい綺麗ヨ」
弱々しい声で思いついた言葉を呟いた。今度はガリバーが目を開いた。苦し紛れにヨミョウが出した誘い文句なのは分かっていたが、反応するしかなかった。
月の裏は星空が美しいと聞く。月の周回軌道を回っている時に宇宙船の小さな窓から眺めることは出来たので、それで満足したつもりだった。月の裏側に行くミッションは予定に無かったからだ。だが、ヨミョウの誘いに乗れば、頭上いっぱいに広がる星空が見られるのではないか? アカルメイナスに来た時点で、月面から見上げる星空の美しさを知ってしまった。たとえ無事に地球に帰れたとしても、もう一度月から星空を見上げる機会は来ない気がしている。
答えを返さないガリバーをヨミョウは見つめていた。
「ああ、ガリバーはコッチの方が興味惹かれるノネ」
呟きが耳に入った。図星だ。
「ガリバーはこの町の中じゃ自由だケド、外に出るには理由がいるワ。その理由は、今のガリバーには無いデショウ」
ヨミョウはテーブルに片手をついてガリバーに迫った。
「ワタシに協力してくれるなら、月の裏側に広がる星空を見せてアゲル」
ガリバーの表情が歪む。悩むふりをしていたが、心の中では答えが決まっていると気付いてしまった。散々断ってきたのに、自分のことになると甘くなってしまう。なんてカッコ悪いんだ。
テーブルに突っ伏して、ガリバーは深く息を吐いた。顔を上げたガリバーは顔をしかめたまま、ヨミョウの誘いに答えた。
「分かった、俺の負けだ。月の裏側に連れていってくれ」
秘密研究所とやらに入る前に帰ればいい。そんなことを考えながら、ヨミョウの視線から目を逸らして、グラスに残っていたジュースを飲み干した。




