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第1話『月のうさぎは青い海を夢見る』

「アラ、生き返ッタ?」

 ぼんやりとした白い光の中に声が飛び込んできた。声は知っている言語を使っているようだが、聞いたことの無い特徴的なアクセントに違和感を覚え、男は一秒前まで止まっていた思考を回そうとする。だが、どうにも頭がハッキリしない。視界は薄いベールがかけられたように光の輪郭が揺らぎ、自分の身体の向きも分からない。かすかに感じる重力は身体が横たわっていると教えてくれたが、何か柔らかいものに包まれているらしく、綿の上で寝ているかのような気分だ。

「まだ寝てるカ」

 やはりアクセントに違和感がある。

 耳に届く足音。それに加えて、頭の上から聞こえるビープ音。男の意識が覚醒を始める。重い瞼を開いた。白い天井が目に入るが見覚えは無い。それどころか、ここに来るまでの自身の行動にも覚えがないことに気が付いた。横たえられた身体と、機械が発する規則的なビープ音。青年期に骨折をして手術を受けた時の記憶を思い出す。あの音は、俺の脈拍ではないだろうか。

 ここはヒューストンではないのか?

「ぐうっ!?」

 飛び起きようとした男は、次の瞬間には呻き声を上げて元の場所に倒れこんでいた。

「痛い……ぐうう……!」

 針で刺されたかのような痛みが身体の中まで走り、水滴が頬を伝って流れていく。身体の内側が熱い。つい数秒前までの安らかな心地が嘘のようだ。

 彼の耳に届いていた足音は、彼が声を上げたのと同時に止まっていたが、音の間隔を早めて近づいてきた。彼はなんとか、音の方へ視線を向けようとする。

「そんなすぐに動けないワヨ。もう少シ我慢シテ」

 視線が向くより先に顔が覗き込んできた。満月のような黄金色の髪が頭上で揺れ、赤い瞳と視線を交わした男は、眉を下げて心配そうに覗き込む彼女の髪のさらに上を見て息を止めた。

 白い耳が二つ生えている。こめかみの向こうに人間と同じ耳はあるが、それとは別に一対の耳が生えている。上に伸びた長い耳は途中で曲がり、前方に倒れている。明らかに彼女の意思の元に動いているそれは、うさぎの耳にしか見えなかった。

「な、なんだ! 誰だお前は!」

「ヨミョウ」

 うさぎの耳を生やした少女は名前を口にしたが、男の記憶には残らなかった。感じたことのない激痛が思考を鈍らせ、自分が口にした質問すら覚えていなかった。かろうじて残っていた脳のリソースも、目の前にいる奇妙な生物への驚愕に埋め尽くされている。

「深呼吸シテ」

 男が眠っているベッドの横に置かれた椅子に腰かけた彼女は、優しく彼の腕に触れた。男はもう一度少女の顔を見る。少女の頭にはうさぎの耳が生えているが、浮かべる視線は人と変わらない。赤い瞳が見つめてくる。動きがない彼女の表情から感情を読み取ることは難しいものの、声色は親しい友人をいたわるような、そんな声だ。

 彼女の言葉に従って、男は深呼吸する。痛みが和らいだような気がした。

「身体を起こせル?」

 真っ白な天井の部屋は、男の脈拍に従って機械が鳴らすビープ音と、うさぎ耳の少女の声だけが響いている。男は、今度は慎重に身体を起こした。

「ソウ、ゆっくりネ」

「痛い」

 情けない声が出る。眉間に皺が寄り、ベッドの側面に取りつけられた手すりを掴む手に力が入る。

「そりゃネエ……」

 憐れむような声だ。全く意味が分からない。同情されるような状態になっているのか? 思い出そうとしても、少しも心当たりは無かった。

「でも、よかったワネ。目が覚めるまで回復したし、もう少シ休めば痛ミも消えるはずヨ」

 彼女の言う通りだ。ベッドから足を下ろして腰かける体勢になった男は、痛みが明らかに和らいでいることを自覚した。腕を上げようとすれば関節に鋭い痛みが走る。それでも、叫ぶほどの激痛ではなくなっていた。

 点滴の作用なのだろうか。手首に繋がれた管に液体が流れている。次第に視界も思考も鮮明になってきた男は、腕に繋がれた管の先を目で追った。一見、医療機関で目にするような機械が置かれている。腰の高さほどの機械はベッドの横に設置され、数本のケーブルがベッドに接続されている。男の手首に繋がれた細い管は、機械の上に取りつけられたタンクに繋がっていた。中には白く濁った液体が溜められている。正体は分からない。男は医療知識持っていなかった。

「何か思い出せル?」

 少女が尋ねる。男の視線が彼女に向いた。肩に触れそうな長さをした満月色のウェーブヘアが揺れ、ルビーのような丸い目はパッチリと開かれている。ここがアメリカならハイスクールに通っているぐらいの年齢だろう。髪の下には人間の耳が見えた。頭にもう一組の白い耳が生えていることさえ無視できれば安心できるのだが、異質な物体はそれを許してくれない。

 装飾がほとんど無い長袖の黒い服を着た少女は、じっと男の言葉を待っていた。両手は閉じた足の上に置かれ、手首に着けた銀色の平たいバングルが天井の灯りを反射している。自分を眺めたまま口を開かない男の方へ身を傾けると、ズボンのベルトに提げたポーチの中の工具が音を鳴らした。

「俺は……」

 視界のベールは取り払われたが、記憶は薄れたままだ。まずは口を開いてみる。顔を動かしても痛みは感じなくなっていた。深呼吸して、記憶の糸を手繰り寄せていく。この白い部屋の景色から遡るのは無理だ。その前の景色を思い出してみる。ヒューストンにある自宅の姿。誰かと眺めた大海原。青空の下で見上げたロケット。鏡に映る黒髪の男。短い髪をツーブロックにした彼が訓練で鍛えた身体は、青いユニフォームに包まれている。胸元で輝くのは、ミッションワッペン。

「月の探査に来ていた」

 男の声に迷いは無かった。

「ケープカナベラルにいた……ロケットに乗ったんだ。そうだ、プライムⅣに乗って出発した。月に基地を作るためだ。俺は……月着陸船操縦士だ」

 少女は黙って彼の話を聞いている。

「ソフィアとモートと話してた。ソフィアが好きだったコミックの最新刊が面白かったとかどうとか。モートが軽口を言って、ソフィアがクルクルと宙で回りながら笑ってた」

 機械が鳴らすビープ音のリズムが速度を上げていく。その音をかき消すほどの心音が男の耳に届いていた。男は両手で視界を覆った。肩に痛みが走ったが、心臓が締め付けられる感覚と比べたら気にする価値も無い程度の痛みだ。

 彼はすでに、自分に何が起きたのか思い出していた。しかし言葉は止まらない。

「俺は鳴り響いたアラームに呼ばれた。どっかの装置がバカになったらしい。あそこで気付けばよかったんだ。俺は着陸船の区画に入った。モートの怒鳴り声が聞こえたが、もう遅かった。未確認のデブリ群が近づいていた。壊されたのは船外装置だった。着陸船と本船が切り離されようとしていた。ソフィアは手を伸ばしていたが、俺にはもう戻る時間は無かった。俺の手で通路を閉じた。俺だけを着陸船に残して。そして……」

 沈黙。

 身震いした男の背中を少女が撫でた。果てしない恐怖が男の頭を支配する。脳裏に蘇るのは、恐ろしいほどの振動と、果てしない虚空に少しずつ漏れ出す空気の音と焦燥。上下が分からなくなるほどの回転。狭い空間に響き渡るアラームと、最後に感じた衝撃。そして闇。

 息が荒くなった彼の背中を、うさぎの少女は撫で続けた。記憶が呼び覚ました闇の中で、思い出に残っていた妻の手が光となって煌めいた。見知らぬ少女の手にも同じ温度を感じる。温かい。

 彼は視界を覆う手を降ろした。部屋の白い光が網膜に届き、生きていることを実感させる。

 俺は今、生きている。

「君が助けてくれたのか?」

 男は初めて、意識して彼女の瞳を見つめながら問いかけた。宇宙空間で事故が起こり、誰もいない地球の衛星に落下したのだ。助けなんてあるはずがない。あの瞬間に死ぬ運命だったはずだ。

 うさぎの少女は頷いた。

「ソウヨ。まだ死んでなかったからネ。もう少しで危ないトコロだったワ」

 男は目頭を押さえた。瞳の奥が熱い。彼女は人間ではない。それでも助けてくれたのだ、感謝を伝えなければ。安堵した彼は口を開くと彼女へ向き直り、言葉を声として発する前に口を閉ざした。

 別の疑問が頭をよぎる。

「ここはどこだ」

 表情を動かさないまま少女は立ち上がった。部屋の壁は全て白一色だが、一面だけ質感が異なっている。天井についたライトの反射が強い。隣の壁に親指大のスイッチがある。

 少女は男を手招きをした。彼は立ち上がり、震える手を握りしめて、彼女が立つ壁の前に立った。少女がスイッチを押すとカチリと音がした。壁の白色は薄れ、向こう側が透け始める。

 眼下に町が広がっている。すり鉢状の土地にミルク色の四角い建物が並び、二十メートルは幅がある道路が左右に町を分断している。僅かな街路樹以外に緑色は見えない。町の向こうに広がるのは、岩と砂だけが満たす灰色の大地。漆黒に浮かぶ満天の星空。そして、青い、青い惑星。

 ほとんど確信に近く、しかし信じることができなかった答えを、彼は言葉にした。

「月」

「エエ、月よ。月へようこソ」

 男の手が無機質なガラスに触れた。指先から冷気が伝わる。星空に浮かぶ男の故郷はやはり美しく、彼は、あの星がどれだけ遠くにあるのか知っていた。

 どっと汗が吹き出し、彼は嗚咽を漏らして口を抑えた。手のひらから熱を奪うガラスの冷たさが、目の前の景色が現実だと告げている。二度目の嗚咽。全身の毛が逆立つ。心臓が強烈に痛み、胸の前で握り拳を作った。胃液が口から飛び出そうとするのを我慢し、男は俯いて瞼を閉じる。

 うさぎの耳を生やした月の住民は彼に近づいて問いかけた。

「名前ハ?」

 呆然とする男は彼女に視線を向けるが、彼の頭は答えが出ない疑問で満たされ、何を口にすればいいのかすら分からない。どうにかして思考を追いやり、最低限でもいいと返答を探す。

 少女は待っていた。うさぎの耳を男へ向けて。

 男は一度だけ深く呼吸をして、潤んだ青い瞳で少女を見やり、一言だけ答えた。

「ガリバー」

「ガリバーね。ワタシはヨミョウ、よろシク」

 ヨミョウはガリバーに手を差し出した。ガリバーはガラスから手を離し、彼女の手を握る。温かく、少し荒れているが優しい手だ。彼は自身が置かれた状況をほとんど理解できていなかった。それでも、彼女が心が通う生き物だということは理解した。


   ☽


 病室のドアがスライドする音がした。

 混乱したまま再び倒れかけていたガリバーは、ヨミョウに支えられてベッドに戻っていた。彼の寝室にあるベッドの三倍は寝心地の良いベッドは、彼の心身に余裕を作り、月にいるという事実を彼が受け入れるだけの時間をくれた。受け入れないと次に起こすべき行動を考えられないため、無理やり自分に言い聞かせた結果ではあるが。

 とにかく、彼はたしかに月の都にいるということも、着陸船の事故が夢ではないことも受け入れたので、病室に入って来た女性の頭上にもうさぎの耳が生えていても、眉をひそめる程度の反応しか見せなかった。女性の方が驚いていたほどだ。彼と目が合うと同時に赤い瞳を丸くした。彼女の左腕に着けられたヨミョウと同じ銀色の薄いバングルが、空中にスクリーンを投影している。

「もう目が覚めたノ」

「ウン。ついさっきネ」

 ガリバーは顔を上げて、言葉を交わす二人を観察した。新しく現れた女性は医師か看護師だろう。ヨミョウよりも服に飾りがない。清潔な布一枚だけを着ているような感じだ。

「検査をしておきまショウ。そのまま寝ていてネ」

 起こしかけた身体を戻す。ヨミョウが腰かけていた椅子に彼女は座り、彼女の後ろを自動走行で追いかけていたカートから器具を取り出した。まず手に取ったのは聴診器のようだったが、ガリバーが知るものと形状が異なるので確信は持てない。冷たい金属が胸の中心に触れる。

「身体の痛ミはアル?」

「さっきよりは楽になった」

「よかッタ!」

 二人目のうさぎはニコリと笑った。人間と変わらない表情だ。その分、頭に生えた知らない耳がピョコピョコと動くことがガリバーを混乱させる。

 複数の器具を彼の身体に当てたあと、満足そうに頷いた彼女は立ち上がり、薬液のタンクが乗った機械を操作し始めた。コンソールのスイッチを押すと、腰の高さほどしかなかった機械の上に複数のウィンドウが宙に映し出された。彼女が宙で手を動かせば、視線の先にあるウィンドウも手を追うように動く。まるでSF映画のようだ。

 そういえば、打ち上げ前にも仲間たちと映画を一本観ていた。あれは地球を舞台にしたヒーロー映画だったな。あと何年経てば実現するのか議論を交わした日が遠い昔のように感じる。あの時は架空の話をして盛り上がっていたはずなのに、今は現実として目の前に存在している。

「問題ないワネ。もう外に出て大丈夫ソウ」

 表示された数値を眺めていた女性が振り向いて言った。ガリバーは眉を吊り上げる。痛みは無くなったが、つい十分ぐらい前まであんなに痛んでいたのに? 月の上空から落下するほどの事故が起きたのに、これだけで?

 ガリバーの心配を察したのか、看護師のうさぎはほほ笑みかけてきた。

「大丈夫ですヨ。きっとアナタが知っている医療より進んでいるカラ」

 彼女はそっとガリバーの手を握ったあと、手首に取りつけられていた点滴を外した。近づいてきたヨミョウに話しかける。

「アナタが発見者なのネ。羨ましいワ」

「運が良かったノヨ」

 なんてことないように答えるヨミョウの声は上ずっていた。

「行コウ、ガリバー」

「あ、ああ」

 差し伸べられた手を取り、ガリバーは立ち上がった。周囲を見回すが、彼の荷物は何も無い。身につけている服も墜落時に着ていた与圧服ではなく、二人と似た作りの服に変わっている。ここには自分の身しかない。持っていくものは何も無い。空っぽの手のひらを握りしめる。

 看護師のうさぎへ身体を向けた。どうやら彼女はガリバーの背後から彼に興味の視線を向けていたらしい。彼が振り返ると同時に目を丸くし、半分開いていた口を笑みに変えた。

「月を楽しんでネ」

 うさぎの耳を生やした女性はそう言って、病室の外に出た二人の姿が廊下の先に見えなくなるまで手を振っていた。

 廊下の先には別のドアがあった。ヨミョウはドアの右側にあるボタンを押す。ドアの先に床は無かったが、覗き込むと二人がいる階へ降りてくる箱が見えた。エレベーターのようだ。

 到着を待ちながら、ガリバーは隣にある窓から建物の外に目を向けた。月に町がある。理解しても現実味は無い。

「行こうって言ってたが、どこに?」

 ヨミョウへ問いかける。眉を吊り上げた彼女は、ガリバーを真似て窓の外を眺めた。ガリバーは横目で彼女を見た。うさぎの耳が生えた少女に、眼下に広がる灰色の町を加えて、遠くは月面に広がり、漆黒の空には星が煌めく。これが夢の景色ならどれほど良かったか。

「ワタシの家ヨ。アソコ」

 ヨミョウの人差し指は、町の中央を通る道の左側へ向けられていた。

「家?」

「ワタシがゴ飯を食べたり寝たりする場所ヨ? 地球じゃ家って言わないんダッケ」

「家だ、家だな」

 全く想像がつかない。SF映画に出てくる町の一般住民たちの暮らしなど考えたことがなかった。

 エレベーターが到着し、二人は一階に降りた。誰もいない静かな場所だ。天井のライトが照らすフロアにガリバーとヨミョウの足音だけが響く。

 大通りに繋がる玄関の前で、ガリバーはピタリと足を止めた。足音が一人分しか無くなったことに気が付いたヨミョウが数歩先で立ち止まる。

「どうしタノ?」

「このまま外に出るのか」

 ガリバーが尋ねた。背筋に冷たい汗が垂れ、動悸が再び激しくなる。出口のドアは一枚のガラスで作られていた。きっと自動ドアのようにガラスがスライドして開くのだろう。その先は星空の下だ。ガラスの厚さが気になる。もしかしたら、着陸船の窓より薄いかもしれない。

 着陸船。デブリに貫かれ、生命が必要する空気が星空の下に漏れ出していった着陸船。目の前にある扉が開くと同時に真空へ放り出される自身の姿が頭に浮かんでしまう。

「そりゃそうヨ。ワタシの家に向かうんだモノ」

 こともなげに彼女はそう言って、また一歩出口に向かって足を踏み出す。

「このまま?」

 ガリバーの声が大きくなる。ヨミョウは振り返ったが、今度は足を止めなかった。

「行くワヨ」

 止める間もなく扉が開いた。

 胸に抱いた一瞬の祈りが神に届いたとガリバーが気付くまで、十秒ほどの沈黙が流れた。星空の下に続くドアは開かれ、ヨミョウは彼に赤い瞳を向けている。空気が外へ飲み込まれることもなく、ただ扉は開いていた。

 ガリバーは、ゆっくりと一歩踏み出した。ヨミョウが外で待っている。彼女の後ろには建物が建ち、その上に黒い空が覗く。また一歩前へ。ガリバーの耳に声が届いた。ヨミョウの声ではない、はしゃぐ子供の笑い声だ。一歩、また一歩進み、ついに彼は外に出た。月の都の空気を吸った彼は、ヨミョウのことも忘れて病院に繋がる道へのろのろと踏み出し、呆然と立ち尽くした。

「なんだ、これは」

 それ以外の言葉は出なかった。

 視界に映るのは、車輪を持たずに浮遊する乗り物に、宙に浮かぶディスプレイ。それに、うさぎの耳を生やした人間のような生き物たち。行き交う人々の頭には、もれなくうさぎの耳が生えていた。存在する自然は理路整然と並ぶ街路樹だけであり、他の全てが人の手で設計されたかのように並んでいる。町の奥には灰色の大地が広がり、上には星空と、遥かな故郷が浮かぶ。

「ガリバー? オーイ」

 ヨミョウが呼びかけても彼は答えなかった。

 こんなのは、夢に描いていた月じゃない。

 覚悟はできていると思っていが、想像できない世界に足を踏み入れる覚悟などできるわけがなかった。どれだけ探しても人間の姿は見えない。うさぎ耳の住民だけだ。病室でこの町を上から見た時より心臓が痛い。ここは自分が住んでいた文明ではない。

「平気?」

 肩を叩かれたガリバーはビクリと跳ねて後ずさった。ヨミョウも驚き、身体を硬直させる。

「平気? 平気だ。平気か? 大丈夫だ。大丈夫。俺は狂ってない。俺は大丈夫だ」

 ハハ、と笑い声が漏れ、ガリバーは口を手で覆う。

 事故で頭がおかしくなったか?

 俺はまだ着陸船の中にいて、ろくに呼吸もできない状態で最期の幻覚でも見ているのか?

 笑える状況ではないだろう。しかし彼は、もう一度声を出して笑った。隣に立つ月のうさぎはポカンと口を開けている。

「俺は大丈夫だ」

 自分に言い聞かせたガリバーは、背筋を伸ばして月の文明を直視した。彼を見る人々にはうさぎの耳が生えている。うさぎの耳以外は人間だ。ただ月で生活しているだけの人間。そういうことにしよう。足元に敷き詰められた石畳の堅い感触も、どこからか漂う料理の香りも、ただ一つだけ地球を感じさせる街路樹の葉が擦れる音も、これが現実だと告げている。ガラス越しに眺めた町より、彼に現実を教えていた。

 彼は少女の方を向いた。

「あー……」

 名前が思い出せない。困惑の最中に聞いた気がする。

 少女は察したのか、改めて名を名乗った。

「ヨミョウって呼んデ」

「ヨミョウ。ヨミョウだな」

 忘れないように口に出して繰り返した。

「ヨミョウの家に向かうんだよな」

「ソウ。大丈夫?」

「大丈夫」

 うさぎの耳が生えているだけの人間だと思えば、彼女との会話は地球と変わらない会話だ。ガリバーは少しの安心感を得る。普通に会話ができる。誰かと話せることにここまで感謝したことは未だかつてない。人間とは違う生き物でも、コミュニケーションが取れるということは嬉しかった。

 冷静になると疑問が増える。

「なんで君の家に?」

「そういうルールなノ。誰カが月に落ちて来たら、見つけた人が世話をスル。誰カが来たのなんて私は見たコトなかったケド」

 淡々とヨミョウは語る。彼女の言葉が正しいなら、異星人の到来を興奮気味に語っても良さそうなものだが、やはり表情からは何を考えているのか分からなかった。ほほえみの一つも見ていない。

「見つけてくれたのも君だったのか。俺を見つけたばかりに邪魔することになってしまってすまない。助けてくれてありがとう」

「いいノヨ」

「お礼をしたいが……何をしたらいい?」

 これがもし幻覚ではないなら、俺がただ知らない国に来ただけであれば、まずは文化を知らなければいけない。文化を受け入れられなければ不要な争いを生む。月の価値観を学ばなければ。

 そう思い尋ねてみたが、直後にガリバーは後悔した。何かの実験体として扱われるとか言われたらどうすればいいのだろう。

 彼の心配は無用に終わった。

「地球のコトをいっぱい教エテ」

 それだけをヨミョウは返す。無表情のままでも、声が弾んでいるように聞こえた。

 ガリバーはぱちくりとまばたきする。

「それだけでいいのか?」

「ワタシたちにとっては貴重なチャンスなのヨ。だって、地球の人に直接質問できるノヨ? 聞きたいコトはたくさんあるワ」

「ああ、なるほど」

 そう言われれば納得できた。ヨミョウに聞きたいこともたくさんある。

「地球ではどんな暮ラシをしてるノ?」

 早速ヨミョウが尋ねてきた。彼は疑問を胸にしまい、まずは恩人の質問に答えることにした。

 ヨミョウの質問が止まらないと気付いたのは、三つほど彼女の質問に答えた後である。

「地球では何を食べてるノ?」

「肉とか魚とか――」

「サカナって川にいる生キ物デショ? ドンナ形してるノ?」

「魚の形か……足はなくて、背びれと尾が――」

「川って森ノ中にあるんダヨネ? キレイ? ガリバーが一番綺麗だと思った景色ってドコ? 青空ってナニ?」

 ガリバーが質問する間も――というより、答えすら全部言えないうちに次の疑問が飛んでくる。病室にいる時に黙っていた姿が嘘のようだ。俺の身を案じてくれていたのだろうか。と、ガリバーは彼女の願いに応えながら思う。ソワソワと視線だけを自分に向けていたのはこれが原因か。ヨミョウの質問が止まることはなく、質問の出だしを口にしても聞こえていないようだった。

「この都市に名前はあるのか?」

「アカルメイナス」

 彼女に聞けたのはこれだけだ。

 ヨミョウに尋ねることはできなかったが、一つだけ分かったことがあった。アカルメイナスと呼ばれる月の都のうさぎたちは、どうやらみんな揃って地球が好きらしい。表情が乏しいヨミョウから溢れ出る熱量から考えても明らかだったが、すれ違う人々もどうやら同じようだ。

 うさぎの耳を頭に生やした月の住民たちは、耳が一組しかないガリバーに気付くとパッと顔を輝かせる。彼の姿に気が付けば必ず指をさし、隣を歩く知り合いに話しかけていた。彼らが話す言葉は聞こえなかったが、悪い言葉ではないことはわずかに届く声の抑揚で分かった。ちゃんと聞くと、彼らが話す言葉のアクセントも違和感があるのだろう。ガリバーは混乱する頭の片隅で考える。違和感はあるが、どこか馴染みも感じるような……。

「着いチャッタ」

 唐突にヨミョウが立ち止まり、ガリバーは足を絡ませかけた。最後の質問の回答が途中であることをヨミョウは気にしていないようで、ドアの前で立ち止まっている。クレーターの外周に近い斜面の中腹に建つこの家が、ヨミョウが生活している家らしい。ドアは病院とは異なり木材で作られている。都市のどこかで木材が調達できるのだろうか。それ以外は月面で採取された石で建てたのであろうミルク色の壁だ。窓が上下に並ぶ二階建ての家屋の中からは、何の物音も聞こえなかった。

 立ち止まったヨミョウはソワソワと身体を揺らしている。

「ちょっと待ってテ」

 急に振り向いたかと思うと、ガリバーと目が合うなりそれだけ言って、一人で家の中に入っていった。心身共に疲労を感じているので早く休みたかったが、家主に待てと言われたら勝手に入るわけにもいかない。残されたガリバーは外壁に背中を預け、空を見上げながら深く息を吐いた。

 青い星が浮かんでいる。宇宙船のガラスもヘルメットも通さずに地球を眺めることになるとは夢にも思わなかった。視界を遮られずに直接眺める故郷の惑星は、言葉を失うほどに美しい。

 この景色が見られたことを心の底から喜べる状況なら……。

 ヨミョウの質問に答える彼は、ずっと地球のことを考え続けていた。苦労して買った自宅も、安らかな眠りをくれるベッドも、今では遥か空の彼方にある。実家を出て一人で訪れたタイムズスクエアの喧騒も、空軍時代の訓練で訪れたアパラチアの森が奏でる音楽も、今は聴くことが叶わない。

 何度も頭をよぎったのは家族のことだ。二十代半ばで結婚し、幸せな日々も十年が経った。宇宙飛行士になって月の景色をこの目で見るという困難な道を歩く俺を支え続けてくれた妻と、あと三か月も経てば九歳になる娘。俺に起きたことは伝わっているはずだ。二人のことを想うと胸が痛む。

 妻は、普通の生活を夢見ていたと言っていた。夫が空の彼方に行ってしまうような生活ではなかったはずだ。それでも一緒に歩んでくれたのに、悲しませることになってしまった。子供を一人残して。あの子は何を思っているだろう。自慢の笑顔が失われてしまったなんて考えたくない。

 ガリバーは拳を握りしめた。いったいどうやって生きていると伝えればいいんだ。どうやってこの遠く離れた星から帰ればいいんだ。

「お待タセ」

 ヨミョウが出てきた。脇に一メートルほどの丸い筒を担いでいる。両端にはレンズが埋め込まれ、太陽光を反射していた。

「それは?」

「望遠鏡。着いてキテ」

 望遠鏡を担いだヨミョウは町の中央を通る道路を背にして、ガリバーと並んで歩いてきた道の更に先に進んだ。進むごとに登り坂の勾配が大きくなり息が上がる。ふと、ガリバーは足元に視線を向けた。違和感が無いので気付くのが遅れた。月の重力ではないな? 身体の感覚は地球と変わらない。もし両脚に目一杯力を込めて跳躍したとしても、地球と同じ結果しか出ないだろう。ヨミョウに聞きたいことが増えてしまった。まだ都市の名前しか聞けていないというのに。

 二人がたどり着いたのはクレーターの縁だった。視界が開けている分、月の都の様子がよく見える。アカルメイナスはクレーターの三分の二ほどを埋めていた。

 ガリバーが振り返る。月の都を背にした彼の視界に入るのは灰色の大地。何も無い、岩と砂だけで作られた月の景色。ガリバーが夢見た景色が広がっていた。両手を上げて歓声を上げるようなことはしない。ただじっと、憧れていた景色を眺める。

「ココから見るのが一番綺麗に見エル」

 ヨミョウの声が聞こえ、ガリバーの頭が月の町へ引き戻される。不意に、彼女の発音の正体に思い至った。ナグモだ。プライムⅣのクルーより先に宇宙へ飛んだ南雲。JAXAから来た彼の英語の発音は、彼女が話す言葉のアクセントに似ていた。

 すでに望遠鏡を組み立て終えていたヨミョウは、覗いてみてとでも言うようにガリバーを手招きした。彼女に従いレンズを覗き込む。筒の向こう側に見えたのはアメリカの地だった。時刻は夜。文明の光を頼るしかないが、あの形は知っている。マンハッタン島だ。夜中でも昼間の様に明るい。

 望遠鏡から目を話してヨミョウに尋ねる。

「どうやって倍率を変えるんだ?」

「筒を捻ッテ」

 彼女のジェスチャーを真似て通りに筒を捻ると視界が引いた。光を頼りに海岸線をなぞり――見つけた。ここがヒューストンだ。ニューヨークに比べると光が薄く、まばらだ。何度も何度も通った道の光景は思い出せるのに、上から見るとまるで分からない。闇の中だ。家なんて探せない。

「クソッ」

 思わず望遠鏡に悪態をぶつけそうになる。拳を振り下ろす直前で踏みとどまり、自分の腿を叩いた。奥歯を噛みしめて空を見上げる。知らない星空が彼の視界を出迎えた。青色も白色もない空に、彼は長い息を吐いた。

「ちゃんと見えナイ?」ヨミョウが尋ねてくる。

「いや、町は見えた。俺が見たいものを見れなかっただけだ」

「望遠鏡ならいつでも貸すワ」

 望遠鏡の横に立った彼女は、筒を撫でながら顔だけ地球へ向けた。

「ずっとここカラ地球を見上げてるノ。海が見たクテ」

 ヨミョウの声は穏やかだ。矢継ぎ早に質問をしてきた時とは別人のようで、言い終えると口を閉じて待った。会話が続くのを待っているとガリバーは察し、うさぎの耳を地球へ向けた少女が求めているであろう言葉を返してみる。

「海?」

「ソウ、青い海」

 振り返った少女はガリバーに身体を向けた。すっと背筋を伸ばすと、声色を変えて話し始めた。足は大きく開いている。ガリバーは眉をひそめた。

「昔々のある日のコト。ワタクシの素敵なおばあ様が、カグヤ様から聞いたのデス。葉が擦れる音が心地よい竹林。おじい様やおばあ様と共に散歩に行った花舞う丘。見上げれば首が痛くなるほど大きな山。そして、蛍が照らす川の景色ヲ」

 胸に手を当て、大げさに動きながら彼女は語る。演劇でも見ているかのようだ。ヨミョウの声は先ほどまでと違って力強い。特別な想いを抱きながら語っている。

「川がそんなに綺麗なら、地上の生命が織りなす天ノ川と言った川がそれほど魅力的ならば、あの広い大海原はさぞや美しいコトでショウ。というワケで、私は地球の青い海が見たいのヨ」

 締めくくったヨミョウは動きを止めた。地球を背にしてガリバーを見つめる。

「ああ」

 ヨミョウに対する答えとも、口から零れ落ちた吐息とも分からない声がガリバーの口が発した。

 娘の笑顔が浮かぶ。そういえば、夏になったら海に行こうと、二人で約束をしていた。月でのミッションを終えればすぐに夏が来る。帰ってからも忙しいだろうけど、仕事の合間を縫って家族旅行に行こうと約束していた。あの子がテレビで見つけて行きたいと言ったマイアミビーチで、家族三人で朝日を見ようと約束していた。あの子を抱きしめたい。

「海ってどれぐらい綺麗ナノ? 綺麗なんデショ?」

 うさぎの耳が生えた少女が問いかけてくる。一番聞きたかった質問はこれなのだと、彼女の瞳を見てガリバーは察した。

 地球から来た男が息を吸う。月の空気が肺を満たす。

「綺麗だ。いつまでも心に残るぐらいに。俺の故郷だ」

 帰らなければ。

「ヨミョウ。俺は何としてでも地球に帰らなきゃいけない。協力してくれないか」

「帰ル? 帰れるケド」

「ハ?」

 声が裏返った。ガリバーの眉間に皺が寄ったことにヨミョウは気付いていたが、彼女は表情も声色も変えずに言葉を続ける。

「帰れないなんて一言も言ってないワ。月にもロケットぐらいあるワヨ? ほら、アソコ」

 ヨミョウの人差し指がガリバーの後ろを指す。視線で追いかけても数分前に見た町の景色しか広がっていなかったが、意味もなく振り返らせはしないだろうと目を凝らしてみると、それはあった。

 月の都の中でも一際大きなビルの後ろに、細く長く延びる一本のレールが置かれている。レールの一端は地面に沿って設置されているようだが、高い塀に囲まれて見えない。反対側は様子が違う。直線のレールは弧を描き、レールの端は星空へ向けられていた。

 マスドライバーだ。ロケットの打ち上げ装置じゃないか。

「ロケットも設計を始めてるから、ガリバーもそのうち地球に帰レル。一ヶ月ぐらいは待ってもらうコトになるけどネ」

「そんなこと言ってなかったじゃないか!」

「そうダッケ? ゴメン」

 頬を紅潮させたガリバーの怒号に、ヨミョウは一言で返事をした。何度も呼吸を繰り返して荒くなった息を整え、握りしめた拳をほどこうと努力する。

 大事なことは先に言えと文句を言いたいが、これ以上言っても、おそらく俺が疲れるだけで終わる。彼女は動じない。だったら、知るべきことを知ることに集中するんだガリバー。感情は抑えろ。ヒューストンでの訓練で散々学んだことだ。

 瞼を閉じ、妻と娘の笑顔を描いた。胸に手を置き、鼓動が正常なリズムを刻んでから目を開く。

「帰れるんだな? ちゃんと」

「帰れるワ。地球に飛ばすロケットを作るぐらいなら簡単ヨ」

 揺るぎのない声。月の文明が持つ技術への自信というより、ただ事実を伝える声だ。ロケットは予定通り完成し、ガリバーを乗せて地球へ発射される。これは決定事項なのだ。

「よかった……」

 片手で両目を覆ったガリバーは、涙がこぼれないように上を向いた。口元はゆるみ笑顔が零れる。手を外して瞼を開けば、青い瞳に星空が映った。今まで見てきたどんな星空よりも綺麗で、この空をいつまでも見つめていたいという想いが湧き上がってくる。

「ラッキーだったワ。見つけた最初の人が世話をするんだモノ。二人で話がデキル」

 ヨミョウの声も心なしか軽く聞こえる。彼女も人間と同じ心を持っているんだ。助けた人が安堵する姿を見て、彼女も高揚しているのだろう。

「ねえ、ガリバー」

 名前を呼ばれ、ガリバーは視線を下ろした。笑みの一つも浮かべていない月のうさぎは、怖いほどに真っ直ぐな視線を彼に向けていた。

「私を地球へ連れていってヨ」

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