第一話「異世界転移」
――冷たい風が頬をかすめた。
ゆっくりと意識が覚醒する。
目を開くと、そこは見知らぬ森だった。
「……え?」
どこまでも続く木々。鬱蒼と生い茂る葉が日光を遮り、地面には枯れ葉が積もっている。木漏れ日がちらちらと揺れ、風が吹くたびに葉がざわめいた。
自分は確か、大学の講義を受けていて……いや、その前に昼食を取っていたはずだ。スマホを見ながらぼんやりしていて――それから、何が起こった?
「ここ……どこ?」
自分の声が驚くほど静かに響く。心臓が高鳴るのを感じながら、ゆっくりと立ち上がった。そのとき、ふと足元に違和感を覚える。
そこには、一冊の本が落ちていた。
分厚い装丁の、まるで西洋の魔導書のようなデザイン。黒い革表紙に金色の装飾が施され、中心には何やら不思議な紋様が刻まれている。無意識のうちに手を伸ばし、その本を拾い上げた。
――次の瞬間、本が淡い光を放ち始める。
「うわっ……!」
驚いて手を離そうとするが、すでに遅かった。光は本から広がり、まるで体の内側に染み込んでいくような感覚が走る。頭の奥に直接何かが流れ込んでくるような、奇妙な感覚――それはまるで、新たな知識を授けられているような感覚だった。
やがて、光は消えた。
「……なんだったんだ?」
混乱しながらも、本を開く。すると、中には見覚えのない文字がびっしりと記されていた――にもかかわらず、その意味が理解できる。まるで自分の母国語で書かれているかのように、すんなりと読めるのだ。
《技能書――所有者: 春川悠真》
【戦闘系技能】
・短剣術(基礎習得)
・蹴術(基礎習得)
【非戦闘系技能】
・調合術(基礎習得)
【汎用系技能】
・軽業術(基礎習得)
・歩法術(基礎習得)
「……技能?」
まるでゲームのステータス画面を見ているようだった。しかし、これは現実だ。頭を振っても、視界が変わるわけでもない。技能書――この本は、自分の持つ技術や能力を記しているらしい。
さらに興味深いことに、本の最初のページにはこう書かれていた。
《この書を持つ者は、言葉の壁を越え、世界の理を識る資格を得る》
「言葉の壁を越え……?」
試しに、適当な言葉を口にしてみた。
「こんにちは?」
森に向かって発した言葉は、しかし、自分の耳には違う言葉として聞こえた。だが意味ははっきりと理解できる。
「マジか……」
どうやら、この世界の言語を自動的に理解できるらしい。技能書の効果なのか、それとも異世界に転移した影響なのか……。
異世界……?
その考えにたどり着いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。そんなバカな、とは思う。だが、目の前の光景は間違いなく現実で、自分の知る世界とはあまりにも異なっている。
ここは……本当に、異世界なのか?
そのとき――。
「グルルル……」
背筋に悪寒が走る。
咄嗟に後ろを振り向くと、そこには――鋭い牙を持つ狼がいた。
……いや、普通の狼ではない。
身体は通常の狼よりもひと回り大きく、黒い毛並みはまるで影そのもののように揺らめいている。その瞳は赤く輝き、こちらを睨みつけていた。
「やば……」
全身に冷たい汗が噴き出す。
どうする? どうすればいい!? 逃げるべきか? だが、この森のどこに逃げれば――
獣が飛びかかってきた。
「っ!!」
反射的に後ろに飛び退く。その瞬間、軽やかに体が動いた。――軽業術のおかげか? だが、考える暇はない。
狼はすぐさま体勢を立て直し、こちらに向かってくる。
(武器……武器は!?)
腰に手を伸ばすと、小さな短剣が収まっていた。そういえば技能書には「短剣術」と書かれていた。迷っている暇はない――抜刀し、両手で構える。
「くる……!」
狼が再び跳びかかる。
咄嗟に、持っていた短剣を振るう。
ガキィン!
鋭い爪と短剣がぶつかり合い、火花が散る。衝撃が腕に伝わるが、なんとか踏みとどまることができた。だが、狼の力は強い。このままでは押し負ける――!
「うおおおっ!」
渾身の蹴りを繰り出す。技能書に記されていた蹴術を、今できる限りの形で使う。
ゴッ!
見事に狼の脇腹へと蹴りが決まった。
「グギャッ!」
狼が苦悶の声を上げ、数歩よろめく。
(いける……!)
まだ完全に倒したわけではないが、少なくとも戦える手応えは感じた。短剣術と蹴術、軽業術を活かし、ヒットアンドアウェイで仕留めるしかない――!
――数分後。
最後の一撃を叩き込むと、狼は力尽きて地面に崩れ落ちた。
肩で息をしながら、短剣を持つ手が小刻みに震えているのを感じる。
「……勝った?」
実感が湧かない。だが、確かに自分は、たった今この異世界で初めての戦闘に勝利したのだ。
「はは……」
安堵が一気に押し寄せ、全身の力が抜ける。
どさり、とその場に座り込んだ。
空を見上げると、木々の隙間から光がこぼれていた。
――異世界での、生存戦争が始まったばかりだと。
主人公はまだ、このときは知る由もなかった。