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08.ノース邸

 ガタン、と。鈍い音に意識が引き上げられる。

 見開いた瞳に映るのは暗闇ばかり。誰かが起こしに来たと気付き、脳を隠さなければと起きようとした身体はうまく動かせず。

 間に合わないと身を強張らせ、鼓膜を貫く怒鳴り声に歯を食いしばり――しかし、聞こえるはずだった声は、いつまでも聞こえなかった。


「起こしたか」


 肩が跳ねたのは、聞き慣れない声が振ってきたからだ。

 光が差し込み、目を細める。明るくなったのに黒く、瞬いても夢は醒めず。しかし、現実と思うにはあまりにも温かい。

 周りを見ても、見えるのは黒と白だけだ。

 それが男の服と、自分を包む毛布だと気付かなくても、混乱が落ち着けば記憶も蘇る。

 目が醒めたと思っていたが、どうやらまだ夢の中らしい。

 それとも、先ほどの音はやはり誰かが起こしに来ていて、なおも眠り続けているのだろうか。


「まだ休んでいなさい。じきに着く」


 殴られるか、蹴られるか。今起きれば痛くされないと理解しているのに起きずにいるのは、最後までこの夢を見ていたいから。

 やがて来る痛みに耐えようと強張った身体に衝撃はなく、背中を撫でる感触に力が抜けていく。

 そうすれば、耳に響く鼓動の音が心地良く、再び微睡みかけた意識を引き戻したのは馬の声だった。

 ぶるる、と鼻から抜けていく音と同時に馬車が止まったことを知る。

 それからいくつか物音が聞こえ、浮遊感の後に肌を舐めたのは、忘れかけていた冷気。それでも寒いと思わなかったのは、触れ合った箇所が温かいからこそ。

 布の隙間から見えていたのは、仲介所よりも立派なお屋敷。その扉の先も広いのに、どこか落ち着くと思ったのは、仲介所と違って装飾が控えめだったからだろう。

 ギラギラと目に付く金色はどこにもなく、磨かれた床はまるで鏡のよう。

 この空間だけで、ドブが住んでいた物置が何個入るのか。

 

「おかえりなさいませ、旦那様」


 見渡していたドブの耳を揺らしたのは、この空間と同じく落ち着いた男の声。

 撫でつけられた、襟足の短い銀髪。皺の深い瞳の片側にレンズが一つ。

 おかえりと言ったことは、ここがノース様のお屋敷……と、目を瞬かせたところで灰色の瞳がドブへと移り、咄嗟に目を逸らす。


「少し立ち寄っただけだ。用が終われば戻る」

「こちらの青年は?」

「今回の監査にて保護した兎だ。しばらくこの屋敷に住まわせる」

「兎、でございますか」


 問い返すのは当然だ。抱えられているとはいえ、ドブの身丈はあまりに大きすぎる。

 混血なのは明らかだ。それを、主人の命令とはいえ住まわせると聞いて、いい感情を抱くはずがない。

 これが普通の兎なら歓迎されただろう。だが、ドブは醜く、汚らしい、愛される価値のない混血だ。

 そんな視線を向けられるのには慣れていたはずなのに心臓が跳ねて、強く布を握り込んでしまう。


「……あくまでも一時的な措置だ。他意はない」

「私は何も言っておりませんよ。しかし、兎ですか。ふむ……」


 想像する視線こそ、オーナーやアルビノたちに向けられたものが浮かぶのに、不思議と声に嫌悪はなく。

 監視官にお仕えしている人は感情を隠すのも上手なのかと考えた矢先に布を外され、思わず視線を向けた先には見下ろす灰色の瞳。

 怯え、強張るドブとは反対に、見つめる光はノースと同じく柔らかなもの。

 困惑している間も、その温かさが失われることはなく。


「猫の血に、ヴァルツ様と同じ毛色。これはこれは、なかなかに磨きがいがございますな」


 ほっほ、と朗らかな笑いに戸惑い、知らない名前に一つ瞬く。

 ヴァルツ、様。

 この状況で呼ばれるとすれば、それはまだドブを抱えている男以外にはいない。

 だが、聞いた名前はノースだったはずだと、混乱する間も会話は続く。


「すぐに医者の手配を致しましょう。それから、入浴と食事の用意も」

「――ぁ、」


 医者と聞いて、ドブの耳が震える。会ったことはない。だが、どんなことをするかは、ドブも知っている。

 風邪や怪我を治せる人。だが、そのためにはお金が必要だ。

 兎はその体質故に、体調を崩しやすい。ただの風邪と思っていても、数日後には床に伏せていることも珍しくはないのだ。

 だから仲介所にはそれぞれお抱えのお医者様がいて、いつでも兎を見られるようになっていると。

 だが、それは本物の兎だけ。混血にその資格はないと嗤う声は、ドブの記憶に刻まれている。

 本当の兎なら見てもらえたのにと、哀れみではなく侮蔑を込めた言葉は高熱で魘された悪夢ではなく、実際に投げかけられたもの。

 兎と違って丈夫なのだからと、そうオーナーに言われたことだって覚えている。

 確かに、猫の血が混ざっているので、純粋な兎に比べれば丈夫だった。それでも、体調を崩したことは何度もあったし、折檻で与えられた傷で熱を出したことも。

 混血でなければ今も生きていなかった。だけど、混血でなければ、そもそもこんな目にも遭わなかった。


「な……なにも、悪いところは、ありません」


 込みあげる感情を押し殺し、首を振ったのは伝える必要があるから。


「隠す必要はない。お前を咎める者はここにはいない。見えない部分にも傷がある可能性がある」

「い、いつものことです、慣れています。お医者様に、見ていただくほどのことでは、ありません」


 嘘ではない。この程度の痛みで休んでいたら、オーナーにどれだけ怒られていたか。

 ここにオーナーも他の兎もいないことは分かっている。それでも、お医者様は特別な存在でなければ見てもらえない。

 ここが夢でも拒否してしまうのは、ドブに植え付けられた認識のせい。


「保護した兎の体調を管理することは義務だ。医者にかかるのは、悪くないことを確認するためでもある」

「で、すが……」

「なんだ」

「なにも、お支払いできる、ものが」


 ぎゅう、と握り込んだ手の中。掴んだのは薄汚い布だけで、これだって厳密にはドブの物ではない。

 ドブが払えないなら、ノースが払うことになるだろう。

 その額がいくらであっても、掃除や皿洗いで賄えるとは思えない。

 苦しくもないし、辛くもないのに診てもらうのだって、ドブにはあまりにも抵抗があることだ。

 そもそも、ここに連れてこられたことでさえ、ドブにはまだ信じられないことなのに。

 ドブの耳を揺らすのは、頭上から聞こえる溜め息。僅かな疲れと苛立ちを感じ、強張る身体は肩を掴む手ですぐに緩む。


「……保護した兎から対価をもらうことはない。それは混血でも例外なくだ」

「ですが、それは、」

「抵抗があるというのなら、先に私がお前を診る。そこで問題がなければ医者は呼ばない。……セバス、扉を開けてくれ。私が入れる」

「旦那様自ら?」


 それこそ手を煩わせてしまうと止めるよりも先に、足が廊下を進む。追従する足音は、セバスと呼ばれた老人のもの。


「現時点の体調について報告書に記載する必要がある。詳細は後で聞くが、自分で確認できるのならそれに越したことはない」

「では補助を」

「私一人で十分だ。医師が来るまでに他の準備を終わらせておくように」

「……仰せの通りに」


 開いた扉の中へ連れ込まれ、真っ先に感じたのは、眩しい光と湿った空気だった。

 雨上がりに似て違うのは、肌を舐めるそれが温かいということ。そもそも今日は晴れていて、ここは外ではない。

 光に慣れてきた目で見えたのは、壁も床も白いタイルに埋められた部屋だった。

 内装こそ仲介所とは異なるが、ここが浴室気付いた途端、ドブの心臓が嫌な音を立てる。

 クスクスと嗤う声と、怒鳴りつける声が反響して、たまらず吸い込んだ空気は肺を満たしたはずなのに、息苦しさが拭えない。

 床に触れた足から全ての体温が奪われていくかのよう。

 身体の震えが止まらず、取られそうになった布を無意識に握り込んだのは何かに縋りたかったからか。


「っじ、ぶんで、洗え、ます」

「怪我を確かめなければ医師を呼ぶ判断ができない」


 先ほどそう言われたが、本当に医者を呼ぶ必要はないのだ。

 この位の痛みはいつものこと。我慢だってできる。

 それよりも、ここが浴室で、今から洗われる方がドブにとっては恐ろしい。

 ドブが仕置きの中でも一番恐れていたのは、水に沈められることだった。

 濡れること自体も嫌悪があったが、頭を掴まれ、力任せに沈められ、息ができない恐怖は他には代えがたい。

 それが死に直結していたからこそ、浴室の掃除だけはしくじらないようにしていた。失敗しなくても、オーナーの機嫌によって叩きつけられたのは、ドブの心に深い傷を残している。

 それこそ、今。オーナーがいないと理解していても、そこに入るのを拒絶するほどに。


「け、がは、ありま、せん。兎じゃない、から、お医者様も、必要、ありません。か……っ監視官、様が、汚れてしまいます、から……!」


 震えが止まらず、呼吸が乱れる。

 ただでさえドブを運んで汚れているのだ。これ以上汚してしまうのだって、ドブには受け入れられない。


「水だけいただければ、自分で洗えます。だから……」

「なんでもする、と言ったのはお前のはずだが」


 狭まった気道から漏れた音は、それこそ絞り出した声よりも、もっとずっと醜い響き。

 そうだ。ドブは確かにそう言った。なんでもすると。だから、生かしてほしいと。

 ドブをここまで連れてきたのは、その言葉があったからで、


「っ……ひゅ……」


 謝罪を。今すぐに謝らなければ。

 もしここから追い出されたら、今度こそ、本当に、

 

「も……し、わけ、ありませっ……!」

「っ、すまない、言葉を間違えた。お前を脅すつもりではなかった」


 崩れそうになった足が、肩を掴まれて支えられる。

 床に伏せるはずだった顔は覗き込まれ、眉こそ狭まっても、その瞳の色に怒りはない。


「……すまない」


 繰り返された謝罪に、ゆっくりと震えが止まる。

 悪いのは自分のはずだ。それなのに、どうして。

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