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07.保護

 滲んだ視界が、瞬くと共に輪郭を取り戻す。見開かれた瞳はどれだけ見つめようと美しくて、温かくて。

 この光景を焼きつけたいのに、喜びの淵から滲む悲しみに、涙が溢れて止まらない。

 兎は、愛される生き物だ。そのために育てられ、愛される価値を求めて、縋ってしまう。

 たとえそれが同情でも。本物の兎に与えられるものとは違っていても。そうだと理解してもなお、こんなにも心が満たされてしまう。

 決して、ドブには与えられるはずがないのに。望んだところで、誰からも愛されることはないのに。

 嗤われ、怒鳴られ、蔑まれ。冷感も痛覚も麻痺するほどに、深く、深く傷付いて。誤魔化し続けて。諦めて。

 だからこそ、せめて。気まぐれでも与えられたこの一瞬を覚えていたいのだ。

 もう二度と、この温もりが与えられないと分かっているからこそ。こんなにも苦しいのに、辛くない、矛盾した感覚を抱けないと分かっているからこそ。全部、全部。この目に刻みつけたい。

 そうすれば、きっと。ドブはこれだけで生きていける。

 この瞬間を何度も思い出して、繰り返して。記憶が擦り切れて、力尽きてしまうその時まで生きていけると。本当に、そう思えたから。


「――ふ」


 瞬き、散った光の中で男の顔が歪む。

瞳が、唇が、吐息が。柔らかく、優しく。それは、まるで春の息吹のように。

 だけど、それ以上に温かいのは、ためらいなく頭を撫でる指先。


「温かいか。……そうか」


 汚れてしまうと。汚いと。止めることも、問うことも忘れ。初めて頭を撫ぜられる感覚に、落ちた滴も男の指で拭われる。

 本当は、これは全部、夢なのかもしれない。だって、全てがドブには信じられないことばかりなのだから。


「え、あ――っわ、あ!?」


 むしろ夢だと信じ切ったドブが、突然宙に浮く。

それは唐突な夢の展開ではなく、男に抱き上げられたからだと気付いたのは、膝裏を支えられてから。

 見開いた瞳いっぱいに映るのは、汚れ一つない上質なコート。汚してしまうと強張った身体は、肩を支えられたことでより硬直し、呼吸まで止まりそう。

 ぐらりと視界が揺れるのは、純粋に抱き上げられたせいかのか。それとも、鼻先を擽る香りのせいだったのか。


「この子は私が預かる」

「えっ……え!? お前が!?」

「問題ないはずだが?」


 耳疑ったのは、声を荒げた男だけではなく、抱えられた本人も同じ。

 思わず見上げた先、ドブに向けた柔らかさはすでになく。淡々とした響きは、先ほどオーナーに対したものと変わらない。

 それだけ見れば、今の発言が聞き間違いと思っただろう。だが、続く言葉はどう聞いても肯定するもの。


「問題っつうか……」

「他の兎はいつも通り他の仲介所に引き渡せばいいが、書類上でも成人を迎えている兎を強制することはできない。また、国の保護施設も混血となれば手続きに時間がかかるし、最悪は他の兎の影響から却下される可能性がある。監視局で保護するのも望ましいとは言えない。現時点では、私の邸で保護するのが最善だろう」

「いや、それはそうなんだろうけど……」

「一時的な措置であれば、特例も降りる。それに、当人も抵抗がないのなら、誰が預かるか揉める必要もない」


 パチパチと瞬いても、言葉の半分も分かっていない。そうでなくても、きっと理解はできなかっただろう。

 保護。預かる。私の邸。……私が、預かる。

 何度も頭の中で繰り返して、それでも信じられない。

 だって、それは。それは絶対に、あるはずがなくて。


「待ってください!」


 甲高い声に肩が跳ねる。もう何度と聞いた声を間違えることはない。

 他の監視官が制止するにも関わらず、向かってくるアルビノの顔には隠しきれない焦りと怒り。


「こら、お前っ……!」

「どうしてドブなんかを連れていこうとするんですか! そいつは混血なんですよ!?」


 信じられないと見開く赤。遮る腕にしがみ付き、なおも声を荒げる姿は、とても兎にはあるまじき姿。

 声高に混血だと叫ばれ、強張った身体に与えられる温もりは変わらない。


「それが?」

「あなたは特別な兎を迎えに来たんでしょう!? この屋敷にいる誰よりも綺麗な髪に、宝石のように美しい瞳! ほら、声だって! そんなドブなんかよりもっとずっと綺麗です!」


 必死に訴える姿は、兎の愛らしさの欠片もなく。だが、その内容は紛れもなく事実だ。

 髪も、目も、肌も、声も。兎に求められる全てをアルビノは持っているのだから。


「この仲介所で一番特別なのは、間違いなくアルビノである僕のはず! あなたほどの監視官に相応しい兎は、僕以外にはありえません!」


 それなのに、なぜ。その腕に抱えているのは自分ではないのか。他の兎でも信じがたいのに、よりにもよってドブなのか。

 誰よりも特別な兎。自分以上に、愛されるに相応しい存在はいない。

 それなのに、なぜ。どうして!


「兎ですらない! 毛色だってこんなに黒くて汚い! 醜いそいつを連れて行く理由なんて――!」

「黙りなさい」


 告げられた声は、やはりそう大きいわけではない。

だが、氷のように冷たく、刃物のように鋭い低音は怯えるに十分過ぎるほどに恐ろしい響きだった。


「兎の秀美については評価が分かれる。お前の特徴が珍しいことも否定はしない。だが、少なくとも私はお前を愛らしいとは思わないし、受け入れるつもりもない」


 明確な拒絶に驚いたのは、告げられた本人だけではなく、ドブも同じ。

 アルビノは完璧な兎のはずだ。その毛色も、顔立ちも、振る舞いも。兎として求められる全てを持っているはず。


「え……な……なんで……だって……兎を受け入れに来たって……!」

「ピルツ、この兎を中へ。一度屋敷に向かってから監視局に戻る」

「了解。でも、こっちに来るのは明日でもいいんじゃないか?」

「ただの保護だ。私がそばに付き従う必要もない。セバスに申し伝えたらすぐに戻る」


 ドブが動揺するほどだ。アルビノの衝動は計り知れない。

 だが、ピルツと呼ばれた金髪の男との会話に戻る彼の目には、動揺するアルビノの姿はもう映っていない。

 なおもノースへ縋ろうとするアルビノが男たちに止められる中、男に抱えられたドブは運ばれるまま仲介所の外へ。


 遠ざかる声のかわりに聞こえるのは重々しい足音と、包んだ布と服が擦れる音。そして……自分の鼓動と重なる、心臓の音。

 力強く流れる血潮の音。初めて聞く他人の、命の音。

 もっとその音を聞きたいと目を閉じれば、より与えられるモノを強く感じる。

 雲に包まれているように温かくて、柔らかくて、いい匂いがして。

 だから、やっぱりこれは夢なのだろうと思い至り、ようやく落ち着きかけたドブの耳を揺らすのは、何かが開くような音。

 軋む木の音と、微かに聞こえる違う呼吸。カポ、と響く軽やかな音は馬の蹄。

 扉の音に、ここが馬車の中だと気付いて。乗るのは初めてだと、開けようとした目蓋は重くてうまく上げられない。


「すぐに着く。寒いだろうが、我慢できるか」


 抱える腕越しに伝わる温度も、聞こえる鼓動も。問いかける声だって。

 優しくて、温かくて。もうどこも寒くないのに。そうだと伝えなければいけないのに、意識がトロリと微睡んでしまう。

 せめてもの意思表示に首を振れば、上からさらに布を被せられて、もっとずっと温かく。頭まで覆われてしまえば、いよいよ薄暗くて、より眠りへと誘われてしまう。

 でも、眠りたくない。眠ってしまえば、この夢から覚めてしまう。

 起きたら、やっぱり自分はあの物置にいて。迎えられるのは、やっぱりアルビノで。

 混血でも生きていいのだと告げられた言葉も、自分を抱き上げてくれた腕も、微笑みかけてくれた顔も。今感じている全てが本当はなくて。

 絶望して、悲しんで。そうして……そうして、あの焼きつけた一瞬を何度も思い出して、生きていくのだろう。

 滲む涙が服に吸い込まれていく。わかっている。わかっているのに、そう考えただけで苦しくて、悲しい。

 手綱の音が聞こえ、馬車の揺れまでもがドブを寝かしつけようとするのに、もう抗うことができない。

 夢は、いつか醒めるものだ。

 だけど、どうか。どうか目覚めても、この夢を忘れていませんようにと。この先もずっと、忘れませんようにと。

 強く抱いた祈りは、温かい微睡みに揉まれて溶けていった。

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