05.異変
寒さに震えながらも、微睡みかけた意識を引き上げたのは、荒々しい誰かの足音だった。
オーナーのものではない。おそらく、従業員の誰か。それも一人ではなく、二人。
もう監視官の人は来ているのだから、こんな場所に来る暇はないはず。
いや、時折仕事を抜け出してくる人がいるから、今回もそうなのだろうと。納得しかけた理由は、殴りつけられた扉の音で消え去った。
「おい、早くしろ!」
「分かってるって……!」
擦れる金属音。荒れた呼吸。打ちつける鼓動はドブの心臓から響く。
こんなに慌ててドブを出そうとするなんて、今まで一度もなかったはずだ。
なにか失態を? それとも、またアルビノたちが嘘を吐いて、なにか咎められそうになっている?
まだ客人がいるというのに引き摺り出そうとするほどのなにか。忘れかけていた恐怖が爪先から込みあげ、無意識に身体が下がる。
だが、元よりドブに逃げ場はなく。扉が開くと同時に差し込んだ光に顔を覆う。
その腕も真っ先に掴まれ、引き摺り出された身体は踏ん張ることもできず。縺れた足がバランスを崩しても止まることは許されない。
擦れた皮膚より、打ちつけた頬より、耳に響く舌打ちの方が強く、痛く。どうにか状況を理解しようと開く瞳には、太陽の容赦ない光しか与えられない。
「ぐずぐずすんな! 早く立て!」
「もう抱えた方が早い!」
「あ? こんな汚ねぇの抱えろってか!?」
「時間がない! 早くしろ!」
再度、鼓膜を殴りつける舌打ち音。苛立ちのままに掴まれ、身体を覆っていた布ごと肩に担がれる。
視界は布に遮られ、なにも見えず。ただ、尋常ではないことが起きていることしかドブには理解できない。
震える声は怒りと恐怖の折り混ざったもの。
オーナーに命じられただけではない、明確ななにか。それでも、ドブには分からない。
「くそっ、なんで俺らがこんなこと……!」
「いいから早く隠せ!」
「どこに隠せっつうんだよ!」
「そんなの俺が知るかよ!」
近距離で交わされる言い争いに、鼓膜が破れてしまいそう。
抱えられた状態では耳を押さえることもままならず、目眩を覚える中で思考までもが回される。
隠すだけなら、今まで通り倉庫に押し込めておけばいいはずだ。
わざわざ引き摺り出した理由も、彼らが焦る理由も、何一つとして理解できない。
不安と、混乱と、戸惑い。ジクジクと響く痛みの中、全てが混ざり合って気持ちが悪い。
「いっそ敷地の外に出しちまえば、見つかっても関係ないだろ!」
息を呑む音は、ドブの震える唇から。
仲介所の外に出すということは、ドブをここから追い出すということだ。
半分でも兎の血が混ざっているドブが、外で生きられるはずがない。
雨風を凌げる場所があって、一食であろうとも食事を与えられて、ようやく生きながらえているのに。
ここを追い出されてしまえば、本当に死んでしまう……!
「お……っ、お許しくださいっ! 外はっ、外だけはっ……!」
「騒ぐんじゃねえ!」
殴りつけられ、薄暗い視界に光が散る。耳鳴りはより甲高く、喧しく。揺れる視界は滲み、呻き声すらも出せない。
どうして、こんなことに。
答えは与えられない。理由だって一つも分からない。
汚いと言われても、醜いといわれても、兎ではないと嗤われても、ドブはそれでよかった。
殺されさえしなければ。生きることさえできれば、それでよかったのに。
他はなにも望まない。温かい寝床も、柔らかなパンも、愛されることも。
たった一人、孤独に死ぬとなっても。殺されさえしなければ、それでよかったのに。
――それすらも、兎ではない。醜い混血の自分には、許されないのか。
「早くしろ! 見つかりでもしたら――」
「――見つかりでもしたら、どうなる?」
甲高い耳鳴りが、止んだ。
地面を踏みしめる重々しい足音。誰かが息を呑む音。投げかけられた、低い声。
鼓膜を揺するその響きは静かながら、まるで獣が牙を剥き、唸るように恐ろしく。だが、不思議と心地良く感じるそれは、いつの記憶にも掠らない。
ドブを担いだ腕が強張り、振り向いたような感覚。そうして、小さな悲鳴はすぐそばから。
「の……ノース、様……」
布の下、ドブの耳先がピクリと揺れる。
数刻前聞いたばかりの名前だ。禁制監視官。特別なお客様。アルビノを、迎えに来た、人。
その姿も、その声も、ドブは知らないし聞いたこともない。
だが、ドブを連れて行こうとした彼らが名を紡いだということは、今そこにいる男こそが、ノース様本人なのだろう。
「その抱えているモノはなんだ」
問いかける間も、そばから聞こえる心音はやかましく。そこに自分の心臓が混ざっていると自覚したのは息を吐いてから。
その視線を直接受けているわけではない。
薄いとはいえ、布越しでも分かるほどに空気は重く、少しの動作さえも許されないと理解する。
今のドブでさえそうなら、直接見られている男たちはなおのこと。
「た、ただの、ゴミです。オーナーから処分を頼まれただけで……」
「そ、そうです! 俺たちは言いつけられただけです!」
「私が聞きたいのはお前たちの保身ではなく、その中身についてだ」
ゴミ、と呼ばれたことに、普段であれば胸を抉られただろう。そうしてすぐに、事実であると諦め、忘れようと努めただろう。
だが、今はより恐ろしさを増した声を聞くのに必死で、それ以外の感情は出てこない。
抱える腕が震え、乱れた呼吸が鼓膜を揺すったところで地面までも揺れたのは、慌ただしい足音が聞こえてきてから。
「の、ノース閣下!」
荒い息づかいは、焦りと運動不足から。続く小さな足音は、ついてきた兎たちのものか。
この布の向こうに何人いるのかと考えて、抱いた恐怖は状況が理解できていないからこそ。
なぜ、大切なお客人がここにいるのか。どうして、オーナーはここまできたのか。
自分をここから隠そうとしたのは、それが理由なのか。
「こっ、ここにはなにもございません! 兎らのちょっとした冗談で、質素な物置に対して好き勝手に話を広げていただけなのです!」
「へぇ。アンタの預かっている兎は、監視官である俺たちに嘘を吐くってわけだ」
「いいえっ! そのようなことは決して! これは……そう、些細な勘違いにすぎません!」
聞き覚えのない声は、もう一つ。ノースと呼ばれた男とは違い、軽く明るい調子ではあったが、それが友好的でないことはオーナーの反応からも明らか。
こんなに必死に言い繕う声を、ドブは今まで一度も聞いたことがない。それだけ監視官と呼ばれる者たちが、オーナーにとっても重要な相手だという証拠。
「オーナーはそう言ってるけど、君たちの勘違いかな?」
「あそこがドブの部屋だよ」
「ほら、あの抱えられている汚いのがそうじゃない?」
「黙りなさいっ!」
クスクス、コロコロ。愛らしい声が、途端に悲鳴に変わる。滅多なことでは、純粋な兎に対して怒鳴ることもなかったのに。
よっぽどドブの存在を隠したかったのだろう。そして、まだ誤魔化そうと今も足掻いている。
その小さな指先は、しっかりとドブを差しただろうに。
「中身はなんだ」
「た、ただの不要品でございます。彼らには倉庫の整理をするよう命じただけで……」
「一日早まったとはいえ、お披露目中だっていうのに倉庫の整理ねぇ?」
鼻で嗤う音がこの距離からでも聞こえるのは、ドブの聴覚だけではなく、それだけ他の音が聞こえていないからだ。
本来なら、あり得ないこと。それをわざわざするだけの理由を、客人たちは既に気付いている。
「ただのゴミというのなら、見られたところで何ら不都合はなかろう」
「くそっ! 俺たちは言われただけだ! なにも知らない!」
淡々と告げる声は有無を言わさず。先に諦めがついたのは、ドブを引き摺り出した男の方だった。
地面に叩きつけられ、衝撃に呻く。骨まで響く痛みと、随まで冷える地面の温度。包まれた布のせいで身を縮ませることも満足にできず、藻掻く間に走り去ろうとしていた男たちが捕まったのが、なぜか遠くから聞こえたように感じる。
反対に、ドブに近づくのは重たい靴の音。それがノースと呼ばれた男のものだと、もうドブは知っている。
背に触れる手の感覚に、意図せず身体が跳ねる。先日叩かれた痕が遅れて響き、それから……想像以上に優しい手つきだったのに、驚く。
まるで労るように、ゆっくりと剥がされた布。差し込んだ光の中、真っ先に映ったのは自分と同じ毛色の靴だった。
同じ黒でも、磨き上げられた革は鏡のように美しく。それから、ドブでも分かるほどに上質なズボンを辿りかけて……蘇るのは、アルビノにかけられた言葉。
『お前みたいな混血は、見向きもされないだろうね!』
「――ぁ」
視界が揺れる。混血だと気付かれない、と抱いた可能性は、先ほどの兎たちの言葉で否定される。
経緯はどうであれ、彼はドブがいると知ってここに来たのだ。
兎たちがなんと言ったかまではわからない。だが、混血であることは、きっと知っているだろう。
オーナーや他の兎からの視線には慣れている。だが、それ以外の……それも、客人から向けられる嫌悪はこれが初めてだ。
これまで隠されていたのだから当然。そして、その度にかけられた言葉がドブの心を蝕んでいる。
醜く、汚い。見せれば不快になるだけの、価値のない存在。
そんな自分が見ては、もっと気分を害してしまう。そうなったら、もっと自分が傷付くことになる。
だからこそ、間違っても見ないようにと。強く瞑ったはずの目蓋は、頬に触れる温度で呆気なく開かれる。
焼けるほどに熱く、だけど痛みはない。叩かれたのではなく、本当に触れただけの……ドブにとっては、優しすぎる接触。
影がドブに落ち、光度が下がった視界の中。
磨き上げられた靴と、膝をついた下半身に二度も驚いて――導かれるまま、見上げた顔に息を呑んだ。
短く揃えられた髪。丸みを帯びた耳。ドブと同じ黒色なのに、闇夜のように深く、まるで吸い込まれてしまいそうな程。
兎たちの造形が総じて愛らしいというのなら、彼の姿はまさしく美しいというべきなのだろう。
ドブの語彙では、到底その美しさを表現しきることはできない。だが、今自分が見ている唯一の色は、ドブが知っている中でも最も美しいと断言できる。
鋭い双眸から覗く、深い、深い。それこそ、その髪や毛色よりも、もっとずっと深い蒼は、まるで夜空に浮かぶ星のよう。
僅かに開いた瞳孔に、恐怖を抱かなかったといえば、きっと嘘になる。
少しでも身動げば食べられてしまうと。それは憶測ではなく、本能として認識して――それでも、目を離さずにはいられない。
だが、ドブが目を離せなかったのは、それ以上に――。
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