表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/28

05.異変

 寒さに震えながらも、微睡みかけた意識を引き上げたのは、荒々しい誰かの足音だった。

 オーナーのものではない。おそらく、従業員の誰か。それも一人ではなく、二人。

 もう監視官の人は来ているのだから、こんな場所に来る暇はないはず。

 いや、時折仕事を抜け出してくる人がいるから、今回もそうなのだろうと。納得しかけた理由は、殴りつけられた扉の音で消え去った。


「おい、早くしろ!」

「分かってるって……!」


 擦れる金属音。荒れた呼吸。打ちつける鼓動はドブの心臓から響く。

 こんなに慌ててドブを出そうとするなんて、今まで一度もなかったはずだ。

 なにか失態を? それとも、またアルビノたちが嘘を吐いて、なにか咎められそうになっている?

 まだ客人がいるというのに引き摺り出そうとするほどのなにか。忘れかけていた恐怖が爪先から込みあげ、無意識に身体が下がる。

 だが、元よりドブに逃げ場はなく。扉が開くと同時に差し込んだ光に顔を覆う。

 その腕も真っ先に掴まれ、引き摺り出された身体は踏ん張ることもできず。縺れた足がバランスを崩しても止まることは許されない。

 擦れた皮膚より、打ちつけた頬より、耳に響く舌打ちの方が強く、痛く。どうにか状況を理解しようと開く瞳には、太陽の容赦ない光しか与えられない。


「ぐずぐずすんな! 早く立て!」

「もう抱えた方が早い!」

「あ? こんな汚ねぇの抱えろってか!?」

「時間がない! 早くしろ!」


 再度、鼓膜を殴りつける舌打ち音。苛立ちのままに掴まれ、身体を覆っていた布ごと肩に担がれる。

 視界は布に遮られ、なにも見えず。ただ、尋常ではないことが起きていることしかドブには理解できない。


震える声は怒りと恐怖の折り混ざったもの。

 オーナーに命じられただけではない、明確ななにか。それでも、ドブには分からない。


「くそっ、なんで俺らがこんなこと……!」

「いいから早く隠せ!」

「どこに隠せっつうんだよ!」

「そんなの俺が知るかよ!」


 近距離で交わされる言い争いに、鼓膜が破れてしまいそう。

 抱えられた状態では耳を押さえることもままならず、目眩を覚える中で思考までもが回される。

 隠すだけなら、今まで通り倉庫に押し込めておけばいいはずだ。

 わざわざ引き摺り出した理由も、彼らが焦る理由も、何一つとして理解できない。

 不安と、混乱と、戸惑い。ジクジクと響く痛みの中、全てが混ざり合って気持ちが悪い。


「いっそ敷地の外に出しちまえば、見つかっても関係ないだろ!」


 息を呑む音は、ドブの震える唇から。

 仲介所の外に出すということは、ドブをここから追い出すということだ。

 半分でも兎の血が混ざっているドブが、外で生きられるはずがない。

雨風を凌げる場所があって、一食であろうとも食事を与えられて、ようやく生きながらえているのに。

 ここを追い出されてしまえば、本当に死んでしまう……!


「お……っ、お許しくださいっ! 外はっ、外だけはっ……!」

「騒ぐんじゃねえ!」


 殴りつけられ、薄暗い視界に光が散る。耳鳴りはより甲高く、喧しく。揺れる視界は滲み、呻き声すらも出せない。

 どうして、こんなことに。

 答えは与えられない。理由だって一つも分からない。

 汚いと言われても、醜いといわれても、兎ではないと嗤われても、ドブはそれでよかった。

 殺されさえしなければ。生きることさえできれば、それでよかったのに。

 他はなにも望まない。温かい寝床も、柔らかなパンも、愛されることも。

 たった一人、孤独に死ぬとなっても。殺されさえしなければ、それでよかったのに。

 ――それすらも、兎ではない。醜い混血の自分には、許されないのか。


「早くしろ! 見つかりでもしたら――」

「――見つかりでもしたら、どうなる?」


 甲高い耳鳴りが、止んだ。

 地面を踏みしめる重々しい足音。誰かが息を呑む音。投げかけられた、低い声。

 鼓膜を揺するその響きは静かながら、まるで獣が牙を剥き、唸るように恐ろしく。だが、不思議と心地良く感じるそれは、いつの記憶にも掠らない。

 ドブを担いだ腕が強張り、振り向いたような感覚。そうして、小さな悲鳴はすぐそばから。


「の……ノース、様……」


 布の下、ドブの耳先がピクリと揺れる。

 数刻前聞いたばかりの名前だ。禁制監視官。特別なお客様。アルビノを、迎えに来た、人。

 その姿も、その声も、ドブは知らないし聞いたこともない。

だが、ドブを連れて行こうとした彼らが名を紡いだということは、今そこにいる男こそが、ノース様本人なのだろう。


「その抱えているモノはなんだ」


 問いかける間も、そばから聞こえる心音はやかましく。そこに自分の心臓が混ざっていると自覚したのは息を吐いてから。

 その視線を直接受けているわけではない。

薄いとはいえ、布越しでも分かるほどに空気は重く、少しの動作さえも許されないと理解する。

 今のドブでさえそうなら、直接見られている男たちはなおのこと。


「た、ただの、ゴミです。オーナーから処分を頼まれただけで……」

「そ、そうです! 俺たちは言いつけられただけです!」

「私が聞きたいのはお前たちの保身ではなく、その中身についてだ」


 ゴミ、と呼ばれたことに、普段であれば胸を抉られただろう。そうしてすぐに、事実であると諦め、忘れようと努めただろう。

 だが、今はより恐ろしさを増した声を聞くのに必死で、それ以外の感情は出てこない。

 抱える腕が震え、乱れた呼吸が鼓膜を揺すったところで地面までも揺れたのは、慌ただしい足音が聞こえてきてから。


「の、ノース閣下!」


 荒い息づかいは、焦りと運動不足から。続く小さな足音は、ついてきた兎たちのものか。

 この布の向こうに何人いるのかと考えて、抱いた恐怖は状況が理解できていないからこそ。

 なぜ、大切なお客人がここにいるのか。どうして、オーナーはここまできたのか。

 自分をここから隠そうとしたのは、それが理由なのか。


「こっ、ここにはなにもございません! 兎らのちょっとした冗談で、質素な物置に対して好き勝手に話を広げていただけなのです!」

「へぇ。アンタの預かっている兎は、監視官である俺たちに嘘を吐くってわけだ」

「いいえっ! そのようなことは決して! これは……そう、些細な勘違いにすぎません!」


 聞き覚えのない声は、もう一つ。ノースと呼ばれた男とは違い、軽く明るい調子ではあったが、それが友好的でないことはオーナーの反応からも明らか。

 こんなに必死に言い繕う声を、ドブは今まで一度も聞いたことがない。それだけ監視官と呼ばれる者たちが、オーナーにとっても重要な相手だという証拠。


「オーナーはそう言ってるけど、君たちの勘違いかな?」

「あそこがドブの部屋だよ」

「ほら、あの抱えられている汚いのがそうじゃない?」

「黙りなさいっ!」


 クスクス、コロコロ。愛らしい声が、途端に悲鳴に変わる。滅多なことでは、純粋な兎に対して怒鳴ることもなかったのに。

 よっぽどドブの存在を隠したかったのだろう。そして、まだ誤魔化そうと今も足掻いている。

 その小さな指先は、しっかりとドブを差しただろうに。

 

「中身はなんだ」

「た、ただの不要品でございます。彼らには倉庫の整理をするよう命じただけで……」

「一日早まったとはいえ、お披露目中だっていうのに倉庫の整理ねぇ?」


 鼻で嗤う音がこの距離からでも聞こえるのは、ドブの聴覚だけではなく、それだけ他の音が聞こえていないからだ。

 本来なら、あり得ないこと。それをわざわざするだけの理由を、客人たちは既に気付いている。


「ただのゴミというのなら、見られたところで何ら不都合はなかろう」

「くそっ! 俺たちは言われただけだ! なにも知らない!」


 淡々と告げる声は有無を言わさず。先に諦めがついたのは、ドブを引き摺り出した男の方だった。

 地面に叩きつけられ、衝撃に呻く。骨まで響く痛みと、随まで冷える地面の温度。包まれた布のせいで身を縮ませることも満足にできず、藻掻く間に走り去ろうとしていた男たちが捕まったのが、なぜか遠くから聞こえたように感じる。

 反対に、ドブに近づくのは重たい靴の音。それがノースと呼ばれた男のものだと、もうドブは知っている。

 背に触れる手の感覚に、意図せず身体が跳ねる。先日叩かれた痕が遅れて響き、それから……想像以上に優しい手つきだったのに、驚く。

 まるで労るように、ゆっくりと剥がされた布。差し込んだ光の中、真っ先に映ったのは自分と同じ毛色の靴だった。

 同じ黒でも、磨き上げられた革は鏡のように美しく。それから、ドブでも分かるほどに上質なズボンを辿りかけて……蘇るのは、アルビノにかけられた言葉。


『お前みたいな混血は、見向きもされないだろうね!』

「――ぁ」


 視界が揺れる。混血だと気付かれない、と抱いた可能性は、先ほどの兎たちの言葉で否定される。

 経緯はどうであれ、彼はドブがいると知ってここに来たのだ。

兎たちがなんと言ったかまではわからない。だが、混血であることは、きっと知っているだろう。

 オーナーや他の兎からの視線には慣れている。だが、それ以外の……それも、客人から向けられる嫌悪はこれが初めてだ。

 これまで隠されていたのだから当然。そして、その度にかけられた言葉がドブの心を蝕んでいる。

 醜く、汚い。見せれば不快になるだけの、価値のない存在。

 そんな自分が見ては、もっと気分を害してしまう。そうなったら、もっと自分が傷付くことになる。

 だからこそ、間違っても見ないようにと。強く瞑ったはずの目蓋は、頬に触れる温度で呆気なく開かれる。

 焼けるほどに熱く、だけど痛みはない。叩かれたのではなく、本当に触れただけの……ドブにとっては、優しすぎる接触。

 影がドブに落ち、光度が下がった視界の中。

磨き上げられた靴と、膝をついた下半身に二度も驚いて――導かれるまま、見上げた顔に息を呑んだ。

 短く揃えられた髪。丸みを帯びた耳。ドブと同じ黒色なのに、闇夜のように深く、まるで吸い込まれてしまいそうな程。

 兎たちの造形が総じて愛らしいというのなら、彼の姿はまさしく美しいというべきなのだろう。

 ドブの語彙では、到底その美しさを表現しきることはできない。だが、今自分が見ている唯一の色は、ドブが知っている中でも最も美しいと断言できる。

 鋭い双眸から覗く、深い、深い。それこそ、その髪や毛色よりも、もっとずっと深い蒼は、まるで夜空に浮かぶ星のよう。

 僅かに開いた瞳孔に、恐怖を抱かなかったといえば、きっと嘘になる。

 少しでも身動げば食べられてしまうと。それは憶測ではなく、本能として認識して――それでも、目を離さずにはいられない。

 だが、ドブが目を離せなかったのは、それ以上に――。


ブクマ登録、評価、誤字報告、いいね等。いつもありがとうございます!

少しでも面白いと思っていただけたら、評価欄クリックしてくださると大変励みになります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

★書籍化作品★

html>
↓なろう版はこちらから↓
html>
最新情報はX(旧Twitter)にて
(ムーンライトでも作品公開中)
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ