03.お披露目日
その日も、変わりない朝のはずだった。
日が登る前に起きて、言いつけられている仕事をこなし。他の兎たちの声を聞きながら掃除をして。
少し慌ただしい雰囲気だって、そろそろお披露目の期間があるからだと気付けば不思議なことでもなかった。
一年に一回。その年に成人した兎を紹介するための、大切な二週間。
その間に気に入った兎がいれば手付金を払い、お披露目期間が終わるまでに他の客から上乗せがなければ、正式にその兎を迎えることができる。
逆に、積まれた気持ちよりも多くの額を提示すれば、所有権を奪うことができる。
それを見越して、この期間中、客たちは複数の仲介所を見て回り、取られたとしても他の兎を受け入れるというわけだ。
本気で欲しいのなら、より多くの気持ちを積めばいい。
高くなればなるほどに、他者と競り合えば競り合うほどに、手に入れる兎の価値はより上がり、それが主人の権力を示す象徴ともなる。
無事に迎え入れられた兎は、各々が迎え入れられた主人の元で、ようやく愛されるようになる。
主人に迎えられ、そうして愛されることこそが、仲介所で保護された兎たちの夢なのだ。
仲介所にとっても、兎にとっても、他に代わることのない特別な期間。
だからこそ、それが近づくと誰もが慌ただしく、中からはひっきりなしに音が響き続ける。
兎は正装に着替え、オーナーは普段に増して着飾り、従業員たちは朝から晩まで走り回っている。
今年は特に忙しいだろう。だって、今年はあのアルビノが成人したのだ。
お披露目以外でも、訪問に来た貴族も多かったのは、その目的がアルビノの価値を確かめるため。
これまでも価値の高い兎はすぐにたくさんの気持ちを積まれて、三日もしないうちにご主人様が決まる。
今回ばかりはきっと長引くだろう。もしかすると、最後まで決まらないかもしれない。
しかし、それは貰い手のいないドブには関係のないことだ。
お披露目が始まれば、ドブはずっと小屋に閉じ込められる。
ドブのような、兎として価値のない混血を客の前に晒すことをオーナーが嫌っているからだ。
それはお披露目に関係なく、普段お客人が来た時も同じ。特に珍しいことでもない。
「――オラッ! 入れ!」
だからこそ、突然腕を掴まれ、再び物置に押し込められても、いつもの事だと思ったのだ。
勢いよく肩を押され、崩れた体勢を戻すだけの力はなく。顔から地面にぶつからなかったことだけが幸いか。
起き上がるよりも先に扉が勢い良く閉められ、呻くドブを包んだのは薄暗がりと冷え切った空気。
「そこで大人しくしてろ!」
外から鍵をかけて去って行く足音は、面倒くさいと隠す気もない。
そんなことをしなくても出る気はないのにと、呟いたところで聞こえるわけもなく。ゆっくりと起き上がった身体は、小屋の隅へと移動する。
またお客人が来たのだろう。昨日も誰かが来ていたはずだ。
なぜか外に出てもいいと言われたから違うかもしれないが……実際のところは、ドブには知り得ることもない。
誰かが来ている間、ドブはここから出られない。そして、遅れた分の仕事は食事と睡眠を削って補うことになる。
これがお披露目期間であれば、昼夜が逆転するだけで負担も少ないのにと、そう考えたところで意味はない。
あるいは、ドブが知らないだけで、もうお披露目に入ったのか。
もしそうなら、あと数刻も経たないうちに馬車の音が聞こえて、着飾ったオーナーがお客様をお迎えする声が聞こえるはずだ。
そうして、あの綺麗な部屋の中で。美しい正装に身を包んだ兎たちが、自分たちを愛してくれるご主人様を出迎えるのだ。
可愛らしく。愛らしく。そして、愛するに相応しい姿で。
……だが、やはりドブには関係のないことだ。
この期間中だけ、いつもよりたくさん休めるし、馬車の音はうるさいけど、それもすぐ慣れる。今までもそうだった。だから、これからだってそうだ。
膝に顔を埋め、鼓動に耳を澄ませる。そのリズムに呼吸を合わせれば、余計なことを考えなくていい。
とくり、とくり。子守歌なんて聞いた記憶はないけれど、きっとこんな感じに落ち着くのだろう。
じくりと痛む胸の奥。その感情に名を付けることを恐れ。少しでも休もうと、意識はより深く沈んでいく。
「――わぁ、ぼっろい小屋!」
とくり、とくり――ガサリ。
穏やかな微睡みから、無理矢理引き戻す異音。小さな足音と、耳をくすぐる可憐な声。
聞き間違いと思いたいドブの耳に届いたのは、紛れもなくアルビノの声だ。
アルビノ……と言っても、正式な名前ではない。名前は紹介者が決まった後、その者から授かるのが通例だからだ。
それまでは毛色や特徴で呼ばれたりする。そして、この屋敷でアルビノと呼ばれるのは一匹だけ。
「汚いし、臭いし、よくこんなところで眠れるよねぇ」
クスクスと笑う声は扉のすぐ外。
こうしてドブをからかいに来る兎は少なくない。その中でも執拗なのがアルビノだった。
水をかけられた回数も、失態を捏造されて罰を受けさせられたことも。その度に、他の兎と笑った回数だって数え切れない。
今握り締めている布を地中に隠すようになったのも、彼がオーナーに告げ口したからだ。
自分の大切な毛布が盗まれたと、きっとここにあるはずだと。
誓ってドブは盗んでいないし、見た記憶すらなかった。だが、醜い混血と愛らしい純粋な兎では、どちらの言葉を信じるかなんて言うまでもない。
全て捨てられていたものだと訴えても聞き入れられず、あの時は本当に死んでしまうかと思った。
……でも、それも幼い頃の話。
外見こそ全く異なるが、年だけで言えば、ドブもアルビノも成人に分類される。
わざわざ彼がここに来たということは、やはりお披露目が始まっていたのだろう。
どれだけ自分が褒められ、求められ、望まれているかをドブに聞かせるのがアルビノの楽しみの一つなのだから。
だが、それはいつもお披露目期間が終わってからのこと。
こんな時間に来るなんて、それこそドブが覚えている限り初めてではないだろうか。
「本物の兎である僕を騙せると思ってるの? 起きているのは音でバレバレだよ」
「……なにか、よう」
喉から絞り出した音は低く掠れ、まるで老人のようだ。
見た目だけでなく声すら醜いなんて、本当に救いようがない。
「なにって、可哀想なお前に僕の正装を見せに来たんだよ。わざわざ出向いてやったんだから、早く出てきなよ」
見ずともその姿は分かっている。
シルクであつらえた丸襟の半袖シャツ。黒い半ズボンを繋ぐサスペンダー。同色の靴下を繋ぐソックスガーターに、くすみ一つない革靴。
これがこの店での正装であり、全てがこの日のために卸される特注品。
統一されたデザインで、唯一異なるのは襟元で結ぶリボン。
若葉を思わせる緑は、まだ未成年である証。白はまだ誰にも指名されていなくて、赤は予約されている者。
お披露目期間が終わるにつれて赤の比率は多くなり、最後は全員同じ色でこの屋敷から出て行くのだ。
去年まで緑だったアルビノのリボンも、今はその髪と同じ真っ白のリボン。それも今日中には赤へ変わるだろう。
「あぁ、そうだった。お前、そこから出られないんだったっけ」
忘れていた、と呟く声と言葉は噛み合わない。ドブがこの時期に閉じ込められるのは、この仲介所にいる皆が知っていることだ。
それを毎回、温かい場所から他の兎と笑って見ていることだって、ドブは知っている。
「お前みたいなのがお客様の目に触れて不快にでもなったら、オーナーが困っちゃうもんねぇ」
「……そのオーナーに怒られる前に、早く戻ったら」
アルビノに限らず、兎たちに対してオーナーが怒ったことはない。
オーナーにとっては大切な商品だ。よほどのことがない限り、あの鼓膜が破けそうになるほどの大声を向けられることはない。
鞭なんてもってのほかだ。怪我なんてさせて、傷でも残れば途端に価値が減ってしまう。
だからこそ大切に、丁寧に。そうして、正しく愛されるように。
兎にとって、愛されなければ価値はない。そう分かっているからこそ、兎たちだってオーナーや主人に逆らうことはないし、オーナーもき傷付けることはない。
今アルビノがここにいるのだって、咎められるだけで終わるだろう。
「ふーん……」
ドブが分かっているなら、本人だって同じ。呟く声に焦りも怯えもない。
「今日で最後だっていうのに、随分な挨拶だね」
「……はじまったばかりだろう」
紹介期間が終わるのは二週間も先。予約こそ決まっても、仲介所を出るのは期間が終わってからだ。
その間、どれだけ避けたって顔を合わせるのなら、最後という表現は間違っている。
「なに? 知らないの? ……あぁ、兎じゃないお前は知らなくて当然だよねぇ」
だが、指摘されたアルビノは更に笑みを深め、クスクスと笑う。その顔は歪んでいるだろうが、それでも可愛らしさは損ねていないのだろう。
だって、彼は本物の兎なのだから。
「本当のお披露目は明日からなんだけど、特別にある御方の為に一日早まったんだよ」
「ある、おかた……?」
「そう、普通の金持ちや貴族じゃない。なんたって、あのノース様なんだから」
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