02.兎の価値
かつて人と呼ばれた存在と、獣と呼ばれた生き物。
長い歴史を得て血が混ざり合った結果。獣人と呼ばれる存在だけが残った。
犬、猫、鳥。その種も様々。そのほとんどが人よりも強靱であり、獣に比べて聡明だが、退化した種も存在する。
その最たる例が兎だった。
本来なら強靱な脚力と優れた聴覚を持つ獣だったが、人の血が混ざったことで残ったのはその聴力だけ。
肉体の成長は十五歳を迎えた程度で止まるが、身体は脆弱であり、誘拐や人身売買によって数は減り、今では保護対象として扱われている。
だが、それも表向きの話。
実際は仲介所と呼ばれる場所で、国の認可が下りた者によって身請けを望む者へと紹介される。
純粋に養子や家族として迎える者もいるが、大半は愛玩用の奴隷。
仲介者は相応の紹介料と引き換えに相応しい兎を、兎はその身を差しだすことで生活の保障を得る。
つまりは、貴族階級専用の奴隷なのだ。
今でも人里離れた場所でひっそりと生きている兎もいるだろうが……無事に一生を終えられる者は少なく、大半の末路は闇市を覗けば明らか。
一人では生きていけないなら、誰かに引き取られ、愛されるしか方法はないのだ。
いかに良い相手に引き取ってもらえるか。その為に、いかに可愛くあるべきか。いかに愛される存在になれるか。
そうして繰り返し教育された兎たちは自分の良さを磨き、引き取られていく。
だからこそ、兎にとって可愛さこそが価値であり、可愛くなければ生きていけない。
その中でも、外見に特徴がある者はより愛されるようになる。この仲介所で言えば、最も価値が高いのはアルビノだ。
まるで雪のように白い髪。宝石のように赤い瞳。春に咲く薔薇のように色付く頬に、小さく形取られた桃色の唇。
透き通るような白い肌に、華奢な手足。可愛らしさと美しさ、その両方を兼ね備えた姿は芸術品と呼ばれたほど。
その価値は他の兎の何十倍と言われているにも関わらず、身請けしたい者は後を絶たないという。
産まれながらにして約束された幸福。まさしく、愛されるために生まれてきた存在。
アルビノに限らず、兎ならばマシな生活がおくれるものだ。
清潔な服に、温かい食事。柔らかな寝床と、身体を清潔にする場所だって。
兎を身請けしているだけで、飼い主はその地位と財力を示すことができる。
貴族社会で優位に立つためにも、不可欠な存在となっているのだ。
純粋な兎なら。そう、本当の兎なら。
「はぁ……っ……」
冷え切った指先に吐きかけた息は白く、靄となって空気の中に消えていく。そうして温めようとしたところで、指の感覚は戻ってこない。
太陽はとっくに沈み、外に出たドブを照らす月は真上に登っている。
吹き付ける風は冷たく、もう一度吐いた息はやはりその身を温めるには足りない。
擦り合わせた手は赤く染まり、所々ひび割れも。滲む血こそなくとも、治まらない痛みはその心まで沁みるよう。
耳を貫くのは、それに勝るほどの静寂――ではなく、微かに聞こえる笑い声。
見上げた先、窓から見えるのは微かな光。
『可愛い子たち、もう遅い時間だ。お喋りはまた明日にして、早く眠りなさい』
『はーい!』
純粋な猫であれば聞こえなかった声は、微かに……だが、聞き漏らすことなくその会話を認識してしまう。
柔らかく温かい声。ドブ相手では考えられないほど、優しさに満ちた声だ。
それが愛ではなく、商品に対するものだとしても。怒鳴り、喚き、蔑むものよりはずっとマシだ。
眺めている間に光は遠ざかり、今度こそ望んでいた静けさを与えられる。
……純粋な兎なら、自分もあの中に混ざれたのだろうか。
あるいは、普通の猫であれば、普通に生きていけたのだろうか。
どちらも考えて、どちらも思い浮かばず。少しでも暖を取ろうと足に絡みつく尾を見下ろす瞳に色はない。
本来、仲介所の敷地にいられるのは兎と、仲介所で働く者と、オーナーと呼ばれる管理者だけだ。
実質的に奴隷とはいえ、兎は国に定められた保護対象。
客はともかく、他の種族と一緒にして兎が被害にあえば、それは全てオーナーの責任となる。
だからこそ、客でなければここには入れず。ましてや、住むことも許されていない。
兎でもなければ正式な職員でもないドブがここにいるのは、例外だと言える。
本来、兎は他の種と交わっても子どもを宿しにくいが、ごく稀に授かることもある。
そうして生まれた子は、本人らの意思がなければ国を介して仲介所に引き取られる決まりだ。
ドブもその例に漏れず、この仲介所へ引き取られたというだけのこと。
猫である父と、兎であった母の間に生まれたハーフ。本来はアルビノより希少な混血の価値は、普通の兎より遙かに劣る。
兎の血が強ければ引き取り手もいたが、ドブの外見は猫。毛も瞳も真っ黒で、身長だって他の兎たちを軽く越えている。
確かに猫に比べれば小型だが、兎として見るには明らかに大きすぎる。
もうすぐ成人を迎えるというのに幼さの残る面影は、半分でも兎の血が流れているという証拠なのか。
だが、求められるのは純粋で愛らしく、幼いままの兎。混血である限り、ドブに兎としての価値はない。
いつ闇市に卸されてもおかしくないのを、なんとかここに置いてもらえているのだ。
たとえ逃げたところで、学のないドブを雇う場所はない。
兎よりは強くとも、他の種族に比べれば明らかに脆弱。
少し無理をするだけで熱にうなされるのも少なくないし、到底普通のようには働けない。
せめて外見だけでも兎に近ければ、引き取り手もいただろう。
だが、見た目は猫と変わらず。そして、兎に求められる可愛らしさも無い。
ここでの扱いは、本当に奴隷と同じ。
それでも、闇市で売られ、死んでしまうよりはマシなのだ。
たとえ真冬に水をかけられようと、食事も一度しか与えられずとも、屋敷の中で温かい場所に近づくことが許されなくとも。
この汚い毛色に対し、ドブのようだと吐き捨てられ。それがそのまま彼の名になってしまったって、ドブは自分が恵まれていると思っていた。
だって、兎の価値がない自分でも、まだ生きているのだから。
凍える身体を引き摺りながら、ようやく辿り着いた先。
屋敷の真裏、隠されるように建てられた小屋……と呼んでいる小さな物置が、ドブに用意された住処だ。
壁は朽ちた木の板。同じくボロボロの扉の横に、外についた鍵が一つ。軋む音に眉を寄せる気力もなく、滑り込んだ中の空気は外と変わらず。
真っ先に出迎えた道具たちを横目に、三歩も歩かぬうちに辿り着いた奥で、慣れた手つきで穴を掘る。
露わになった木箱の中、詰められた布を全て取り出し、一枚ずつ肩にかけていく。そのどれもが薄汚れ、中には大きな染みがあるものも。
寒すぎて嗅覚も麻痺しているが、酷い異臭もしているだろう。
それでも、拾い集めたこれらがなければ、とっくに凍死していた。
破れたテーブルクロス。汚れたからと捨てられた服。中には切り刻まれたものを無理矢理繋げた物も。
その全てを丁寧に纏い、隙間が生まれないように体勢を整える。そうしてできた寝床の中、与えられたパンを囓るのが、唯一の幸せだった。
誰かに怒られることもない。可愛くないと嗤う声だって届くことはない。この醜い姿だって誰にも見られない。
隙間風が寒くとも、火だってなくとも……ここだけが、ドブにとって安心できる場所。
休み休み咀嚼し、ようやく食べ終えたところで顔を埋める。肌に触れる全ては冷たく、まるで拒絶するかのよう。
だが、猫でも、ましてや本物の兎ではないドブに縋れるのはこれだけ。
食事も寝床も与えられ、ここに残ることを許されている。
可愛くない兎に存在価値はない。それでも、まだこうして生きることを許されている。それで満足しなければならない。いいや、満足だ。
兎は可愛くなければならない。可愛くなければ、愛される価値はない。
ならば、兎ではないドブは誰からも愛されるはずがないのだ。
だって……自分はこんなにも醜くて、汚い。価値のない存在なのだから。
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