01.ドブと呼ばれた『兎』
水音が足元で弾けたのは、水たまりを踏み抜いたからではなく、頭上から水が降ってきたからだ。
骨の芯まで凍りそうな気温の中、あまりの冷たさに悲鳴すらあげられず、ただでさえ強張っていた身はうずくまる。
どれだけ身を寄せても剥き出しの肌が温まることはない。せめて濡れた部分だけでも脱げればマシになったのかと考えても、纏っているのは布きれ同然の服だけ。
髪先から滴る水滴は素足に当たり、水たまりに浮かんでいた惨めな姿が歪む。
だが、たとえ彼自身の目に映らずとも、ずぶ濡れで醜くなった姿までが無くなるわけではない。
「あれぇ?」
水の次に降り注ぐのは、クスクスと笑う声だ。導かれるまま見上げた先、美しく磨かれた窓の中で、様々な色が青年を見つめている。
焦げ茶色、淡い黒、薄い黄色。そして、桶を手に持ったままの白い影。
コロコロと鈴が転がるような声は、その桃色の小さな唇から。
赤く上気した頬は薔薇のように愛らしく、髪は真雪のように白い。
なにより……まるで砂糖菓子のような長い睫毛に縁取られた赤い瞳は、本物の宝石のように美しく。その全てが、愛らしさを表現していた。
「ゴミかと思ったら、お前だったんだ」
何の悪気もなく、可憐な声は柔らかく告げる。
実際に悪いと思っていないのだろう。窓枠へ乗せた細い両腕は、濡れた青年をより眺めるためのものだ。
「あはっ! おかしいと思った。こんな大きいゴミ、落ちてるわけないもんね!」
「オーナーが見つけたらすぐに掃除させるから、サボってるのかと思っちゃった!」
その後ろから追い打ちをかける複数の声が侮蔑に塗れていようと、クスクスと笑う動作に合わせ頭の上で揺れる耳も、ズボンから出ている尻尾も、同じく愛らしいものだ。
「勘違いしちゃった。でも、汚れているのには変わりないし、綺麗になってよかったんじゃない?」
小さく肩が跳ねたのは、寒さだけだったのか。
立ち上がれば、少しでも暖を取ろうと足に巻き付いた己の尾が視界に入り込む。
長く、毛羽立った醜い形。可愛らしさの欠片もない汚い黒。それは青年の頭から生えている耳も同じ。
長くもなければ、フワフワでもない。短くて、尖っていて、手入れしたところでとても触りたいとは思わないだろう。
本人でさえそう思っているのだ。他の獣人ならなおのこと。
たとえこの身体が清潔で、ちゃんとした服を着ていたとしても、
本物の兎ではない存在を誰が可愛いと言うだろうか。
自分にその価値はない。
わかっていても、こうして突きつけられると、ほんの少し胸の奥が締め付けられる感覚に襲われる。
「どうしたんだ、そんなところで」
「あっ、オーナー!」
野太く、柔らかな声に小さな耳が見えなくなる。代わりに覗いたのは、恰幅のいい中年の男。
質の良い服を纏っているのはいつもの通り。
全ての指には宝石が嵌めこまれた指輪を着けているだろうし、いつも青年を叩くステッキだって持っているだろう。
「窓なんて開けたら身体が冷えてしまうだろう? さぁ、私の可愛い子たち。早く温かいところへお行き」
「はぁーい!」
行こう行こう、と笑い駆けていく音。彼らほどでなくとも聞こえてしまう耳は、半分はその血が流れていることを突きつけるようだ。
「なにをしている!」
……そして、間髪入れずに降り注ぐ怒鳴り声に、それが自惚れであると否定される。
あまりの大声に鼓膜が痛みを訴えるが、これで耳を塞ごうものなら、ようやく治りかけた背中の傷が再び開くことになるだろう。
なにをしていると聞かれれば、命令通りに薪を割るところだったと答えられる。
だが、素直にそう伝えたが最後。それこそ歩けぬほどにふくらはぎを打たれるのは、嫌と言うほど思い知らされている。
ゆえに青年は頭を下げ、なにも言わずに次の言葉を待つ。
「さっさと仕事に戻れドブ! それが終わったらジャガイモの皮むきと掃除もだ! 時間までに終わらなければ、お前の飯は抜きだからな! まったく、誰のおかげで生きていけると思っている……!」
閉められた窓越しでも、苛立ちが収まらない主人の声は青年の耳に届いてしまう。
返事を求められていない声に出せる言葉はなく。できることは、言いつけを守ることだけ。
寒い、と。分かりきったことを呟いたはずの口に音は乗らず。震える息を吐きかけた指先に感覚は無い。
それでも動かなければ本当に死んでしまうと握った斧の取っ手は、当然ながら彼を……ドブと呼ばれた青年を温めることはなかった。
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