好みドストライクな暴虐公爵様に「君を愛することはないから安心してほしい」と言われましたが、ごめんなさい、私は愛してます。
「俺が君を愛することはないから安心してほしい」
朝日が差すベッドの上。
昨日は初夜だったというのに、ベッドに乱れはありません。
私の馬鹿。馬鹿、馬鹿。
自分の不甲斐なさに涙がこぼれそうになった私は、目を伏せました。
アンガス様はこんな私を、妻に迎えてくれましたのに。
私がアンガス様の元に嫁いで来たのには、理由があったのです──
****
「リリアン、お前はブラッドフォージ公爵に嫁げ」
「え?」
正直、何を言われたのか分からなくて、私はぽかんと口を開けました。
突然のお父さまからの呼び出しに急いで来てみれば、なぜか家族勢ぞろい。
みんな厳しい表情で、妹のエリザベスだけがにこにこしています。
一体何事かと身構えたのですが。
ブラッドフォージ公爵閣下に嫁げ、と? 聞き間違いでしょうか。
「あの、お父さま。今なんと?」
「ブラッドフォージ公爵に嫁げと言った」
眉間にしわを寄せて、お父さまが言いました。
「ですが。私はパトリック殿下と婚約しております」
どうやら聞き間違いではなかったようですが、なおさら有り得ません。
第一王子のパトリック殿下と私の婚約は、生まれた時から両家によって決められたものなのですから。簡単に覆せるものではないのです。
「問題ない。今朝、王家から婚約破棄の申し入れがあった」
「そんなまさか!」
「喜んで下さい、お姉さま」
ずっと上機嫌だった妹が、口角を上げたまますっと目を細めました。
「パトリック殿下はね。私との『真実の愛』に目覚めたの。陛下にもご許可を頂いたから心配しないで」
頬に手を当てたエリザベスが、笑っていない目でうふふ、と笑う。
「お、王妃教育は」
幼少期から今まで、血のにじむような王妃教育を施されてきたけれど。エリザベスは淑女教育こそ受けているものの、王妃教育はしていないはず。
「王妃殿下にお願いして、こっそり三年前から受けていたの。私はお姉さまよりも健康で優秀だもの。私の方が将来の王妃として相応しいと、陛下と王妃殿下も認めて下さったわ」
知りませんでした。エリザベスが三年前から王妃教育を受けていただなんて。私の今までの努力は何だったのでしょう。
「わ、私は今まで殿下のためを思って」
「ええそうね。お姉さまとしては、そうだったのでしょうね。でもそれがパトリック殿下にとってうんざりなのですって。私はずーっと殿下から相談を受けていたのよ」
パトリック殿下が、私のことを疎ましく思っていたことは知っていました。私があれこれ進言する度に不機嫌になられていましたから。
殿下の私への視線の冷たさと、妹への熱の温度差にも気づいてはいたのです。
お忙しいと言って茶会にも来て下さらないのに、妹と楽しそうに談笑する姿を見かけたこともありました。
でもだからといって、まさか妹と真実の愛を育んでいただなんて。嘘でしょう?
「でもそれじゃあ、お姉さまが可哀想でしょう? だから陛下にお願いして、ブラッドフォージ閣下との結婚を取りつけてあげたの。良かったわね、お姉さま」
なんて妹なのでしょう。
身体が勝手にふるふると震えました。
妹と殿下のことでも衝撃だったのに、結婚相手があのブラッドフォージ閣下ですって?
アンガス・ブラッドフォージ公爵閣下。通称暴虐公爵。御年二十六歳。十四歳の時から戦場を駆け、鬼神の如き強さと非情さで、誰よりも魔獣を屠った英雄であり、同時に味方をも斬る狂戦士と恐れられている御方です。
身分のある結婚適齢期を過ぎた男性だというのに、凶悪・凶暴な性格から婚約のこの字も浮かんでいません。彼に嫁ぐということは、貴族令嬢にとって死刑宣告に等しいのです。
「ああっ」
「まあ、お姉さま。泣くほど嬉しいだなんて。私も嬉しいわ」
思わず崩れ落ちて涙を溢すと、妹が嬉しそうに笑いました。
本当になんて妹なのでしょう。
「国王陛下は公爵閣下との結婚は早急に進めるようにとの仰せだ。すぐに婚姻の手続きを済ませるから、そのつもりでいなさい」
こうして私は口ごたえも心の準備も出来ないまま、アンガスさまとの婚姻は進められ。
「君を愛することはない」と告げられてしまう、初夜へと至ったのです。
****
「アンガス。お前帰ったらリリアン・ホワイトリー侯爵令嬢と婚姻な」
「は?」
遠征中のテントに突然やってくるなり満面の笑みで告げた兄に、俺は間抜けな答えを返した。
一人用にしては広いテントの中には誰もいない。物もない。寝袋が一つと、脱いだばかりの血のついた鎧下があるだけだ。
俺には特異体質からくる発作があって急に暴れる。人や物の見境なく壊してしまうから、周りに物を置かないようにしている。従者も用のある時しか側にいさせない。まあ、そもそも怖がって誰も近づかないけど。
「誰と誰が結婚ですか」
「お前とリリアン」
「冗談ですよね」
「本気本気。王命だから拒否権ないな」
俺は頭を抱えた。この俺がリリアン嬢と結婚なんて、有り得ない。
「無理です。兄上から陛下に言って下さい」
王命なら断れないが、目の前の兄は陛下に進言できる立場の人間だ。兄は基本的に俺に甘い。今回も何とかしてくれるだろう。そう思ったのだが。
「無理だね。なにせ陛下に薦めたのはこの私だ」
「はああああ?」
にこにこと聞き捨てならないことを兄が言った。
正気か。
思わず足に力が入り、地面がぼこっと陥没する。
「どうした、発作か」
「発作だったらこんなものではすみませんよ」
しまった。俺は反省して無駄に開けてしまった穴に土を入れて戻す。
発作が起きていなくても、俺の筋力は普通の人を遥かに越える。
「兄上が進めたとはどういうことですか。リリアン侯爵令嬢は‥‥‥」
「第一王子の婚約者だったな。安心しろ。第一王子はリリアンの妹エリザベスと婚約し直した」
どこに安心要素がある。無茶苦茶だ。
ということは何か。リリアン嬢は婚約者を妹に盗られ、暴虐公爵に嫁がされるのか。最悪すぎるだろう。
「リリアン嬢は体に欠陥を抱えている。将来の王妃は務まらないとの陛下のご判断だ」
「なおさら俺なんかと結婚など無理でしょう」
屈強な男でさえ俺の側に居たがらないのだ。体の弱い令嬢が耐えられるはずがない。
発作が起きれば、何かを破壊しなければ収まらない。だから俺は成人前に魔獣討伐隊に入り、ずっと最前線で過ごしている。発作が起きても魔獣を殺せば済むからだ。
近くに人がいれば、いつ傷つけるか分からない。建物を破壊しては迷惑がかかる。
十四歳で入隊後、王宮や公爵邸には、ほとんど足を踏み入れていない。近くに街や村があっても、俺だけは一人で野営している。
化物、怪物、厄災。破壊が服を着て歩いているような男。それが俺だ。
そんな男の妻になったら、健康な人間でも参ってしまうだろう。
「お前との結婚はリリアン嬢本人の希望だよ」
「リリアン嬢の希望ではなく、エリザベス嬢の希望の間違いでしょう」
姉妹の仲は有名だ。もちろん悪い方に。
「否定はしない」
兄が苦笑した。
「このままだとリリアンは長く生きられない。長くない人生。本人の希望を優先して、好きな男と過ごさせてやりたいそうだ」
「好きな男‥‥‥」
それこそ有り得ない。俺のような人間を好きになる人などいるものか。綺麗な嘘でくるんでいるだけだ。
「その顔は嘘だと思ってるな」
「誰でもそう思うでしょう。余命いくばくもない姉に、なんて仕打ちだ!」
王子妃になるため、エリザベス嬢が姉のためだと兄を言いくるめ、邪魔なリリアン嬢を俺にあてがったのだろう。
怒りにまかせて拳を振ると、突風が起こった。テントの外からガシャンという物音と「ひえっ」という悲鳴が上がる。
すまない。
ああもう。つくづく自分の体質が嫌になる。
大きく息を吐いた俺は眉間を揉んで怒りを逃がした。
「兄上はそれで本当にいいのですか」
どこがいいのか俺にはさっぱりだが、兄は昔からエリザベス嬢のことが好きだった。
しかし兄は、地位を利用して求婚すれば確実に手に入るのに、エリザベス嬢の意思を尊重すると言って、求婚しなかった。
エリザベス嬢とは一度だけ会ったことがある。
正確には姉妹とは、だ。
俺が十歳かそこらのことだ。引きこもっていた屋敷の離れに、リリアン嬢が迷いこんで来たのだ。
天使かと思った。
柔らかい銀髪が日の光を受けて、きらきらと輝いていた。赤い瞳は宝石のようだった。俺のことを知らなかったのか、怖がらずに挨拶をしてくれて。
人との会話に飢えていた俺は、いけないと思いつつ屋敷に招き入れた。
他愛もない話をしていると、エリザベス嬢が乗り込んできた。勢いよく屋敷の扉を開き仁王立ちをしたエリザベス嬢は、恐ろしい剣幕で俺を罵ったと思うとリリアン嬢を連れて立ち去った。
悪魔かと思った。
「兄上も兄上です。あのエリザベス嬢に尽くす理由が俺には分かりません」
「気高く、綺麗で優しい人だよ」
どこが、という言葉を俺は飲み込んだ。
兄がふわりと微笑んだからだ。
「心配するな。全て上手くいく」
俺に人との会話経験が足りないせいだろうか。
兄の気持ちは、やっぱり分からない。
****
流石は国王陛下公認の結婚です。
周囲のお膳立てがものすごい勢いで進んだのはまあ、予想通りでした。
けれどまさか。
初顔合わせが初夜からなんてっ。
アンガス様は少々特殊な方。通常の王侯貴族のように大々的な結婚式も行われず、書類上のやり取りだけで婚姻は成されました。
周りの思惑とお膳立てによる契約結婚ですが、義務だけは果たさなければなりません。
心の準備も出来ないまま夫婦の寝室に放り込まれた私は。
初夜のおつとめを果たす前に気を失ったのです。
‥‥‥なんてもったいないっっ!!
「俺が君を愛することはないから安心してほしい」
乱れのないベッドの上に姿勢よく正座をしたアンガスさまは、低く唸るように言葉を吐き出されました。地の底から響く、震えが来るようなお声です。
どうしましょう。怒っていらっしゃるアンガス様が素敵です‥‥‥ってそんなこと思っている場合ではありません。
私はふるふると頭を振って、邪念を追い払いました。
夫婦となる初めての夜。大事な大事な夜だったというのに、妻となる人間は何もしないままに気絶。
字面だけでもひどいです。誰でも怒ります。
愛する人ならばまだ許せるでしょうが、無理矢理押し付けられただけの妻なのです。余計に許せないでしょう。
「私が不甲斐ないばかりに申し訳ありませんでした」
私は深く頭を下げました。情けなくて涙がこぼれそうです。
ああ、本当に私の馬鹿。
たとえ愛されることがなくても、昨夜は唯一のチャンスでしたのに。
私は生まれつき体が弱く、長くは生きられません。つい最近、医者からはもうあと一年ほどだと言われてしまいました。エリザベスが強硬手段をとったのは、そのせいなのです。
「すまなかった。怖かっただろう」
「そんなことはありません!」
断じて違います。その反対です。
「昨夜はそ、その。初めてなもので緊張してしまって。ついテンショ‥‥‥いえ、血圧が上がってしまったといいますか」
だってだって。
初恋の男の子が、もうもう、好みドストライクの美丈夫に育たれていたのですよ。最高じゃありませんか。
きりっと力強い眉と射抜くような鋭い目。厚く大きな唇。しっかりとした鼻筋。鋼のように真っ直ぐな髪。日に焼けた肌。
子供の頃あんなにお小さかったのに。太い首も広い肩幅も、私の倍はあります。倍!
しかもよく見れば、お体のあちこちに傷跡が走っているじゃないですか。夜着から出ている部分であれなのですから、脱がれたらどれだけでしょう。
たまりません! 撫でまわしたい。
普通なら変態ですが初夜です。お触りし放題ですよね?
この時点でテンションと血圧がヤバかった私ですが。
大きくて強面のアンガスさまが。なんと。なんとっ。
寝室に入られるなり。
『すまない。こういうことに慣れていなくて。初めてだから上手く出来ないかもしれない』
と、真っ赤なお顔での告白ですよ。こう、目を薄着の私から逸らしながら、口元を大きな手で隠しての照れ顔で。
最高ですか!!
そのお体とお顔で初心とかっ!! 最高ですかっ!
好みドストライクな推しの、想像以上の反応に私のテンションは爆上がり。振りきれてしまい。
鼻血を出して気を失ってしまったのです。
なんて! もったいないっっ。
「無理をしなくていい。君のような可憐な人に、俺のような野獣があてがわれたんだ。ましてや君はつい先日までパトリック殿下の婚約者だった。俺が君を愛することはないから安心してほしい」
――俺が君を愛することはないから安心してほしい――
硬い声がぐわんと身体中に響きました。
「……はい」
『愛することはない』。
分かっていたことです。
この結婚はアンガス様の気持ちなど無視の、妹のごり押し。アンガス様は仕方なく私をもらって下さっただけ。
けれど、直接聞くと思った以上に衝撃でした。
ああ、私の馬鹿。
せめて昨夜気絶などしなければ。初夜の思い出を胸に死ねたのに。
「な、泣かないでくれ」
「え?」
言われて頬に手をやれば、濡れています。
知らず知らず、泣いていたようです。
「その、これを」
アンガスさまが、ぎこちなくタオルを差し出して下さいました。お優しい。好き。
「ぐすっ、ありがとうございます」
タオルを受け取る際に、無骨な手に触れました。
手のひらから伝わる感触も想像以上にたくましいです。好き。
「うっ」
アンガス様が、火傷でもしたように手を引っ込めました。
呻き声の掠れた低音が素敵すぎて、きゅんと胸がうずきます。切ないです。
見つめていると、お顔がみるみる赤く染まっていきました。
よろよろと後ずさりしていきます。
「アンガス様‥‥‥」
私が涙声でお名前を呼ぶと、勢いよく背中を壁にはりつかせました。途端にぼこっと壁が陥没、一部に穴が開きました。
アンガス様は強張った顔で壁の穴を数秒眺めた後。
「怖がらせてすまなかった! 君には指一本触れないから安心してくれ!」
と叫んで扉を紙きれのように吹っ飛ばし、脱兎のごとく走り去ってしまいました。
****
うわぁあああ、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。俺の馬鹿。
寝室から一気に玄関ホールまで駆け下りると叫んだ。
「おい、誰か!」
執事を呼びたいが、名前が分からない。
人と関わることを避け続けた俺は、使用人の誰一人名前も知らないのだ。
俺には身分上、かなり大きな屋敷が与えられている。当然管理には人手がかかるから、大勢の使用人たちが屋敷を維持してくれている。
だが俺はいつ発作に見舞われるか分からない。使用人たちは俺が遠征で屋敷にいない間にいて、帰宅する時には逆に休暇に出すようにしている。
ゆえに長年俺に仕えている執事とて、俺との接点はほとんどない。
「はっはい、ただいま!」
執事を始め、屋敷の使用人たちがわらわらと出てくる。全員蒼白な顔でぶるぶると震えていた。
「俺は戦場に戻る。妻を頼んだ」
「は? しかし」
「公爵家といってもうちは特殊だ。社交も何も必要ない。ただ妻が何不自由ないようにだけ計らってくれ。必要な予算はいつも通り、好きなだけ陛下に申請してくれ」
「かしこまりました」
「あの、ブラッドフォージ閣下」
ほっとした顔をした執事の横から、中年の男がおずおずと手を挙げた。
「なんだ」
「リリアン様のお体のことですが」
男はリリアンの主治医だ。気の毒だが、リリアンの体をよく知った医者の方がいいだろうと連れてきた。
ちなみに俺は体が丈夫なだけが唯一の取り柄であるし、そもそも屋敷に寄りつかないから主治医はいない。
「普通の人間は血液と魔力が大なり小なり体を巡っておりますが、リリアンさまには生まれつき魔力が全くございません。そのせいで、様々な体の機能が正常に動かず、常に低血圧と貧血状態です。特にここ最近は症状が悪化しておりました」
「そうか」
リリアンは透けるような白い肌。柔らかく波打つ銀髪に、きらきらと輝く大きな赤い瞳。小鳥のさえずりのような美声。手足も腰も折れそうなほどに細いのに、その、溢れそうなほど胸が大きい。
可憐で愛らしい容姿だが、あまりにも細く白く、小さい。体質のせいで大きくなれなかったのだろう。
病気というものをしたことがなく、怪我を負った時でさえ動け、数日寝れば治る俺とは大違いだ。
「ですが昨夜のリリアンさまの脈は安定しておりました」
「そうか」
それは喜ばしいことだ。
俺はほっとした。
「病は気からと申します。閣下が側にいて下さるのはリリアンさまにとって何よりの精神安定剤なのでしょう。お忙しいのは分かりますが、出来れば側にいて下さいませんか」
嘘を言うな。気絶したじゃないか。
リリアンが初夜で倒れた時、俺は恥も外聞もなくこの医者を呼んだ。
初夜で妻になにもしないうちに卒倒されたなど醜聞だが、俺の評判などどうでもいい。誤魔化して伝えたせいでリリアンの診断が誤ってはいけないと、包み隠さず事情を説明している。
その時の診断は、異状なし。気絶したのは極度の感情の高ぶりによるものだろう、と。
極度の感情の高ぶり。
そんなもの、恐怖に決まっている。
か弱い令嬢が強面の大男と初夜だ。女性にとって、その、体に負担の大きいことであるし、初めては痛いと聞く。会ったこともない男に体の隅々を委ねて、その上痛い思いをするのだ。緊張と恐怖はいかばかりか。想像もつかない。
それも暴虐で有名な俺とだぞ。恐怖以外の何者でもない。
なのに。
馬鹿か俺は。
ああ。馬鹿だ俺は。
俺はリリアンのあまりの可憐さにのぼせて。
言おうとしていた台詞が飛んでしまった。
『すまない。こういうことに慣れていなくて。初めてだから上手く出来ないかもしれない』
違うだろう!
何を血迷って初めてだと告白してるんだ。慣れてない童貞なんて余計に怖いだろう。
しかも照れて顔を真っ赤にしてだぞ。気持ち悪。
男でも気絶するぞ。
「俺の体質は知っているだろう。いつ暴れるか分からないんだぞ」
俺の発作である破壊行為は、感情の昂ぶりとは関係ない。
発作は赤ん坊の時からあったが、未熟な幼子の癇癪として扱われた。
赤子が泣いて暴れるのはよくあること。まだ力も弱かったため、発作で暴れても大した被害はなかった。
しかし成長するにつれ両親も周囲も俺の異常性に気づいた。幼い子供の力では破壊不可能な金属製の燭台や器などまで叩き壊したのだ。
普段大人しく穏やかな俺が急に物を破壊する。母や乳母の骨を折ったこともある。
怒ったり泣いたりしたからといって、人に怪我をさせたり破壊したりといったことはなく。機嫌よく笑っていた時や静かに遊んでいた時にも暴れる。
規則性のない爆弾のような存在だ。
何かの呪いか。脳の異常か。
医者や魔法使いがそろって俺を診察した。診断結果は、魔力過多による魔力爆発症。
俺の魔力数値は異常に高かった。
発作は、溜め込めない魔力を体の外に出すためなのだろう、というのが医者や魔法使いたちの所見だった。
他人より体が大きくなったのも、少しでもため込む容量を増やすためらしい。
「見ろ、あの壁を」
俺は二階の寝室を指さした。扉は外れ、壁には大穴があいている。
「発作が起きていなくてもあれだ。扉や壁より小さくて弱い妻の体がどうなるか」
ありがとうとタオルを受け取った彼女の笑顔が浮かぶ。目尻に涙をためての笑顔。不可抗力で触れてしまった手は小さくて柔らかくて熱かった。
リリアン嬢は子供の頃と変わっていなかった。あの頃と同じ、それ以上に可憐で可愛いらしい。見た目も性格も天使だ。
こんな俺を怖くないと言ってくれた。本当は怖かっただろうに。
それだけで十分だ。
このまま側にいたらもっと触れたくなる。
そしていつか、壊してしまう。
それは駄目だ。絶対に。
「とにかく俺は戦場に戻る」
ぼろぼろの外套を羽織り、革袋をひっつかむ。一刻も早くリリアンの元から離れないと踏ん切りがつかなくなりそうだった。
今度は壊さないように加減して、玄関の扉を開くと。
「こんなことだろうと思っていましたわ」
開けた扉の先には、仁王立ちのエリザベス嬢がいた。隣には、兄が笑っている。
「新妻を放って、どこへ行くつもりです?」
「う」
エリザベス嬢の問いに、俺は身をすくませた。
笑っているのに笑っていない目が恐ろしい。
体格、筋力、魔力。全て俺の方が大きくて強いのに。
子供の頃の記憶と同じく。いや、それ以上に恐い。苦手だ。
「お姉さまにはあまり時間がないこと。聞きましたわよね?」
ちらり。エリザベス嬢の視線が兄に向かった。
「もちろん。ちゃんと言ったさ」
ひょいと肩をすくめた兄の返事に、満足そうにうなずくと艶然と微笑む。華奢な腰に手を当て、青い瞳を細めた。
「じゃあ、どうして出て行こうとしているのかしら?」
「いや、それはその」
「また戦場に引きこもるつもりね」
青い視線が使いこんだ外套と革袋に向いた。
「仕方ないだろう。俺なんかが側にいたら、余計に彼女の寿命を縮めてしまう」
「はっ! 馬鹿なの」
エリザベス嬢が、小さくて形のいい鼻を鳴らした。姉妹だけあって顔立ちは似ているのに、浮かべる表情でこんなにも違うのか。
「いい? この薄情者。いいえ、根性なしの間違いね。何のためにお姉さまを娶らせてあげたと思っているの」
「それは君が王太子妃に収まるためだろう!」
「ちっ、この朴念仁。話にならないわ」
舌打ちと共にドレスの胸元から小瓶を取り出すと、ぐいと俺の方に突き出す。
「飲みなさい」
「なんだ、それは……?」
「自分の欲望に素直になれる薬よ。これでさっさとお姉さまをものにしなさい」
「まさか、媚薬じゃないだろうな」
「似たようなものよ」
「なっ」
信じられない。ただでさえ力と気持ちを持て余しているこの俺が媚薬なんて飲んだらどうなるか。
そんなに姉が嫌いなのか。
やはり悪魔だ。
「いくら仲が悪いからといって、自分の姉を殺す気か!」
「うるさいわね。さっさと既成事実でも作らないと、あんたお姉さまが死ぬまで戻らないつもりでしょう!」
「それが彼女のためだ!」
「はっ! お姉さまのためですって? 笑わせないで。自分がヘタレているの間違いでしょう! ああ、あんた本当に嫌い! もういいわ。パトリック、抑えて」
「仕方ないね」
いつの間にか後ろに回っていた兄が、俺を羽交い絞めにした。
「兄上!」
「おっと暴れるなよ。お前が暴れると私なんて骨折ですまないよ」
振りほどこうとした俺は動きを止める。母や乳母の骨を折ってしまった時のことを思い出して冷や汗が流れた。
俺が本気を出せば誰も抑えられない。だが兄に怪我をさせてしまう。大切な家族を傷つけるのはもう嫌だ。
「最初からそうしていればいいのよ」
エリザベス嬢の白い手が動けない俺の顎をつかむ。栓を開けた小瓶を俺の口元に近づけた。
せめてもの抵抗に口をぎゅっと閉じた時。
「エリザベス! 何をしているの!」
リリアンの声がエリザベス嬢を止めた。
****
壁を壊したアンガス様が、扉を吹っ飛ばして走り去った後。
私は私は放心しました。
「嫌われてしまいました‥‥‥」
手が触れただけであんなに嫌がられるなんて。
「おい、誰か!」
階下でアンガス様の低音が響きます。ああ、こんな時でもいいお声です。
執事と、主治医の声もしました。
どうやらアンガス様は戦場に戻られるおつもりのよう。主治医は引き止めようとしてくれていますが、お気持ちは変わらないようです。
私とは一緒にいたくないのでしょう。
「馬鹿みたいですね」
ぽすんと綺麗なままのベッドに突っ伏しました。ずきずきと痛む胸をぎゅっと押えても、痛みは治まりません。
ショックを受けることなんてありません。お飾りの妻でもいいって思っていたではないですか。愛されなくても愛する人の側にいられたらいいと。
それなのに頭と心はどうしてこんなに矛盾するのでしょう。
「期待してしまったからですね」
アンガス様は変わらず可愛らしくて。お優しくて。
私の体調も、長年の想いが叶って嬉しかったせいか、いつになく良かったのです。
これならきっとつつがなく初夜を過ごせる。死んでも悔いはない。
そう思っていました。
アンガス様は私の初恋の人です。
幼い頃。私はすぐ熱を出したり寝込んでしまう癖に、体を動かすのが大好きでした。両親や妹の目を盗んで部屋を脱け出しては、木登りや泥遊び、馬の世話をしていました。
もちろん後で家族にこっぴどく怒られますが、全く懲りませんでした。
そのおかげで家族とピクニックに出かけたあの日。
いつものように家族の監視の目を掻い潜って入ってはいけない森の奥深くに迷い込み、小さな英雄に出会えたのです。
可愛くて、強くて、格好良くて、優しいアンガス様に。
「切り替えましょう。結婚して下さっただけで幸運だったのですから」
ばふっとベッドに両手をついて起き上がります。
いつまでも落ち込んでいるわけにはいきません。せっかくアンガス様の妻になれたのです。
これからは戸籍に掲載された妻という肩書と、脳内フォルダに納めたアンガス様の照れ顔を宝に、余生を過ごしましょう。そうしましょう。
決意を胸にぐいっとタオルで涙をぬぐいます。いい匂い。アンガス様の匂いでしょうか。
このタオルは宝物にしようと、ベッドサイドの引き出しにしまったところで。
階下がにわかに騒がしくなりました。
男女が言い争っています。
「……エリザベス?」
女性の方は子供の頃から聞いている声。妹のものです。
「――!」
「――!」
どうもあまりいい雰囲気ではありません。
「止めなくちゃ」
妹のことです。アンガス様に何か失礼なことを言っているのではないでしょうか。
私はベッドから下りて、扉のなくなった寝室から出ました。
「エリザベス! 何をしているの!」
なんてことでしょう。なぜかパトリック様に羽交い締めにされたアンガス様が、妹に迫られているではありませんか。
「あらお姉さま」
「リリアンっ」
アンガス様の顎に手をかけた妹が、微笑みました。姉の私でも見惚れるような、妖艶な笑みです。
動けないアンガス様は、迷子の子供が母親を見つけたような表情です。可愛い。今助けて差し上げますからね。
「何って。この臆病者のことだから、どうせ初夜なのに何もなかったのでしょう? それじゃあ困るから手伝ってあげようと思って」
妹が小瓶を振りました。瓶の中で謎の液体が揺れます。
「お姉さまもお姉さまよ。ぐずぐずしちゃって。どうせ妻になれただけで幸せ、なんて思ってるんでしょう。お姉さまのそういうところ昔から嫌い。苛々するわ」
流石は妹です。図星をぐさりとついてきます。
でもだからって、変な薬を飲ませちゃ駄目っ!!
ああもう、この階段長いです。
「は? 化け物の妻になれて幸せだと? 何を言って‥‥‥」
「よし、今だエリザベス」
戸惑った様子で口を開いたアンガス様の鼻を、パトリック様がつまみました。
「むぐっ」
すかさず妹がアンガス様の口に小瓶を突っ込みます。ごくんと喉仏が上下しました。
「アンガスさ‥‥‥んむっ」
やっと階段を下りて駆け寄ると。
「もう一つあるのよ」
後ろから伸びてきた妹の手に鼻をつままれ、小瓶が口を塞ぎました。息が出来なくて、反射で飲み込んでしまいます。
「この悪魔が! 大丈夫かリリアン」
力強い腕が妹から私をかっさらいました。分厚くてたくましい体にすっぽり包まれます。
「ああ、リリアン。俺の天使。うわ、体ちっちゃい。柔らかい。ヤバい。好きだ。うわぁぁあ、好き過ぎて壊しそうで怖い」
「本当ですか? 嬉しいっ好き好き。 きゃー、筋肉尊い。幸せ。裸に剥いて撫で撫でしていいですか。いいですよね。やだ、真っ赤になって可愛い。最高なんですが。そのお顔もっと見たいです。ああ~~、そのちょっと涙目可愛い。好き。もっとどろどろに幸せでとろけさせたいんですけどもっ」
「えっ!?」
「えっ!?」
二人同時に、ばっと口を押えて離れました。今ものすごいことを口にしましたよね?
「あははは。めちゃくちゃ効いてるね。自白剤」
「当り前よ。この私が作ったのよ?」
妹の肩を抱いたパトリック殿下が笑っています。ツンデレさんな妹はいつものようにしかめっ面です。
って、ああ~、自白剤。どうりでふわふわ温かくて気持ち良くて、口が止まりません。
「自白剤!? リリアンが俺のこと好きって幻聴か。これは夢か。あああ、夢じゃなかったらいいのに」
「夢であってほしいです。今すごく変態発言してしまいました。やだやだ嫌われたくないです。大好き」
私は自分で自分を抱きしめている、アンガス様の真っ赤な顔を見つめました。体が熱いので、私も真っ赤なのかもしれません。
「嫌われたくない? 俺なんかに好かれたくないだろう。暴虐公爵だぞ。家族にも見放された化け物だ」
「アンガス様は化け物なんかじゃありません! 凛々しくて強くて格好よくて可愛くて尊い御方です。子供の頃からずっとずっと好きで好きで、この結婚は死んでもいいってくらい、いえ本当に死ぬんですけども。愛されなくってもお側にいたくて」
「嘘だ。君は兄上の婚約者だったじゃないか」
アンガス様が、パトリック第一王子殿下を指さしました。
あまり似ていませんがこの二人は兄弟です。第二王子だったアンガス様は、発作のため早々に王位継承権を放棄。公爵位を叙勲されて、領地の森の奥深くで育たれたのです。
「パトリック殿下なんて好きじゃありません! ひょろひょろだし、にこにこしてるけど腹黒いし。大事な大事な妹をとったし!」
一応、婚約者だから好きになろうと努力はしたんです。ひょろひょろ過ぎるからムキムキにして差し上げようと助言と筋トレメニューもお渡ししたのに。ちっともやって下さらないし、冷たい態度でした。
「えっ大事な妹」
嬉しそうに頬を赤らめた妹を抱き寄せたパトリック殿下が、額にキスをしました。
「私だってそれなりに筋肉はあるさ。それなのにお茶会の度に筋トレメニューやらされるなんて遺憾だね。それと腹黒で悪かったね。エリザベスはもう私のものだから、私が幸せにするよ」
「なっ、ななななななっ何言ってるの」
「ああ、こっちはこっちでやっておくから、続きをどうぞ」
ドレスよりも真っ赤になった妹を腕に閉じ込めたまま、ひらひらと手を振りました。
「妹取られるのはなんか寂しいし腹が立ちますけど約束ですよ」
「全て上手くいくってこういうことだったのか。趣味悪いと思ってたが、ちょっとだけ気持ち分かった。幸せになってくれ」
騒ぎ始めた妹をにこにこと眺めているパトリック殿下に早口で言って、私たちはお互いに意識を戻しました。
「リリアン。愛することはないと言ったが俺は君が好きだ。最初から愛している。でも駄目だ。俺なんかが側にいたら駄目なんだ。君に怪我をさせたくない。もし発作が起きてしまったら、俺は」
自白剤のせいで、感情も出てしまうのでしょう。ぽろぽろと涙をこぼされます。
「泣き顔可愛い。尊い。ああ、涙舐めちゃいたい」
くうう。おのれ自白剤。変態発言が止まりません。
ああもう、ふわふわ気持ちいい。もう我慢できない。ちょっとだけ。ほんのちょっとだけならいいですよね。
「愛しています、アンガス様。私のこと、本当に愛していますか?」
「愛している!」
「じゃあ、いいですね。少しかがんでください」
素直にかがんで下さったアンガス様の首に手をまわし、まずは目尻の涙を吸います。美味しい。それから唇を重ねました。
「んんっ‥‥‥んぅっ?」
やだなにこれ、すごいです。なんて豊富な魔力量なんでしょう。
私はくたっと力の抜けたアンガス様が頭を打たないように支えました。床に手をついて囁きます。
「アンガス様。今頂いた魔力が私の必要量です」
私は生まれつき魔力を持っていないのに、魔力の器は普通の何倍も大きいものでした。
そのせいでずっと体調不良。妹をはじめとした家族や雇った魔法使い、魔道具などから魔力を供給してなんとか生きていましたが、成長するにつれさらに器が大きくなって足りなくなっていました。
吸い過ぎると殺してしまう。
本能的に理解した私は、家族からの供給を拒否しました。
魔道具という魔道具が使い捨て。家族は隠していたけれど、お金が湯水のように消えたのを知っています。雇った魔法使いたちは一度吸っただけで、みんなげっそりとした顔で辞めていきました。
どうか、魔力を吸って。
家族は、特に妹は泣いて懇願しました。
でも私は魔力供給を絶ち、余命宣告を受けました。
だって私は、生れてから家族に、他人に迷惑をかけてばかり。
金策に忙殺されたお父様。やつれた顔で微笑むお母様。毎日夜遅くまで魔道具・魔法薬開発にいそしむ妹。魔力を吸った後の魔法使いたちの蒼白い顔。
全部全部、私のせい。
私さえいなくなれば、みんな苦労をしなくてすむのです。
アンガス様は魔力過多。私が魔力を頂けば発作は抑えられるでしょう。私も生き長らえることが出来ます。
でも実際にどれだけ吸えば今の私が満たされるのか。アンガス様が耐えられるのか分かりません。
家族の代わりにアンガス様に辛い思いをさせるの?
いいえ。それどころか吸い過ぎて殺してしまったら?
だから私は、アンガス様から魔力をもらうつもりはありませんでした。
ただ一度だけ。一晩だけの思い出をもらって死ぬつもりでした。
けれど今吸ってみたアンガス様の魔力量は想像以上でした。器に収まりきらないほどの魔力が、ぎちぎちにつまっています。
「アンガス様。しばらく足腰立たなくなるかもですが、もっといいですか」
普段でしたら今の魔力で十分ですが、ずっと魔力を絶っていた私は飢えています。まだまだ足りません。
「愛してる、リリアン。君にならいくらでも。もっと吸ってくれ。ずっとガチガチに張って辛かったのに、全部溶けた。すげぇ気持ちいい」
「~~~っ、ふにゃふにゃになってるアンガス様最高。鼻血出そう」
倍以上ある体をひょいと抱き上げます。魔力を筋力に振れば、これくらい簡単です。
るんるんとお姫様抱っこで寝室に連れて行き、心ゆくまで魔力を吸いました。
三日間寝込んだアンガス様が回復してから。
無事に本当の初夜を迎えました。