君のことは私が必ず守ってみせる(1/2)
ちょっとした事件は、式の翌日に起きた。
寒い野外で長時間過ごしたせいなのか、マリアンネが熱を出してしまったのだ。
「何とかならないのか!」
マリアンネの枕元で、シルヴェスターは医師に詰め寄る。
「こんなに顔を真っ赤にして! マリアンネが苦しんでいるじゃないか!」
「お薬ならもう出しました。心配しなくても、すぐに良くなりますよ」
「すぐとはいつだ! 何故そんな曖昧な返答しかできない!?」
「旦那様、病人の傍で大声を出すのはおやめください。いつもの落ち着きはどうなさったのですか」
「これが落ち着いていられるか!」
「……シルヴェスター様」
マリアンネが弱々しい声を出した。シルヴェスターは、はっとなって振り向く。
「すまない、マリアンネ。頭が痛むのか? もう少し小さな声で話すべきだったな」
医師に注意されても知らん顔していたシルヴェスターだが、弱り切った妻を見た途端に態度を一変させる。
マリアンネは「そうではなくて……」と言いながら、こほ、こほ、と咳き込んだ。
「喉が渇いただけです」
「……ああ、そんなことか」
妻の体調が悪化したわけではないと分かり、シルヴェスターはほっとする。コップに水を汲んでやり、マリアンネに差し出した。
その時偶然指先が触れ合い、シルヴェスターは眉をひそめる。随分と体温が高い。何が「すぐに良くなります」だ、ヤブ医者め、とシルヴェスターは心の中で毒づいた。
さっさと医師を追い払い、ベッドの脇に跪いて妻の手を握る。やはり熱い。このまま熱が下がらなければ、どうなってしまうのだろう。悪い想像が頭の中を駆け巡り、シルヴェスターの心は重くなる。
「しっかりしろ、マリアンネ。死ぬんじゃない」
「これくらいでは死にませんよ。お医者様も軽い風邪だとおっしゃっていました」
「あの医師の言うことは信用できない」
シルヴェスターは眉根を寄せる。
「すぐにもっといい医者を連れてきてやるからな。街に腕の立つ者がいると聞いたことがある」
「そこまでしていただかなくても結構ですよ。わたし、小さい頃は体調を崩してばかりいたから分かるんです。これはすぐに治る病気ですよ」
「そうだといいが……」
マリアンネの言葉を聞いても、シルヴェスターの心に影のようにまとわりつく不安は消えない。
かつての彼は、妻の死に何も感じなかった。けれど今は、マリアンネはシルヴェスターにとってかけがえのない存在なのだ。
マリアンネと庭を散歩し、池の近くを通りかかった時のことを思い出す。
あの時のシルヴェスターは、妻の死に様を思い描いてひどく恐怖したものだ。だが今回は想像などではなく、現実問題として死が迫っているのである。
胸が締め付けられたように痛む。マリアンネの手を自分の額に当て、もう一度「死ぬんじゃない」と言った。
「わたし、そんなに今すぐに亡くなってしまいそうに見えるんですか?」
マリアンネがモゾモゾと身じろぎし、体の向きを変える。
「あら、本当ですね。ひどい有り様です」
マリアンネは壁にかかる姿見を覗き込み、苦笑した。
「汗だくで髪はボサボサ。こんな姿でシルヴェスター様の前に出ていたなんて……。お恥ずかしいところをお見せしました」
「何を謝ることがある。もっとよく鏡を見てみろ。そうすれば、どんな格好でもマリアンネの魅力が損なわれることなどないと分かるだろうから」
シルヴェスターは鏡台からブラシを持ってきた。
「気になるなら、私が整えてやろう。起きていて辛くはないか?」
「はい、平気です」
マリアンネがこくんと頷く。
シルヴェスターはブラシでマリアンネの髪を梳き、ハンカチで額の汗を拭ってやる。
「もっと大きなタオルがいるな。後で用意しておこう。体も拭いてやる。それから着替えも手伝って……」
シルヴェスターはマリアンネの顔を拭く手を止めた。今まで見過ごしていたことに気付いたのだ。
「唇が荒れているな、マリアンネ。これも風邪のせいか?」
あまり目立たない程度にだが、マリアンネの唇は少し皮がむけてガサガサになっていたのである。
「これはどうやったら治るんだ? 医師に診せた方がいいんだろうか……」
「病気じゃないから診察は必要ありませんよ。鏡台の上にピンクの小さい容器がありますよね? そこに唇に塗る美容液が入っています」
「唇に塗る美容液? そんなものがあるのか。マリアンネは物知りなんだな。だが、何故病気ではないと分かるんだ? 原因に心当たりでも?」
「えっ、それは……。い、今は冬……ですし、肌が荒れやすくなっているんですよ」
マリアンネは何故かしどろもどろな答えを返す。シルヴェスターは怪訝に思いつつも、鏡台からマリアンネに教えられた容器を持ってきた。中には、とろりとしたクリームが入っている。
「甘い匂いだ……。美味しいのか?」
「食べ物じゃありませんよ」
マリアンネはクスクス笑う。シルヴェスターは人差し指に少しクリームを乗せ、それを彼女の顔に近づけた。
「……シルヴェスター様?」
「塗ってやる。……ほら、動くな」
シルヴェスターに顎をとらえられ、マリアンネは動きを止める。半開きの唇に、シルヴェスターは指を滑らせた。
はみ出さないように丁寧に。早く治るようにたっぷりめに。シルヴェスターが指を拭う頃には、マリアンネの唇はシャンデリアの明かりでテカテカと光るようになっていた。
近づけば漂ってくる、ほのかに甘い匂い。シルヴェスターは妻の口に軽くキスをした。
「中々悪くない味だ」
自分の唇についた美容液を舌先で舐める。マリアンネは頬を押さえて横を向いた。
「……それですよ」
「何がだ?」
「わたしの唇が荒れた原因です」
マリアンネがシルヴェスターを上目遣いで見た。風邪のせいで元々熱っぽかった顔が、心なしかさらに赤くなっている。もしかして、ずっと起きていたせいで具合が悪くなったのだろうか?
「シルヴェスター様と……毎日たくさんキスしているから……」
「……何ということだ」
シルヴェスターは動揺する。
「私がマリアンネの唇をこんなにしてしまったのか……。……すまない、マリアンネ。猛省し、もう二度と口付けはしないと誓おう」
「それは困ります!」
マリアンネはグレーの瞳を見開いた。
「いつものように、好きなだけキスしてください。こんな荒れ、すぐに治してみせますから。……それとも、シルヴェスター様は今後一切わたしの唇に触れられなくなってしまってもいいのですか?」
「……良くない」
シルヴェスターはかぶりを振る。マリアンネの甘美な唇の味を覚えてしまったシルヴェスターは、二度とキスなしの生活には戻れないような気がしていたのだ。
「分かった。マリアンネがそれでいいと言うのなら、これからもいつも通りに口付けを交わし合おう」
早速、シルヴェスターはマリアンネに顔を近づける。けれど彼女はシルヴェスターの胸を軽く押して、夫を制止した。
「今はダメですよ。風邪がうつるかもしれませんもの」
マリアンネがシルヴェスターの唇についた美容液の残りを指先で拭う。
どことなく色っぽい仕草に、シルヴェスターはときめいた。キスの代わりとして、こういう親密な触れ合いも悪くない。自分の唇も荒れてきたら、マリアンネに美容液を塗ってもらおう。
ドアにノックの音がして、使用人が入ってきた。マリアンネの食事の用意ができたらしい。
シルヴェスターは湯気の立つお粥が乗ったトレーを受け取り、使用人を下がらせた。
「唇の手入れをしたばかりだから少しタイミングが悪いが……まあいい。食べろ、マリアンネ。君の乳母が作ったものには敵わないかもしれないが、朝から何も口にしていないだろう?」
「食欲がありません」
「ダメだ。栄養をつけるんだ」
シルヴェスターはスプーンにお粥を一口分すくい、猫舌の妻のために息を吹いてそれを冷ます。
そして、「口を開けろ」と言った。
「……自分で食べられます」
「病人が無理をするな。これ以上熱が高くなったらどうするんだ」
シルヴェスターがスプーンを差し出すと、マリアンネは美容液で光る口をおずおずと開いた。またしても頬の辺りが赤くなっている。やっぱり重症じゃないかと、シルヴェスターは不安になってきた。
マリアンネが小さな口でスプーンの中身を受け取り、もぐもぐと噛んで飲み込む。シルヴェスターは、「どうだ」と聞いた。
「病気は治りそうか」
「お陰様で」
マリアンネがわずかに微笑んだ。
「ごめんなさい、シルヴェスター様。もう結構です。これ以上食べると、逆に気分が悪くなってしまうかもしれません」
「そうか……それも良くないな。では、食事の時間は終わりにしよう。空腹になったらすぐに言うんだぞ。他に欲しいものはあるか?」
「そうですね……。本が読みたいです。それか、シルヴェスター様が読み聞かせてくれますか?」
「分かった。君の好みそうなものを持って来よう」
シルヴェスターはマリアンネの部屋を出る。そのまま図書室へ行こうとしたが、思い直して馬車を出し、街へ赴いた。
向かった先は医師のところだ。シルヴェスターは早くマリアンネに治って欲しい一心で、別の医者を彼女の元に遣わそうと思っていたのである。
名医の評判を取るだけあって、院内は患者でいっぱいだった。
シルヴェスターは大人しく順番を待つ。人を遣って呼びに行かせてもいいのだが、シルヴェスターとしてはマリアンネのために少しでも多くのことを自分の手でしたかったのだ。
「あの人、ご領主様に似てるわね」
「他人の空似でしょ? ご領主様がこんなところにいるはずないじゃない」
不意に、待合室の一角からヒソヒソ話す声がした。どうやら患者たちがシルヴェスターに気付いたらしい。
シルヴェスターは、どうせ次は自分の悪口が聞こえてくるんだろうと思ってうんざりする。けれど、患者の反応は彼の予想とは違うものだった。
「ご領主様といえば、最近のあの方、昔とは全然違うわよね?」
「孤児院に通って、子どもたちに本を読んであげているそうよ」
「税率もびっくりするくらい引き下げて……」
「どうしちゃったのかしら?」
どうやら患者たちは、シルヴェスターの豹変に狐につままれたような心地になっているらしい。
だが、その驚きには悪感情は含まれていないようだった。
「まあ、生活が楽になるのはいいことよね」
「聞いた話じゃ、奥方様ともとっても仲がいいそうよ。もう氷の貴公子なんて呼べないわね」
「本当に。ずっとこのままでいて欲しいものねえ」
自分は領民からの信頼を少しずつ勝ち取り始めている。
そのことを知り、シルヴェスターの胸は熱くなった。
領民のために動こうと決めていたシルヴェスターだったが、それが皆にどう受け止められていたのか、この時初めて知ったのだ。
(私はもう氷の貴公子ではない……)
最高の褒め言葉をもらった気分である。今から彼女たちの元に駆け寄り、一人一人と握手を交わしたい気分だったが、そんなことをすれば向こうを驚かしてしまうだけなので、じっと我慢した。
(マリアンネにも話してやろう。そして、君のお陰だと言ってやらなければ)
病身の妻のことを思うと胸が痛むが、この明るい知らせが少しでも彼女の気分を良くしてくれるかもしれないと思うと、少し慰められた気分になったのだった。