わたしが愛しているのは……(3/3)
「シルヴェスター様……わたし、今、とても幸せです」
マリアンネは濡れた唇で囁いた。
「怖いくらいに幸せなんです……」
「前にも君はそんなことを言っていたな」
シルヴェスターは息も触れ合うほど距離から、妻のグレーの瞳を覗き込んだ。
「そんなに怯えるな、マリアンネ。何も怖いことなどない」
「ええ、そうかもしれません」
マリアンネは小さく頷いた。少し遠い目をする。
「わたし、結婚前はずっとこう思っていたんです。わたしなんかが夫に愛してもらえるはずがない。万が一愛してもらえたとしても、その心を長く繋ぎ止めることはできない、と」
マリアンネは束の間まつげを伏せる。「昔の話をしてもよろしいでしょうか」と言った。
「わたしには姉が二人いるんです。すごく美人で溌剌としていて、人の気を惹くのもとても上手で……。皆彼女たちが大好きでした。多分、シルヴェスター様のお父様と似たタイプでしょうね。一方のわたしは引っ込み思案で器量も悪く、華もない。姉たちと比べて見劣りする存在でした」
「見劣り?」
シルヴェスターは困惑した。
「君の周囲は節穴ばかりだったのか? マリアンネほど素晴らしい女性は、どこを探してもいないだろう」
「……ありがとうございます、シルヴェスター様」
マリアンネは笑みを漏らした。
「ですが、それは少数派の意見なのですよ。わたしの両親は何かというと姉を優先させ、使用人も彼女たちの方ばかり褒めそやしていました。わたしはいつでも二の次だったのです」
「虐待されていたのか?」
シルヴェスターは臓腑が冷えるほど衝撃を受けたが、マリアンネは「まさか!」と慌てた。
「そんな大げさなものではありません。ただ、家の中でのわたしの地位は高くなかったというだけです。それに、わたしを一番に考えてくれる人もいましたよ。例えば、乳母がそうでした。……もっとも、彼女が勤めていたのは短い間のことでしたが」
マリアンネは少し暗い顔になる。
「そんな境遇で育ったせいか、わたしは嫁ぎ先が決まっても夫に愛してもらえるとは思いませんでした。もっとも、そんなわたしの心中とはお構いなしに、父はこの縁組みをとても喜んでいましたけれど。そして、同時に驚いてもいるようでした。まさか地味で目立たなくて、おまけにもう二十三にもなるわたしが、姉妹の中で一番いい結婚をするとは思わなかったのでしょう」
シルヴェスターは、マリアンネが自分と同い年だったということに驚いていた。
確かに外見上の年は近く見えたが、彼女には「先生」のような側面もあったのだ。シルヴェスターを導いてくれる頼もしい教師だ。そのため、自分よりも年上だろうと勝手に思い込んでいたのである。
だがシルヴェスターには、マリアンネの実年齢などそこまでこだわるような点だとは思えなかった。
「私は君が百歳を超していても気にしないが。私にとって重要なのは、マリアンネがマリアンネであることだ。そのままの君でいてくれるのなら、頭から角が生えていたって、そんなことは些細なトゲにもならないだろう」
「……シルヴェスター様はやっぱり面白いことを言いますね」
マリアンネはどこかほっとしているようにも見えた。
「でも、結婚前のわたしはシルヴェスター様がどのような方なのかよく知りませんでした。ただ冷たい心の持ち主で、氷の貴公子と呼ばれているということしか……。もちろん、今はそんな風には感じていませんよ?」
マリアンネは急いで付け足す。
「結婚の翌日、シルヴェスター様がさっさとお仕事へ行ってしまった時、わたしは『やっぱり』と思いました。たとえ誰かの妻になろうが、これまでと同じ。わたしは顧みられるような存在にはなれない、と。それでも諦め切れなくて……わたし、すごくくだらないことをしました」
マリアンネは気まずそうに床を見つめる。
「図書室を散策している時、変わったものを見つけたんです。おまじないに関する本でした。そんなものが棚の一角にずらっと並べられていて……。その内の一冊に、離れていった人を呼び戻す呪文が書かれていたんです。わたし……それを試してみました」
マリアンネがモジモジする。まるで、引き出しの奥底にしまい込んでいたラブレターを、意中の人に見られた乙女のような顔だ。
「本当にバカですよね。自分でもどうかしてると思います。魔法なんて実在しないのに。だけど、それがわたしに取れる精一杯の方法だったんです。他にはどんな術があるんだろうと、わたしは夢中で本を読みふけりました。そんな時のことです。シルヴェスター様が帰ってきたのは」
マリアンネが上目遣いに夫を見た。
「しかも帰城しただけではなくて、わたしを溺愛すると言い出したではありませんか。自分がかけたおまじない以上の効果に、わたしは戸惑いました」
「私の気持ちとまじないは関係ない」
シルヴェスターが言った。
「私は君を愛している。だが、それは私が自分で決めたことだ。魔法があるのは否定しないが、そんなものはただのとっかかりに過ぎない。呪文では真に人の心は動かせないのだから」
シルヴェスターは魔法については詳しくないが、そう断言することができた。
魔法で愛が作り出せるのなら、母がとっくにそうしていただろう。それで、夫の心を取り戻していたに違いない。
それに、わざわざシルヴェスターの時を戻すなどという面倒な手段を取る必要もなかったはずだ。術をかけ、息子の心に妻への思いやりを強制的に植え付ければいいだけの話なのだから。
「シルヴェスター様は魔法だとか、その手のことを信じるのですね。少し意外です」
この身で体験したのだから、信じないわけにはいかないだろう。
シルヴェスターがそう返す前に、マリアンネは話を戻す。
「今まで人から見向きもされなかったわたしに、突如降り注いだ幸運。けれど、わたしはどうしてもそれを手放しで喜ぶ気にはなれませんでした。わたし、可愛がってくれた乳母がいなくなって以来、いいことは長続きしないと思うようにしていたんです。そうすれば、元の境遇に戻っても、そこまで惨めな思いはしなくて済むでしょう? あれは一時の幻だった。そうやって自分を慰められますから」
――これは全部夢かもしれない。目が覚めたら、シルヴェスター様もノルトハイム城も全て消えていて、わたしは結婚前に戻っているかもしれない。
かつてマリアンネはそう言っていた。その言葉の真意を、シルヴェスターは今初めて知った。
「だから、シルヴェスター様が娼館へ遊びに行っても、恋人を作っても、結婚の翌日と同じで真っ先に『やっぱり』と思いました。違うのは……この胸の痛みだけ。失ってから初めて気付いたんです。わたしはいつの間にか、シルヴェスター様を愛していたのだと。そして、思い知らされました。わたしの愛は一方通行。わたしが愛した分だけ誰かに愛し返して欲しいと望むなど、どだい無理な話なのだと……」
「何が無理な話だ」
シルヴェスターは妻の細い肩を強くつかんだ。
「まさか、今もそんなことを思っているんじゃないだろうな? 娼館通いも恋人も、全部勘違いだった。私があんなに情熱的な口付けを交わしたいと思う相手が、君以外にいるとでも? こんな風に抱きしめたい者が他にいると?」
シルヴェスターは妻をきつく抱擁した。相変わらず、力加減を間違えればバラバラに壊れてしまいそうなほど薄い体。それでもシルヴェスターは、腕に力を込めずにはいられなかった。
「愛してる、マリアンネ」
軽んじられることに慣れきってしまっているマリアンネ。そのせいで自己否定的になり、いつだって自信がないような顔をしている。
そんな妻が不憫で仕方なかった。
それと同時に、マリアンネに本物の幸福を与えられない自分をひどく無力に感じてしまう。
「いっそのこと、私の体を二つに裂いて、この心を見せてやりたい。そうすれば、マリアンネ以外が入り込む隙間などないことが分かるだろうに」
シルヴェスターは抱擁を解いて、マリアンネの手のひらを自分の胸の上に当てた。
マリアンネはグレーの瞳に蓋をする。まるで、シルヴェスターの心臓の鼓動に耳を澄ましているかのように。
「まだ不安か?」
「……少しだけ」
マリアンネは正直に認めた。
「でも、先ほどよりはずっと楽になりました。そうですね。わたし……ちょっとだけなら胸を張ってもいいのかもしれません。だって、シルヴェスター様の妻として認められているのは、このわたしだけなのですから」
「その通りだ」
シルヴェスターが頷くと、マリアンネがきらめく笑顔を見せる。
やはり彼女は太陽のような人だ。その笑顔を目にするだけで、シルヴェスターはこんなにも温かな気持ちになるのだから。
シルヴェスターの口元が緩む。マリアンネがはっと息を呑んだ。
「おいで、マリアンネ」
シルヴェスターはマリアンネの手を握った。
「今日はもうどこにも出かけず、二人だけでゆっくり過ごそう」
「……はい」
マリアンネの方から寄り添ってくる。シルヴェスターは妻の肩を抱いた。
かつてこうされた時、彼女は過剰に恥じらっていたものだ。
けれど今は違う。マリアンネは夫との触れ合いを心の底から喜んでいるように見えた。「わたしが愛しているのは、シルヴェスター様です」というセリフが蘇る。今のマリアンネは、その気持ちを行動で表していたのだ。
「わたしって、欲張りですね」
廊下を歩きながら、マリアンネがどこか気後れしたように言った。
「覚えておいでですか? わたしが以前、『余り物の愛情でも満足です』と言ったことを。でも、今はそんな風には思えません。以前のわたしなら、シルヴェスター様に恋人がいると分かっても、離縁なんて言い出さなかったでしょう。ただじっと耐えていたと思います」
「そういう時は平手打ちをするんだぞ、マリアンネ。母のやり方を見ていたから間違いない。歯を食いしばっておくから思い切り叩いてくれ」
「そういう機会には恵まれないと思いますが」
「当然だ。これはあくまで仮定の話だからな。私の愛する相手は君だけだ」
「……夫婦っていいものですね」
マリアンネの声には愛情がにじんでいる。
「実はわたし……幼い頃は花嫁に憧れていたんです。乳母の話を覚えていますか? 彼女は結婚を機に退職したんですよ。式にはわたしもお呼ばれしました。その時の乳母がとても素敵で、幼心に、わたしもいつかあんな風になりたいと思ったんです」
「夢が叶ったな」
「半分だけですけどね。わたしは挙式自体にも心惹かれていましたから」
シルヴェスターたちの結婚は、味気ない事務手続きで完了してしまったのだ。当然、式など挙げていなかった。
「それなら、今からでも遅くない」
シルヴェスターは妻の願いを聞き届けてやろうと即決した。
「式を挙げるぞ、マリアンネ。ノルトハイム領で一番大きな会場を貸し切ろう。領民全員を招待して、君の晴れ姿を見せてやるんだ」
「そ、そこまではちょっと……」
マリアンネが尻込みする。
「もっとささやかなもので構いませんよ。大事なのは規模ではありませんから」
確かに、マリアンネは注目を集めて喜ぶようなタイプではない。シルヴェスターは計画を練り直す。
「では、式はこの城で行おう。招待客は……孤児院の子どもたちだ。君は幼い頃、近しい者の晴れの舞台を見て花嫁に憧れたんだろう? だったら子どもたちにも、そんな機会を提供してあげるのは悪くないと思う」
「素晴らしいです」
マリアンネの瞳が輝く。
「今から楽しみになってきました。でも……本当にそんなことをしていただいてもよろしいのですか?」
「もちろんだ。愛する妻のささやかな願いを叶えるくらいは当然だろう」
「……ありがとうございます」
マリアンネがシルヴェスターの方にさらに体を寄せた。少し体重を預けてくる。そこに彼女からの確かな信頼を読み取り、シルヴェスターはもう一度マリアンネに深々としたキスを贈りたくなった。
(……部屋までは我慢するか)
シルヴェスターは心の内で踊り狂う熱い感情を必死で押さえ込んだ。その一方で、これを解き放ってしまえばどうなるのか少し興味もある。
まったく、マリアンネといると愉快なことばかりだ。今まで知らなかった自分に、何度も何度も出会うことになるのだから。
早く完全に二人きりになりたい。そして、思う存分マリアンネを可愛がってやりたい。
そんな想いを込め、シルヴェスターは妻の栗色の髪に頬をうずめた。