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ホラー系短編小説置き場

ズゥヴェロハットの帰り道

作者: 浦切三語

 暗闇に沈み込んだ肉体の中で、彼の意識は目覚めた。


 きっとその駅員は、汚物を見るような目で、俺の肩を叩いたに違いない。だが目覚めのきっかけとなったのは見知らぬ誰かの手ではなく、じっとりとシャツに沁み込んだ己の汗の不快さにあった。


 瞼を右手でこすりながら座席から立つ。遠ざかる駅員の背中を寝ぼけまなこで軽く睨みつけながら舌打ち。左手で腰のあたりをまさぐる。そこにあるはずのものがないことを、重くて鈍い頭の片隅で直感した途端、弛緩した気分に緊張が走った。


 こいつは最悪の帰り道になった。


 振り返りざまに電車のドアが閉まり、続くかたちで閉まるホームドア。鳴り響く警笛が鼓膜の奥を刺激して、分解途中のアルコールに鈍った脳髄を刺激する。無人の車内。ゆっくりと、だが次第に速度を上げて疾走する鉄の箱のケツを、肩を落として見送るしかない。


 途方に暮れるのは容易くて、現実を認めるのには躊躇した。というのは、今日の午前から昼過ぎにかけて、酒と肉をたらふく口にしたからだ。休日に会社の集まり。南柏(サザン)でのバーベキュー大会。前世紀から続くインフルエンザ(・・・・・・)が猛威を奮っても、親睦を深めたい奴はいる。出世のためか? 登り切ったところで、見える景色などたかが知れている。


 だがとにかく、幹事のアイツは好機と捉えたようだった。上司も部下も、他の部員たちも、そして俺も。駅から十五分ほど離れたところにある、果樹園に併設したバーベキューハウスの一角に押し込まれる、総勢三十人の営業部員。営業部員の仕事にはタフさが求められる。肉体と精神、両方の。


 だから食った。だから呑んだ。だから喋り倒した。配合雌牛の肩ロースにビールに度数50度のブラックホースをオン・ザ・ロック、それにクズ野菜を少々。他愛ないプライベートなトークと他部署の悪口(アンダートーク)で満たされる関係性。猥雑な絆は四時間かけて増大し、昼間の酒は二十九人の脳髄からブレーキを外した。今頃は、デンモク片手にハイになっている頃だろう。


 組織の輪からひとり外れたのが、俺というわけだ。好きでそうしたわけではなかった。誓って。とにかく、自宅のベッドにダイブしたい。全身が泥のように重かった。鉄板の上で肉が焼けるまでの間、すきっ腹にビールをぶち込んだのがまずかったか。《テレポ》でサーキットに興じていた頃は、一升瓶を一日で飲み干しても記憶を失くすことはなかったが、老いというのは怖いものだ。


 いや、今の状況の方が怖いか。泥のような頭でも、行動基準が鈍るほどじゃない。


 ズボンの後ろポケットを叩くように確認する。二度確認し、三度確認する。膨らみがある。不幸中の幸いというべきか。財布は失くしていない。だが、そんなのは気休めにならない。真夏の蒸し暑い空気が、うなじのあたりに纏わりつく。灼けるような日差しを体毛の薄い肌で受けながら、ひとまずここがどこなのかを電光掲示板で確認する。ついでに時間も。午後六時。陽はまだ高い。


 代々木上原。ここは代々木上原だ――代々木上原(フォーサイズ)だって!? 


 完全に覚醒(ウェイクアップ)。暮れる限界まで途方に暮れる。俺の家があるのは北千住(センジュ)だ。常磐線各停止まりの電車に乗って、かれこれ一時間以上は船を漕いでいたことになる。ここから十駅以上も後戻りしなきゃならない。だが、その前にやらなきゃいけないことがある。


 最悪の帰り道になった。俺は地下へ潜る。ふらつく足に力を込めて、改札口へ向かう。







「そのシケた面を見ればわかるよ。大事なものを失くしちまったんだろ?」


 窓口で要件を切り出す前に、駅員が突っ込んできた。地下棄民(メトロスラム)調の言葉遣い。


「なにを失くした?」

「ズゥヴェロハットだ。どう思う?」

「薬は?」

「服用中」

「だったらまだマシだ。心臓を落としても代わりがあれば動く。しばらくはな。見つかるかどうかは運次第だが。諦め癖がついている奴はダメだ」

「代々木上原行きの列車に乗ってたんだ。さっき回送に出たばかり」

「深い傷は、早めに手当てするに限るな」


 慣れた様子の駅員。酔っ払いが【ズゥ】を失くすのは珍しくもないのだろう。精神同期(チェーン)が自動解除されちまうから。そうならないように、バッグやポケットにしまっておくものだ。その程度のことを怠る輩をマヌケと、心の中で小馬鹿にしていた自分を恥じる――恥じる。恥じる、か。その程度の自虐感覚(マゾヒズム)で済んでいる事実にホッとする。さっき額に貼った経皮吸収型製剤(リスペリドン)。使い慣れている【ビャクゴー】だ。効果はてきめん。易刺激性は、ほどよく抑制されている。


 失くした経緯を簡単に説明する。まだ頭はぼうっとするが、呂律が回るだけでも御の字だ。


「飛種」

「エンデヴァー。型式はエルフT20。防塵防水タイプのやつ」

「ボディカラー」

「ピンクゴールド」

「エア・ジャケットは……」

四枚殻(クアッド)

高級仕様(ハイエンド)か」

「二十万近くしたんだ。カラーはスモーク」

「テクスチャー」

鋼鰐革(クロコダイル)。ハードだ。エッジはチャコール・ブラック。それとアクセサリーも」

「マニアだな。シルエットはなんだ……」

宙冠(クラウン)

「なんだいそりゃ」

「頭の上をくるくる回ってる金属の輪っかだ」

「おいおい、精神同期(チェーン)切れでリリースされちまうんじゃ……」

「飛種本体の物理通信で間接(コネクト)されてるから、本体の稼働残量が切れない限りは」

「ふむ。さぞかし強度の高い築相線(スペース)をお使いなんだろうな……」

「メインはS3だ。補助線には《タスク》と《J:RAN》のふたつ」

「データは揃った。地下機械頭脳(スラムヘッド)に確認を取る」


 俺は待った。改札口付近で。薬が更に良く効いてきた感がある。自己心理線(マインド・ライン)はアップでもダウンでもなし、無伏状態(フラット)に限りなく近い。


 柱に寄り掛かり、行き交う人々を眺める。顔のすぐそば。肩の上。腰のあたり。誰ひとりとして【ズゥ】を失くして慌てている奴などいない。当たり前だ。そんなことにでもなってみろ。俺は万が一に備えて日常的に薬を服用していたから事なきを得ているが、そうでない限り地獄を見る。そして、そういう奴が年に千人程度は出る。千人で済めばいい話だが、たいていそうはいかない。巻き添えを食らったやつも含めたら、年間の死傷者は交通事故の次に多い。とんでもなく危機意識に欠けた話に聞こえるが、しかしこいつは想画(アニメ)じゃない。


 そいつはすっかり、現代日本人の生活習慣病として定着している。対人外圧過敏症候群(インフルエンザ)。自閉症スペクトラム障害の、もっとヤバい奴さ。実際それは連続体(スペクトラム)で、重軽度の差はグラデーションだ。見た目じゃ分からないが、無自覚症状患者も合わせれば、国民の推定九十パーセントが罹患していると、公生労働省(ライフランス)のお達しだ。


 他人から他意なき視線を寄こされて、手に持ったカッターナイフで自分の首を掻き切る。首都高を普段通りに走っていた何十台もの車が一斉に停車して、発狂したドライバー集団が高架下へ次々と身投げする。


 そういえば、俺が乗ってきたのは千代田線か。現代社会の授業で習った覚えがある。前世紀、どこぞの新興宗教団体がサリンをばらまいた事件より、もっと最近の話。帰宅ラッシュの時間帯。隣に座っていた乗客が軽く咳をしただけで、起爆剤の役割を与えられた老舗割烹料理店の料理長。彼は理性を消し飛ばし、その場に居合わせた乗客を仕事用の包丁で刺し殺していった。彼の憎悪と混乱と悲哀は、音、匂い、肌触りといった五感情報を介して車輛全体の乗客に波及し、たくさんの加害者と被害者を生んだ。重軽傷者合わせて延べ五百人。死亡者数は百三十二人。千代田線を襲った、過去に類を見ないパニック。


 超過密化した情報社会がもたらす極度の慢性不安。ある生活空間を占める非言語情報量の急激な密度上昇に伴う心身へのストレス過大……俗に言うところの同調圧力の疾病化。それが対人外圧過敏症候群(インフルエンザ)。大量の情報を日光のように、日常的に叩きつけられて錯乱するのに有機もメカも関係ない。たとえAIであっても、処理能力を越えればエラーを吐き出し続ける。


 それと同じことが現生人類の身にも起こった。それでこの有様さ。大脳旧皮質と大脳基底核とを繋ぐメッセージ物質のやり取りに異常が発生したが故の緊急事態(エマージェンシー)。あくまで仮説。その仮説に基づいて【ズゥ】は製造販売された。仮説は立証され続けている。社会全体を巻き込んだ壮大な実験。憎悪と自己憐憫の波及(インフルエンス)を食い止めるための実験。愛すべき、有機とメカの守護霊。俺の守護霊。早くそいつを取り戻さなくちゃならない。


 まったく、とんだ帰り道だ。


「ダメだな。悪魔型(デモニック)ならあるが」

「エルフなんだ」

「悪魔も妖精も、似たようなもんだけどな」


 目線を合わせず、そう告げる駅員。腰のあたりに、二枚殻(ダブル)の翼を持つこげ茶色のデカい芋蟲(ワーム)型の【ズゥ】。ふわふわ浮いて、単眼をうるうる揺らして、縦と横に裂けた肉厚の唇が細やかに振動している。ああ、いいなぁこの人は。【ズゥ】を失くさないでいて、いいなぁ。


「とりあえず、繋がるナンバーを教えてくれ」

「職場の番号で。固定電話(ソリッド・フォン)は引いてないんだ」

「相手がどんな反応を寄こすかで、あんたの普段の勤務態度が分かるな。ほら、メトロ全線の連絡先だ。あとは……サツに寄った方がいい」

「ここだけじゃダメってことか……」

「状況がノン・クリアだ。性善説より性悪説を信じていた方が、今後のためだ」

「一理ある。だが納得はできない」

「そういや、聞くのを忘れてた。エルフの瞳……」

青錆色(ブルー・セピア)


 駅員の質問に憮然と答える。薬がなきゃ、この何気ない一言だけで俺の五体はバラバラに砕け散っているか、自分で自分の喉を掻きむしっているはずだ。前世紀の人間が聞いたら耳を疑う。俺だって疑いたいもんだ。本当に俺は【ズゥ】を失くしたのか? だが認めるしかない。


 渡されたシートに会社の連絡先などの必要事項を記入して、駅員から代々木警察の場所を教えてもらう。改札口を出て西口方面に通じる階段を下り、左へ曲がった先の十字路。何の店かわからない古ぼけた建物の隣に、あった。中を覗く。貴腐警官(ラフレシア)がひとり。スライド式のドアを開けた途端、爆風じみたエアコン旋風に乗って、猛烈に甘ったるいドライフルーツ系の腐臭が鼻の奥を抑え込みにかかってきた。嗅覚が、あっという間に麻痺した。


「要件は?」


 ソバージュに散らかした白髪の老婆が、モニターに視線を向けたまま尋ねる。しわくちゃの肌から間断なく揮発する芳香。香水じゃない。国が補助金を出して警察官・消防官・救急隊員・医療従事者らを中心に実施している遺伝子調整手術(ゲノミクス)の成果。強烈に加工された体臭をまき散らして、相手の五感のひとつを制圧する。


 インフルエンザ症状を引き起こすとされる接触情報の分類は空間的・物理的なレベルに留まらず、対象へ抱く印象――直感情報も含まれる。その前提を考慮するなら、嗅覚制圧に乗じた暴力的コミュニケーションは「健全」であり「効率的」ともいえる。勤務現場の凄絶さを考えれば、接触の度に【ズゥ】の相貌認証機能(フェイスレス)を通じた自己像客体強化(セルフ・エンハンス)をしている余裕などない。彼らの仕事上、改造体臭は理に適っている。


「ズゥヴェロハットを失くした。どう思う?」


 駅員に説明したのと同じ内容を口にしようとしたところで、貴腐警官(ラフレシア)が放り投げるようにして遺失物届を寄こしてきた。表も裏もつるつるした質感。いくらでも折れるが、広げてみても折った痕跡は肉眼で観察できない。|


 私の心を折らないで(ノー・フォールド・ミー)――超国家級(スーパーサイズ)ズゥドルのヒット・ナンバーとタイアップした商品。書き易さもスーパーサイズ。普及率だってそうだ。森林破壊とは無縁の産物。養殖海藻が原料の藻紙(シーペーパー)は、地球にメチャクチャ優しいの。けれども、俺にはちっとも優しくない。黒鉛を滑らせて、それで何かが解決するのか。薬は効いているはずだが、ささくれ立ってきている。胸の奥を突き上げるような悲しみは癒えない。どこへ行ってしまったんだろう。俺の【ズゥ】。大切な守護霊。


 思考は深みにはまっていく。負のスパイラスに沈降していく。気づけば、泣きそうな声で貴腐警官(ラフレシア)に尋ねていた。


「戻ってくる確率は……」

「高いよ。気休めじゃない」


 視線はモニターに向けたまま。右の義眼がきゅろきゅろ回っている。必要事項を書き終えた俺はペンを置いた。腕を組んで受付台に寄り掛かる。


「犯罪に利用されないかどうか。それが一番気がかりだ。誰かが俺の【ズゥ】に不法侵入(オーバーライナー)をかましてきたらと思うと、居ても立ってもいられない」

相貌認証機能(フェイスレス)破る(ブレイク)には、それ相応の設備がいる。ここら辺の餓鬼(ヤンク)には無理だね。ひと昔前に流行った特殊詐欺(ギミック)――本人になりすました不正アクセスも難しい」


 老婆がこちらを振り返った。枯れ木じみた、節くれだった指で海紙(シーペーパー)を掴む。夜の訪れを今しがた知ったように、その細く潰れた左目が、うっそりと開いた。


「あんた、ロックはかけてるかい……」

「当たり前だ。まさか見つかった時の本人確認のために顔紋データの提出が必要だとか……」

「何言ってんだい」

「なに……」

相貌認証機能(フェイスレス)のことを言ってんじゃない。【ズゥ】の|中枢メモリ(CIM)のロックだ。かけてるかい……」

「あれは物理錠のはずでは……」

「飛種端末に精神刻印(スタンプ)をかければデジタル・ロックできる。やってないのかい……まぁやる人間なんてそんないないが、だとしても注意したほうが身のためだ」

「どういう……」

「【ズゥ】の本質的役割は《もうひとりの自分(オルタナティブ)》だ。飛種と精神同期(チェーン)することで他者との情報接触の際に生じる所有者本人への易刺激性欠損を即時修復する。機能の活性化は、回線契約時における所有者の総合人格集合量と深く関係している。人間ひとりの総合人格を呑み込めるだけの超容量のボリュームを誇る【ズゥ】だからこそ、他者との情報接触で生じる易刺激性欠損をフィードバックできる。【ズゥ】の所有者は他者と情報接触するたびに、死にながら生きている。刃吹きすさぶ嵐の中を生きている。だが、この世には嵐の中から刃をつかみ取って他人へ向ける狂暴な奴もいる」

「何の話だ」

「五年前の話さ。といってもここじゃない。舞台は中央亜細亜だ。ある日本人旅行者が現地で【ズゥ】を失くした。今のあんたと同じように、酔って精神同期(チェーン)が解除されたのに気付かなかった。バーのラウンジでうたた寝している時に、落っことしたのさ。すぐに旅行代理店を通じて現地警察に確認を取ったら、あっさりと戻ってきた」

「良かったじゃないか」

「その時はね。だが、日本に帰ってきてから数ヶ月後、その旅行者は突然逮捕された。令状を持った警官が、いきなり自宅に押し寄せてきたのさ。罪状は電子殺人罪。被害者は中央亜細亜のとあるマフィアの構成員だった。この国じゃ、外国で犯した殺人は刑法三条に則って国内の法律が適用される。加害者と被害者。両者のあいだに面識はなかった」

「ハメられたのか」

「|中枢メモリ(CIM)にロックをかけていなかったのが運の尽きさ。犯人はメモリに蓄積された旅行者の総合人格を――身体と心に根差した全ての情報を――数週間かけてネットワーク上に複製した。旅行者本人が呑気に過ごしている間、電子の世界に《もうひとりの自分》が生成されていた。そのデータは専用の装置を通じて、不正購入したまっさら(バージン)な代物の中へぶち込まれた。攻撃対象者(ターゲット)が持っているのと同じ型式の【ズゥ】にね。ご丁寧に心理的瑕疵(マインド・フロー)まで再現して。あとは簡単な殺しの手続きさ。攻撃対象者(ターゲット)がホテルへ宿泊している最中、ルームサービスを装って、こっそり【ズゥ】をすり替える。あるいは愛人という名の潜入屋を寄こして、寝ている間に……ってね。朝起きて髭を剃りながら、ハイライトの消えた守護霊の瞳を見て気づくのさ。『なんだ、【ズゥ】が落ち(ダウン)しちまってるな』ってね。緊急でプログラム更新でもしてたのか?……そう何気なく思いながら、再起動させて精神同期(チェーン)を始める。自分のだと思い込んでいる、自分のではない、誰かの総合人格が入れ込まれた【ズゥ】とね。瞬間、そいつの人生は幕切れ……情報接触……肉体ではなく人格同士の情報接触……それが深刻な障害を……《相崩壊(コンフリクト)》を起こした。インフルエンザの症状が発現し、二つの異なる人格の衝突が自己認識能力の著しい低下を引き起こした。剃刀を勢いよく自分の両目に突っ込んで、青魚の目でもくり抜くような要領で抉り取って、サーモンの切り身を捌くように自らの舌をいくつにも切り分け、最後に、吊ったアンコウの腹を開くようにして、一息に自身の喉を掻っ捌いた。死にながら生きていたのが、本当に死んじまった。後に残ったのは無惨な死体と、被害者のものではない【ズゥ】と、その【ズゥ】の中枢部に眠る誰かの人格データ」

「そんなことが可能なのか……相貌認証機能(フェイスレス)を作動させた瞬間に自動的にロックがかかりそうなもんだが」

「言ったろ。不正購入した【ズゥ】なんだ。犯人は攻撃対象(ターゲット)の個人情報をSNSやファム・ファタル・メッセージなんかで入手した上で、運転免許証や個人認証番号証明書なんかの公的証明書と写真を偽造し、オンライン専用ショップを通じて回線チップを再発行したんだよ。国内でも海外でも、こうした手続きは共通さ。相貌認証機能(フェイスレス)築相線(スペース)ではなく回線チップと紐づいているから、課題はクリアされる。攻撃対象者(ターゲット)の元の回線チップは再発行された時点で使えなくなるが、そのことに気付かれる前に【ズゥ】をすり替える必要がある。だが、回線チップがイカれたぐらいじゃ、普通の人間はまずハッキングを疑わない。故障を疑い、修理に出そうとする。【ズゥ】を手放している間は薬で凌げばいい。猶予は三日といったところか。その三日間のうちに事は決行された。被害者の【ズゥ】はオンラインバンキングとも紐づけられていたが、履歴を洗った結果、そっちは手つかずだった。金じゃない。初めから殺しが目的だったのさ」

「その旅行者はどうなったんだ」

「被害者との面識がなかったし、物的証拠も出なかった。それでも状況証拠だけで起訴はされた。驚くべきことにね。別件で犯人が逮捕されてゲロって風向きが変わった。一審で無罪判決が出た。でも、こんな時代だからね。職場を辞めることになった。それからは酒に溺れて、いまはアルコール依存症患者の療養施設でうめき声を上げている」


 模造した他人の総合人格と、所有者の総合人格をぶつけて殺す。インフルエンザと【ズゥ】の機能を逆手にとった現代の暗殺。異人格衝突殺人(キャラクタライズ・コンフュージョン)


「だが海外の話だ」

「身近な話さ。あたしにとっちゃ。ハメられた旅行者は、あたしの義理の弟だったんだから」


 それでか。


「十年前の|千代田線車両内鏖殺事件(サウザンド・ゼロ)。百三十二人の被害者の中には、あたしの旦那がいたんだ。義弟は旦那を失くしたあたしのところに、ほとんど毎日電話をかけては様子を聞いてきた。お節介な人だったよ。福引で旅行券が当たったから、行こうって誘ってきたことにも、あまり驚きはなかった。最初は断ったんだ。夫婦水入らずで行ってきなよって。でもしつこくて。根負けしちまった」


 貴腐警官(ラフレシア)が、濃密な体臭の壁の向こうへ引っ込む。再びモニターへ目を向ける。使い込まれた弓のような背骨。ひそかに震えている。錯覚ではないはずだ。


「あの旅行の帰り道で、気づいていれば。帰りの飛行機の中で、何かがおかしいと気づいていれば」


 細く潰れた左目。砕け散った過去の時間が流れている。




☆☆




 二時間以上かけて自宅のアパートに到着した頃には、すでに夜の九時半を回っていた。代々木警察に遺失物届を提出したはいいが、管轄は当然のこと限定的だ。警視庁のお膝元は東京都。念のために千葉県警にも届け出をしておこうと、新松戸まで向かった。それでこの時間。収穫はゼロ。まだ【ズゥ】は手元に戻らない。


 心がささくれ立っている。乱暴に開けたキッチンの棚から経口タイプの経口摂取型製剤(アジフェストン)の入った白い袋を取り出す。【シンゴン】は苦みが濃い。だが文句は言っていられない。ヨモギ色のそれを三粒、ケースから取り出して水で呷る。


 リビング。ギシギシ音を立てる椅子。キーボードの打鍵音。必要な検索ワード。「ズゥ」「紛失」……その極めてシンプルなキーワードの組み合わせが、こちらが取るべき行動の指針を示してくれる。そいつは意外にも思えたが、次の瞬間にはストンと納得がいった。【シンゴン】の苦みなんて、あっさりどこかへ消えちまった。


 デバイス検索機能――それがトップページに出てきた。まさかと思い、契約している築相線(スペース)の公式ページにアクセス。手順に従い情報層(レイヤー)を下っていく。


 あった。三次元地図。IDとパスを入力。【ズゥ】の簡易モデリングが地図中に出現した。エンデヴァー。型式はエルフT20。間違いなく俺の【ズゥ】だ。不幸中の幸いというやつか……バッテリー温存などといって位置情報機能を切らないでよかった……しかし楽観を拠り所にした安堵感は、来るべき焦燥感の前触れに過ぎなかった。薬を飲んでいるはずなのに、なぜだか胸の奥がざわめき立つ。


 地図が示している位置――明治神宮前《原宿(ゲンシュク)》付近。


 背筋が総毛だった。なぜ……降りた記憶はまるでない。一度だって足を運んだことはない土地。検索機能が狂っているとは思えない。だとするなら、やはり誰かが盗んだとしか考えられない。


 五分毎に位置情報は更新されていく。考えあぐねる。GPSも完璧ではない。地図上と現実の位置関係には微妙な差異(ズレ)が生じる。【ズゥ】は駅周辺をぐるぐる周回していた。意図を掴みかねる不気味な動き。人為的なものを感じる。やはり、誰かが盗んで、駅周辺をあてもなく動き回っているようにしか思えない。それ以外に、どう説明をつければいいんだ……


 椅子から立ち上がり、どうするべきか考える。時刻は夜の十時を回っていた。行きは間に合う。だが戻ってくる手段は? 恐らく終電には間に合わないだろう。そうなると、【ズゥ】を如何とするかに関係なく、一晩を原宿近辺で過ごさなければいけなくなる可能性が高い。これが、たとえば上野や秋葉原なら、迷いなく家を飛び出していただろう。しかし地図が示しているのは原宿だ。餓鬼(ヤンク)の中でも狂暴な美麗餓鬼(ファッショニスタ)どもの根城。奴らの価値観にそぐわないファッションで街をうろつこうものなら、強烈な仕返しを食らう。


 原宿で最も悪名が高いのは、言うまでもなく服飾連合(カエアン)の連中だ。インフルエンザ患者への、彼らなりの攻撃的対処法が過激な思想を生むきっかけとなったのは、記憶に新しい。情報接触のうち重要な構成要素を担う《服》という概念の在り方を、奴らは変えようとしている。武器としての服飾。防御装置としての服飾。それらを取り扱う服飾店の完全無垢性と独自の文化的成長進化系統を発展/維持するために、奴らは客を選別するのだ。原宿の風土にそぐわない者を見つけ次第、力づくで抹殺、または同化させる。警察だって手を出すことを嫌がる地域。その土地に入り込んだ者は、全身の皮膚に特殊プリントの入れ墨と攻撃性を誘発する数理的裁縫術で組み上げられた極彩色の衣服を纏い、苦行僧の如く街中を練り歩く。髪をドレッドにまとめ、《シュプロール》のボックスロゴTシャツを纏い、独自の妖服言語を司るあの集団が事件を起こす度に、世間が大きくざわつく。


 一時間近く悩んだ。


 そして決断した。


 背に腹は代えられない。行かなくては。


 青錆(ブルーセピア)の瞳が脳裏を過る。


 俺は俺の【ズゥ】を取り戻さなくては。いまの時間帯なら、ほとんどの服飾店は店を閉めている。自警団の連中に見つかりさえしなければ、どうにかなるだろう。


 現在時点での位置情報をプリントアウトして、家を飛び出した。


 目的地――原宿。


 最悪の帰り道にならないことを祈るばかりだ。




☆☆☆ ★




 生まれてこのかた初めて訪れる都心の代表的エリア。角ばった近未来的デザインをした建造物の無機質な佇まい、コンビニの窓から漏れる光の波、沈黙のディスプレイ。驚くほどに静かだった。ニュースでよく見る竹下通り(チック・ロード)に派手な餓鬼(ヤンク)の姿はなく、道路を挟んで見える霊験あらたかな《明治神宮(メイジ・パレス)》よろしく、その身を闇に横たえている。時折、遠くでパンク・エディションのキャデラックが、道交法を無視した獰猛なミュージックを奏でるくらいのもの。なんて平和なことだろう。違和感を覚えるくらいに治安が良い。


 プリントアウトした地図を頼りにするしかないというのが、心許ない。さっきちらりと確認した原宿駅構内の時計を思い出す。家を出てから一時間近く経過している。もしかすると、もう【ズゥ】の持ち主はここにいないかもしれない。だが、あの地図上の挙動……まるでこちらの到着を待っているかのように、五分、十分、十五分と経過しても、駅周辺から離れようとしなかった。それが脳裏に焼き付いていた。正直に言えば、不自然さがあった。それは確かに人為的な動きを感じさせたが、なにか無機的な素養も感じ取れた。決まったプログラムに従って行動しているような。


 竹下通りスクエアの前を通り過ぎ、ブティック《松の子》付近に差し掛かったところで、視界に何かが映り込んだ。最初は、大きくて黒い犬が横たわっているのかと思った。近づくにつれ、それは黒いマフラーに見えた。どうして夏場にマフラーが……その疑問は一瞬で氷解した。そいつは愛玩の獣でも、季節外れの布でもなかった。


 夜中近くの竹下通りで横たわっていたのは、ボックスロゴTシャツを着た人間だった。雲間を切り裂く月夜の光線が、その全容を明らかにする。


 腰を抜かしそうになった。


 やばい――そんな、軽い(スラック)な反射的言語が漏れ出す程度には、やばい。


 これ以上見てはいけない。このレベルの情報接触(・・・・)は――


 気が動転した。地上にいるのに、海中深くに溺れていくような切迫感と息苦しさが、背中から肺を圧してくる。喉の奥に、ガラスの細かな破片をばら撒かれる感覚。涙と鼻水を垂らし、涎が空を切るのも構わず、手足をばたつかせて脱兎のごとくその場を後にする。もと来た道を戻り、竹下通りスクエアの陰に隠れる。


 深呼吸を繰り返す。現実を掻き消そうとする。頭にこびりついた現実。見たくなかった現実を。

 そいつのシャツは赤黒い血にすっかり汚れていた。全身が血でぐっしょりと濡れていた。


 ――何をやってる! いますぐに消すんだ! 忘れるんだ! 消せ! 消せ!


 錆びた鉄粉のような匂いと、濃いアンモニアの臭気が混じっていた。吐き気をもよおしそうになった。


 ――鼻頭が真っ赤になるくらい、皮が剥ける勢いで手の平で擦る――薬による防護を掻い潜って嗅覚に残留せんとする現実の情報。


 まるで、《残酷》という言葉が、恐るべき凶器の姿を形取り、そいつ自身に襲い掛かったようだった。


 ――なにも考えるな! 見なかったフリをしろ!


 手足は雑巾でも絞ったかのように捻じ曲がっていた。折れた前腕部の骨が、入れ墨で装飾された太い腕を突き破っていた。両膝は棍棒で力いっぱいぶっ叩かれたように完全に潰されていて、どちらも「くの字」に曲がっていた。


 ――過去形を使うな! 認識するな! 俺はなにも見ていない!


 その遺体には頭がなかった。潰れているとかではなく、最初からそこに無かったかのように喪失していた。頸部の切断面は途方もない万力で締め上げられたように捻じれていた。首元から溢れ出た血はアスファルトに沁み込み、店先の石階段の一部を激しく浸食していた。


 ――最悪だ、クソッったれ!


 喉まわりの肉が、水風船のように徐々に膨れ上がってくる。眼球がせり出してくる。下腹部に、得体のしれないガスが溜まっていくのが感覚される。脊髄が振動する。内側から、俺という人間を構成するあらゆる要素が、解放を求めて暴れ出そうとしている……頭部が激しく損壊した死体……死体……最も過酷で過大な暴力的情報接触が、俺の肉体を、俺でないものに変えていく予兆。


 意識するかしないかの間隙。

 ヴン――機械的な翅音。すぐ目の前。思わず顔を上げた拍子に、


「あぁっ!」


 情けない叫び声が、断末魔でなかったことを、この時ほど幸福に思ったことはなかった。さっきまでの悪夢的認識が、瞬く間に色褪せた夢のように霧散していく。身体の変調が、さざ波のように引いていく。


 月光を浴びて闇夜にぼんやりと浮かぶのは、ピンクゴールドの、女の肌のようになめらかな光沢。まずそれが目に入り、次いで認識した。夏の夜にくっきりと浮かび上がる、まろやかなS字曲線――宙に浮かぶ、全長7インチサイズの妖精(エルフ)――その優美な腰の括れ。ひょうたんのようなボディだと揶揄されることもあるが、それこそは、この国内最高レベルの高級仕様(ハイエンド)を誇るエルフ型に対するやっかみでしかない。その、万物古来の機能美を支える性的魅力にも通じるであろう、マスターピース・フォルム。その洗練されたボディにあえて反抗するように、厚さマイクロサイズはある鋼鰐革(クロコダイル)のごつごつしたテクスチャーで被膜を形成しているというのが、なんともスパイシーで俺の好みとするところだ。スモーク・タイプのエア・ジャケットも、こうしてみるとやはり良い。黒色系統のチャコール・ブラックでエッジのカラーをまとめているおかげで、むしろ暗闇の中でこそ立体感が強調されてクールだ。殻に覆われた四枚のミドル・サイズの翅はハチドリのようにせわしなく羽ばたいている。額にひとつ、両目に相当する位置に二つ。ゴムボールサイズの頭部面積の半分を占有している、合計三つの金色虹彩式カメラアイに、俺の顔は映っているだろうか。つるつるした睫毛の凛々しさに見とれるうち、生臭いため息が口の端から漏れ出る。分厚い紫色の唇は腫れぼったく膨れていて、男としての象徴をそこに強く押し当てたい下衆な欲望に駆られそうになる。ビニールのような質感の肌に、今すぐに人差し指の腹で優しく触れなくては。


 光の丘のように輝く頭頂部。数ミリ離れた位置で、宙冠(クラウン)が高速回転。正しい所有者の位置が指定距離内に収まった際に、そういう挙動を見せる。おふざけ以外の何物でもない子供騙しのアクセサリーが、今は眩しく見える。


 身体はプラスに興奮しきっていた。立ち上がり、近づこうと一歩を踏み出す。救われる。これで。薬では抑えきれるかどうか危うかった精神的岸壁から、ようやく距離を置ける予感。と同時に、放たれた矢の如き速度で脳裏に刺さる、得体のしれない違和感。


【ズゥ】の唇が、花びらを食むように薄く開いた。長く濡れた平べったい舌唇機構が、蒸し暑い夜の空気を舐めるように伸びる。柔らかな曲線を描いた舌先が頬を舐め上げる。バカみたいに突っ立たったまま、なぜか動けない。


 両目が次第に輝きを増しながら変色。金色から全く別の色へ。青錆色(ブルーセピア)の瞳が俺を捉える。胸の奥に隠し持つ秘密を値踏みするように。アフリカの大草原で肉食獣に狙われる草食獣というのは、こんな気分なのだろうか。


 なにか、とんでもないことに巻きこまれていると直感した時には、もう遅かった。青錆色(ブルーセピア)の瞳への変遷。それが合図だったかのように、四方八方から、はじめて見る【ズゥ】の群れが静かに羽ばたきながら、こちらを取り囲んでくる。建物の陰や屋上から、反対側の通りから、階段の裏側から、植木鉢の隅っこから、わらわらと這い出てくる。国内最大規格の8.9インチ・サイズ・ボディの芋蟲型(ワーム)が下半部を宙でくねらせ、長細い六枚翅にダメージ加工を施した悪魔型(デモニック)が奇怪なわななきを発し、【ズゥ】のなかで唯一人型に近しい構造を持つ赤頭巾型(チャチャ)が、でたらめな軌道を描きながら飛び跳ねて、上半部は女で下半部は蛇の姿をした神話シリーズの一体である蛇女型(ラミア)が、その六つある蜘蛛のようなカメラアイをキロキロ回転させながら迫ってくる。


 そして突然だった。大小合わせて大勢の【ズゥ】たちが、一斉に飛びかかってきた。逃げればいいだと? バカ野郎。どうやって? 奴らときたら、さすが人格をコピッてるだけあって、襲撃も巧妙ときた。いきなり俺の顔に五、六匹の【ズゥ】が激突してきやがったんだ。真夏のユスリカなんて比べ物にならないほどの、背筋が凍るような不快感。そして激痛。回転する何枚もの翅が、旋盤機のように頬や顎の肉を鋭く削ってくる。白いシャツが真っ赤に汚れる。更には、小さい口を大きく開けて俺の目を齧ってきた。なんだかわからない、赤と黄色が混じった液体が足元に飛び散って、大声を上げそうになった。でも、できなかった。なぜかって、数匹の蛇女型(ラミア)が喉元に飛びかかってきて、生きた蛇そっくりの下半部で俺の首を絞め落としにかかってきたからだ。突然の息苦しさに襲われて、たまらずうずくまった。心臓が飛び跳ねて脂汗がダラダラ湧き出る。説明のつかない事態に巻き込まれて激しく混乱しているのは確かだが、その一方で、この態勢になったのはラッキーだとも感じた。人間の体の中で、もっとも強度の高い部位である背中を盾にする格好になったからだ。


 でもそんなのは、この怪物じみた守護霊たちにとって、十分な抵抗力にはなりえなかった。俺の希望はあっさりと打ち砕かれた。【ズゥ】たちの襲撃は弱まるばかりか、逆に激しさを増して止まらなかった。視界に映っていなくても、感覚で分かる。信じられないくらいの数の、様々なタイプの守護霊たちが、俺の狭い背中に飛び込むように襲い掛かってくるのが。シャツの繊維が破ける音が断続的に続いて、破れた隙間から覗いた白い皮膚に、奴らの牙が突き刺さる。食い破ろうとしているんだ。俺の体を。


 そこから先は、なにも考えられなかった。激痛に次ぐ激痛のせいで、まともな思考なんて出来ようもない。エンジン・キーは差しているのに、一向に動かない自動車にでもなった気分だ。あるいは、重篤症状に陥った躁鬱病の患者とでも言おうか。命の危機を前に脳は指令を下しているのに、体が言うことをきかない。そこには、眼前の恐怖を前にした単純反応しか生まれない。全身の皮膚が総毛立ち、奥歯を小さく鳴らして、鼻水と涙を垂れ流し、しゃくりあげるような悲鳴を漏らす。


 恐怖の単純反応。その連鎖の末に、次第に痛みが引いていった。というか、痛覚が消えていった。薬で無理矢理感覚を制御しているのではなく、喪失したって言った方が正しいか。ひゅうひゅうと生暖かい風が吹いて、猛烈に濃い血の匂いを運んでくる。肉片のこびりついた背骨と肋骨の隙間をねっとりと伝って、薄暗いトンネルの中を進むように、気道を通って鼻先からごぼごぼと這い出てくる。


 それが、どれだけひどいものか考えるより先に、あることに気付いた。あの貴腐警官(ラフレシア)が語ってくれた異人格衝突殺人。コミュニケーション治療具として開発された【ズゥ】が殺人の道具に利用されたという、科学的な悲劇性の方にばかり意識がいっていたが、考えなければならないことがある。


 その後、殺人に利用された【ズゥ】はどうなったんだろうか。警察に証拠品として押収された彼らの末路を知る者はいない。誰のものかわからない模造人格を強制的にインプットされて、見知らぬ誰かの人格と情報接触させられた【ズゥ】という容れ物。彼らの中には、『何も』残らなかったのか。あるいは『何かが』残ったんじゃないのか。幼子が成長の過程で意識を芽生えさせていったように。それと同じことが彼らの身にも起こったのだとしたら。殺人の道具に仕立て上げられて、自らの存在理由(レゾンディートル)に気付いたのだとしたら。あるいは、足りない何かを求めているのだとしたら。


 思考はそこで打ち切られた。食い破られた背中に、なにかが侵入してきた。それは決定的だった。そいつは掘削機のように、背骨と肋骨の何本かを、鈍音を立てて粉砕しながら進撃してくる。ぬらつく大腸に自らを巻きつけながら肝臓を圧し潰し、黄色い脂肪にまみれながら横隔膜を突き破り、怒涛の悪臭をものともせず、硬い六枚翅で胃壁をミキサーにでもかけるようにぐちゃぐちゃにかき混ぜ、圧倒的なサイズ無視の蛮行の末に気道をズズッ、ズズッと突き進んで、最後に口腔から勢いよく外へ飛び出した。その衝撃で舌が根本からねじ切れ、上顎と下顎が外れて前方に飛び出し、前歯が砕けて地面に飛び散った。


 赤黒い血肉と黄色い脂肪の破片に塗れた妖精(エルフ)が、突き出した舌先に乗せた青錆色(ブルーセピア)の瞳で、こちらを見下ろす。どうにかこうにか首を持ち上げ、死にかけの目でそれに応える。右目はさっき完全に食い尽くされて眼底が露出しているが、左目だけは辛うじて無事だった。だから俺は、最後にそれを知ることができた。【ズゥ】がなんでこんなことをするのか。俺の【ズゥ】に過去、なにがあったのか。そして、俺がなぜ、どうして【ズゥ】に固執するのか。単なるインフルエンザ予防のためなんかじゃない。俺とコイツは、ある意味では似た物同士なのかもしれない。


 その時、妖精が静かに頷いた。ような気がした。でも、そうであってもおかしくはない。実のところ、いつバレるかとヒヤヒヤしたもんだ。会社勤めも楽じゃない。でも、コイツになら知られても良かった。俺の秘密。誰にも口に出せずにいた秘密。それを、人格に目覚め、人格を求めて夜の都市を彷徨い飛び交う守護霊たちになら、知られたところで別にどうということはない。


 きっと俺は、本当の意味で、【ズゥ】と結びつくことが出来たのかもしれない。彼らを易刺激性欠損のフィードバック機能として用いるなんて、なんて勿体ない使い方だろう。


 もっと早く、こうしておくべきだった。最後に、そのことに気付けてよかった。


 まったく、とんだ帰り道になったもんだ。






★★★★★★






 ――二〇二三年七月八日、午前五時五十五分頃。東京都において狂暴区域として知られる早朝の竹下通りで、首を切断された二名の男性の遺体が発見された。「竹下通り猟奇殺人事件」の俗称で知られる本件は、その内容の異様さから世間のワイドショーの見出しを一時的にかっさらったことは、諸兄らの記憶にも未だ新しいことだろう。


 実際、それは奇妙な殺人事件と言って良かった。当時の報道によると、竹下通りスクエア近くで発見された二名の遺体は、首の切断に始まり、四肢の欠損、内臓の著しい損傷など、どちらも損壊状態が激しく、現場から凶器の類も発見されなかったことから死因を特定するのも困難で、事件は迷宮入りの様相を見せた。事実、事件発生から五年が経過した現在に至ってもなお、容疑者と思しき人物は特定されていない。


 警察の発表によれば、被害者の死亡推定時刻は、事件発生当日の夜十時から翌日の深夜三時頃とのことだ。しかしながら、当時は服飾連合(カエアン)手動による夜間中の自警団活動が休止していたのと、真夜中という人通りのほとんどない時間帯だったというのもあり、有力な目撃情報が得られなかった。このことが、事件の迷宮化に拍車をかけている要因のひとつと言えるだろう。また、現場付近の防犯カメラが事件当日に原因不明の故障に見舞われ、何者かの細工の痕が見られるとの報道もあった。この報道が事実であれば、二人を襲った何者かが証拠隠滅のために、あらかじめ防犯カメラに何かしらの細工をしていたのではないかという見方もあり、単独犯ではなく、複数犯による計画性のある殺人という可能性も浮上してくる。


 しかし、本件を最も謎めいたものにしているのは、殺された二名のうち、一名の身元が依然として判別不明という事実にあるのは否めない。被害者男性のうち、ひとりは現場近くで働くショップ店員であることが所持品の鑑定調査から明らかとなっているが、もう片方の男性の身元を明らかにするうえで、当初から警察は苦戦を強いられることになった。


 仮に、この身元不明の男性をAさんと呼称しよう。警察の聞き取り調査の結果、Aさんは事件があった日の昼過ぎに、自身が勤める食品メーカーの営業部の同僚たちと南柏で開催されたバーベキュー大会に参加しており、その帰りに事件に巻き込まれたものとみられている。北千住に住所を持つ彼の遺体が、なぜ反対方向の原宿で発見されたかについては、【ズゥ】の遺失物届が警視庁および千葉県警に提出されていた事実から、おそらく失くした【ズゥ】を探しに行っていたのではないかとの見方がある。


 事態はここで思わぬ方向に動く。警察が捜査の一環として遺失物届に記載されていた住所を訪問したところ、そこには同姓同名の別人が住んでいたというのだ。さらに、押収された財布の中から回収された運転免許証には、専門業者による偽造の痕が見られたという。個人認証番号証明書に記載された個人番号は正規の手続きを経て市に認可された番号であるが、それも調査によると別人の番号であることが判明した。これらの物的事実から、警察は、Aさんが何らかの方法で身分を偽造して生活していた可能性を指摘し、それが本事件と何かしらの関係があるのではないかとの見方を立てている。

 

 だが、Aさんの身元に纏わる不気味さはこれだけではない。ここから先はネットの匿名掲示板に寄せられた情報のため正確性には欠けるが、興味深い内容のため、ここからはその一部を要約して記述する。(なお、現在はリンク切れにつき、当該掲示板の書き込みを閲覧することは不可能である)


 Aさんの勤務先に警察が聞き込みにいったところ、Aさんの在籍記録は総務課の個人識別データベースに登録されてはいたが、彼のことを覚えている人と覚えていない人で、真っ二つに分かれていたという。これは性別や年齢、部署を同じとする従業員であるか否かに関わらない。彼と同じ部署に在籍していた社員に、Aさんと一緒に働いていた記憶が全くない一方で、一度も業務上の関りがない社員が彼の存在を、その身体的特徴に至るまで記憶していたりなど、法則性には一貫性が見られない。


 ただ、Aさんのことを覚えている社員たちの証言には、ある共通性があったと掲示板には書き込まれていた。それは、事件発生の数ヶ月前、Aさんが高級仕様(ハイエンド)の【ズゥ】を購入し、それを自慢げに見せて回っていたというのだ。普段は大人しくて口数の少ない性格のAさんが、やたらハイテンションで嬉しそうにしていたのが珍しく映り、それが良く印象に残っていたという。しかしながら、彼が愛着を抱いていたという、その高級仕様(ハイエンド)の【ズゥ】も、事件発生から五年が経過した今、行方を掴めていないという。


 身元を偽っていた主と、その主の手から離れてしまった守護霊。二人の間の奇妙な結びつきを解きほぐすことが、闇に閉ざされた本事件に解決の光を差し込むように思えるのは、本誌編集部の思い込みであろうか。


 いずれにせよ、一刻も早い事件の解決を祈るばかりである。


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 月刊 URBAN

 連載企画 ―あの未解決事件たち―

 File.9「竹下通り猟奇殺人事件」

一か月くらい前にスマホを落とした実体験をベースに書きました。楽しんでいただけましたら幸いです。

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[良い点] ∀・)SFホラーですね。でも突き放してはない。すぐそこにあるような恐怖を書かれていると思います。 [気になる点] ∀・)僕はこういうのが好きなので問題ないですけど、硬派な文体を好まない人は…
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