『明星は見当たらず』
倒れ臥す夜叉。
その胸からは夥しい量の鮮血が絶えず流れ、大地を赤く染め上げる。
勝利を収めたシオンだが、彼女も無傷とはいかなかった。
全身に裂傷、及び数十ヶ所の骨に罅が走り、動くことさえままならない。
挙げ句の果てに魔力が底を突きかけているため、虚脱感に吐き気、激しい頭痛に見舞われていた。
それでもシオンは、なけなしの魔力を掻き集めると『超速再生』を発動させて傷を癒やし、どうにか動くことのできる状態まで回復させる。
ふらつく身体を引き摺るように、夜叉へと近付く。
『……闘争こそ、我が生き様と見たり』
夜叉は静かに笑うと満身創痍の身体を無理矢理に起し、その場に胡座をかく。
シオンもそれに倣い、夜叉の前に座る。
『然れど、未だ嘗て我を悦ばせるに足る闘争に出会う事能わず』
「……」
夜空を見上げて、淡々と語る夜叉。
その視線は闇夜に浮かぶ星々ではなく、闘争に明け暮れた日々を回顧していた。
『我は矮小な小鬼だった』
「……」
『その頃の我にとって、闘いとは即ち“死”と同義であり、他者から逃げ、無様に怯える日々であった』
「……」
『だが、我は惰弱である事を良しとはしなかった!』
「……」
『鍛え、挑み、地を舐め、泥を啜り、血を啜り、肉を喰らい、強者を屠り、屠り、屠り続けた!!』
夜叉の語り口からは彼の送ってきた壮絶な生涯が垣間見ることができた。
小鬼は下級に指定される魔物の中でも、戦闘力で見れば最下位に位置する。
体格は人族の子供程度。
筋力は外見からも分かる通り大して強くもない。
農具を携えた凡夫であろうとも、油断さえしなければ十分に狩る事のできる魔物だ。
それが夜叉となり、高位の魔物達が跋扈する『黒の魔境』の頂点の一角まで登り詰め、数多の魔物を従える存在となるまでに、果たしてどれだけの死戦を潜り抜けて来たのだろうか。
それは夜叉の身体に刻まれた傷の数々が証明している。
裂傷を始め、咬傷、刺傷、擦過傷、爪痕、火傷に凍傷。
酸で溶かされたものや肉が抉り取られた痕など、ありとあらゆる傷痕が見て取れる。
むしろ、傷痕のない部位を探す方が困難な程だ。
見れば左人差し指は欠損しており、腕についても骨の癒着に失敗したのか少々形が歪であった。
「私との闘いはどうだった?」
シオンが問う。
すると夜叉は不敵に口角を上げて答えた。
『真、この上なく愉快なり!!!』
吐血するのも気にせず、大口を開けて笑う。
長きに渡る闘争の中、確かに夜叉は強者へと成長を遂げた。
強者に挑み、弱者を喰らい、嘗て己を甚振った魔物を討ち果たす。
気付けば、彼の力の前に多くの魔物が跪き、名実共に覇者となった。
だが、強さの先に待っていたのは停滞の日々。
血を見る機会は減り続け、挑む者は皆無となり、闘いに明け暮れていた頃が嘘のようだった。
ただ虚空と向き合い、己の半身とも呼べる黒刀を振る。
樹を斬り。
岩を斬り。
雨を斬り。
雪を斬り。
音を
風を
山を
空を
遂には雷でさえ斬った。
気紛れに魔物と戦う事はあれど、一合を耐え凌ぐ者は稀。
それ以前に夜叉の覇気に気圧されて、魔物たちは逃げ出す始末。
偶に向かってくる者が居ても、多くの場合は黒刀の一振りで決着が付く。
夜叉に斬れぬものは最早何も無い。
ひたすらに刀を振るい、己を高める日々。
そんな折、一つの疑問を覚える。
『何故、我は剣を振るうのか』
「……」
『同時に恐怖した。このまま死にゆく未来、果たして我は何を残すのか』
時を同じくして、夜叉は『黒の魔境』に強者が現われたことを察知した。
漂う魔力の残滓から、その者が己と同等以上の存在であることを理解した。
『貴公であろう? 近頃森に出入りしていたのは』
「多分ね。でも、がっかりしたでしょ? 私、剣使えないもん」
『全ては結果に過ぎない。貴公の強さは剣で無かっただけ』
夜叉は知っていた。
シオンが近接戦闘に向いていないことを。
魔法を使用した戦いならば、己が不利であることを。
仮にシオンが夜叉を倒すならば、高所から魔法を撃ち込むだけで片が付いた。
無論、夜叉は対空手段を持ち得ている。
『薙雲』は遠距離技として流用でき、魔力を足場にすれば空中戦も夜叉には容易い。
しかし、シオンには通用しないだろう。
『薙雲』の速さは脅威だが、十分な距離を取り、身体強化によって知覚を強化したシオンには回避できない技ではない。
魔力を足場に空中戦を繰り広げても、地上ほどの力を夜叉は出すことは不可能。
空中戦は回避し、地上戦に持ち込む必要がある。
夜叉がスタンピードを差し向けたのはその為だ。
魔物たちに注意を向けることでシオンの意識をそちら引き付け、戦いの場を地上に固定する。
その目論見は失敗とも言えるが、結果としては成功した。
"情"という不確定要素に突き動かされたシオンは戦場へと現われ、夜叉との戦闘を強いられる事となる。
だが、そうなると疑問も残る。
「何で最初から全力を出さなかった?」
『……』
戦うことが目的である夜叉は、なぜシオンを殺さなかったのか。
闘い始めた当初、夜叉は明らかに手を抜いていた。
『薙雲』の収束は甘く、身体強化も最低限のみ。
『神威』に至っては防御不可の切り札となり得た。
それらを小出しに、時には見せ付けるように使う意味。
それは――
『それでは詰まらぬではないか』
「それだけ?」
『我にとってはこの上なく重要である』
夜叉がシオンとの闘いで全力を出さなかった理由。
その真意は彼女を育てる事にあった。
己と張り合えるだけの剣技を身に付けさせ、その上で斬り結ぶ。
魔法という最大の武器を封じたのなら、代わりとなる武器を与えなければ対等ではない。
そこには彼なりの闘いに対する美学があった。
『それに、貴公は一つ誤っている』
「誤り?」
『然り。最後の一刀、アレには我の持てる全てを乗せた』
「……」
『その考えは我に対する侮辱であるぞ?」
怒りを滲ませる夜叉
彼に掛かればノアールとシリウスを殺す機会は幾らでもあった。
それを不要と判断したのは、偏に彼の意思。
元より、完全な公平などというものは、闘いに存在し得ない事を夜叉も理解している。
得物、心情、能力。
多数の優劣がある中で命を掛けて殺し合う。
強者が勝つのは自明の理。
弱者が道理を覆す事は、経緯が何であれ健闘を称するに値する。
『貴公の一刀は確かに我に届いたのだ』
「負けたのに嬉しそうだね」
『何故だろうな。迚も晴れやかな気分だ』
不思議そうに、けれど穏やかに夜叉は微笑む。
その身体は端から徐々に塵となっていく。
『貴公、名を何と言う』
「シオン」
『生憎と我は名無し。冥土には黒刀と貴公の名を持って逝くとしよう』
「介錯は?」
『不要だ』
夜叉は自らの胸に貫手を放つと、核である魔石を抉り取る。
燃え盛る炎のように赤いそれは夜叉の肉体から離れて尚、鼓動を続けるかのように魔力が脈動している。
「強かったよ、貴方は。多分、普通に戦っても苦戦したと思う」
『……本望だ。我は今、漸く満たされた』
夜叉の身体の崩壊が加速する。
残された時間は長くはない。
『然らばだ、シオン。我が好敵手にして――魔物の声を解する希有な少女よ』
「は? おい待て、どういう意味だ!!」
『今宵は実に良い。見よ、明星の何と眩い事か――』
「……」
夜空を見上げ、夜叉は哄笑する。
そのまま彼は満ち足りた様子で旅立った。
シオンへ自らの剣の全てと、一つの謎を託して。
そう、初めから夜叉は言葉など発してはいない。
夜叉は並の魔物とは比較にならない知性を持つが、言葉を発するには至らない。
そもそも人語を解するのは、竜種など一部の高位の魔物に限られるのだ。
塵が風に流される。
黒刀も夜叉の後を追うように、塵となって風に運ばれた。
夜叉の姿が消えた後、そこに残ったのは赤い魔石と額に在った角のみ。
シオンはそれらを拾い上げると、夜空を見上げた。
「一番星なんて、見える訳無いじゃん」
辺りは暗く、夜の帳はすっかり降りていた。
荒野の中心、無数の星々に照らされながらシオンは呟く。
そして、彼女の視界は漆黒に染まった――
新年度が始まりました。
ペースは落ちますが頑張ります。