捨て駒の矜持
『シエナ……愛しい子。』
シエナはまどろみの中にいた。髪を撫でられる柔らかな指の感触と、頬に感じる温もりが心地いい。ああこれは夢だ、とすぐに悟る。それでも声の主を確かめたくて、ずっしりと重たい瞼を懸命にこじ開けた。目前はもやのように霞んでいて、輪郭すらはっきりしない。視界の端には、金糸のように輝くプラチナブロンドの髪が揺れる。
『あなたは、大切なあの人との宝だわ。いつか、あなたも真に愛してくれる人と結ばれるのよ。』
これほど慈愛に満ちた言葉を掛けてくれるのは、彼女の母親だろうか。他の妃たちよりも身分が低かったために、不遇の扱いを受けたという第六王妃。シエナが物心つく頃には亡くなったのだから、記憶に残っているわけがない。真に愛してくれる人――そんなものがこの先現れるはずがないということは、本能的にわかっていた。だとしたら、これは「愛されたい」という自らの願望が見せた悲しき幻想だろうか。
(待って! 消えないで、お母様――)
ともすれば力なく垂れ下がってしまう腕を必死に伸ばすが、彼女の身体はその意志とは裏腹に、硬直したままだった。白い視界は少しずつ狭くなり、日が落ちるように暗くなっていく。
次にシエナの目に入ってきたのは、白いタイルと思しき床だった。対角線上には黒いタイルが配置され、市松模様になっているようだ。ゆっくりと目を上げると、いつのまにか彼女は膝を曲げたまま首を垂れていた。この姿勢をする相手と言えば、ただ一人しかいない。
『そなたらは、せいぜい余の役に立つように。そなたらの運命を決めるのは、父親でありこの国の王でもある余、ただ一人だけだ。異論は認めぬ。』
玉座に坐しているのは、白銀の顎髭を蓄えた壮年の男だった。その鋭いまなざしで射抜かれれば、その場の誰もがひれ伏さずにはいられない。赤い毛皮のガウンも、頭上のまばゆい冠も、彼が王であることを物語っていた。
シエナがふと隣を見やると、そこには横一列に十人ほどの女が並んでいた。王宮で何度か顔を合わせた姉王女もいれば、顔も知らない中年の王女たちもいる。そして、その前には二十人ほどの男が同じように一列に並んでいた。こちらはおそらく王子たちだろうか。とは言え、他国に行ってしまった者も多いため、こうして王の子たち全員が一堂に会するなどありえないことだ。シエナは市松模様の床と一同とを見比べるうちに、まるでチェス盤のようだ、というおぞましい発想がよぎった。
『王子たちよ。そなたらは紛れもない余の子たちであるから、誰に王位を譲っても良いと思っている。己の有用性を示せ。腹違いの者たちを皆殺しにしても良い。余もそうして玉座についたのだからな。』
王の一言が耳に入るや否や、前に並んだ王子たちは一斉に一歩前へと踏み出す。横にいる他の王子を押しのけるようにして進んだ者もいる。彼らは最後の一人になるまで競り合うように床の盤面を行ったり来たりした後、いつのまにか煙のように消えていった。
王はその光景に大した興味もない一瞥をくれると、次は並んだ王女たちへと向き直った。
『従順なお前は、忠実なる家臣と結婚を。ああ、賢いお前は北国ロステレドの正妃に。それから、美しいお前は西国ロゼラムの王子の側妃に。ああ……これで国内も、他国とも和平が保たれる』
次に聞こえてくるのはどうやら周辺国の名前だろうか。王の一言と共に進み出ていくのは、煌びやかなドレスを身に纏った腹違いの姉たちだ。彼女たちの後姿は、すぐにぼやけては霧の向こうへと消えていく。そうして一人消え二人消え、いつのまにかその場に残っているのは、地味な灰色のドレスを纏ったシエナだけになっていた。
『ああ、そなたは……名前は、なんだったか。なんだ、その生意気な目は。可愛げがない。』
シエナの姿を認めた王が億劫そうにため息をつくと、その動きに合わせて白銀のあごひげが揺れた。険しい眉間に走る皺は深く、そのまま彼女とを隔てる荘厳な壁のようだ。王が口を開くと、その場の空気までもが彼にひれ伏すようにぴんと張り詰めた。
『まあ、いい。そなたはあの東の蛮族――アル・シャンマールの人質にでもくれてやろう』
『“アル・シャンマールの人質”……?』
その言葉の意味を考える暇もなかった。唐突に、シエナの身体はふっと宙に浮く。足元の床が消えたのだと気づいた時には、すでに遅かった。頬に当たる逆風に髪が巻き上げられ、重力に逆らうこともできずにただひたすら落ちて行く。どんなに叫ぼうと、もがこうと、肝の浮き続ける不快感は止まらない。頭上から響く父王の声が、だんだんと遠ざかっていく。
『丁度良い。これで、そなたの使い道ができて良かった。』
『――待って! 助けて、お父様!!』
ああ、これが本当の捨て駒という奴なのだろうか――とぼんやりと考える。その一方で、自らの境遇の例えからこんな悪夢を見るとは皮肉なものだ、と彼女は自嘲していた。いつかはこういう日が来るのだ、ととっくの昔に割り切り、覚悟していたつもりだったのに。いざそうとわかると、急に抗いがたい恐怖に襲われ、得体のしれない闇の中へと引きずり込まれていくようだった。
ずっと忘れて、あきらめようとしてきた苦い思いがふつふつと沸き立つ。あのまどろみの中で母に慈しまれたように、誰かに愛されたい。この境遇から自由になりたい。無駄とわかっていても、耐え切れずばたばたとがむしゃらに手足を振り動かしたところで、シエナははっと現実に引き戻された。
「……っ?!」
見慣れた天井が視界に入った途端、ここが自室のベッドの上であると確信する。ばたばたと間抜けにも足を動かしている自分に気付くと、安堵と共にどっと疲労感が押し寄せてきた。先ほどまでの落ちているような感覚はもう無いにも関わらず、どくどくと心臓の脈打つ音が全身に響いて止まない。いつのまにか背中にも、額にも、じっとりと汗がにじんでいた。
呼吸を整えるように深く息を吐くと、彼女はゆっくりと身を起こした。窓から差し込む月の光に目を細めると、ようやく生きた心地がした。
随分と嫌な夢を見たものだ。それに、夢にしては妙に現実味を帯びていた。シエナは重たい身体を引きずりながらベッドから這い出ると、枕元のグラスと水差しを手に取った。こぽこぽとグラスに水を注ぐが、無意識のうちに手が震えていたらしい。グラスはつるりと彼女の指から滑り落ち、絨毯の上に転がる。行き場を失った水は彼女の手を伝い、じわじわと絨毯に染みをこしらえていった。
「……あ」
からからに渇いた喉が引きつる。グラスをそのままに、彼女は再び心を落ち着けるように、窓の向こうの月を眺めていた。
ここ数年の間に、すっかり失念していた。今までこうしてひっそりと生かしてもらってはいたものの、シエナは父王の所有物で、彼の采配次第でどうとでもなる存在である。自分を駒のように扱ったとて、当然のこと。むしろこうして生かされているのは、そのためではないかとすら薄々察していた。この気楽な生活が終われば、待っているのは国の貴族や周辺国の王族と愛のない政略結婚……で済めばいい。あるいは、最悪の場合は敵国への貢ぎ物となり、用済みとなって見捨てられる――そんな未来もありえなくはないのだ。
(大丈夫。まだ、そうと決まったわけではないし……。)
父王には何の期待もしてはいけない、と頭では理解していたはずだが、それでもいざ明日から転機が訪れるとなると、先の見えない不安に胸が押しつぶされそうだった。敵国だと言う蛮族の国「アル・シャンマール」は、話に聞くだけでもおぞましかった。できれば関わり合いになどなりたくもないが、万が一人質になることを命じられたら……と思うと、彼女の背筋はぞわりと粟立った。思わず、自身の肩を抱く様に両腕に指を食い込ませる。
それでも、王家に生まれた以上は、弱音を吐くことなど許されないだろう。なけなしの誇りを胸に、せいぜい捨て駒として有用に動いてやるしかない。所詮、彼女はアレス国王の手のひらの上で転がされる駒に過ぎないのだから。
「――姫様?」
丁度その時だった。もう夜更けだと言うのに、扉の向こうから聞き慣れた声が聞こえ、彼女は釣りがちな目を見張った。
「リュシアン……?」
王宮なら扉を守る騎士がいたとしても不思議ではないが、残念ながらここには交代の騎士はいないため、夜は休むようにと念押ししていたはずだった。こんな時間に居るのを怪訝に思ったシエナが近づこうとすると、少し焦った声に遮られた。
「ああ、扉は開けなくて結構です。そのままで。……眠れないんですか?」
「それはこちらの台詞よ。あなた、私の護衛騎士だからってこんな夜中まで張り込む必要はないのよ。」
「いえ、俺は偶然目が覚めてしまっただけで……そう、散歩していたところです。」
いかにも取ってつけたような理由は、あるじを心配させまいという真面目な彼なりの気遣いに違いない。とは言え、この男は無理やりにでも休ませなければ、何食わぬ顔をして四六時中でもそばにつこうとするだろう。さすがにそれではシエナの気も休まりそうにないので、彼女はため息混じりに口を開いた。
「自分の身体を気遣うのも仕事のうちよ。私のことは良いから、今日はもう休んで。」
「それは……ご《《命令》》ですか?」
その言葉を耳にした瞬間、王女は躊躇った。一方的な命令や厳格な主従関係はあまり好きではない。しかしながら、これまで彼女がいくらリュシアンの為の「お願い」をしたとしても、聞いてもらえたためしがなかった。そこで、気は進まないもののしばしば魔法の一言を口にすることがあったのだ。
「そう。《《命令》》よ。」
「御意。」
すると、リュシアンはあっさりと要求を呑むのである。なんだか立場を利用しているようで罪悪感を覚えたが、これも明日に備えてのことだから、と彼女は自分に言い聞かせていた。
「……姫様。」
「何かしら?」
「見当違いでしたら、申し訳ありません。ですが……もしかして、王都へ戻るのが怖いのですか?」
扉の向こうの騎士が言いよどみながらも問いかける。あたかもあの悪夢を覗き見られていたようで、シエナは不意を突かれたように息を呑んだ。もしや、声だけで弱っているところを悟られてしまったのだろうか。彼は平時はおよそ鈍感なくせして、あるじのこととなると往々にして研ぎ澄まされた勘を発揮してくる。
「……どうして、わかったのよ。」
「これでも、あなたの護衛騎士ですから。ご安心ください。俺はあなたを絶対に守ります。たとえどんなことがあろうとも、誰が敵に回ろうとも。」
いつも通りの忠誠を誓う言葉。こう常日頃から耳にしていては、新鮮味も薄れてしまいそうなものだが、今回ばかりは違っていた。リュシアンがその誓いを口にすればするほど、魔法の呪文のように彼女を守ってくれるかのようだ。
その一言で落ち着きを取り戻したのか、シエナは彼に悟られないようにふっと表情を和らげると、知らず知らずのうちに顔をほころばせていた。
「……ありがとう。あなたも早く休んで。」
「はい。おやすみなさいませ」
捨て駒姫には騎士が付いている。いずれ捨てられる運命にある駒をわざわざ守ろうとする、酔狂な騎士だ。王国の騎士でもあるリュシアンにとっては、王令が絶対のはず。護衛の任を解かれれば、それまでの縁となる脆い関係に過ぎない。それでも、今のシエナにとっては彼だけが唯一信じられる存在であり、希望だった。
こうして、これまでを顧みたいくらかの惜別と、これからの不安を新たにして、夜はゆっくりと更けていったのだった。