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アレス武勇詩(ハマーサ) ~捨て駒姫は自由に焦がれる~  作者: 桜井苑香
Ⅵ. 泡沫の恋愛抒情詩(ナスィーブ)
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驟雨の夜

 ザイドの目前に立ちはだかる、重々しい観音開きの扉。真鍮の金具は、今か今かと引かれるのを待っている。彼は手を伸ばしたところで、ふと動きを止めた。心臓が早鐘を打っているのは、疾走してきたせいだけではないだろう。

 頭の先からつま先に至るまで、全身が重かった。まるで鉛でも圧し掛かっているかのようだ。彼の指先は、扉に浮かぶ金の幾何学模様をつうと撫でていた。両脇に控えた兵士は、頭を垂れたまま微動だにしない。傍から見れば、この場所だけ時間が止まっているかのようだ。

 彼らをこのままにしておくのも忍びないため、ついにザイドはためらいがちに扉を叩いた。


「……父上。俺です。」


 返事はない。意を決して分厚い扉を開けると、穏やかな香木がふわりと香った。嗅ぎなれた匂いに少しの安堵を覚える。

 父の部屋は王とは思えぬほど簡素だった。幾つもの円形が緻密に重なり合った赤の絨毯、絹の柔らかなクッション、書物の並んだ棚。そのどれもがいつも通りで、彼は軽く拍子抜けした。

 けれども、部屋の主がいるベッドだけは違った。真っ白な天蓋は何人もの侍従で囲まれており、明らかに異様だった。何かの間違いではないのか。そう笑い飛ばすには、皆があまりにも沈痛な面持ちをしていた。


「ザイド様。どうぞ、こちらへ。」


 口ひげを生やした中年の男が出てくる。父を長年診ている顔馴染みの医師だ。紺色の細長いボタンがついた服は、アル・シャンマールよりも東の地方でよく見られるものである。細い目に低い鼻をした平たい顔の医師は、ザイドに向かって会釈をすると、粛々と言い添えた。


「このところ苦しむように眠りについて、目を覚まされると咳き込まれることが多く……あまりお食事を召し上がろうともなさいません。お薬も受け付けられませんので、今はお身体を温めることで精いっぱいでございます。」

「……そんなに悪いのか?」


 思わず口をついて出た疑問も、父の姿を見た瞬間にかき消えた。あれほど大きく見えた父は、いつの間に縮んでしまったのだろうか。広いベッドに力なく横たわる老人の身体は、子供のように小さくか細かった。


「父上。……俺です。わかりますか? 聞こえますか?」


 皺だらけの顔はかつての威厳を失い、白い斑点の混じった首は硬直したように動かなかった。群青の穏やかな目は虚空を見つめたままで、いくら覗き込んでも焦点が合わない。いくら視線を合わそうとしても、まるで視界に入っていないかのようだった。


「父上……父上! 答えてください。どうか……お願いですから。いつもの古傷が痛むだけですよね? そうだと言ってください!」

「……」


 ザイドは寄り縋るように棒切れのような手を取った。かさかさとささくれだった指は確かに脈打っているはずなのに、まるで生気を感じない。思いがけず、焦りと不安に駆られる。何を語れば正気に返ってくれるのか、見当もつかなかった。


「どうして、こんなにも急に。……これからなのに。これから、アレスと決着をつけて、民を……あなたを安心させたかったんです。俺一人では限界があります。あなたがいてくれるから、俺はこれまでなんとかやってこれたんです。こんなにも……王にふさわしくもない俺が」

「……。」


 気づけば臣下の前だということも忘れ、彼は堰を切ったように不安を吐き出していた。せめて一言でも発してくれれば、とわずかな希望を胸に老人を見つめるが、深い皺の刻まれた顔はぴくりとも動かない。あまりにも一方的な語り掛けを続けるうちに、彼の中には虚しさが募っていた。


「あなたまで……俺を置いていくんですか? 兄上たちと同じように。あなたがいなければ、これから俺はどうすればいいんですか。教えてくださいよ……父上!」


 束の間、目尻に皺の刻まれた群青の瞳に、わずかな光がともる。ザイドがはっとして目を凝らすと、老王からはゆっくりとしわがれた声が発せられた。


「……? ザイ、ド?」

「―っ!」


 途端に、胸の奥から熱いものがこみあげてくる。堪え切れなくなったザイドは、父の肩を掴むように縋り付いていた。


「父上! 気付かれたのですか?!」

「ああ。……情けない、な。お前に……すべてを背負わせてしまって……。」

「滅相もありません! ……ですが。俺にこの国を任されるのは、あまりにも役不足です。姫君も満足に守ることもできず……。どうすれば……。兄上たちには、到底及びません」


 糸を手繰るようにして掴んだ、一縷の望みに胸が躍る。少しでも沈黙を作れば、また虚ろな父に戻ってしまうような気がして、ザイドは柄にもなく一方的に話たてていた。


「しかし、父上がこんなにしっかりされているなら、ひとまず安泰ですね。これからもますます元気になって頂かなくては。ラジャブたちも父上のことをお待ちしています。だから、今日はゆっくり休まれて―」


 しかしながら、よろよろと身を起こした老王は静かに首を振った。


「―無理だ。」

「……!」


 短くも重い一言に、冷や水を浴びせられたようだった。彼はようやく我に返ると、押し黙った。


「これは、一時的なものだ。もう長くないことは……儂が一番よくわかっている。」

「……。」


 手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握りしめる。落胆のあまり、絞り出した声は情けなくも掠れていた。


「……なぜ、ですか。」


 口にしながらも、頭では理解していた。こんなにも平然として普段通りの父だが、やがては先刻までの姿へ戻ってしまうのだろう。なにゆえ、今なのか。どうして、父なのか。この不条理を恨み、嘆き、子供のように大声を出して泣き喚きたかった。


「どうして……そんなに落ち着いていられるのですか?」

「儂は元々死にかけの老いぼれだ。それに……お前にこの国を任せると決めたのは儂だ。お前がいかに己が甘いと言おうと、この国と民を救う気持ちで動いているのは知っておる。お前だから、任せると決めたのだ。」

「……買いかぶりすぎでは、ないですか」


 老人は柔和な笑みを見せていたが、急に眉間に深い皺をよせた。曲がった腰をますます縮め、げほげほと咳き込む。その姿を見ていると、身が切られるような思いだった。侍従たちは、薬や湿布を手にして一斉に王を取り囲もうとするが、老王は最後の力を振り絞り、静かに制した。


「……もう看病はよしてくれ。少し疲れたのだ、休ませてくれ。」

「―ですが!」

「こうも四六時中取り囲まれていては、気が休まらない。……息子と過ごしたいのだ、外してくれないか。」

「……お前たち、陛下のご命令だ。今は下がっていてくれ。」


 不安を隠せぬ一同だったが、渋々頷いて一礼すると、ぞろぞろと部屋から出て行った。それを見届けた後、父王はおもむろに寝床に戻った。その顔には、やっと重圧から解放されたかのように、穏やかな表情が浮かんでいた。


「……ザイド。……あとは、頼んだぞ。」

「……はい。」


 眠るように目を細めた父王は、やがて意識を手放すように瞼を閉じた。

 もはや聞き分けのない子供のように、駄々をこねている場合では無い。ザイドは震える唇を無理やり持ち上げると、自身に言い聞かせるように告げた。


「……俺は、もう大丈夫です。あとは俺に任せて、ゆっくりお休み下さい。」


 ほどなくして聞こえてきた規則正しい寝息に、安堵よりも胸騒ぎを覚える。先ほどが、おそらく父と言葉を交わせる最後の時だったのかもしれない。彼は膝をつき、祈りを捧げるように手を組んだ。せめて父に安らかな眠りを、と一心不乱に願う。

 いつしか空は鈍色の雲で覆われ、高い位置にあるはずの太陽は厚い雲の向こうへと追いやられた。やがて、ぽつりぽつりと控えめな雨粒が地面を叩き始めていた。



                ***



 バリバリとすさまじい雷鳴が辺りに轟く。耳をつんざくような鳴動で、シエナは反射的に飛び起きた。時刻も分からぬ暗闇の中、どくどくと脈打つ心臓がうるさい。外はたらいをひっくりかえしたような土砂降りだった。急に起き上がったせいなのか、こめかみをガンガンと金槌で叩かれているような頭痛が走る。はて自分はこれまで何をしていたのだろう、と考えたところで、彼女はゆっくりと記憶を取り戻していた。

 突きつけられた刃の冷たさはまだ記憶に新しかった。そっと首筋に触れると、包帯が巻かれていることに気づく。鈍い痛みのおかげで、まだどうにか生きていることを悟る。赤い花嫁衣裳はとうに着替えさせられ、着心地のいいワンピースのような寝間着になっていた。

 部屋の外から漏れる明かりが、ゆらゆらと揺らめいている。ベッドからそろりと這い出て、おそるおそる扉を開けた。すると、すぐにざあっと容赦ない雨風が吹き込み、裸足の足元を濡らした。彼女の部屋は回廊に面している。庇のような屋根は、何とも心もとない。そういえば、アル・シャンマールで雨を見るのは初めてだった。

 その時彼女は、最後に目にしたザイドの姿を思い出していた。こちらへ手を伸ばし駆け寄ってくる必死な顔が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。彼は今、どうしているのだろうか。唐突に思い立ったシエナは、気づけば華奢なサンダルに足を通していた。扉の横には無造作に掛けられたランタンがある。ゆらめく炎は今にも消えそうだが、何もないよりはましだろうと手に取る。

 回廊の中央にある噴水は雨に叩かれ、とぽとぽと力なく水を吐き出していた。こうしてあてもなく歩くよりは、部屋で待っていたほうが賢明とわかっていても、はやる気持ちを抑えきれない。彼女は寝間着の裾が濡れるのも構わず、足を早めた。


(……いくらひどい雨とはいっても、こんなに誰もいないものなの?)


 そこで、シエナは王宮の異様さに気づいた。雨のせいだけではない。辺りには、なぜか見回りの兵士もいない。まるで忽然と消えてしまったように、誰もいなかった。床に跳ね返った雨粒が、彼女の腕をつうと伝って流れる。もしや悪夢だろうか、とも訝るが、濡れた感触は紛れもなく現実のものだった。

 闇に溶けそうなほど暗い回廊には、点々と淡く光るランタンが並んでいた。雨風に煽られて一つ、また一つと消えかけるたびに、暗闇へと近づいていくようだ。身体にまとまりつく雫は、彼女の肌の熱を奪っていく。ぶるりと身震いしたシエナは、そっと自らを抱きしめるように両腕を擦った。

 ふと、回廊の縁でたたずむ人影が目に入る。長身痩躯の男が、項垂れたように立ち尽くしている。濡れた首筋までの黒髪は、今にも闇と同化して消え入りそうだった。


「……ザイド?」


 まじまじと目を凝らす。彼の姿を認めるやいなや、どきりと心臓が跳ね上がる。図らずも、彼女の頬はじわじわと綻んでいた。彼女は熱に浮かされたように、一歩、また一歩と歩みを進める。むき出しの裸足の指に水溜まりが浸かっても、不思議と気にならない。感覚がどこか遠くへ消え去ったように、冷たさもたちどころに感じなくなった。


「……ねえ。ザイド!」


 一方の彼は、彼女の声が耳に届いた様子もなかった。ゆったりとした黒の上衣は、水でも被ったかのようにぴったりと褐色の肌に張り付いている。濡れた髪から流れる雫は、額から骨ばった顎へと滴っていた。シエナが近づいても、まるで気づいていない。目の前にいるにも関わらず、ずっと遠くにいるようだった。


「私よ。どうしたの?」

「……?」


 ザイドは何度か瞬きを繰り返す。それで、二人の視線はようやく交わった。


「ああ……姫君。目覚めたのだな。」


 安堵を覚えたのも束の間、その顔を見上げた途端にはっとした。ザイドの表情は強ばり、口元はにこりともしていなかった。深い青の目は闇を映したように暗い。

 シエナとて、手放しで嬉しがってもらえると期待したわけではない。けれども、彼の中に大した喜びも浮かんでいないのを目の当たりにして、ちくりと胸が痛んだ。


「ええ、おかげさまで。……ねえ、どうしたの? あなたも、ここも……様子が変だわ。あれから、何があったの?」

「……父上が亡くなった。」

「―っ!」


 彼の顔が痛みを堪えるように歪む。どう声をかけたら良いものか懸命に考えても、ありきたりな慰めしか浮かんでこなかった。何を言っても安っぽくなりそうで、シエナはしどろもどろに言い淀んだ。


「……そんな!」

「族長の奴らは、次期王となる宣言を早くしろ、と口うるさく言ってくる。……少しは喪に服す時間も欲しいというのに。」

「……それは……そうよね。」


 まるで相槌にもならない自身の呆けた返答に、もどかしくてたまらない。幸か不幸か、大雨が二人の声をかき消すようにざあざあとがなり立て、彼に聞こえているのかも定かではなかった。


「大丈夫……なわけ、ないわよね。」

「なんだ、心配してくれるのか。……気を遣わせてしまったな。」

「それは……当たり前じゃない。あなたは―」


 私の夫なのだから、と言いかけて、我に返る。婚儀は中断されてしまったのだから、果たして胸を張ってそう言い切れるだろうか。そこで急に口をつぐんだ彼女を遮るように、彼はばっと頭を下げた。


「すまなかった。俺が至らないせいで、姫君を危険な目に遭わせてしまった。……本当に、申し訳なかった。」


 濡れた黒髪からぽつりぽつりと滴り落ちる雫は、涙のようだった。シエナはゆっくりと首を振った。ザイドが保身のために彼女を差し出したわけではないことくらい、よくわかっていた。


「そんなの……あなたの責任じゃないわ。オルコット卿がああなるなんて、ずっと近くにいた私も気づかなかったんだもの。……無理もないことよ。」

「だとしても、最悪の事態を想定して動くべきだったんだ。王ならそれが当然のことだ。なのに俺は―」


 彼が疲れきった瞼を閉じた。涼しげな印象は打って代わり、普段の余裕はどこにも無かった。長いまつ毛に落ちる影の下には、濃い隈が重なっている。きっともう何日もまともに寝ていないのだろう。筋肉質な腕には、雨の飛沫がひっきりなしに流れていた。


「……あなた、ひどい顔だわ。私が言えたものじゃないけど、休んだほうがいいわよ。」

「まさか、姫君にまで言われてしまうとは……この雨が、雪とやらに変わるかもな。あなたこそ、早く休め。こんなところにいたら風邪をひいてしまうぞ。ゼフラから報告を受けていないが……もしや、目覚めてすぐにここへ来たのか?」


 図星を言い当てられ、シエナはぐっと言葉に詰まった。返答に迷ううちに、風が彼女をせかすようにびゅうびゅうと吹き付ける。これ以上ここにいては、全身が粟立ってしまうだろう。


「……お礼が言いたかったの。」


 ザイドは一瞬面食らったように、穴のあくほどシエナを見つめ返した。ややあってから、乾いた唇が皮肉に吊り上がる。


「俺に、か? おかしなことを言うのだな。俺があなたにしてやれたことなど、無いというのに。」


 自嘲に歪んだ面持ちを見て、シエナの焦りが増す。すぐにでも否定しなければ、彼はきっと嫌味として受け取ってしまうだろう。


「そんなこと! あの時、私を守ろうとしてくれたじゃない。」

「そうだったな。だが、間に合わなかった。結果的に姫君を救ったのは、あの騎士だ。」

「……リュシアンが?」


 騎士の名前を聞くやいなや、心は鉛を飲み込んだようにずんと重くなった。あの鋭いまなざしを向けられていた間、刃を突きつけられているかのように胸が痛かったことを思い返す。そんな彼女はいざ知らず、彼は淡々と続けた。


「奴は、姫君のために騎士であることすらも捨てて、がむしゃらに立ち向かった。味方に不覚を取られた時も、何があなたのためになるか瞬時に判断し、奴を取り押さえたんだ。まあ、さすがにそれで帳消しにはならないから、今は地下牢にいるわけだが……」

「そう……。」


 リュシアンの無事を喜ぶよりも、次に顔を合わせた時にどう振舞えばいいのか、不安がよぎる。以前のように気楽に接する自信はない。かといって、あれほどひたむきに守ろうとしてくれた彼を邪険に扱うのも気が引けた。


「あの者たちの処遇を決める前に、一度話をしておくといい。奴はあなたの護衛騎士なのだからな。」


(護衛騎士の任は解くと、言ったはずなのに……。)


 リュシアンの願いと彼女の望みは、遠くかけ離れている。彼は頑として、あるじをアレス王国へ連れて帰ろうとするだろう。それでも、彼の無事がわかったのなら、二度と顔を合わせないわけにもいかない。シエナは腹を括ると、渋々頷いた。


「そうね。あの時はああいったけれど……いい加減、向き合わないといけないわよね。」

「ああ。あいつはやり方こそ間違ったが、言葉にも行動にも嘘がない、真っ直ぐな男だ。これまでも、これからも……。奴は全てと引き換えに姫君を守るだろう。それが、あの騎士の強さだ。」


 ザイドの口調は、いつもの冷たさや皮肉とはまるで違う。あたかもリュシアンへの敬意や羨望が含まれているようだった。


「あの時……俺には、自分の在り方を捨てられる自信がなかった。いっそのこと、ああなれたらな。」

「……あなたが?」


 一国の王にもなろうかという男が、いち騎士に憧れるとはおかしな話だ。シエナは怪訝に眉を寄せたが、そこで話は早々に切り上げられた。


「それより、これ以上こんなところにいたら冷える。すぐに兵士に送らせよう」

「結構よ。一人で帰れるわ。あなたこそ―」


 土砂降りの雨はまるでやむ気配がない。二人が言葉を交わすたびに、雨粒が飛び散り、もはやお互いにずぶ濡れだった。そんな状況になってもなお、ザイドは自らはさておき、彼女のことばかり気にかける素振りを見せる。


「着替えもいるだろう。後でゼフラに身体の調子も見てもらえ。それから、食事もとるようにな。」

「……過保護だわ。」

「当たり前だ。あなたは―」


 そこで何か言いかけた彼は、はっとしてすぐさま言葉を飲み込んだ。


「……いや、何でもない。」

「……。」


 それ以上は追求するのも憚られ、シエナもつられるように押し黙った。二人の間に流れる沈黙を、轟音のような雨音がかき消していく。


「俺はもう行く。……ではな」


 ザイドは踵を返すと、よろけるように歩き出した。広かった背中はやつれ、何とも頼りない。目を離した次の瞬間に、消えてしまうのではないかと思われた。


『自惚れるな。俺が敵国の王女に惹かれるわけが無いだろう。』


 あの時に言われた言葉を思うと、シエナの胸は深く抉られるようだった。逆光のせいで見えなかった表情は、今は暗闇に紛れて見えなかった。


『今はあなたを守り切れる自信がない。……許せ』


 そのどちらが彼の本音なのか、まるでわからない。だが、真意を問えるほどの勇気もなかった。彼女も元来た道を辿るように、とぼとぼと進み始めた。滝のように屋根から流れ落ちる雨は、泥のような土と混ざり合い、深いぬかるみを作っていた。

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