舞い散る鮮紅
「殿下、よくぞご無事で! ああよかった、心配したんですよ~。」」
「姫様! ……ようやく。ようやく、あなたを取り戻すことができました。ああ……やっと、あなたをお守りするという誓いを果たせました!」
立ち止まったシエナの元に駆け寄ってきたのは、リュシアンとセシルだった。感極まる彼らを前にしても、彼女にはどこか他人事のように思えた。
「……嫌よ。ここに居させてよ。」
虚ろな呟きを耳にするや否や、二人はぎょっとしたように顔を見合わせた。セシルは大仰に驚いてみせると、シエナの手を取った。ともすればくるりと踵を返してしまいそうな彼女を押しとどめるように、その手首を強引に掴んで引き寄せる。
「何を仰いますか! あなたは一国の王女殿下なんですよ~。蛮族の巣にいるなんて、危険すぎます~。」
彼女は未練がましくも背後を振り返った。相変わらず腕をかばったままのアイシャと、こちらを食い入るように見つめるザイドの姿に後ろ髪を引かれる。けれどもそんなあるじの視線を隠そうと、リュシアンが間に割って入った。
「姫様は混乱なさっているのです。さあ、セシル。奴らの気が変わらないうちにすぐに撤退しよう。」
「―ええ。……仰る通りですね。」
ちょうどその時。セシルに握られた手首を強く引かれ、シエナはバランスを崩した。必然的に、彼の腕の中に引き込まれる形になる。何もそこまで手荒にしなくても、と抗議のため振り返ろうとするが、何かに封じ込まれたように身体の自由が利かない。見ると、彼女の肩から首にかけて羽交い絞めにするように、青年の腕が回されていた。一見細身なように見えるが、セシルも男だ。シエナの力ではびくともしない。困惑と驚愕の入り混じった目を向けると、首元にひやりと冷たい感触が走った。
「―姫君!」
「おひいさん?!」
ザイドとアイシャの悲鳴が飛んできて、察する。彼女が恐る恐る視線を落とすと、まくり上げられたシャツから伸びる手には、金属製の筒が握られていた。
「……オルコット卿? 何をするの。どういうつもり? 悪ふざけはやめて。」
冷静に問いただすつもりが、彼女の喉から漏れ出た声はしわがれて震えた。対する青年は、いつもと同じように朗らかで、それでいて冷徹に言い放った。
「ふざけてなどいませんよ。僕は至って真剣です。」
「何をしている、セシル。せっかく姫様を取り戻せたのに!」
リュシアンは、息を呑んだ。明らかに異様な同志を茫然と見つめる。咄嗟に間合いを詰めようとした矢先、あるじの細い首先に凶器の先がめり込んだ。どうやら戯れではなく本気なのだと悟ると、動きを止めるほかなかった。
「この場で殺された殿下のこと、陛下にはしかと報告させて頂きますよ。今度こそ確実に蛮族に殺された、とね。」
「……何を言っているの。早く、離してちょうだい。」
話が見えない。アル・シャンマール側も、セシルの意図をまるで理解できていないようだった。
「どういう意図だ。自国の王女を人質に取るなど……意味不明だぞ。それで俺を試しているつもりか?」
「……なんだい、あれ。アレスの奴はどいつもこいつも狂ってるよ……。」
リュシアンは焦燥と混乱の中で、自らの手にある同じ武器を握りしめた。ともすればその先を向けるのも辞さない覚悟で、毅然と言い放つ。
「セシル。今すぐ姫様を離せ。さもないと……俺があなたを殺すことになる。」
だがその決心を鈍らせるように、童顔の青年は口元を歪めた。かと思えば、ゆっくりといつものようににこやかな笑みを浮かべてみせる。
「……そんな怖い顔しないでくださいよ。あなたにその武器をあげたのは誰です?」
「―っ!」
騎士が図星のあまり返答に詰まると、彼は畳み掛けるように続けた。
「あなただけだったら、正々堂々と立ち向かって、また同じようにやられてましたよね。あなたに、恩人の僕が殺せるんですか?」
その時、リュシアンの脳裏によぎったのは、暗がりの中で過去を語るセシルの姿だった。彼の生家はアレス王国によって敵国に移住させられ、その後取り潰しにあった領主の家である。あの時語った沈痛な面持ちは、置いていかれた子供のように寂しげで、また危うくもあった。それだけに、目前の濁った瞳とは似ても似つかない。
「……っ。まさか、あなたはアレス王国への恨みゆえに?」
童顔の青年は頬を弛めた。あたかも、これから楽しい見世物でも始まるかのようだ。
「ええ。僕らを異国に追いやって見捨てたアレス王国。そして、僕らの同胞を甘い言葉で騙し誘拐したシャンマール。どちらの国にも滅んでもらいます。そのためには……殿下。あなたが必要なんです。悪く思わないで下さいね。」
盟友の常軌を逸した振る舞いに、リュシアンはしばし言葉を失っていた。やがて、煮えたぎる怒りを全身に漲らせ、声を張り上げる。
「……だとしても。あなたの恨みに姫様は関係ないだろう! 今すぐやめてくれ!」
「関係ならありますよ。殿下はアレスの王女なんですから。陛下から如何様に扱われようと、それは事実です。彼女に何かあれば、陛下は動かざるを得ない。」
突きつけられた筒の先は、シエナの言葉を封じていた。彼女には、セシルの事情など知る由もない。ただ一つわかるのは、父王への恨みゆえに利用されるということだけ。ここで自らは捨て駒だから無意味だ、と口を挟めばどうなるか。かたかたと震える喉に、凶器は無情にも食い込む。
一見すれば仲間割れとも言える膠着は、図らずも敵の好機を生んでいた。こちらへの注意が逸れているのを確認すると、若き王は息を殺し、ゆっくりと花の飾られた台へとにじり寄っていた。
「―姫君、動くな!」
突如、シエナの前に水しぶきが散った。反射的に目を閉じる。が早いか、陶器の割れるけたたましい音が辺り一面に響き渡った。彼女の首元からは、ぽたりぽたりと雫が滴り落ちている。濡れた不快感もそのままに目を開けると、突きつけられていたはずの武器は、なぜか足元に転がっていた。
「っ! 何を……!」
周りには、血溜まりのように赤い花が散らばっている。まばらに散る白い欠片は、先刻まで飾られていた花瓶だろう。剣を支えによろよろと立ち上がった女戦士は、脂汗の中に微笑を浮かべて高らかに言い放った。
「やっぱり火薬みたいなもんだったか。……水を浴びたそいつは、もう使い物にならないよ。おとなしく観念するんだね!」
セシルは苛立ち混じりに蛮族を睨みつけた。これでは、落ちた武器を拾う間に取り押さえられてしまうだろう。それでもなお、彼の左腕は王女を押さえ込んだままだった。
「おい、騎士。そいつを取り押さえるのに協力してくれ。」
相対する敵に声をかけられ、リュシアンは太い眉根を寄せて不愉快そうに唸った。
「なぜ俺が―」
「そいつにはお前とは違う企みがあるようだ。同胞を傷つけたことは、今はさて置いてやる。」
現状、シエナへの距離が一番近いのはリュシアンだ。彼女を守る目的は一致しているのだから、一旦は休戦して共闘しようということだろう。しかしながら、ザイドが保身のために彼女を差し出したという事実は彼の中で消えていない。
「……お前は姫様のことなど、どうでもいいのでは無かったか。」
「悪いが気が変わった。……教育係。お前の話は後ほど牢屋の中でゆっくりと聞いてやろう。さっさと彼女を離せ。」
薄い唇を引き結んだ騎士は、はやる気持ちを抑えてあるじを一瞥した。セシルの手に、もはや武器はない。彼らが一斉にかかれば、あるじを救い出すことも叶うだろう。合理的に考えれば答えは決まっている。騎士は嫌々ながらもおもむろに頷くと、じりじりと距離を詰め始めた。
「これで仮にも三対一だよ。終わったね、あんた。その子から手を離しな!」
アイシャの声も耳に入っていないのか、青年は俯いたままだった。うわ言のように何かぶつぶつと呟きながら、空いた手で懐を探っている。
「まだ他に出来る事は……こんなところで……終わっちゃいられない。ああ……そうだ。」
彼に迷いが見られる今なら、とシエナは懸命にもがく。全ての指に力を入れて羽交い締めにされた腕を掴むが、彼女が足掻けば足掻くほど、捕らえられる力が強くなる。まるで獲物をぎゅうぎゅうと締め上げる蛇のようだ。
「……な、んで。ねえ、お願いだからもうやめて。そっ、そう、ミレイユ。あの子が知ったらどう思うか考えてちょうだい。ねえ、目を覚ましてオルコット卿!」
喘ぐような叫びも、かつての教育係には届かない。次の瞬間、彼が取り出したのは銀色に光るナイフだった。途端に、はっと息を呑んだ騎士が立ち止まる。ゆっくりと顔を上げたセシルに、先刻までの狼狽の色はどこにも無かった。代わりに広がっていたのは、穏やかな微笑。
「ああ、そうだ。ねえ、殿下。あなたはもうすぐ殿下じゃなくなるんですよ。あなたの代わりは幾らでもいるんです。だから、もう用済みなんですよね。ということで、大人しくここで死んで頂けませんか?」
刃を振りかぶる。いつかの騎士団長が高く掲げた剣先と重なる。ただ、振り下ろされるまでの時間は、あの時とは比べ物にならない。リュシアンが慌てて手を伸ばすが、その指先は止まっているように見えた。
「―っ! 姫様……!」
声も出ない。悲鳴も忘れ、シエナは朦朧としたまま刃を見上げていた。先程口にしたセシルの言葉が、心を抉る。
(私が……殿下じゃなくなる?)
迫る痛みと衝撃に備えて目を閉じる。身体が動かないのに瞼だけは動くとは、おかしなものだと考えながら。
「シエナ! しっかりしろ。っ……どけ!!」
どこからか声が聞こえる。冷たくもあたたかい声は、胸を締め付け、切なさをかき立てる。どうしてだろうと、彼女は疑問に思う。自身は捨て駒だと突きつけられたばかりなのに、彼から必死さを感じるとは。
(やっぱりあなたは優しいわ……ザイド。)
足元に散らばる花弁。身にまとったドレス。それらと同じ鮮血の色が、彼女の視界を塗り替えていく。最後に見えたのは、「彼女を愛することなどない」と言った彼が取り乱し、駆け寄る姿だった。




