表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アレス武勇詩(ハマーサ) ~捨て駒姫は自由に焦がれる~  作者: 桜井苑香
Ⅴ. 血濡られた酒楽詩(ハムリヤート)
35/40

血塗られた酒楽詩(ハムリヤート)

うっすらと煙が立ち上る中、神殿の入口に不気味な人影がゆらりと蠢く。異質な気迫を纏い、けた外れの殺気を放つ《《それ》》は、闇から這い出た悪魔のようにも見えた。影は徐々に大きくなる。それは一歩、また一歩とこちらへ歩みを進めていた。

 怒号、悲鳴、嗚咽。鼻腔を突き刺す煙と、むせかえるような血の匂い。凍り付いたままのシエナには、そのどれもがどこか遠くで起こっているようで、いまいち現実味がなかった。ただ感じるのは、迫りくる「彼」の気配と、喉元までせり上がるように脈打つ鼓動だけ。


「―こちらにいらっしゃったのですね。」


 そこにいたのは、鳶色の短髪に、薄汚れた甲冑を身に纏った青年だった。穴の空いた手袋と腰に差した剣は、かろうじて彼が騎士であることを物語っている。しかしながら、その手に握られているのは鞘と見まがう長さの筒だった。その先端からは、細い煙が漏れ出ている。


「さあ、早くこちらへ。あまり時間がないのです。」


 精悍な顔には、あるじを見付けたことへの感動や達成感はおろか、何も浮かんでいない。あたかも邪魔な虫けらを踏みつぶした後、何事もなかったかのような涼しい面持ちをしている。

 シエナは、かつての彼とおよそ同じとは思えぬ冷酷な様子に怯んだ。おそるおそる、釣りがちな青緑の瞳を見開く。あたかも、記憶の中の面影と重ね合わせるように。


「……リュシアン、なの?」


 よく見知ったはずの騎士の名を口にするかしないかのうちに、彼の頬にこびりついた血が目に留まった。煙のせいですぐにはわからなかったが、彼の全身―その手袋や靴までも、赤黒く染まっていた。入口の向こうには、倒れたまま微動だにしない無数の人々がいる。それらが何を意味するのか察するや否や、彼女の喉は締め付けられたようにひゅうっと鳴った。途端に胃の底がひっくりかえるような不快感に襲われ、反射的に口元を覆う。


「―っ!」

「なぜ、そんなに驚いていらっしゃるのですか? 俺の中での正義は……姫様。あなたを命にかえてもお守りすることです。それが俺の生きる意味で、ここにいる理由です。申し上げたではありませんか。必ず助けに行く、と。」

「……。」


 気付けば、肩から指先までががくがくと震えていた。その理由を、シエナは知らず知らずのうちに悟っていた。リュシアンは、自分の知る実直で心優しい騎士ではなくなった。「あるじを守る」という彼の正義は、他の全てを犠牲にして、自身を血に飢えた悪魔へと変えてしまったのだ、と。


「ああ、申し訳ありません。血が…恐ろしいですか?」


 そこでようやく自身のあられもない姿に思い当たったのか、騎士は頬についた血を煩わしそうに指で拭った。しかしそれだけでは到底、彼女の恐怖を収めるには至らなかった。


「あなたが……やったの。」


 王女の小さな唇は震えていた。わかりきった答えを聞きたかったわけではない。彼の口から聞いてしまえば、もう以前のような信頼は抱けなくなる。それでも聞かずにはいられなかった。


「ええ、そうです。オルコット卿―セシルのおかげなんです。彼のくれた武器のおかげで、ここまで容易く来ることができました。」

「……なん、ですって?」


 言葉の意味を逡巡する暇もなかった。機械的な返答を耳にした途端、悔しさとも似つかない熱情が彼女の身体中を駆け巡る。その瞼には、尚も背中を向けて倒れている人々や、息も絶え絶えに現れた密偵の無残な傷口が焼き付いていた。全身から汗が噴き出すほどの嫌悪感に、シエナは一層険しい面持ちになる。一方で、不思議と口では冷静に問いただしていた。


「……卑怯だわ。あなたに騎士としての誇りは無いの?」

「誇り、ですか。ですがそれでは、また同じ轍を踏むだけです。」

「なんで、そこまでして。彼らも生きているのよ! 私たちと同じ人間なのよ?! ……あなたがやっているのはただの人殺しだわ。」


 耳がかっと熱くなるほどの怒りに、我を忘れる。峡谷やカティーフの危機的状況でリュシアンの命があったのは、ザイドの慈悲によるものだ。その借りを仇で返すつもりなのかと思うと、言葉も追い付かないほどの激情に呑まれる。喉が引きつれるような痛みに咳き込み、はあはあと荒い息をついていると、騎士と目が合った。

 淡々と正義を貫いた灰紫の双眸には、愕然とした色が宿っている。彼は、蛮族を守り庇おうとするあるじへの理解に苦しんでいるようだった。


「どうして……ですか。俺は、ただ……あなたをお救いするために。なにゆえ、蛮族に同情なさるのですか?  奴らは、俺たちの敵なのですよ。」

「……嫌。来ないで!」


 リュシアンが一歩、また一歩と近付こうとした途端、彼女は反射的に声を荒げた。思いもよらなかったあるじからの拒絶に、彼は一瞬面食らった。


「っ、……姫様。俺が、恐ろしいですか?」


 やがて、痛みを堪えるかのように、薄い唇が引き結ばれる。


「 ……いえ。俺のことはどう思われようと構いません。俺はそれでも、あなたをお守りするだけですから。」

「……。」


 決死の覚悟を湛えた鋭いまなざしは、依然として揺らがない。シエナが茫然としていると、突如視界が赤く染まり、騎士の姿が見えなくなった。


「リュシアンとやら。以前とはまるで様子が違うな。どうやら、正気を失っているようだ。」


 自身を守り庇うよう花婿衣装を見て、彼女の口からはほっと安堵のため息が漏れていた。けれどもそんなあるじとは対照的に、リュシアンは心底不愉快そうに眉間に皺を寄せる。そして、蛮族へ発する言葉すら惜しいとでも言いたげに吐き捨てた。


「俺は至って正気だ。姫様をお守りするためなら、騎士であることを捨てても惜しくなどない。」

「いいえ、だめよ。あなたは私の護衛騎士でしょう。お願い、聞いてリュシアン。騎士の誓いを、思い出して。」

「俺は騎士であることなどとうに捨て去りました。あなたの護衛騎士であること以外は、騎士であることにこだわりなどありません。」


 何を言えば元の彼に戻ってくれるのか。皆目見当もつかぬまま、彼が大切にしていた騎士道に訴えてみたところで徒労に終わる。それでも護衛騎士であることにまだこだわりがあるのなら、と祈るような気持ちで、彼女は言い募った。


「……あなたがそのつもりなら。今ここで、護衛騎士の任を、解きます。」

「―っ?」


 思いがけない言葉に、リュシアンの視線が僅かに揺らぐ。ともすれば鈍りそうな心を振り切り、彼女は無我夢中で続けた。


「あなたは私の大切な人たちを傷つけようとしている。今のあなたは……私の騎士にふさわしくなどないわ。」

「姫、様……?」

「だから、最後のお願いよ。武器を捨てなさい。そして、この場から去りなさい。二度とこの地に足を踏み入れないで。私のことは放っておいて。お願いだから……。」


 彼は視線を落とした後、しばし沈思黙考した。嘆願を受け入れるてくれるのか、と淡い期待に固唾を呑む。

 ややあってから、視線が交わる。やがてゆっくりとこちらへ向き直った精悍な顔は、冷え切ったものだった。


「……申し訳ありませんが、そのお願いだけは聞けません。俺は俺なりのやり方で、あなたをお守りいたします。姫様、どうか早くこちらへ。危険な武器です。あなたを傷つけては、本末転倒ですから。」

「―どうしてっ!」


 焦燥に駆られる。ここで匙を投げてしまえば、この場にいる全員が殺されてしまうかもしれない。自分が殺されることはないと頭ではわかっていても、誰かが傷つくことを思うと、身がすくむ。

 彼女は深く息を吸い込み、懸命に言葉を探していた。もはや彼を御することができるとも思えなかったが、一縷の望みを賭ける。


「いいえ。あなたの方こそここを去りなさい。これは―《《命令》》よ。」


 毅然と絞り出した声は、わずかな躊躇いのせいで情けなく掠れた。

 それを聞いて、ぴくり、と騎士の険しい眉が動いた。信じられないものでも見るかのようなまなざしに胸が痛む。それもそのはず、これまでシエナは命令らしい命令をしたことがない。ただ一つ、峡谷で剣を捨てるよう命じた時を除いては。

 思い返せば、自分の命を投げうってでもあるじを守ろうとする彼の在り方には、危うさを感じていた。「命令」さえあれば、きっと彼は望みを何が何でも叶えようとするだろう。それが嬉しくもあり、恐ろしくもあった。


「……『命令』、ですか。」

「ええ。」

「姫様は、変わりましたね。その者たちが、あなたを変えたのですか?」


 図星とも言える原因を言い当てられ、シエナはぐっと返答に詰まった。リュシアンの目は彼女を見ているようで、まるで見ていない。切り札を出しても耳を傾けてもらえない歯がゆさに、彼女は必死で反論した。


「いいえ、変わったのはあなたよ。あなたは無用な殺しはしない人だと思っていたのに……」

「あなたを救うためなら、何も恐ろしくなどありません。」

「どうかしてるわ。どうして、そこまでして……。もういいのよ、必要ないの。私はここにいたいのに……なんで、わかってくれないの。あるじの言葉を聞きなさいよ!」


 王女の心からの叫びも、何も響いていないようだった。それもそのはず、敵である蛮族を何人死なせようと、彼にとっては邪魔な虫けらを潰したに過ぎない。あるじの憤りも悲しみも、まるで理解しがたいものだろう。


「それは本当に姫様のご意志なのですか? 俺には、その男にたぶらかされているようにしか思えませんが。」

「そんなわけないでしょう!」

「姫様は世間知らずですから。ずっとずっと心配だったのです。まさか、恐れていた事態が起きてしまうとは―」


 離れていた時間はおよそふた月にも満たないにも関わらず、何十年も会っていなかったような錯覚がよぎる。リュシアンは変わってしまった。その直感を認めたくないあまり、彼女は以前であればおよそ口にしなかった脅し文句に縋りついていた。


「私の言うことが聞けないの? 私はあなたのあるじなのよ。」


 その瞬間、騎士の灰紫の瞳が見開かれた。驚愕は、即座に落胆へと変わっていったのがありありと見て取れた。


「―あなたに、もう俺の言葉は届かないんですね。」

「っ、それは……私の台詞よ。」


 いくら説得を試みようと、互いにもう二度と噛み合うことはないのだと悟る。言葉を重ねずとも、わかり合えていたあの頃とはもう違う。何が彼を変えてしまったのか。いや、変わったのは自身か。もはや、彼の意志を覆すことは不可能だった。

 己の無力さに力なくうなだれる王女の腕を引いたのは、赤毛の女戦士だった。


「……おひいさん、もういい。こいつにはもう話は通じない。説得は無理だよ。いいから、ここはあたしたちに任せて下がってな。」

「でも、そうしたらあなたたちが! 私が説得すれば―」


 シエナは、この場から動くわけにはいかなかった。自身のせいでアル・シャンマールの面々、それも次期王やその側近たちまで殺されるなど、あってはならないことだ。けれども、もはや潰えかけた可能性を口にしかけたところで、ザイドからもきっぱりとはねつけられた。


「いや、不要だ。それに、これだけ仲間をやられておいて、おいそれと帰すわけにはいかない。俺にも矜持があるんだ。わかってくれないか。ここは姫君の出る幕ではない。あなたは早くここから逃げてくれ。」


 敵国の王女を守るように彼らが立ちはだかる。はたから見れば何の光景かと思うだろう。リュシアンは間に入って来た敵の面々を鋭い目で睨んでいたが、宿恨の相手が口を挟むやいなや、目に見えて苛立ちを露わにした。


「お前は……! よくも、姫様をたぶらかしたな!」

「人聞きが悪い。俺は何もしていないが? 主君の考えを尊重しないとは、臣下が聞いてあきれるな。」

「黙れ。お前は必ず殺す。そして、姫様は初めて自由になるのだ。」


 その言葉を耳にした瞬間、ザイドははっと息を呑んだ。深い青の瞳が揺らぐ。あたかも静かなオアシスに突如投げ入れられた石のようだ。


「……《《自由》》、だと?」

「ああ。陛下は俺に約束してくださった。次期王、つまりお前の首を差し出せば、姫様を俺にお与えになるとな。俺はそれで、彼女を自由にするつもりだ。だが、お前がしているのは何だ? 攫って、無理に嫁がせるなど姫様の望みとは程遠い。そんな奴に姫様が心を開くなど……ありえない。」


 ザイドはしばらくの間、虚を突かれたように目前の騎士を見つめていた。シエナが求めてやまないものを、自分だけでなくこの男も与えようとしている。その事実に驚愕し気を取られたかのようにも見えたが、やがて彼は長い沈黙を破った。


「……確かに、その通りかもしれないな。だが、俺には民がいる。そうやすやすと首を差し出すつもりもない。それに、俺は俺で、彼女に自由を与えるつもりだ。」

「ふざけるな。姫様と結婚することが自由だと? 蛮族は揃いも揃って頭がおかしいのだな。」


 リュシアンは、いまだかつてないほど語気を荒げていた。その情熱も、当の王女本人が置き去りではどこか虚しく響いた。彼らは互いにシエナの自由を主張しているものの、そこに彼女自身の意志は存在していないかのよう。かと言って、シエナが下手に口を出せばどちらかの命が失われそうで、王女はすがるように赤いドレスの裾を握り締めていた。

 緊張が迸る中、若き王は眼前を凝視したまま三日月のような剣に手をかけた。


「俺が時間を稼ぐから、お前たちはその間に行け。早く!」


 彼が鞘を引き抜くと、冷たい金属音と共に曲がった刃の先が光る。だが、間合いを詰めるよりも早く、相手の凶器とも言える筒の先が向けらた。やむを得ず、ザイドは苦渋の面持ちで動きを止めるほかなかった。

 両者は一歩も譲らない。しかしながら、この場で有利なのは騎士の方に違いなかった。一瞬で相手に傷を負わせられるという武器は、これまでの雪辱を晴らすように彼の手の中で妖しく光っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ