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アレス武勇詩(ハマーサ) ~捨て駒姫は自由に焦がれる~  作者: 桜井苑香
Ⅴ. 血濡られた酒楽詩(ハムリヤート)
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混ざりゆく寂寥

 まさかこの赤いヴェールに救われることになるとは思わなかった。こちらの表情が伺いづらくなるのは、先ほどの鏡で確認済みである。ところが、シエナが恐る恐る視線を上げると、すぐに群青の双眸とぶつかることとなった。本来の彼女の背丈は彼の肩辺りだが、踵の高い靴のせいか、思いのほか互いの顔が近づいてしまったようだ。かと言って視線を下げれば、首から肩にかけての艶めかしい褐色の肌が目に入ることになるため、やむを得ずあさっての方向を仰ぐ。


「……。」


 耳に痛いほどの沈黙のせいで、互いの呼吸もほんの間近で聞こえるようだ。話したかった、と言うより問い詰めたかったことはたくさんあったのに、いざ当人を目の前にすると、もやのように霞んでいく。

 そうして、いつこの静寂を破ればいいものか、腹の探り合いのような緊張が走る。ややあってから、先に口を開いたのはザイドの方だった。


「少し瘦せたか? 顔色が良くないように見えるが……。」


 あたかも気遣うかのような言動に、シエナはすっかり面食らっていた。同時に、渇いた砂漠に水が染みていくように、ひそかな喜びに心が満たされる。知らず知らずのうちに頬が緩み、愉悦がこぼれそうになる。

 けれども、どれほど相手を慮っているように聞こえても、この男の言葉はすべて見せかけで、偽りだ。そう自らに言い聞かせなければ、これまで積み上げてきた何かが崩れてしまいそうで、気高い王女はぎゅっと小さな唇を結んでいた。


「……余計なお世話よ。ところで、こんなところで油を売っているなんて、シャンマールの次期陛下は随分とお暇なのね。こちらは朝から晩まで忙しいのだけれども。」


 つんけんと薄紅色に色づいた唇をとがらせた姿は、大人びた化粧とは裏腹に子供っぽい。傍から見れば、これまで会えなかった恋人への恨み言に聞こえても不思議ではない。対する若き王は、彼女の棘のある物言いを皮肉とも捉えていないのか、平然と言ってのけた。


「未来の妻に時間を費やすのは、最優先事項だと思うが?」

「つ、妻―?!」


 唐突な単語に狼狽した王女は、己が踵の高い靴を履いていることも忘れ、ふらりとその場に倒れそうになった。あわやバランスを崩しかけたところで、反射的に伸ばされた褐色の逞しい腕が目に入る。と、いつぞやの抱き止められた記憶が蘇り、たちまち彼女はかっと頬を赤らめた。相手の睫毛の一本まで数えられそうな距離と、熱を帯びた吐息が脳裏をよぎる。慌てて意地でも世話になるまいと、すんでのところで踏み留まった。


「……大丈夫か? 何を驚いている。事実を述べただけだが?」

「確かにそうかもしれないけど! 私はあなたとは仕方なく縁を結ぶのよ。……それを、忘れられては困るわ……」


 口にした後で、彼女ははたと気付いた。これでは、まるで自らに言い聞かせているようではないか。


「そうだったな。これからは慎むことにしよう。」


 うつむいたシエナの視界の隅で、艶やかな黒髪がさらりと揺れた。唐突に背を向けられると、まるでこれまでのことは戯れだと言わんばかりだ。手繰り寄せられたかと思えば急に突き放される。まるで突如、砂嵐の中に放り出されたようだった。


「……その。初めてと言うか、急で、追いつかないだけで―」

「確かに、アレスの王女様が経験豊富でも困るな。一つ、リードしてもらうのも悪くはなさそうだが。」


 彼女がしどろもどろに言い添えた言葉は、聞こえるか聞こえないかわからぬほどにか細かった。けれども、動揺している様はしっかりと伝わっていたらしい。男のうっすらと持ち上げられた唇は、艶やかでどこか妖しい笑みをたたえている。その余裕ぶりに、シエナはたちまち苛立ちを覚えた。


「……やっぱり、あなたは気に入らないわ。」

「それでいい。俺ももとよりそのつもりだ。それで、教育の進捗はどうだ?」

「どう、って―」


 忙しい間を縫ってわざわざ顔を出しに来た本題はそこか、とようやく合点がいく。この男が何の打算もなく、単なる親切心で様子を見に来たと思うほど、彼女も愚かではなかった。大方、人前に立てる程度の行儀作法は身についたのかどうか、確認に来たといったところだろう。


「見ての通りよ。アレス式を忘れるのは、思っている以上に難しいの。あなたもよその国に連れてこられて、今まで学んだ事をすべてかなぐり捨てろ、と言われたらわかるんじゃないかしら?」


 しずしずと淑やかに歩くのがアレス式の作法なら、アル・シャンマール式は堂々と胸を張って歩く。最初の頃は抵抗を覚えるあまり、ぎこちない動きで、教師役には深いため息をつかれたものだった。靴こそアレスのものよりも幾分か歩きやすいとはいえ、踵が高いせいで何度つまずきそうになったことか。


「……どうかしら。」


 ゆったりと、危なげなく歩み出したシエナを見て、ザイドは驚いたように目を見張った。指先の一本に至るまで見られているというのは、どうにも落ち着かない。これまで王室で日の目を見たことがなかった彼女なら、尚更のことだ。それでも堂々たる所作で歩いてきた彼女に、次期王は惜しみない賛辞を贈った。


「短期間でここまでの仕上がりとは……大したものだな。この分なら、姫君について不満を言う者は誰もいないだろう。」


 だが、華奢な脚元から小さな顔へと視線を移したところで、彼はなぜか表情を曇らせた。形のいい眉を寄せため息をつかれると、途端にこの上ない不安を煽る。


「まあ……顔色については別だがな。」


 よくよく見てみれば、シエナの肌はここに来た時から変わらず白いが、連日の寝不足のせいでうっすらと隈をこしらえていた。どうやら化粧でも完全には消えなかったようだ。だが、神経の尖った彼女にはそれが文句に聞こえたらしい。


「っ! 肌の色まで変えろというの?! 嫌よ、日に焼けたら赤くなるんだもの」

「そうじゃない。いくら根詰めたところでたかが知れている。式さえ滞りなく終えられれば、姫君に求めることは何もない。」


 まるで元より期待などされていないような口ぶりに、ずきりと胸の奥に鈍い痛みが走る。咄嗟にそれを隠そうと、彼女はむきになって言い返していた。


「……そうよね。あなたが欲しいのは所詮お飾りのお人形だものね。」


 私である必要なんてない、と喉元まで出かかり、はっとして言葉を呑み込む。これではまるで、自分だけを見て欲しいと言わんばかりではないか。


「……っ。」


 口にしたあとで悟る。ザイドの言葉は突き放すようだが、あえて彼女が頑張り過ぎぬよう、気遣っているのだろう。冷たいとばかり見えていた面立ちから、寂しげな眼差しが向けられているのを目にして、シエナはたじろいだ。いっそのこと、本当に期待などしていない、と断言された方が楽だったかもしれない。


「ああ、そうだな。」


 心のどこかでは否定してくれるのを期待していたため、ひそかな落胆が押し寄せる。同時に、今更何を期待していたのかと自嘲する。唇を結んだ彼女はじっと堪えるように続く言葉を待った。


「……だから、何も睡眠時間を削ってまで、気負う必要は無い。」

「……え?」


 わけがわからず、瞬きを繰り返す。これではまるで、本当に気遣われているようではないか。


「……余計な、お世話だわ。」

「当日に倒れられては話にならない。それだけだ。」

「……そう。」


 もっともな言い分かもしれない。一瞬でも自惚れてしまったことが恥ずかしい。

 いつしか、この場を流れる生暖かい空気も、燦燦と照る太陽も、随分と当たり前のものとなり、肌に馴染むように慣れてしまった。実際はひと月にも満たないだろうが、もう随分と長い年月をここで過ごしているような錯覚に陥る。床に映り込んだ高窓のステンドグラスは、赤や緑の花模様を描き出している。それを見るともなしに眺めているうちに、やがて次期王はもう一つの本題を切り出した。


「ああ、それと……アレス王へ、結婚の告知は果たせた。姫君側の列席者はおそらくいないだろうが、な。」

「人質なんだもの、それくらいわかっているわよ。まさか、誰か来られるとでも言うの?」


 あのアレス国王が、シエナのためにのこのこと敵国までやって来るのは、天地がひっくり返ってもあり得ない。兄弟姉妹、継母たちなどもってのほか。だとすれば……と考えたところで、シエナの脳裏にちらついたのは、精悍な護衛騎士・リュシアンの姿だった。

 あの騎士は恐らく、あるじが不本意な結婚をさせられると信じて疑わないだろう。仮に来たところで、四面楚歌の中剣を抜くほど愚かではないと信じたいが、彼に故郷へ戻るよう説かれたらどうするか。シエナはまだ答えを出せていなかった。


「だが……日取りが明らかになっている以上、当日刺客を送り込まれることもあり得るだろうな。」

「なら、どうしてそんな危険を冒してまで、結婚式を……?」

「アレス王国へはもちろんだが、周辺の勢力への宣誓のためでもある。形だけでもアレスと和平を結べば、その後攻められた際でも、反故にしたアレス側へ非があることを公にできる。そうすれば、援護が得られるだろう。」


 耳を傾けるうちに、彼女は徐々に瞬きも忘れるほど愕然としていた。自分は今も決死の覚悟で戦っているリュシアンを忘れ、のうのうと生きている。それどころか、敵国に肩入れしかけているのだ。加えて、初めは蛮族としか思えなかった目前の男に、必要以上の情が湧いている。今の彼女をかつての故郷の人々が見たらどう言うだろうか。そこまで悶々と頭を悩ませたところで、ふと一枚の紙が差し出されていることに気付いた。


「これが招待客のリストだ。……現時点ではアレス王国へ巻かれようとする勢力も少なくはない。それらを残らず証人として呼び、味方につけるためだ。」


 文字だけは、セシルに叩き込まれたアレス文字からそう容易く乗り換えられるわけもなく、彼女はまだ簡単な単語しか読み書きできなかった。それでも、たどたどしくシャンマール文字を読み上げるうちに、いつかの授業で見知った国名を見付ける。


「北国の中立国―ロステレド。東の同盟国……リン。南の島国……ナンガル?」

「リンとその周辺国は古くから国交もあるし、まず応じてくれるだろう。問題は遠方のロステレドと、国交の歴史が浅いナンガルだな……。」


 ザイドが広げているアル・シャンマールを中心にした地図は、他人事のように見えて、いつまでたっても見慣れない。ここから見れば、アレス王国は西の果て。彼女がかつて滞在していた東の辺境も、地図では真逆の西端にあることに大きな違和感を覚える。


「そう。それで、アレスへの宣誓を行うというわけね。」

「ああ。あとは……《《誓いの証》》くらいか。」


 ぽかんと口を開けたシエナが式次第を想像するうちに、じわりと手のひらに汗が滲んでいた。誓いの証と聞いて、すぐさま思い浮かんだのはただ一つ。彼女の心臓はどくどくとうるさいほどの早鐘を打っている。婚姻を結ぶことすら、まだ受け止めきれていないというのに、この男はいったい何を言い出すのだろうか。


「誓いの、証……?」

「アレスでも婚姻の儀式の際には、誓いの口づけを交わすのだろう? こちらでもそれは同じだ」

「っ?! 誰がそんなこと―」


 脳天に雷を打たれたような衝撃が走る。ばっと顔を上げたところで、ザイドと視線が交わった。口づけ、と聞いて思い浮かぶのは、かつて頬に触れられた手のひらの熱さだ。知らず知らずのうちに、形のいい唇へと視線が吸い寄せられていく。窒息するような息苦しさとめまいに、彼女の頭の中はみるみるうちに真っ白になっていた。


「なっ―! そ、その。それは、どうしても……必要なの?」

「伝統としては、省いた前例はない。……だが、姫君にとっては苦行だろう。《《未来の夫》》になる男にも悪いしな。」

「……なんですって?」


 突然の降って湧いたような話に、一気に現実に引き戻される。甘い口づけを想像して、恥じらっている場合ではない。思いがけない一言のせいで、彼女は瞬く間に冷や水を浴びせられたようだった。


「『未来の、夫』……? そんな人、いないわ!」

「……今はそうかもしれないが。」


 ああまただ、と思う。あの夜、婚姻を約束した時にも感じた寂寥が、木枯らしのように全身を吹き荒れる。深い青の瞳はこちらを見ているようで、まるで見ていない。彼が時々見せるよそよそしさは、優しく、それでいて冷酷に、シエナを分厚い隔たりの向こうへと追いやっていく。


「姫君がいずれこの国を去り自由になる日が来れば、あなたの過去を受け入れ、共に歩もうとする者も現れるだろう。……無駄な恨みは買いたくない。命を狙われるのはアレス王国からで間に合っている。」


 ザイドが見据えているのは目先の婚姻だけではない。その先で、彼女を自由にしようと、本気で考えてくれている。今までの彼女なら、願ってもみない幸運だと泣いて喜んだに違いなかった。

 だが、ありもしない将来の話をされたところで、自分事として受け止められるはずもない。かと言って、以前渋々婚姻を承諾した手前もあり、今更傍にいたいなどとと言い出すこともできなかった。彼女を苛むもどかしい矛盾は、じりじりと胸を焦がしていく。痛い。苦しい。叫び出したいほどの痛切な思いに、どうにかなりそうだった。

 それなら、せめて気丈に振舞わなくては。彼女は張り付きそうなほどからからに渇いた喉を無理やりこじ開けた。


「……あら、そう。お気遣い痛み入るわ。私も蛮族と口づけなんて―」


 言いかけたところで、図らずも声が震える。消え入りそうな声を絞り出すうちに、喉の奥がぎゅっと縮んでいく。あたかも泣いているかのようだ。そんな自分に彼女が一番驚いていた。


「……姫君?」


 身を屈めた若き王が、赤いヴェールの向こうから訝しげに覗き込む。赤と混ざった群青は、彼女のぐちゃぐちゃな心を見透かすようで、見返すことができない。何でもない、と言おうとして、目前がかすみ始める。水中から夕焼けを見上げるように、視界がたゆたい、ぼやけていく。シエナはこの動揺を悟られまい、と強くヴェールを握りしめると、すぐさまばっとそっぽを向いた。


「……一人にして、頂戴。」

「そうか……。」


 このままでは、まるで彼との結婚が嫌で泣いているようだ。振り向きざまに目にしたのは、どこか傷ついたように肩を落とすザイドの姿だった。踵を返し、淡々と部屋を出ていこうとする彼に、何か言わなければと焦燥が募る。だが、逡巡すればするほど自分がどうしたいのか、わからなくなる。そうして、伸ばされかけた彼女の白い指先は、しなやかな背をそっとなぞっただけだった。


(一体、私はどうしてしまったの。望みどおり自由が手に入るというのに。何が気がかりなのよ……。)


 いつかはここを離れて一人で生きていかなくてはならないことなど、とうにわかっている。鳥籠から出たところで、彼女は生きる術など知らない。しかしながら、この涙がそんな不安から出たのでないことくらい、薄々気づいていた。そして思い当たる。これはきっと……自身が思うよりもずっと、厄介な代物だろう、と。

 さらさらと肌触りのいい砂は、彼女を取り囲み、どこにも行かせまいと牙をむく。砂漠の砂に足を取られれば、やがて砂の海に沈み、身動きは取れなくなる。今のシエナは、未知の激情に呑み込まれていくほかなかった。

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