アレス賞賛詩(マディーフ)
シエナは王都にいた頃とて、他の姉たちのような王宮ではなく、離れで暮らしていた。身の回りの世話こそ亡くなったばあやがしていたが、最低限の暮らししか知らなかったものだ。そんな彼女が、辺境に飛ばされた今の方がかえって王女らしい生活をしているとは、何とも皮肉なことである。
とはいえ、そんな生活も五年もたてば新鮮味も薄れ、毎日が同じことの繰り返しだ。これでは、社交界で貴族令嬢たちと華やかな茶会を催していた方がまだましだと思えるほど、毎日が退屈だった。
「……はあ。今日も美味しいお茶とお菓子を一人で楽しむのかしら。」
たまらずぽつりと零した時、タイミングよくノックの音が響いた。幸か不幸か、誰でもいいから付き合ってくれ、と願ってしまったことを彼女は一瞬で後悔した。扉の向こうにいるのは、おそらくこの屋敷で最も年数が浅く、それでいて最も彼女を「姫」らしく仕立てようとしてくる人物である。
ここで入って来るなと言うことができればどんなに楽だっただろうか。王女がわざとらしいため息をついていると、返事はまるで必要としていないと言わんばかりに勢いよく扉が開いた。
「殿下~! 午後の授業の時間なんですが――」
予想はしていたものの、今一番目にしたくなかった相手の姿を認めると、反射的にげっ、とヒキガエルが踏み潰されたような声が出た。
「何ですか、そのレディにあるまじきお声は! さあ、王都に帰るまでに教養と礼儀作法を身に着けた立派なレディになりましょう!」
「別になるつもりはないから。」
シエナがそっぽを向いたまま冷たく言い放つと、青年はしゅん、といかにも意気消沈して肩を落とした。
「ええ~……そんなつれないことは仰らないで下さいよお。この地で離れて暮らす殿下をちゃんと一人前のレディにしないと、僕の立場がないんですよ~! あ~あ、きっと今月から給料カットだろうなあ~。」
「………。」
情けなくも懇願するこの青年こそが、件の一年前にやって来た教育係――シエナが最も苦手とする相手である。彼は両手一杯の書物を抱え、テーブルにどっさりと置くと、弾みで外れたベストのボタンを留めた。
セシル・オルコット。男性にしては小さめな背丈で、シエナよりも拳一つ分ほど高いだけだ。優し気な空色の目はくりっとしたアーモンド形。少し癖のあるダークブロンドも相まって、子犬のような親しみやすさがある。困ったような眉と大きな目のせいで童顔に見えるが、実際は三十手前くらいだろうか。どことなく愛らしい、という表現も似合ってしまうため、年齢が実に外見に釣り合っていない。
「あっ、オルコット卿! す、すぐにお茶のご用意をいたしますわ!」
愛らしい頬を赤く染めたミレイユは、いそいそとポットを持ち上げた。そして、セシルがありがとうございます、と微笑んだのを目にするが早いか、ぱっと目を伏せた。手元のティーカップは、心なしか先ほどよりもかたかたと震えている。
「あ~……あれは……」
「? どうかいたしましたか?」
彼女の様子を見たシエナは、したり顔でリュシアンに目配せしようとしたが、どうせこの堅物男にその意味がわかるわけないだろう、と諦め口をつぐんだ。その間にせわしなく紅茶を注ぎ、茶菓子を取り分けた侍女は、相変わらず顔を伏せている。
「で、ではわたくしはこれで! し、失礼いたします!」
これ以上同じ空間にいるのは気恥ずかしいのか、初心な侍女は慌てふためいた様子でワゴンを押して部屋を出て行った。
その原因を作った当の本人は、何食わぬ顔でどさどさと大量の書物をより分けながら、目的の一冊を選んでいる。これは、この男も傍らの騎士のように鈍いのか、それともわざと気付かないふりをしているのか……とシエナが呆れかえっていると、今度はいつのまにか地図を広げていた。
「では、始めましょうか。」
こうなってしまえば、いくら抵抗しようと無駄なのは、一年程度の付き合いでもわかっている。とは言え、辺境に来たばかりの頃は、王都へ戻ることを切望するあまり、自国の歴史や地理について自主的に学んだものだ。行儀作法やダンスについては、セシルが来てから学んだためあやしいところもあるが、そこはご愛嬌である。今更目新しい知識はないのだから、と適当に右から左へと聞き流してしまうつもりで、王女は心底億劫そうに欠伸をした。
「明日はもう王都に行くんだし、今更間に合わないんじゃない?」
「ええ、その前に改めて我が国の歴史をおさらいしておきましょう。それから馬車の通るであろう街々や、今噂になっている隣国との緊張関係などを学びましょうね。」
どうやら、あくまでも授業をやめるつもりはないらしい。使命感に燃える彼の熱意に根負けすると、シエナは投げやりに頬杖をついてあさっての方向を見やった。
「はいはい。まあ、勝手にすれば……」
こうして、熱心な教育係による授業が始まった。
―我々が暮らす大陸のうち、西に位置するのは、西洋と呼ばれる列強の国々。中でも一大勢力として名高いのは、中央で領土を広げる大国、アレス王国である。
英雄と名高い軍神アレスと神たちが作り上げたアレス王国。首都フェリドールには、優雅で豪華絢爛な王城を構える。そこでは代々王政が敷かれ、貴族たちが諸地方を治める。とりわけ、王立騎士団の一線を画した強さに諸国は震え上がった。そう、ただ一国を除いては。
東方の国、アル・シャンマール。広大な砂漠のオアシスから生まれた首都ハイヤートは、交易の中心地として栄える。軍勢は少数精鋭ながら、武器も多種多様。火矢や毒、煙幕など、勝つためなら手段を選ばない。それゆえ蛮族と恐れられながらも、砂漠に眠る豊かな資源を独占するため、過去にはアレス王国と熾烈な争いを繰り広げてきた。
少々難儀な国ではあるが、西洋統一、そして王国の民がより豊かになる為には外せない領土である。我々はこの長きに渡る戦争に勝利し、アル・シャンマールを手中に収めなければならない。すべては、アレス国王のために。
「――であるからして、十年前には東側の国境カティーフにて衝突がありました。それゆえ、我が国とこのアル・シャンマール、通称シャンマールは現在、緊張状態にあります。ですから、その場所に近い街のシルティグアイムは特に注意を払う必要がりますね。僕たちのいるロシェルは東から南にかけて突き出ていますから、今回は海路を横断するのであまり関係ないと思いますけど。港町プレジールからは王都行きの船が出ているんですが、ここらは近年治安があやしくなっているので、東の騎士団も対応に追われています。それから……」
「『アレス国王』、ねえ……」
父と言えど実際に会ったことは片手で数えられるほどしかなく、最も身近なはずが、他人も同然のよそよそしい関係だった。ともすれば、歴史書で目にした数の方が多いかもしれない。辺境の地へ向かうよう言い渡した父王の厳めしい顔つきを思い出すと、シエナの心は鉛のように重くなった。
「――って、殿下。シエナ殿下! 聞いていらっしゃいますか?!」
そのまま物思いにふけっていると、傍らの教育係はきゃんきゃんと子犬が吠えるように悲痛な叫びを漏らしている。少々可哀想になってきたため、彼女はようやく視線を向けることにした。
「あ~、うん聞いてる。聞いてるわよ。」
「もう! 本当に聞いてます~? いいですか、アル・シャンマールは野蛮な民族です。積年の因縁から、アレス人が万が一にも捕まってしまえば、目を覆うような悲惨な結果が待っています。一瞬で死ねれば御の字、生きていれば最悪手足をもがれて慰み者にされるでしょう。ですから、絶対に奴らに近づいてはいけませんよ!」
聞けば聞くほど野蛮な民族だと言うアル・シャンマール。それほどまでに野蛮なら一切関わらない方がいいと思うのだが、そうは問屋が卸さないらしい。
西大陸の中央に位置するアレス王国は、北や西といった隣り合う他国とは和平条約を締結している。残るは某国というわけだ。緊張状態にあるまま攻略を進めるのか、それとも和平を結ぶのか。その瀬戸際に立たされているということは、これまでにも嫌と言うほどセシルから聞かされていた。
しかしながら、のちにシエナの運命を大きく変えることになるその国は、今の彼女にとってはただの地図上の記号であり、全く気に留めることのない存在に過ぎなかった。