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アレス武勇詩(ハマーサ) ~捨て駒姫は自由に焦がれる~  作者: 桜井苑香
Ⅳ. たがいの叙景詩(ワスフ)
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それぞれの正義

 アル・シャンマールの首都ハイヤート。ここは国のほぼ中央に位置し、古くからこの地を潤す広大なオアシスによって発展してきた。

 灼熱の中、延々と続くかと思われる砂漠を抜けると、突如現れるレンガの壁。幾何学模様が刻まれた門をくぐれば、迷路のように入り組んだ路地が広がり、色とりどりの露店には国中のありとあらゆる雑貨や食べ物、装飾品などが所狭しと並んでいる。大通りの先には湧き水による噴水広場があり、その奥には最古にして最高峰と謳われる王宮があるという。まさに、アル・シャンマールが世界に誇る大都市なのである。


「じきに、ハイヤートに着くぞ」


 シエナとザイドは砂嵐で足止めを食らったものの、その後たどり着いた街からは、休む間もなく移動を続けていた。シエナの身には以前のような疲労感は少ない。服装や気候に慣れたのもあるが、後ろで手綱を引くザイドが陰になってくれているおかげだろう。


「……わかったわ」

 

 代り映えのしない砂漠をぼんやりと目で追っていたシエナは、気を引き締めるように背筋を伸ばしていた。

 日が傾き始めている。刺すような西日は、じりじりと彼らの背を執拗に追いかけ続けていた。駆足に合わせて揺れる腰下も、慣れてしまえば砂馬と一体になり、風を切っているかのようで心地よい。巻き上がる砂埃も、あんなに辛くてたまらなかったはずが、今は耐え切れないほどではなくなっていた。


「今更ではあるが。……あの騎士と共に行かなかったことを、後悔しているか?」

「……え?」


 吹き付ける向かい風が額の髪を巻き上げると同時に、唐突に投げかけられる疑問。シエナは振り返ろうとしたものの、背後へと流れていく景色に酔いそうになり、慌てて前を向いたまま続く言葉を待った。


「あの者だけはお前を真に慕っている様子だった。お前もあいつの元に帰りたかったのではないのか、とな」

「……慕っているというか。彼はただ、生真面目なだけよ。」

「それで異国の地まで乗り込むものだろうか?」


 もとより、ザイドはリュシアンと峡谷で初めて対面した時から、並々ならぬ因縁を感じていた。ただ一人でも決して剣を離さず、己の危険をも顧みずに最後まで戦い抜こうとしたリュシアン。そんな騎士の姿に対して、敵ながら感服するところがあったのかもしれない。


「……誓いを」


 そこまで口にして、シエナは躊躇った。剣を捨てる命令をした時の、ぎゅっと胸が潰れるような苦しさを思うと、あの時の敵であるこの男に軽々しく話すのは癪であった。


「……。」


 沈黙が流れる。ザイドは表情の見えないシエナの代わりに、サラリと流れるそのプラチナブロンドをちらりと一瞥していた。彼は続きを促すわけでもなく、かといって聞き流す風でもなく、ただ彼女が口を開くのを待っているようだった。その様子を感じ取りながら、不思議と嫌な気はしなかった。彼女の唇はいつのまにか熱に浮かされうわごとを漏らすように、自ずと動いていた。


「……誓いを立てたの。アレスでは……騎士はあるじに仕える時に、誠心誠意尽くすことを誓うのよ。だから、私を守ることが彼の正義なの。」

「正義……か。」


 ザイドは呟くようにその二文字を噛み締めた後、不意に手綱を強く握った。疾駆を予兆させるようで、ひやりと肝が浮く。抗議しようにも舌を噛みそうで、彼女は無我夢中で鞍へしがみついた。


「……っ!」

「正義とは、何だと思う?」


 文句を言おうとした矢先に、またも唐突な問いを投げかけられる。適当な返答ではぐらかすにはあまりにも真剣な物言いだった。


「……どうしたのよ、急に。」

「例えば、お前にとって俺は悪党だろう。ある日突然、攫ったのだからな。憎まれていたとて、おかしくはあるまい」

「よくわかっているじゃないの。」


 それでも今のシエナにとって、ザイドは憎みきれない相手だった。確かに突然攫われたことは到底許せるはずもないが、彼はリュシアンを見逃し、これまでも彼女を丁重に扱ってくれた。それだけに、一概に嫌悪することも出来ずにいたのだった。


「私の思っていた『蛮族』とあなたたちは違うみたいだった。少なくともこれまでは、私を殺そうとはしていないもの。……まあ、これからどうするつもりなのかは、知らないけど。」


 その言い様はまるでザイドのことを受け入れているかのようで、シエナは口にしたながらも、我ながら何を絆されているのだろうと耳まで赤くなった。その気配を悟られまい、とすぐに矛先を変える。


「……それより、あなたにとっての正義は?」

「―アル・シャンマールの国と民を守ることだ」


 間髪入れぬ答えは、あらかじめ用意されていたかのようだった。彼の芯の通った口調には、はっきりと確固たる信念が表れていた。


「なら俺も問おう。姫君にとっての正義とは何だ? これだけは譲れない、大切にしたい望みでもいい。」

「私の、正義……望み?」


 その途端、シエナは面食らった。―正義。その言葉を幾度頭の中で反芻させたところで、異国語のように馴染みがなかった。否、彼女には望んでも得られなかったものがあまりにも多すぎて、考えることすら避けてきたゆえかもしれない。


(でも、もしも……許されるのなら―)


 孤独な王女は、砂漠の遥か彼方に広がる地平線を見つめた。伏せた白金の睫毛に縁どられた碧水。そこに映し出された一面の砂は、暗く影を落とすように揺らいだ。


「私は……しがらみのない場所に行きたいわ。誰かに利用されるのはもううんざりなの。」


 せめて、以前のように何事もなく過ごすことができるなら、多くは望まない。誰かの駒になって混乱の中に放り込まれるのはもううんざりだった。彼女は決意を湛えたまなざしで、背後で手綱を握る男の代わりに、ぼんやりと見えてきた街をきっと睨んだ。


「……だから、そうね。まずは、この人質生活から早く自由になりたいものだわ」


 言葉尻に皮肉交じりの棘をこめたところで、背後の男は意に介さぬまま涼しく笑っている。


「そうか。いつか叶うといいな」

「―っ! 誰のせいで―」

「なら、いますぐ砂漠に放り出してやってもいいが?」

「……やっぱり、蛮族は野蛮ね」


 彼女がいくら悪態を突こうと、この男に通じないのは短い付き合いの中でもわかりきったことだった。それでも、彼の辛辣な物言いに、以前のような勢いがみられないことに気付くと、シエナの頬はいつのまにか緩んでいた。


「……っ。ふふ……」


 自然と漏れ出た笑みに、彼女は自分でも驚いたのか口元を覆った。


「どうした。何がおかしい?」

「だって……あなたはそんなことするはずないもの。……優しいから」

「俺が優しい、だと?」


 意外な言葉に狼狽したのか、ザイドはそれきり言葉を発さなかった。揺れる景色の中、沈黙が流れる。砂漠の熱が香る中、シエナは後悔とともに恥辱のあまり口を真一文字に引き結んでいた。

 何を馬鹿なことを口走っているのだろうか。つい昨日も、こんなふうに踏みこんでは、一線を引かれたばかりだというのに。仮にも敵であるこの男の、何をわかったつもりになっているのだろう。


「……勘違いするな。お前には利用価値があるから丁重に扱っているだけだ。」


 熱を失ったように冷めた声に突き放され、シエナは今すぐにでも砂漠の砂に埋もれたい気分だった。息が詰まるのは、熱気のせいか、それとも言い負かされた悔しさゆえか。彼女はそれでも負けじと虚勢を張った。

 

「……っ。知ってるわよ。ただの冗談だわ」


 彼女の張りつめた声は思いのほかか細く、震えていた。恥を覆い隠すようにショールを被ると、ふとぬるい風が冷たい温度に変わる。いつしか、二人の前にはハイヤートらしき街が豆粒ほどの大きさに見えてきていた。

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