混乱、そして再会
シエナがゼフラの待機する大部屋に通されてからしばらくして、にわかに辺りが騒々しくなった。何かを破壊するような轟音が耳を劈く。加えて怒声のような突撃の合図や、目まぐるしく人々が入れ替り立ち替り、伝令を交わしている。城内の者はその大半が門の周辺に集まっているようで、この部屋には数人しか残っていなかった。
「……始まったようですね。」
医師の少女・ゼフラは落ち着き払ったまま、着々と薬の入った瓶を整理し包帯を並べていた。今はがらんとした室内にこれから大勢の怪我人が運び込まれるのかと思うと、シエナの中には漠然とした不安が芽生えた。彼女がここに居ることは、アレス側には伝わっているのだろうか。どう考えても、穏便に話し合っている様子はない。あちらが攻撃してくる意図を考えると、嫌な予感しかしなかった。
「……まさか、本当に攻め込んできたの?」
「交渉決裂だそうです。おそらく彼らを、追い返している最中かと。」
淡々と寝具を並べながら答えるゼフラは、妙に落ち着き払っていた。年にそぐわぬ冷静さはこれまで幾つもの修羅場を潜り抜けてきた故だろうか。聞きたいことはたくさんあったが、彼女が簡単に口を割りそうにないのは、短い付き合いの中でも薄々わかってきたことだった。
「何よ、それ……。」
「おひいさまは何もせずとも結構です。奥のお部屋でお休み下さい」
戦いのさなかに休めるものかとシエナが困惑していると、ゼフラは手を休めずに続けた。
「決して外に出てはなりません。万が一にも城内に入り込んだ輩がいたら、危険ですから。」
「……そう。」
神妙な面持ちで頷いたものの、彼女は次の瞬間にはここから抜け出すことを考え始めていた。リュシアンが来ているなら、一刻も早く彼の顔を見て安心したいものだ。むろんシャンマール側に丁重に扱われている自覚はあったが、敵に囚われ続けるよりは、自国の騎士たちに助けを求めた方が良いに決まっている。何より、今は監視役と言えばゼフラしかいない。彼女が怪我人に気を取られている隙に、こっそり城外へ出よう、と王女はひそかな決心を固めていた。
そうこうしているうちに、少しずつ負傷者が運び込まれてきていた。数自体は二十に満たないくらいで決して多くはないが、徐々に増えていることから、戦況は混迷を極めていることが伺えた。
「大変だ……隊長が!!」
ふと部屋の入口を見やると、見覚えのある男勝りな少女がふらふらと現れた。ゼフラの双子の姉―レイラは、鬱陶しそうに指にまとわりつく血の雫を払っている。その間も鮮血は彼女の脚を伝い、ぽたぽたと床に滴り落ちていた。
「ちっ……。油断しただけだ……大したことねえ。」
「あらまあ、酷い傷。また無茶をしたのですか?」
立っているのもやっとであろうものを、彼女は誰の肩も借りようとせずに、のろのろとゼフラ目がけて歩み始めた。が、すぐに糸を失った操り人形のように、あっけなく倒れ伏した。その肩口から背中にかけて、決して浅くはない切創が刻まれている。むせかえるような血の匂い。惨たらしいほど血みどろな傷口に、シエナは思わず目を覆った。
対するゼフラはさほど動じず、暴れる姉を問答無用で押さえつけると、早急に手当てを始めた。
「綺麗に背中からバッサリと。一人で突っ込んでいくから簡単に背後を取られて、こうなるんですよ。全く……お馬鹿さんですね。アロエでも塗っておけばすぐに治るでしょう。」
「ってて! もうちっと優しくしてくれよ……。くそっ、あの騎士、許さねえ! 終わったらすぐに戦えるか?」
「何を言っているんですか。手負いの状態で出てもやられるだけですよ。死にたくないなら、しばらく安静にしていてください」
「っ! バカ言ってんじゃねえよ、あたしはすぐにでもアレスのクソ野郎共を仕留めなきゃ、気がすまねえんだよ!!」
レイラがぎゃあぎゃあと騒いでいる間にも、次々と担ぎ込まれていく兵士の数は増えていく。ゼフラやその仲間は対応に追われ、もはやシエナは居てもいなくても変わらない空気と化していた。
(……逆に考えるのよ。逃げ出すなら今だわ)
混乱に乗じて逃げる。月並みな策ではあるが、この場に限ってはなかなかの名案だ。シエナは掌に汗を握りながら少しずつ入口へと近付いた。幸い、件のレイラが騒いでいるおかげで、彼女に気を払う人間は誰一人としていなかった。
「いてっ、痛えんだよ! もう少し優しく巻いてくれよ!」
「痛み止め、いります?」
「ったあ! いるに決まってるだろ!」
「ではとっておきの毒を……」
「んでだよ! 人の弱みに付け込んで勝手に実験しようとすんな!」
シエナは開いたままの扉の陰に隠れながら、そっと部屋を出た。ほんのりと煙の匂いが漂い、上階からは怒号と爆発音が伝わり、相変わらず騒がしい。地下には他にも部屋があるようだが、地上を目指すべきだろうか。彼女が物陰に身を隠しながら様子を伺っていると、すぐ近くで聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「……か。殿下~!」
見れば、人気のない通路の陰で手を振っていたのは、馴染みのある童顔の青年だった。シエナは面食らったが、周囲を気にしつつも急いで彼の元へと駆け寄った。
「オルコット卿! まさか、こんなところで会えるとは思わなかったわ! よかった、無事だったのね!」
「殿下こそ、よくぞご無事で……! ああ、良かった。もう、心配したんですよ~。」
懐かしい、と言ってもおよそ二週間ぶりのはずなのだが、随分と長く離れていたように感じる。あの時、馬車を降りてから消息を絶った彼は、てっきりザイドたちに襲撃されたものとばかりに思っていた。それが無事だったばかりか、わざわざこんな場所まで駆けつけてくれたのだ。彼女はじんわりと胸が温かくなるのを感じた。こんなことなら、もう少し彼の授業を真面目に受けておくべきだった。
久しぶりの見知った顔にすっかりほっとして、改めて彼を見つめる。砂漠を旅するうちに日に焼けたのだろうか、赤らんだ肌の他は、にこやかなあどけない顔も、すっかり普段通りだ。けれども、薄暗い中で細められた水色の瞳には、妙な陰りがあった。
「……殿下には生きていて頂かなくては。だって、まだまだお教えしていないことが沢山あるじゃないですか。」
「―え?」
冗談にしては低い声音に、彼女は聞き間違いかと首を傾げた。しかし、教育係は何事もなかったかのように、朗らかな表情のままだ。彼は栗鼠のようにふるふると首を振って辺りを警戒すると、ひっそりと囁いた。
「何か酷い目に遭わされたりはしてませんか? 何やら変な服を着せられてはいますが…… 」
「ここの気候には合わないからって、着替えを貰ったのよ」
セシルは彼女の返事を待たずに、上から下までくまなく観察すると、ほっと安堵したように息を吐いた。
「ああ、ちゃんと五体満足ですね。それにしても怖かったでしょうに、よく頑張りましたね。」
「オルコット卿……そんな! 違うの。彼らは―」
まるで手足を切られていてもおかしくないような物言いに、シエナはすかさず否定した。しかしながら、もとより彼ら「アル・シャンマール」が蛮族であるということは、セシル自身から嫌というほど聞かされてきたのだ。彼女が見聞きしたことを伝えたところで、理解を示してもらえるはずもない。彼はシエナの話を聞く時間も惜しいとでも言いたげにその手を引くと、足早に階段を駆け上がり始めた。
「まもなくここは戦場になりますから、早く脱出しましょう。……この先に騎士を待たせてあります。」
「……。」
ほどなくして着いたのは、見覚えのある回廊の隅だった。その奥の扉を示され、彼女は立ち止まった。いざ母国へ帰れると言うのに、シエナの足はなぜか重かった。胸の奥がつかえたように苦しい。脳裏には、ザイドの顔がちらついている。あの男の口にしていたことが本当なら、侵略しているのはアレス王国だということになる。でたらめだと片付けるには、彼の瞳はあまりにも真っ直ぐで、振り切ることができなかった。
「どうしたんですか? このままでは、また奴らの人質になってしまいますよ。僕はブラッドリー卿を探しに行きますから、その間に。ささ、早く行ってください!」
「リュシアンも無事なのね。……わかったわ」
尚も先へ行くよう促すセシルの勢いに押されて、シエナは扉の前に立った。その間も、周りから響き渡る地響きは止まない。教育係がバタバタと別の方向へ駆けていくのを見届けてから、彼女は依然として扉の前で立ちすくんでいた。
この後ろめたさは何なのだろう。シエナは、決して間違った選択はしていない。顔見知りと蛮族とを天秤にかければ、前者に傾くのは当然のことだ。それなのに、あの異国の男が思い浮かんでしまう。彼女は迷いを払うように一人うつむいていた。