灼熱に住まう蛮族
峡谷を下ると、遥か彼方まで広がっていたのは砂漠だった。太陽はギラギラと照り付け、放出された熱は砂の中へと吸い込まれていく。一面の砂。その向こうに微かに見えるオアシスがぼんやりと霞んでいるのは、シエナの身体が限界を迎えている兆しなのか、それとも蜃気楼のせいなのか。
(暑いわ……)
一行が乗る動物はぱっと見たところは馬のようだが、その身体は一回りもふた周りも大きい。首も通常の馬より長いため、どこかラクダを彷彿とさせる。それもそのはず、砂馬はラクダに代わるアル・シャンマールの移動手段だ。蹄は砂漠を踏みしめても沈まぬように壺状に広がり、鞍の前後の背中には瘤とも筋肉ともつかない隆起がある。砂馬はラクダよりも格段に早く、持久力も劣らないため軍事用に向くと言われている。現に彼らの率いる砂馬たちは砂漠もものともせず、草原を走るように颯爽と駆け抜けていた。
一方、鞍上のシエナはザイドの前に乗せられながらも、巻き上がる砂埃のせいでまともに目を開けられずにいた。闊歩に合わせて身体が小刻みに揺れるのは、一向に慣れるはずもない。そればかりか、暫く水分を忘れた喉はカラカラに渇ききり、今にも皮膚と皮膚が張り付きそうだった。
(死にそうだわ……)
ジリジリと刺すような陽射しを浴びるにつれて、シエナは覆い布を貸そうかという申し出を突っぱねたのを密かに後悔していた。それでも彼女はひと握りの自尊心のため、ヒリヒリと焼き付く肌にベッタリと汗ばむドレスを扇ぎもせず、無心で目前に広がる砂漠を見つめていた。
「―姫君。どういうつもりだ」
ザイドと名乗っていた、リュシアンを打ち負かした男。彼は手綱を引いて砂馬の速度を緩めると、深い青の瞳を訝しげに細めていた。が、その呼び掛けに王女が答えるそぶりは無い。それどころか、まるでそこには何も居ないかのように、少しも視線を動かそうとしなかった。
「……聞こえてるのか? 水くらい、飲め」
「結構よ」
彼女はつんと澄ましたまま、背後から差し出された皮袋に目もくれようともしない。首元まで詰まったドレスの襟ぐりはいかにも風通しが悪そうで、心なしか顔色も芳しくないようだ。額からつうと流れる汗が白金の睫毛を伝うと、彼女に染みるような痛みをもたらす。見かねたアル・シャンマール人の女が声をかけた。
「おひいさん、その格好じゃ暑いだろ。着替えが嫌なら、せめて日中の日除けくらいは………。はあ、ダメかい。なかなか強情な子だねえ」
妙齢の女は浅黒い肌に長い赤毛をひとつに纏め、長身ですらりとした体躯をしている。やや面長で気の強そうな顔立ちだが、切れ長の琥珀色の目は困惑の色を滲ませていた。
「にしたって、このままじゃ死んじまうよ。こんな勝気だなんて聞いてたかい? カラム。」
「……アイシャ様、無駄っすよ」
赤毛の女―アイシャに呼びかけられたのは、カラムと呼ばれた細身の若い男だった。彼は任務の最中だと言うのに、気だるげに欠伸をしている。肩にかかる亜麻色の髪をゆるく束ねた、優男のような風貌。シャンマール人にしては珍しく、肌は多少日に焼けた程度の白さだ。伸ばしっぱなしの長い前髪の奥からは、何にも興味の無さげな灰褐色の三白眼が覗いている。
「ま、大した気概じゃないすか? ゼフラの所まで持つといいっすね。」
シエナはそのやりとりを耳にしつつも、反論する気力すら沸かずに口を真一文字に結んでいた。その間も、容赦なく頭に直射する熱は肌という肌を突き刺し、彼女の身体を毒のように蝕んでいく。こめかみからガンガンと割れるような痛みが広がる。次第にシエナの鞍を掴む指から力が抜けていくと、たちまち彼女の上半身はぐらりと大きく傾いた。ふらふらと、明らかに砂馬のせいではない揺れ。その異変を目にした途端、ザイドははっとして彼女の肩を掴んだ。
「―おい! つまらぬ意地を張るのはよせ。」
彼は砂馬を止めたが、シエナは力なく首を振った。しかしながら、その気丈な態度とは裏腹に漏れ出たのは、蚊の鳴くような呻き声だった。
「蛮族の……ものを……口にするくらいなら……死んだ方が、まし、だわ」
すぐさまザイドが彼女のだらりとした腕を手繰り寄せ、鞍の上に引き上げる。既に彼女の顔は生気を失っており、人形のようにぐったりとしていた。
「そうか。好きにしろと言いたいところだが、これ以上は危険だ。今は姫君に死んでもらうわけにはいかない。」
「言ったでしょ。私は……何の役にも立たない……捨て駒だって。」
「それは俺が決めることだ。お前には関係ない。早く水を」
「いらない……って言ってるのが……わからないの?」
力なく拒絶するが、すでに押し返す力も残っていなかったようだ。シエナの意識は、ぐるぐると渦巻く蟻地獄へ溺れていくように混沌としていく。
「飲まぬなら、力ずくでも飲ませるぞ。」
皮袋を唇に押し当てられ、彼女は無我夢中で顔を背けようとした。が、ついに顎を掴まれ抵抗できなくなる。
「子供でも無いのに、つまらぬ意地を張るな。」
しかし気高い王女は最後の力を振り絞ると、水の入った皮袋を払いのけた。
「だから、要らないって言ってるでしょ……!」
勢いよくはたかれた皮袋は、砂上へ吸い込まれるようにあっけなく沈んだ。とぽとぽと吐き出される水は、見る見るうちに砂の中へと飲み込まれていく。
「あ~あ、勿体ないっすね……」
呆れたような仲間の声で罪悪感を覚える。けれども今の彼女にとって、蛮族の言うことを聞くことは、死を意味するほどの屈辱だった。
「でも、このままだとまずいっすよ。着く前に死んじまいますって。」
「急ごう。カティーフまで飛ばすんだ。」
女の一言を合図に、一行は足を早めた。シエナは朦朧としつつも、蛮族の好きにはさせまいと正気を保つよう努める。だが視界がぼやけていくにつれ、徐々に意識は遠のいていった。
***
次にシエナが目を開けた時、視界に入ってきたのは見慣れぬ異国の空間だった。彼女が横たわっているのは、アレス王国のものよりも低いベッドのようだ。天蓋の向こう側には、赤や黄色といった色とりどりの見慣れぬ果物や、水差しが置かれているのが見える。
「……ここは?」
それでも不思議と悪い気がしないのは、寝心地が良かったせいだろうか。相変わらず暑くはあるが、べたつくような不快感は無い。それもそのはず、彼女が視線を落とすと見慣れぬ装いに変わっていた。
「何、これ……?」
間違いなくアレスでは見た事のない衣服だ。さらさらと肌触りの良い生地は、涼し気な青。裾に入った金の刺繍が上品である。二の腕から先を覆う布は無く、足先までゆったりと広がった長めの衣服は、腰で紐が結ばれていた。ドレスに比べて格段に締め付けが少ないため、かえって心もとないくらいだ。
「お身体の調子はいかがですか?」
突然の声にはっと視線を上げると、そこに佇んでいたのは小柄な少女だった。長い栗色の髪を丸めるように結い上げ、どんぐりのようにつぶらな赤茶の瞳は魔訶不思議な印象を与える。先に会ったシャンマール人らしからぬ、褐色と言うよりは黄色がかった肌の色。子供のようにも大人のようにも見える不可解な少女は、まるで観察対象を眺めるかのように、冷静にシエナを見つめていた。 前合わせの立襟に身体に沿った細身の仕立ての衣装は、アル・シャンマールよりもさらに東方のものだろうか。シエナの装いとはまた違った雰囲気のものだ。
「……!」
シエナは警戒して身構えたが、少女は大して気にも留めずにトレイを差し出してきた。鮮やかな色の花が描かれたカップには、どうやら薄い黄色の液体が入っているようだ。
「水に蜂蜜と塩を溶かした液体です。熱射に効きますからどうぞ。」
しかしながら、少女はそのカップを手渡そうという気はないのか、トレイごと低い円卓の上へ置いた。あたかも、そこから先はシエナの意志に委ねられているかのようだ。拒絶の意を表そうとしていた王女は肩透かしを食らったが、尚も首を振ろうとして激しい頭痛に見舞われ、あっけなくベッドへ逆戻りしていった。
「……あら、まあ。意識を失っている間にザイド様より摂取されておりましたが、まだお加減は優れないようですね」
淡々とした彼女の口調に思わず聞き流してしまいそうになったが、聞き捨てならなぬ発言に、シエナはぎょっとした。
「……は?! ザイド……に、ですって? え?」
あの男の手によって既に飲まされていたとは。狼狽する彼女をよそに、少女は思い出したように腰をかがめて一礼した。そのゆったりとした優雅な所作に、なぜか目を奪われてしまう。
「申し遅れました。私はゼフラ・クラシーと申しまして、アル・シャンマールの医術を担っております。当分は貴女の体調管理を担当させていただきます。」
「はあ……そう。」
「とはいえ本業は薬学。いえ、“毒学”とでも言いましょうか。ああ、自分で学ぶという意味ではございません。私は、毒を極めているのです」
「……え? な、なんですって?」
シエナがあっけに取られている間に、ゼフラと名乗った少女はどこか楽し気に話し始めた。しかしその内容は「毒」。なぜ、医学を心得て人々を救うはずの彼女が、人を死に至らしめる毒に魅せられているのだろうか。どう考えても初対面で嬉々として始める話題ではない。
「毒と薬は同じもの。用法容量を違えるだけで、どちらにもなるのです。とはいえ、毒は簡単にはお出しできません。ザイド様の許可がいりますので、ご注意くださいませ。」
「はあ……」
「それでは、おひいさまが目を覚まされたということで、報告に行ってまいります。どうぞごゆるりとお寛ぎくださいませ。」
まるでシエナからの言葉など必要としていないかのように、ゼフラと名乗った少女はそのまま立ち去ろうとした。
「あっ……!」
あからさまな敵意はないが、気を緩めればすぐに飲み込まれ、足をすくわれそうな危うさ。それでもこの不可解な状況を知るためには、彼女から何か情報を得なければならない。焦燥に駆られたシエナは考えなしに声を上げたが、ひどい頭痛のせいでそれ以上は何も言葉が浮かんでこなかった。
「まだ何か?」
怪訝に小首をかしげるゼフラからは、何の感情も見られない。シエナが行き場を無くした一言をどうすべきかと必死に逡巡した、その時だった。
「おい、ゼフラ。どうなんだよ。おひいさまは」
「ああ、レイラ。勝手に入らないでください。おひいさまは客人なのですよ?」
制止に構わず、ずかずかと無遠慮に入ってきたのは、ゼフラと同じ年くらいの少女だった。背格好や髪、目の色はおろか、顔立ちの特徴も寸分違わない。しかし圧倒的な違いがあるとするならば、少年のように短く切りそろえられた耳下までの短髪と、同じ色でも敵意を湛えるかのように吊り上がった目だろうか。
「へえ。……これがアレスのおひいさまかよ。ほそっこくて小せえんだな。アレスの女ってのはみんなこうなのかあ?」
レイラ、と呼ばれたその少女は品定めでもするかのように、シエナを頭の上からつま先までじろじろと眺め回した。その瞬間、先ほどまでゼフラと対峙していた時には見られなかった不快感がシエナに沸き起こる。まるで自らがアル・シャンマールの者に向けている侮蔑をそのままそっくり返されているようで、そこはかとない居心地の悪さを感じた。
「……な」
なぜか、ザイドに対してはつらつらと出てきた罵詈雑言が、今の彼女の口からは出てこなかった。レイラの手には使い古された弓が握られ、腰には矢筒と布の袋が下げられている。彼女の纏う火薬の匂いに、シエナは知らず知らずのうちにぞくりと戦慄していた。ただ、命令さえあればこの少女は何の躊躇もなく自分を殺せる。そう確信してしまったからだろう。
「ふ~ん。敵の本拠地に入って怖いのかあ? なんも言わねえじゃん。もしかしてあたしよりも頭悪いのかあ?」
「……っ」
それでも、一方的に見世物になっているのは屈辱的だ。カチンときたシエナは睨むように彼女を見上げた。
「随分と言ってくれるじゃない。そういうあなたは誰なの?」
「へっ、レイラだよ。弓部隊の隊長で、そこのゼフラの双子の姉ちゃんだ。よろしくな、アレスのおひいさん。」
レイラと名乗った少女は、鼻で笑った後、手を差し出してくる。しかし、未だ臥せった状態のシエナにはどう考えても届くはずもない。それをわかった上でやっているのだと悟ると、シエナは苛立ちを覚えた。対するゼフラは呆れたように首を振ると、空を掴んだままのレイラの手を乱暴に取り、強引に扉の方へと引っ張っていった。
「まあ、似ていないので、おひいさまが驚くのも無理はないかと。さ、レイラは早く出て行ってください。おひいさまのことは丁重に扱うようにとのお達しですのに、これではお身体をますます悪くしてしまわれます。」
「んだよ! あたしはただ、ザイド様ご執心のアレス女のツラを拝みに来ただけだってのに!」
「それが迷惑だと言っているのです。ではおひいさま、私たちはこれにて失礼を。」
もつれあうようにせわしない双子が出ていくと、シエナはしばらく茫然としていた。相変わらず吞み込めない状況に不安を覚えながらも、こめかみに染み付いた痛みを思い出し、のたうち回る。
彼女は、ゼフラの置いていったカップや果物の載った卓上には目もくれず、ひたすら考えを巡らせた。気になるのはリュシアンの安否。そしてこの先、敵陣でどのように振舞うのが適切なのか。何一つわからぬまま、彼女はここのトップであるというザイドと再会したら、ありったけの文句と罵詈雑言をぶつけてやろうと、ひそかに心に決めたのだった。