果たされぬ誓い
その瞬間、ぴんと張りつめていた空気が凍り付いた。シエナは目を見張ったまま、四方を剣で囲まれている騎士を呆然と見つめていた。
「……そんな!」
初めからこうしていればもっと勝負は早かったに違いない。それでもリュシアンと交戦したのは、男なりに思うところがあったのだろう。初めから圧倒的な差をつけるよりは、互角の戦いをしたことで、かえってその心を折る戦略だったのかもしれない。
目前には相変わらず、憎たらしいほど涼しい顔をした異国の男が佇んでいる。浅黒い肌に不敵に微笑む唇は、忌々しい悪魔のよう。彼女はふつふつと滾る怒りを込めてきっと睨みつけた。
「……彼をどうするつもり?」
渾身の憎しみをぶつけたつもりだったが、気丈に尋ねた彼女の声は意志に反して震えていた。男はにやりと口角を上げた。それもつかの間、元の冷淡な面持ちに戻るとそっけなく答えた。
「逆らうなら殺すまでだ。」
シエナは悔しさのあまり、血が滲むほど強く唇を噛んでいた。このままでは、リュシアンは殺されてしまう。それだけは、避けねばならない。自らのせいで彼を死なせてしまうことを思うと、彼女は胸が押しつぶされそうだった。
「……あなたの目的は私でしょう? 彼は関係ないはずよ。」
この首領らしき男さえ倒せば、絶望的な状況を打破できる可能性も僅かながらあったというのに。卑怯にもよってたかって一人を殺すのか、と憤りに駆られる。一方、男の憂いを帯びた深い青の瞳は、怒りに満ちた碧翠と相対しても何も映さなかった。
「こうでもしなければ、こちらがやられてしまうのでな。」
「さすが蛮族。手口が汚いわね。」
「お褒めに預かり光栄だな。」
「本当に、最悪だわ。」
彼女の皮肉も、それを上回る皮肉でひらりとかわされてしまう。そこで男はついと後ろを振り返ると、目下八方塞がりのリュシアンを顎で示した。
「ご覧の通りあの騎士はもう手が出せない。利口な姫君なら、もうおわかりだろう?」
「チェックメイト、とでも言いたいのかしら。」
気丈に振る舞いつつも、シエナは心中穏やかでは無い様子で騎士の様子を一瞥した。今この瞬間、少しでも敵の手が動くだけで彼は傷を負う。その事実が重くのしかかる。
「……俺はまだ、やられてなどいない。」
その時、彼の押し殺した声にはっと息を呑んだ。リュシアンはまだ闘志を失っていない。それどころか、あらゆる隙を伺っているだけにも見えた。現に、周囲をぐるりと取り巻く刃をものともせず、地面に突き立てた剣で全身を支えるように立ち上がろうとしている。曲がった剣先はすかさず、彼の皮膚を切り裂こうと目と鼻の先まで押し迫った。けれども彼はそれを歯牙にもかけず、剣で振り払おうとする。
「ぐっ!」
「―リュシアン!」
シエナを守るためなら、命も惜しまない。その信念を体現する振る舞いに、彼女はもはや見ていられなかった。一方、異国の男は呆れたように肩をすくめた。
「やめておけ。それ以上は見苦しいだけだ。……愚かな。傷を負わねば分からないのか?」
だがその勢いもむなしく、すぐさま彼の喉元や項にぴたりと剣先が当てられていた。リュシアンに躙り寄る幾つもの湾曲した刃は、命を刈り取る死神の鎌のように、その首をかき切ろうと待ち構えている。たまらず、彼の精悍な顔は苦悶に歪んだ。
「―ぐはっ!」
額に脂汗が浮かぶ。彼は首を絞められているようにゼエゼエと浅い呼吸を繰り返した。それでも構わず剣を振りあげようとして、手が動かないことに気づく。鈍い痛みと、複数の力で抑え込まれる感覚。見れば、その手を封じ込めるようにして、四方から剣が突きつけられていた。リュシアンが尚ももがこうとすると、今度は喉元に突きつけられた刃からじわりと血が滲んだ。
「……やめて。」
シエナはいつのまにか首を振っていた。あまりにも痛々しく、目を覆いたくなるような光景を直視することができない。
「まだだ。まだ……!」
それでもリュシアンは目前の刃を掴むと、力任せに押しのけようとした。が、向けられた剣はピクリとも動かない。代わりに彼の掌に鋭い刃が食い込み、切創を刻んでいく。使い古された手袋は既に擦り切れ、ズタズタになった切り口からはぽたぽたと鮮血が滴った。
「そのくらいにしておけ。」
男は落ち着き払ったまま仲間に目配せすると、彼らは一斉に動きを止めた。
「やめて……」
シエナの唇が震える。喉の奥がカラカラに乾いて引き攣る中、彼女は悲痛な叫びを上げた。
「―もうやめて、リュシアン!」
その途端、更に足掻こうとしていたリュシアンの動きが止まった。その手は急に意志を失ったかのように、だらりと力なく下がった。
「……何故、ですか。」
愕然と。まるで守る物を失ってしまったかのように、ぽつりと呟く。騎士は戦意を喪失してしまったように、そのままがっくりと膝をつき、地面に崩れ落ちた。
「これ以上、あなたが傷つくのは見たくないの。」
「……シエナ、様。」
戦いをやめてしまえば、あるじを守ることが出来ない。リュシアンは納得出来ずもどかしげに訴えようとしたものの、すでに彼女はふっと顔を背けていた。
「ねえ。……私が行けば、彼のことは傷つけない?」
「ああ、約束しよう。」
唖然とする。そして、彼女がこれから何をしようとしているのかを悟る。これでは、本末転倒だ。焦燥に駆り立てられるあまり、彼は声を荒らげた。
「―なりません、そんな奴の言うことなどっ!」
彼の制止も、あるじの耳には届かない。その間にも、彼抜きで話が進んでいく。
「……本当に?」
「もちろんだ。」
目的が自分である以上、リュシアンを守るためには要求を呑むしかない。そう決意を固めたシエナは深く息を吐いた後、意を決したように口を開いた。
「命令よ、リュシアン。……剣を捨てなさい。」
「―っ!」
絶句する。それでも大人しく引くわけにはいかない。引けば彼女は敵の手に渡され、もう二度と守ることは叶わなくなってしまうのだから。
「……しかしっ!」
彼の抗議にも聞く耳を持たず、王女は感情を押し殺すように黙って首を振った。彼女はリュシアンの方を見ているようでまるで見ていなかった。それから、毅然とした態度を取り戻すように、冷たく突き放した。
「あるじの命令に逆らうつもり?」
「……!」
言葉に詰まる。シエナが普段命令をすることはない。それだけに、彼女が信念を曲げてまで自らを生かしたいのだということが痛いほどに伝わってきた。
「命令、とは……あなたらしくもない。」
「逆らうなら、護衛騎士の任を解きます」
「……っ」
悔しげな騎士は、土と血に汚れたまま俯いた。シエナもそこで堪えていたものを逃がすように嘆息すると、懇願した。
「わかってくれるわね。あなたには生きていて欲しいと、そうお願いしたはずよ。」
「姫様……」
そこでようやく、リュシアンは全ての言葉をぐっと飲み込んだ。顔を伏せたまま、敗北を認めるようにゆっくりと剣から手を離す。
「……っ。御意。」
血と汗にまみれた剣は、カランと虚しい音を立てて地面に転がった。
それを見届けた男は、頷いた。その表情からは、騎士を打ち負かした満足も優越感も見られない。彼はただ、感謝の意を述べた。
「姫君、感謝する。」
彼女はがくがくと震える手を握りしめていた。まるでそうしなければ、今すぐにでも迸る激情を男にぶつけてしまいそうだった。
「……約束通り彼を解放しなさい。」
「ああ。完全にここから抜けたら解放させてやろう。」
「嘘じゃないでしょうね?」
「本当だ。約束したからな。」
疑いの眼差しを向けるが、今の状況では他に打つ手などなかった。まだ剣に囲まれたままの騎士を見やったが、これ以上は何もできそうにない。
「今は……そうするしかないようね。」
男に促され、彼女は馬車を降りる。とは言え素直に従うのは癪に障った。差し伸べられた手には目もくれず、ふいとそっぽを向いて一人で降り立つ。
「そのお方を、どこに。」
シエナを伴って歩き出そうとした男に、リュシアンの刺すような視線が投げかけられた。
「お前が知る必要は無い。立場を弁えろ。」
「俺は護衛騎士だ。彼女を守らなくてはいけない。」
ふと、何の気まぐれか男はおもむろに振り返った。しばしの静寂の中、二人の視線が交差する。異国の男はふっと唇を持ち上げると、悠然と口を切った。
「……勝手にしろ。そういえば、名乗り忘れていたか。俺はザイド・アル=サレハと言う。案ずるな。姫君はわが国の客人として丁重に扱うつもりだ。」
「何だと……?」
ザイド・アル=サレハ。その名を脳裏に刻み込むようにリュシアンは反芻した。何度も、何度も。仇の名前を決して忘れることがないように。
「まあ、お前には来られまい。砂漠に沈んで埋まるのが関の山だ。」
「……」
アル・シャンマールは砂漠の国。そんな場所まで、あるじのために来る覚悟はあるのか、と改めて問われているようだった。リュシアンが何も答えないのを見計らい、ザイドと名乗った異国の男は背を向けた。
「リュシアン、と言ったか。その名前、覚えておこう。」
そして、ザッと赤土を踏み鳴らす音が遠ざかっていった後。仲間の者たちも一斉に顔を上げた。
「……そろそろかね。」
「そうっすね。」
顔を見合わせた後、彼らは息を合わせてさっと駆け出した。満身創痍のリュシアンも負けじと後に続こうとしたが、唐突な目眩にふらりとよろめく。
「……くっ!」
彼が息苦しさと頭痛に苦しむ間も、敵の姿は煙の向こうへと霞んでいく。リュシアンは這ってでも後を追おうとしたが、体力の消耗が激しかったのか、徐々に力が抜けていく。程なく、虚空を掴んだ彼の手は、どさりと地面に投げ出されていた。