序章・邂逅への足音
小さな馬車の中で、少女は自らの腕を抱きしめたまま小刻みに怯えていた。
峡谷をびゅうびゅうと吹き荒れる風は、彼女を脅すようにぎしりと馬車を軋ませる。白金の髪は薄暗がりの中でもわずかな光を浴びて絹糸のような輝きを放っていた。少女のそばには、誰もいない。彼女を守ると誓った騎士は、敵と戦うために単身で出ていってしまった。
あれから聞こえてくるのは、幾人もの騒々しい怒声と足音だけ。耳を塞ぎたくなるような金属音が空気を震わせる度に、次第に耳元で切りつけられるような恐怖が迫り来る。息を潜める。どくどくと脈打つ鼓動が外にまで漏れ聞こえそうで、彼女は両腕の血が止まるほど、か細い指に力を込めた。
それが始まったのは、ほんの数秒前のことにも、何時間も前の出来事のようにも思えた。
「……俺が用があるのは……お前のあるじだ」
扉を隔てた向こうから聞こえてくるのは、見知らぬ男の艶やかで冷たい声。それが誰であるかも薄々気づいている。幼い頃から敵だと教えられてきた東の蛮族だ。馬車の外にいる彼らの狙いが自分にあることは、火を見るよりも明らかだった。
何を言ったところで、あちらに届くはずはない。それでも祈るように、呟かずにはいられなかった。
「やめて……もう、やめて!」
彼女のうわ言のような呟きはいつしか心からの叫びに変わっていた。
がたり、と馬車の扉が動く。光が差す。目を向けるのには恐怖が伴うが、侵入者の正体を確かめないわけにはいかない。外の眩さに目を細めながらも顔を向けると、少女は息を呑んだ。
「……ここにいたのか」
影を落とした浅黒い肌。それよりも更に闇に溶けそうなほど暗い黒髪が、峡谷の突風に巻き上げられて靡く。瞬きすら忘れて、彼女は男の深い青の瞳に吸い寄せられる。
「蛮族」だというのだから、化け物のように醜い風貌を想像していた。それなのに、予想を反した麗しさに目が離せない。獣のように孤高なまなざしは、恐ろしいはずなのに美しさすら感じる。男は見定めるように、惚けたままの少女を静かに一瞥していた。
「白金の髪に青緑の瞳……間違いない。お前がアレスの王女だな?」
褐色の手が首元に伸びる。途端に、びくりと肩が強ばる。狭い馬車の中では逃げ場などなく、身をよじるのが精一杯だった。男が迫るにつれ、首を絞められるのかと心臓がぎゅっと縮み上がる。悲鳴をあげようと唇を動かそうとしたものの、彼女の身体はその意志に反して、骨の髄まで痺れてしまったように動けない。がたがたと強風に音を立てる馬車は、自らのせいで震えているようにも思われた。
「……っ!」
男の武骨な指は、少女の顎先に触れる。さほど力は込められていないのにも関わらず、顔を背けることが出来ない。深い水底のような青に覗きこまれ、そこに恐怖に慄く自らの姿を認めた瞬間、この不躾な蛮族に憤らなければ、と彼女はやっとのことで思考を再開させた。この狼藉に罵声を浴びせてやらねば気が済まない。少女は震える唇を無理やりこじ開けた。だが、からからに渇ききった喉が張り付き、絞り出した声は老婆のようにしゃがれていた。
「……無礼者。触らないで頂戴っ」
虚勢を張りながらも、少女の目が泳ぐ。男の背後にはその一味と思われる数多の敵がいた。その間から微かに、彼女の護衛騎士の荒い呼吸が聞こえてきている。誰がどう見ても状況は劣勢。こちらの勝利は絶望的だった。
「そのお方に……触れるな!」
決死の覚悟を決めた騎士の叫びも、目前の異国の男にはどこ吹く風だった。
「安心しろ、騎士。彼女を傷付けるようなことはしない。ただ、我が国へ来てもらうだけだ。」
それが蛮族の国を指しているのだと察した瞬間、全ての音が止まった。自らが《《捨て駒》》であることを知ったら、どうなるか。男の腰に下がる曲刀が目に留まる。少女に利用価値がないことを知れば、この剣はたちまち命を刈り取る死神の鎌と化すに違いない。その前に、せめて目の前の騎士だけでも逃がさなければ。
「何を……言っているの?」
それから、まだ見ぬ野蛮な異国の地へ足を踏み入れることになることを、少女はまだ知らない。