哲学的ゾンビな彼女
「哲学的ゾンビって知ってる?」
「知らない」
「意識とか感情……要するに心が無いけど、見た目には普通の人と変わらない行動をする人の事だよ」
「ふーん」
「私、哲学的ゾンビなの」
いきなり何を言い出すんだろう。菜々は。
僕を試しているんだろうか。
カフェのカウンター席の隣に座る菜々の声は淡々としていて、真剣なようにもふざけているようにも思えた。
菜々がまた口を開く。
「私、哲学的ゾンビだから……普通の人と同じように振舞っているけど、本当は心がないの」
菜々は無表情と微笑みの中間のような表情で、柔らかく唇を広げて僕を見つめている。
菜々の表情からは本気で言っているのか、ただの冗談なのかは読み取れそうにない。
僕は質の悪い冗談だと仮定して話を進めることにした。
「さっき、菜々はコーヒーを飲んで口を火傷しそうになっていたよな」
「うん。感覚や痛覚は電気信号で脳や脊椎に伝わるけど、情報が伝わるだけで本当に熱かった訳じゃないの」
「でも昨日僕が犬の話した時、菜々は楽しそうに笑っていたじゃないか」
「あれもただの反応。本当に心から笑っていた訳じゃないの。私には心が無いの」
嘘じゃない。……菜々はこんなつまらない嘘をつく人間じゃない筈だ。
「本当なのか?」
「うん」
小さく俯いて黙り込む菜々。
本当らしい。菜々が哲学的ゾンビだという話は。
思えばずっと疑問に感じていた。
器量も成績も良く、容姿にも優れた菜々がこんな冴えない僕の彼女になってくれるなんて出来すぎていた。
ロクに話した事もないのに、いきなり当たって砕けろの告白をしてOKされるなんてのも出来すぎていた。
何故菜々が僕と付き合ってくれているのか、ずっと疑問だった。
怖くて聞くことも出来なかった。
でもやっと腑に落ちた気がする。
菜々は自分が哲学的ゾンビであるという事実が後ろめたかったんだ。
だから自分を低く見積もって、僕程度の低スペック男くらいが自分には丁度いい……と勘定に掛けていたんだろう。
僕は、自分が菜々に見合う男なのかずっと不安だった。
いつか見限られて捨てられないか不安だった。
だから……やっと菜々と対等になれたようで少し嬉しかった。
でも、同時にそんな自分に腹が立つ。
菜々の心の欠損を喜んでしまっている勝手な自分に。
苛立ちを誤魔化すように僕は菜々を見つめる。
「菜々」
「何?」
「何でもない」
「何それ」
微笑みを交わし、目を合わせていると、確かに幸せが心に広がって行く。
でも菜々の心には幸せは無いんだろう。
菜々には心がないんだ。ただ、反応しているだけ。
人間そっくりの精巧なアンドロイドのように。
僕はきっと一人芝居をしているだけなんだろう。
それでも、僕は今確かに幸せだった。僕だけが幸せだった。
それが堪らなく悲しかった。
「ごめんね」
「菜々が謝る事ないよ」
「でも、ごめん」
寂しそうに笑った菜々は、本当に寂しい訳では無いんだろう。
それでも、僕にはとても寂しそうに見えてならなかった。
「どうして菜々は僕に打ち明けてくれたんだ?」
「……分からない」
言いたくないだけかも知れない。どちらにせよ、これ以上追求するのはやめておこう。
僕は苦いコーヒーの残りを飲み干すと、菜々の幼い横顔を見つめ直す。
また胸が苦しくなるような愛おしさと幸福感が込み上げて来る。
僕は彼女に何を言えば良いのだろう。何を思えばいいのだろう。
菜々に慰めの言葉を掛けるのは簡単だが、それは違う気がする。
僕は菜々が哲学的ゾンビであるという現実を、ただただ受け止めよう。
菜々に感情が、意識がないって事を受け止めよう。
僕にはそれだけしか出来ない。
「菜々」
「何?」
「僕は菜々が好きだ」
「私も好きだよ」
――僕の彼女は、哲学的ゾンビだ。