結
こんなのいつまで経っても眠れるわけがない。
そんな思考とは裏腹に、長時間寒空の下で固まっていた身体は相応に疲れていたらしい。
いつの間にか落としていた意識がふと浮上したのは、カーテンレールの隙間から薄く明かりが見える頃だった。
ただ、私の視界は白一色。まだ覚醒しきっていない頭が、単純に浮かんだ疑問のためにそれに手を触れさせた。
布地だと思う。でもその向こうは硬い?あったかい。
「……起きて早々、襲って欲しいのか?」
無防備に撫でていたそれが震えて音がしたと思ったら、唐突に近付いてきて鼻を潰した。
「ぶ、え、あ…っ!?」
馴染んだ温度が不意に腰を撫で上げて、一気に目が覚めた。
何の防御もできず大袈裟に身体が跳ねて咄嗟に突き放した白いそれは目の前の人物のパジャマだったらしい。
「そ、そそ、そうまさ…」
がばりと身を起こすと胡乱な目が見上げていた。
背を向けていたはずの身体は寝返りの末、布団のなかで暖かい最適な抱き枕に懐いていたようだ。そんな目で見られてもこれは不可抗力です!
残念、なんて小さな呟きに顔が赤くなるのが分かる。
「お…はよう、ございます…っ!」
「おはよ、今何時?」
枕元のスマホに手を伸ばし確認した時刻はまだ7時前。冬場のこの時期ではまだ明るくなり始めたくらいだろう。
けれど電車は十分に動いている時間だ。昨日の失態─泣きついて、甘えて、ひたすら甘やかされて、甘受していた自分─は一晩経って冷静になれば思い出すだけで汗が吹き出るほどに恥ずかしい。一刻も早く逃げたしたい。たとえ明日になれば否応なく職場で出くわすとしても今この場から早々にとんずらしてしまいたい。
「すみません、私お暇しますね!お世話になり…っわ」
「まだ早いし、せっかくの休みなんだからもうちょっとゆっくりしてろよ…ちゃんと送っていくから。それにそんな格好のまま出てく気か?着替えもないだろ」
そそくさとベッドから後ろ向きに足を下ろしたところで、不安定な体勢のまま再び布団の中へと引っ張り込まれた。
「いやいやいや、そこまでご迷惑は…っ、それに着替えもありますご心配なく!」
「………何で着替えなんか持ってんの?」
「え、」
「彼氏と一泊予定だったんだ」
抱き枕よろしく胸元に頭を抱え込まれながら、頭上から振ってきた声はえらく不穏な響き方だった。これは…いわゆる嫉妬と言うものだろうか、にしてもすっと低くなった音が非常に怖い。
新人の頃、理路整然と怒られていた時の怖さとは全く違うそれに対処法がわからない。
「あの…相馬さん……」
「あんなヤツのために準備してたと思うとムカつく…」
ぼそりと拗ねたように吐き捨てられた言葉に…可愛いと思ってしまう辺り、最早観念するしかないのかもしれない。
初めて告白されてから、いやその前から、好意は確かにあったと思う。相馬さんの後輩に当たる面々に彼の印象を尋ねれば、十中八九『厳しいけれど面倒見のいい人』と言う回答が返ってくるだろうこの人に人一倍懐いていたのは他でもない私だ。
勿論、好きで付き合い始めた彼氏なんだからこそその想いは断ってしまったけれど、最近は惰性での関係で、昨日ひたすらに待っていたのは殆ど意地だった。
全く、弱味につけこむとはよく言ったものだ。まんまと絆されて、けれど…。
「相馬さん、私…今日、彼氏とはっきり別れようと思います」
「は…?」
「多分滞りなくあっさり終わると思うんですよ…って言うのもちょっと情けないですけど、万が一何か抗議があっても証拠写真撮ってあるんで」
「証拠写真?」
「堂々と目の前を女の子の腰に腕を回しながら歩いてたんで…そりゃショックもありましたけど咄嗟にスマホで写真残したんです」
私に気がつくこともなく、私との約束なんて綺麗さっぱり忘れてのうのうと闊歩する様に痛む胸も確かに感じた。同時に去来したのは呆然と諦観。あの場に留まり続けた最大の理由は誕生日だったからだ。もし私の前に姿を見せるようなことがあれば、清算させることで過去最低の誕生日を払拭するつもりだった。
そう話せば、ようやく相馬さんは笑ってくれた。
「さすが、逞しいな」
「何ですか、さすがって」
抱き締め返してしまいたいけれどまだ終わっていない。
行き場をなくして手を下ろしたその時、辿り着いた先のお腹が盛大に鳴り響いた。
むず痒い空気をぶち壊してくれてありがたい気もするけど、お約束過ぎるそれに羞恥が勝る。
相馬さんも一瞬虚を突かれたあと肩を震わせ出してしまった。
「き、昨日のお昼以降そう言えば何も食べてなくてそのままここに直行されちゃいましたし仕方ないと思いませんか!?」
元々夕飯前の夕方に待ち合わせだったので、待ち惚けを食らっていたから食事をする余裕なんてなかったのだ。ここに来てからは違う意味でお腹いっぱいだったし。
「そ、そっか…それは、っ悪かった…」
「笑いすぎです!」
逆ギレのそれに一頻り笑ってから、目元を拭いながら上体を起こす。あ、腹筋いてぇ、なんて聞こえなかったことにする。
「とりあえずなんか食うか、簡単なものしか出せないけど」
「はい…」
くそぅ。もうこれ以上掻く恥なんてないから差し出された手を素直に取った。
寝室を抜けて洗面所を借りて顔を洗って、昨日のフロアソファに腰を掛ける頃にはいい匂いが漂っていた。
イチゴジャムとマーガリン、お皿の上のこんがりとしたきつね色の食パンとホットコーヒー。普段の食生活が伺えるメニューがなんだか嬉しい。
「自炊なんて滅多にしないからホントにこんなもんしかなくて悪いけど」
「とんでもない、ありがとうございます。自炊しないんですね、意外です」
「夜は他の会社の人とか営業同士とかで食べてくることが多いし…朝は適当にそこにあるものって感じだな」
確かに、お昼も事務所にいたとしてもコンビニ弁当やパンなんかを食べていた覚えがある。心配になる食生活だなぁなんてぼんやり考えていたら。
「これからは佐崎が作ってくれるのも期待してるから」
いつも弁当作って持ってきてるもんな、偉いよ。
何でもないように爆弾を投げられてパンの屑を喉に吸い込んでしまい軽く噎せた。少し冷めたコーヒーで流して落ち着かせ、恨みがましく睨んで見るけれどニコニコと笑顔を見せるばかり。
こんなに笑う人だっただろうか。柔らかいそれが向けられる対象が自惚れでなく自分であることに勝てる見通しがまるで立たない。
「さぞやチョロいって思ってるんでしょうね…もう」
「は?お前がチョロかったら何年も片想いしてないよ馬鹿。今この瞬間もまだ俺のものではないんだし」
そう。もう何週間と連絡を取っていなくても、他の女性と歩いていようと、いい加減自然消滅だとしても、名目上まだ付き合っている人がいる身としては応えるわけにはいかない。
私の中のケジメとして、何の蟠りもない状態で相馬さんと向き合いたい。
はっきりと私が答えていないことを、相馬さんも分かっているのだろう。
「いいよ、俺は俺で勝手に精一杯、佐崎が耐えられなくなるまで甘やかすだけだから」
そしてまた、その日がすぐそこだと言うことも確信しているに違いない。
その後どうなったかは…言うまでもないだろう。
お読み頂きありがとうございました!
相馬さん視点もその内書きたいです。