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「あの…お風呂ありがとうございました…」


「ああ、おかえり………なにそれ」



今の私の格好はお尻が隠れるくらいまでの丈の長袖を折りまくったネイビー無地のTシャツと、裾が長くて同じく折りまくった黒のジャージだ。ウエストは紐で絞ってある。

浴室を出て用意されていたタオルで水気を拭い、用意されていたそれらの着替えを纏い、化粧水、オールインワンジェル、乳液、フェイスクリームと順に肌を整え…立ち尽くすこと5分。

悩んだ末に戻ったリビングで、私の声に振り返った相馬さんは訝しげに眉をひそめているのだろう。彼が指す、それ、のせいで視界を塞いでいても表情が容易に想像できた。


「なんでタオル被ってんの?どういう抵抗な訳それ」


「いやその…先輩にノーメイクを披露するのはどうなんだろうと思いまして…」


そう。身だしなみを整えたあと、鏡の中の自分を眺めながらの葛藤は男性には分かるまい。職場や飲み会でしか顔を合わすことのない相手、しかもずっとお世話になっていた先輩は、こんな風にプライベートで会うことは一度もなかった。普段それなりに化粧を施した顔しか相馬さんは見たことがないのだ。

化粧品は鞄にある。肌への負担を覚悟で最低限でも作っていくべきか。けれどこの後に起こりうるだろう展開を想像すれば、見るも無惨な顔面になる可能性がある。

べっ別に期待してる訳じゃないけれども!発言の端々から、だって、ねえ!と言い訳を自分に投げ掛けるものの堂々と出ていく度胸もなかったので、バスタオルを頭から被り顔を覆って戻ることにしたのだ。


「先輩…ねぇ」


クッション性の高いフロアソファはスプリングがなく立ち上がっても音がしない。自ら閉ざした視界のせいで近くまで来ていることに気付いたのは頭上に影が射してからだった。


「あ…っ」


「ここは会社じゃないし、仕事中でもないよ。これからこう言うことしようってのに先輩とか無粋なこと言わない」


抱き締められたことに気をとられ、ほっかむりは剥ぎ取られた。バサリ、無造作に床に落とされたそれ。露になった髪に頬が寄せられた。


「ちゃんと髪の毛乾かしてきたみたいだな」


「髪、乾かし…あ、えと、ドライヤーお借りしました!」


「うん、でも残念。濡れたままなら俺がやろうと思ってたのに」


こう言うことってそう言うことですか。

すっと髪を鋤かれ一気に鼓動が速くなった身体は意外にもあっさりと解放された。


「俺もざっとシャワー浴びてくる…ちょっと待ってて」


流れるように足元のタオルを拾われ、浴室に姿を消していったのを止める間もなく。あんな私が使って濡れたタオルを片付けさせるとかどうしたらいいのか。

緩急入り乱れたジェットコースターのような相馬さんの言動に、頭が着いていかない。昨日までの相馬さんとはまるで違う空気の変わりようにそろそろパンクしそうなのに、何てことだ。本番はこれからと言う現状。

自分を抱き締めた腕が強くて、くっついた身体が逞しくて、頭一つ分高いところから聴こえる声が耳朶に届いて震えた。

生々しく感じた『男性』にどれだけぐるぐると悶えていたのか。


「あぁあ───っもう!」


しゃがみこんで頭を抱えた。瞬間。


「なに叫んでんの」


「きゃああ!?」


真後ろから声がして悲鳴を上げて飛び起きた。

今の私と同じような無地の白いTシャツに黒のジャージ姿は、お揃いを着ているようで何だかそわそわする。


「ちょ…っ、結構防音はされてる部屋だけど時間考えて」


「す、すみません…けど早すぎませんか!?」


私が煩悶していた時間なんて長くても精々10分と経っていない程度。濡れた髪はそのままとは言えいくらなんでも早すぎる。

短いとタオルドライだけであんなに乾くなんて羨ましい。いつも流して整えている髪が下ろされていて可愛い、じゃなくて。


「ざっとシャワーしてくるって言っただろ、夕方に一回帰って風呂入ってたんだよ」


「そう、ですか…じゃあ仕事って」


「新和メディカルの営業と飲み会」


新和メディカルとはうちの会社の取引先だ。主に医療機器の開発や販売を旨とする我が社の一番の上客と言っても過言ではない。今日は…と言うか日付的にはもう昨日だけれど、確か色んな同業他社が集まっての展示会だったはず。土曜日なのに休日出勤なんて営業さんは大変だ、と考えたのは記憶に新しい。

同じ会場で出会して流れで飲みに行くことになったのだろう。

それなら仕事と言っても差し支えないかもしれない。よく考えれば日付が変わるまで仕事なんて、そこまでブラックな会社じゃない。


「えっでも車…」


「俺がめちゃくちゃ酒弱いの知ってるだろ?飲まされないように車だったんだよ」


「ああ、なるほど」


意外なことに相馬さんはアルコール耐性がほぼ皆無と言っていいほどお酒に弱い。長年勤めていれば周りも承知の上なので無理に飲まされるようなことはないけれど、一度お茶と間違えてウーロンハイに口を付けてしまい大変なことになったのは私がまだ新人の頃だっただろうか。

勢いよく飲んでしまった為、一瞬で撃沈して眠り込んでしまいどうやっても目を覚まさない。仕方なく手配したタクシーに数人掛かりで放り込んで、付き添いと共に帰宅させ、鍵を鞄から探し当てて靴を脱がしてベッドに投げるに至るまで。送り届けた薗田さんは翌週相馬さんに平謝りされていた。


「納得した?じゃあ行くぞ」


「えっ、あ」


何気ない会話に気を取られていたら、不意に手のひらを掴まれた。

行くぞってどこに、なんてボケをかましそうになったけれど、相馬さんの進行方向をみればそれは明らかだった。

一枚の扉。恐らくその奥にあるのは。

開け放たれて目に飛び込んできたものは、予想と相違ないもので。私の家にあるものよりも少し大きいそれ。


今日の私の心拍数の乱高下は最早身体に悪いレベルじゃないかと思う。

壁際のベッド。本棚と小さなチェスト、壁の一角を占めたクローゼット。

ただそれだけの簡素な部屋を照らしていたリビングの明かりが消されて真っ暗になった。とは言え目的地までは障害物もなく一直線。迷いない先導で簡単にベッドへ辿り着き、枕元のスタンドライトが灯される。


「はい、おいで」


縁に座り乗り上げて寝転んで、けれど繋がれた手は離されることもなく、導かれるままに上げられた布団に潜り込むほかなかった。

おずおずと身を預けたマットレスは少し硬めだ。低反発のそれが僅かに沈み、浅く息を吐く。

隣に収まったのを確認したのか、相馬さんが手を突いて身を起こす。思わず息を詰めて身構えたけれど、延びた手は私を飛び越えてさっき点けた照明を消した。再び真っ暗になった。


「ん、おやすみ」


そのまま元の位置に戻ってきた相馬さんは改めて掛け布団を掛けなおして私の腰を軽く抱き寄せた。

───沈黙が落ちる。


「…………え…?」


「んー…なに?」


「いや…ええ、と…」


これは良い子は就寝コースと言うことでしょうか?なんて、期待してましたと言わんばかりのセリフを口に出せるはずもなく。


「シたかった?」


「なん…っちが…!」


けれど分かりやすく読まれた思考は、直接的な言葉の攻撃となって返ってきた。

一夜の過ちだの、人を抱き締めた状態でこう言うことをするだの、あれだけ意味深にフラグを立てまくっていたのは相馬さんでしょうが!叫び掛けた声は相馬さんの指が口許に添えられることで塞がれた。


「でも残念、そんな不毛なことしないよ。今ここで抱いても何にも手に入らないし」


暖かい敷パッドに流れた互いの服が触れ合うか触れ合わないか、そんな距離。体温を直に感じるのは布越しの腕だけだ。


「言ったよね、弱味につけこまないでいられるほどイイヒトじゃないって。このまま抱いてしまうのは簡単だけど、俺が欲しいのは身体だけじゃないんで」


僅かな隙間を埋めるように向かい合わせに引き寄せられ肩口に頭を抱えられた。頸動脈から伝わる心音が早い。


「…俺のことを好きになるまで、俺じゃないと駄目ってなるくらい優しくして甘やかして…どろどろに駄目にしてあげる」


すぐ耳元に吐息を感じた。好きだよ、なんてこれ以上ない程に蕩けた言葉に否応なく体温が上がる。数少ない歴代の彼氏にすらここまで想われたことは絶対にないと断言できる。


仕事中は厳しくて、整ってはいるけれど誰もが振り返るようなイケメンと言う訳でもなく、更にうちの会社では御曹司で控えめ爽やかアイドル系の絵にかいた優良物件が人気を一身に受けているので、相馬さんの浮いた話はあまり聞いたことがない。

初めて告白されたときは本当に驚いたけれど、それ以降分かりやすく何かアプローチがあったわけじゃない。

それがどうだ。こんなに熱い想いをストレートに浴びせられて、何度私を呼吸困難に陥らせれば気が済むのかこの人は。


「……っ、あの…」


「ちなみに現状めちゃくちゃ我慢してることには違いないから迂闊に動いたり可愛いこと言い出したらどうなるか分かんないからね」


「速やかに寝ます!」


この数時間での猛攻に、これ以上を正面から受け止めるには明らかにキャパシティオーバーで、捕らえられた腕の中でくるりと寝返りをうった。ふっ、と笑い声が聞こえたけれど最早白旗を上げるより他ない。

この体勢の方が無防備なのは百も承知だけれど、何もしないとの言質も取っているのでそこは信用している。相馬さんはこう言うことで約束を違えたりしない。

背中にぴったりと体温を感じる。改めて回し直された腕が、行き場を探してさまよっていた私の手を握った。


「……おやすみ」


耳慣れた心地のいい声が、今まで聞いたことのない程に優しかった。

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