承
会話もなく車は走り続けた。
信号の合間に押されたボタンはオーディオ器機だったらしく、ややもせず鳴り出した音楽は私の好きなアーティストで、そう言えば以前に相馬さんも好きだと話をした覚えがある。いつもなら自分で運転しながら口ずさんでいるけれど今は緊張でとても出来そうにない。
何を、考えているのだろう。
盗み見た横顔は、当たり前ながらまっすぐに進行方向に向けられて、動揺も見受けられない。
振った相手にのうのうと着いていく私はどう映っている?
知らない道を走る先はどこに向かっているのか見当も付かず、声を掛けることも出来ず大人しく座っているしかない。声を発そうと吸い込んだ息は言葉にならず吐き出されるばかり。
そんなことを何度繰り返しただろうか、やっと到着したらしい場所は見知らぬマンションの駐車場だった。もしかしなくても、ここは。
「はい到着」
時間も時間なので空いている駐車スペースは少ない。その内の一つに停止した車は素早く沈黙させられた。15分も経っていないはずなのに久々に聞こえた気がする声と共に席から立たれ、慌てて自らも車から降りる。
シートベルトを外している間に助手席側に回ってきたらしい相馬さんは私の手のひらを取りぎゅっと握って。
「佐崎」
軽く引っ張られたことで蹈鞴を踏んだ私の肩を支えて、耳元に顔を寄せた。
「今なら逃がしてあげる…なんて、言わないからね」
低い声を耳に吹き込まれ反射的に竦めた身体は逃げることも出来ずに彼の進行方向へと進んでいく。緊張で冷え切った手が、けれど汗をかいているのが分かる。
無人のエントランスを抜け無言のエレベーターを経由し三階に着いて横並びの扉を五つ通り過ぎた先。
「どうぞ、入って」
307とドアの隣に書かれていた。そんな下らないことを考えられたのはもちろんテンパっていたからで。
ガチャリと鍵を掛けた音が背後で聞こえて、私の右手と繋がれていた左手が今度は手首を掴み身体ごと向き合うように力を込められた。右の手のひらが頬に添えられてピクリと肩が跳ねる。
「…………うん、靴、脱いでこっち」
こちらを見つめていた瞳がスッと下りた。頬の温もりが消えたのに気付いた時には、その手は私の足元にあってパンプスのベルトのボタンを外していた。
「ちょ…っ、そんなの自分でしますから…!」
「いいから、もう取れたし」
再び目線が高くなった相馬さんは、締め付けがなくなったそれを、玄関の上がり框を跨がせることで促すように脱がせた。
気付いたら手に持っていたバッグも奪われていた。
引かれるままに部屋の中へ進んでいく足が、扉を越えた先のリビングに明かりが灯ったことで少し眩む。
木目調のローテーブルに合わせたアイボリーのフロアソファ。カーテンは無地のモスグリーン。壁に沿って並べられた二段のオープンラックには雑貨や雑誌などが整えられ、上には小さすぎないテレビが鎮座していた。シンプルな内装が浮かび上がって一層緊張が膨らんでいく。
「とりあえず座って、ちょっと待ってて」
ずっと捕まえられていた手が離れて、温もりが消えた手首を胸に抱える。先程くぐったドアの向こうに戻ってしまった相馬さんを目で追いかけてから、少しだけ肩の力を抜きコートを脱いだ。
電子音や水音、陶器のぶつかる音。耳に届いているはずのそれが、早鐘を打つ鼓動が耳に張り付くように響いている所為で頭に入ってこない。
落ち着け、と言い聞かせて見るものの、冷静になってしまえばこの場にいることに耐えられないとも思う。こんな、一時間前には思いもよらなかった非日常。
深呼吸を幾度か繰り返して、真後ろで再び開いた扉に跳ね上がった。
「なんだよ、座ってろって言ったのに何で突っ立ってんの」
「あ、いえその…」
「今風呂入れてるから、これ飲んで休んでて」
はい、とテーブルに置かれたマグカップの中身はホットミルクだろうか。おずおずと湯気の前に腰を下ろすと、相馬さんは隣に肩を並べて玄関でのように私に手を伸ばして…
「ひょあ!?」
「よし大分体温戻ってきたな。ったく何時間あそこに居たんだか、体冷えすぎなんだよ風邪引くぞ」
ムニッと頬っぺたを摘ままれて間抜けな声が出た。
一瞬のそれに案の定変な声だと笑われて、普段の軽い戯れが戻ってくる。固まっている私を解すためのことだとは理解できるけれど、一人でドキドキして身構えていたのが馬鹿みたいじゃないか。
もう、と心のなかでごちて、それでもいつもの自分のペースを取り戻しきれないままにとりあえず温もりに口を付けた。勢いよく飲むにはまだ熱いそれが少しずつ中から体温を上げてくれる。寒さに否応なく強張っていた身体が緩んでいく。
ほっと息を吐くと、隣の大きな手が髪を撫でた。スルリと落ちたそれが首筋をなぞり、油断していた身を跳ねさせた。
反射的に見上げればその視線に影が落ちて、初めての距離に相馬さんが見える。
意外と睫毛が長い、わりと奥二重?
現実逃避のようにそんなことを考えていたらコツンと額がぶつかって、手に持っていたマグカップを取り上げられた。ホットミルクの温度なんて比ではないくらい、身体が熱い。
かつてない至近距離からの視線に堪えられなくてぎゅっと目を閉じた。
「…………っ」
そのまま、数秒。
音もなくなにも起こらない一瞬が異様に長く感じて恐る恐る瞼を上げると、やはり先程までと変わらない位置にある瞳は私を捕らえたままだ。
「──っ、相馬さ……!」
どうにかこの僅かな膠着を拭いたくてその胸を押し返すと、その手を取られ互いの上半身がゆっくりと倒れた。座面のクッションを背に感じて──
「綾乃」
──名前を呼ばれただけで、こんなにももう、息もできない。
そもそもそう言う流れでここに来た訳だし驚く必要もないはずなのに。
時折向けられる穏やかな眼差し。それに、一握りの獰猛さを含んだだけでまるで違う人の様だ。
明らかな色を混ぜたその瞳が……………軽快な音楽によって緩んだ。
「……………」
「…………風呂、沸いたな…」
ふー…と長いため息を落として。
場の雰囲気に似つかわしくない可愛らしいメロディが音の響く浴室から届いて、相馬さんは身を起こした。
絡められた指はそのままに私もまた引き上げられ、ぽんぽんと二回、頭を叩かれた。
「リビング出てすぐ左のドアが風呂だから。タオルとか着替えとか、脱衣所に用意してあるからゆっくり温まってきな。あ、さすがに下着は準備できてないけど…」
「え、あ、はい…ありがとうございます、じゃあ、お借りします…」
立ち上がるなり私を見ないように背を向けてしまった相馬さんを尻目に、テーブルの脇に置いてあった自分の荷物を手にそそくさとリビングを抜け出した。
もともと彼氏とのデート用に持っていたお泊まりグッズがよもやこんな展開で使われることになろうとは。ご心配なく相馬さん。下着も入ってます。ただ一泊コースの場合恐らくホテルだったからパジャマは持っていなかったので着替えはありがたいです。
スキンケア用品や化粧品などがガシャガシャと鳴る鞄を乱暴に抱きしめ、脱衣所の壁に崩れ落ちた。
「も…死ぬかと………」
呼吸すらままならなくて、心臓が高鳴りすぎて。
本気になった歳上男性恐るべし。仕事のできる男は、女性の追い詰め方まで熟知しすぎじゃないだろうか?
長年接してきたはずなのに、さっき吐き出された自分の名前が今まで聞いたことのない糖度を孕んで耳に焼き付いて離れない。
ここに着いて恐らくまだ30分程度。もう何度目かもわからないけれど、落ち着け、と自分に言い聞かせながら服を脱いで浴室に足を落とした。家主より先に頂いているのにあまり待たせても申し訳ない。
けれどゆっくりしてこい、とのお達しだったので、たぶんあまり急ぎすぎるとそのままお風呂に返却されてしまうだろう。そう言う人だ、相馬さんは。
置いてあるシャンプーや石鹸にいちいちドキドキしながら身体を流し湯船に身を投じた。こんなに甘やかされたら簡単に絆されてしまう。いや、もう絆されかけてる。
口許まで沈めた湯船にぷく、と息を吐く。
さしあたっての問題は、このあと素っぴんを晒してしまっていいものかどうかと言うところだ。